(ずいぶん前のことになるが)4月20日と同27日の『日曜美術館』で、≪俵屋宗達≫と≪奥村土牛≫がとり上げられた。
この2つの番組で、私は、今まで気付かなかった2人の絵師・画家の素晴らしさを、改めて知ることができた。
先ずは、≪俵屋宗達≫から。
俵屋宗達については、『風神雷神図屏風』(下の写真)の絵師として、ずっと前から知ってはいた。
(たしかこの屏風は、歴史的な名作として、中学校の美術の教科書にも載っていたと思う。)
(左隻の“雷神”) (右隻の“風神”)
でも、若かりし頃の私は、ちょっとおどけた感じのこの風神・雷神の姿に、ほとんど魅力を感じなかった。
(若い頃私は、もっと激しいもの・強いもの・深い憂いや哀しみを湛えたものに、心惹かれていた‥)
ところが、歳を重ねたせいか、今この風神・雷神を見ると、私はとっても穏やかで楽しい気持ちになれるのだ。
風神・雷神といっしょに、私も自由に空を飛びまわることができるような気持ちに…。
こんなに人を楽しい気分にさせてくれる風神雷神図を描いてくれたのは、後にも先にも、宗達以外にはないような気がする。
さらに私は、風神雷神図屏風以外の宗達の絵を見て、宗達という人が、いかに自由な精神を持ち、斬新なデザインセンスに溢れた人であるかを知っ
た。
それを示す何点かの絵を次に挙げてみます。
最初は、本阿弥光悦とタグを組んで描かれた、『鶴図下絵和歌巻』。
上の鶴たち、単純な形ながら、自由に羽ばたく鶴の姿が、見事にとらえられている。
上の写真は、全体のごく一部だが、巻物全体に描かれた数知れない鶴たちは、一羽として同じ姿をしていないのだそうだ。
次は、これも本阿弥光悦との共作・『和歌色絵帖』の中の、2つの絵。
左は月とススキ、右は竹を描いたものだが、今から400年も前に、こんな抽象画みたいな斬新な絵が描かれたことは、本当に驚きだ。
宗達が、何物にも制約されない自由な精神の持ち主であったととを、如実に物語っていると思う。
次の『牛図』は、牛の力強い筋肉の動きを見事にとらえ、躍動感あふれるステキな作品になっている。
次は、『松島図屏風』から。
左隻(一部) 右隻(一部)
木や岩、波の部分を拡大すると…
明るい色彩と、自由で斬新な描き方が、とてもステキだ!
最後に、『蔦の細道図屏風』。
これは、「伊勢物語」の一部を描いたものだそうだが、宗達が到達した斬新なデザインセンスの極致を示す作品のような気がする。
このような素晴らしい絵を描いて、後の≪尾形光琳≫から師と仰がれ、『琳派の祖』と言われる…≪俵屋宗達≫。
でも、『琳派』が失ってしまった“自由闊達さ”を、宗達は有り余るほど持っていた!
そう番組でも言っていたが、私もそのとおりだと思った。
≪奥村土牛≫氏については、名まえは聞いたことはあるけど、彼の絵も人物像も、それまでほとんど知らなかった。
番組によると、土牛氏は、1889年の生まれ、1990年に101歳で逝去されるまで、一途に画業に精進してこられたのだそうだ。
彼の代表作・『醍醐』は、1972年に83歳で描かれた。
「醍醐の桜」と言えば、大きく枝を伸ばした華やかな八重桜だが、その桜を土牛氏は、旧い幹と支柱に支えられて咲く、淡い色の花の姿で描いた。
土牛氏が師と仰いだ小林古径氏亡き後、彼は独自の日本画を追求し、彼の絵から日本画独特の線描が消えた。
線描時代の傑作・『舞妓』と、線なしで描くようになられた初期の作品・『鳴門』。
『舞妓』 1954年
『鳴門』 1959年、70歳
そして土牛氏は、『醍醐』を描く以前から、そして描かれた後も、桜の姿を追い求められた。
そんな中で描かれた『吉野』。(1977年、88歳)
88歳にして、この初々しさ、斬新さ!
今回紹介された絵の中では、私は、この絵が一番好きだった。
そして、絵のみならず、いやそれ以上に、彼が『醍醐』完成時に語られた言葉は、私の心に深く染み入った。
~私はこれから死ぬまで初心を忘れず、つたなくとも、生きた絵が描きたい。
それが念願であり、生きがいだと思っている。
芸術に完成はありえない。要は、どこまで大きく未完成のままで終わるかである。
余命も少ないが、一日を大切に精進していきたい。~