こちらには「ギフテッド教育」といわれるプログラムがある。「ギフテッド」は一般的に「先天的に平均よりも顕著に高い能力を持っている人のこと、またその能力を指す。その人物における高能力の傾向は誕生時から生涯にかけて見られる。外部に対する世間的な成功を収めることではなく、内的な学び方の素質・生まれつきの学習能力を持つことを指す」(ウキペディア)。
全米約38州に何らかの「ギフテッド」プログラムがあるといわれている。通常の学級では必要が満たされない生徒への救済措置として、障害のある生徒と同じ「特殊学級」という位置づけで公立学校のシステムに組み込まれている。
アラスカには二種類の「ギフテッド」プログラムがある。「イグナイト(ignite)」と呼ばれ、通常の学校に通う「ギフテッド」と見なされた生徒を週一回集め「ギフテッド教育」を行うというもの。何校かにある。もう一つが「ハイリー・ギフテッド(highly gifted)」と呼ばれる週5日終日のプログラム。一校(近所の生徒が通う通常の学級が3分の2、プログラムには全校の3分の1の生徒)。
「ギフテッド」の選別には学力テストとIQテストが用いられる。それらのテストで「ギフテッド」を見つけ出すことができるかどうかについては長い間議論されているけれど、結局今のところテストを拠り所にするしかない状況と言われている。アラスカの場合、「イグナイト」が認知テスト・学力テストで96パーセントタイル以上、「ハイリー・ギフティッド」が学力テスト98パーセントタイル以上、認知テスト・IQテストで99パーセントタイル以上という基準となっている。
上3人がこの「ハイリー・ギフテッド」プログラムに通っている。
この6年間ほど通ってきた中で様々思うことがある。私自身は上の「ギフテッド」の定義にある「先天的」「生まれつき」という言葉をあまり信じていない。そして多くの子が「ギフテッド」と見なされるポテンシャルを持っていると思う。家の場合は4歳くらいから文字や数などの抽象的概念を学び始めたのだけれど、子供たちの「やる気」「楽しみ」を中心に据えながらもいくつかの教材も試してきた。この4歳以降のやりとりがなければ、5~6歳で受けたテストが「ギフテッド」の基準を満たすことなどなかっただろうと確信している。周りを見ても同じような状況だと感じている。ふってわいたような「先天的ギフテッド」なんて多分このプログラムに通う約150人(年長から6年まで)中数人もいるかどうかなのじゃないだろうか、ひょっとしたらいないかも。これはあくまでも個人的な感覚なのだけれど。
じゃあ「ギフテッド」を「作り出した」のじゃないか、となるわけだけれど、子供たちの興味に答えないことを選択することが、より自然で「先天的」なのだろうか。小さな子の「知りたい、できるようになりたい」欲求はとてつもない強いものだと私は感じている、そしてそれを伸ばす方向へと手伝うのが親の役割なのだと。またその「とてつものない欲求」がギフテッドの特徴ともされるのだけれど、そんな欲求も、周りの接し方で伸びもすれば萎えもする。ここからが「先天的」というような境界を見つけ出すことは不可能であろうし、そしてそんなことに果たしてどんな意味があるのだろう。
プログラムの内容については、詰め込みでなく掘り下げ考えることを重視し、その子のレベルに合わせ学年を飛び越えて学ぶことができる。「退屈させない」ためにチャレンジ満載、方式を教えるよりも方式を考え出すような教え方、ストレートに答えを教えるよりも「なぞなぞ」のような形式。低学年から解剖したり(イカやムースの目や)、様々な分野のかなり専門的な用語も学び、福祉関係のボランティアが授業に取り入れられていたり、と毎日濃い授業内容。進む速度も速く「だいたい通常の学校が3日かけてすることを1日で」と担任の先生が言っていた。教師は皆「ギフテッド教育」専門の資格をもっている。
クラスは少人数、感情面社会性をケアする専門家も配属されている。
夫と私がこのプログラムを選んだ大きな理由が、このカリキュラムの内容そして待遇のよさだった。生徒一人一人がより信頼され尊重されている(先生によって確かに色々あるけれど)。
私が強く思っているのは、子供は「そう扱われることでそうなっていく」ということ。以前このブログに書いたことがあったけれど、イギリスで行われた実験に、学期始めに最下位と最高位のクラスを教師に入れ換えて教えたところ、学期末には最下位と最高位が入れ換わっていたというのがある。一人一人が尊重され「ギフテッド」(与えられたgift)として扱われるのなら、子どもたちはまさしく「ギフテッド」になっていくのじゃないだろうか。
昨夜
こんな記事(10月3日のもの)を見つけた。「ギフテッド」という境界を設けることへの批判、そしてDuke大学での実験が紹介されている。10000人の生徒を対象に「ギフテッド」とされる生徒を教えるメソッドを使ったところ、しばらくして「ギフテッド」と見なされる基準に20パーセントの生徒が達したと、通常のメソッドのクラスでは10パーセントだったのに対し。
一人一人が「ギフト」として扱われること、それは教育の根幹にあるべきなのじゃないだろうか。そして「一律のテスト」なんかで掬い上げられた一部だけを「ギフテッド」と呼ぶことのナンセンス。
私自身「ギフテッド」という枠組みに疑問を持ちながらも、そのカリキュラム内容や待遇ゆえに、待ったなしで成長し続ける子供たちをひとまずは通わせている状態だ。子供たちも今のところ楽しそうに通っている。プログラムは高校まで続いており、その後の進路は様々と聞く。大学へ行かない生徒もいる。
一人一人誰もが持っている「ギフト」を最大限伸ばしていくには? 自身に問い続けていきたい。