靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

リスを食べた、ハエを殺した

2011-10-30 01:02:05 | 思うに
山の中で玩具の銃で遊んでいてリスを撃ち殺した子どもに親がそのリスを食べさせた、という話を昨日友人と話していたときに聞いた。

似たような話をこれまでも何度か聞いたことがあった。

猟に出かけ、子供が弓矢などで射殺したリスを食べさせたという話。「殺したのなら食べるというのがルール」その親たちも言っていた。火をたき、毛をむしり、丸焼きにして食らいつく。

普段他人に殺してもらい処理してもらったものを店で買って食べているわけだけれど、それがいかに全過程の一部を切り取っただけのものかと、はっとさせられる。

上の例は皆元々ヨーロッパから渡ってきた祖先を持つ人々の話だけれど、昔先住民の人々の村で聞いた話を思い出した。

そのアラスカ南西部の村では子どもが5.6歳になり「初めてハエを殺した日」を祝う。「殺すことができたということは、一人で生きていけるということなの」そう先住民の女性が教えてくれた。

命は他の命を犠牲にすることによってなりたっている。そのことを忘れず、多くの命の上にこうして生かされていることに感謝し暮らしていきたい。

「表面的な成功」

2011-10-30 01:01:34 | 子育てノート
スティーブン・コビー氏の本の中に、学業成績振るわず、ドンくさくてスポーツでもチームの足を引っ張り、という息子の話が載っている。からかう周りの子ども達を制しつつ、常にポジティブに「あなたならできる」と励まし、少しでもよくなったら拍手喝采で祝い。それでも何も変わらない。

コビー氏はその頃仕事で過去の成功哲学についての研究に取り組んでいて、リサーチすればするほどそれまでの成功哲学というものがどんなに「世間的表面的な成功」のみを扱ってきたかということに思い至る。そして自身の息子に起こっていることが重なる。いい成績、スポーツ万能、クラスやチームでの中心的活躍、そういった世間的に認められた「成功」という枠にどれほど自身が拘っていたかと。

コビー氏とその妻サンドラはそれまでどっぷりとはまっていた枠をはずす作業をしていく。世間的な成功という枠からでなく、その息子自身を見ていくように。するとそれまで目に留まらなかった息子の良い面がどんどんあふれ出してくる。彼自身のペースで彼自身の歩みでゆっくりと進み続けている息子の姿。それまで気づかなかった息子の様々な面を楽しみ始める。

周りのからかう子ども達を制することもやめ、9人いる子どものうちその息子にだけ特別に励ましたり拍手喝采したりすることもやめる。それは「あなたは欠けていて特別に守られなければならない存在」というメッセージを送っていることでしかなかったと。そうではなく「あなたはあなた自身で力強く立っていける」というメッセージを伝えるために。

結果的にその息子は半年もするとみるみると変わり始め、しばらくすると学業もトップ、クラスのリーダに、スポーツも万能でいくつもの大会で優勝し、となる。そんな結果は全く予期していなかったのだけれど。


その子自身に向き合っていけたら。自身がどんな枠組みからその子を見ているのかを省みつつ。世間的な条件から解き放ち、その子がその子自身のペースでその子自身の世界を広げていけるよう。日々何にフォーカスするかを思い出しつつ。

成績表

2011-10-30 01:00:23 | 子育てノート
「成績表がない」そんなカリキュラムをもつ学校がここアンカレッジにもいくつかある。「自己評価」のみで「先生からの評価」はつかない。

先週は一学期末、懇談会があり家の子ども達も成績表をもらってきた。子ども達の学校は自己評価もあるけれど成績表もある。

自己評価のみで先生からの成績表がないというのは、周りの大人が本人の独りよがりにならないよう気をつけていくのなら、「自信」を育てるのにいい方法なのだと思う。小学生くらいなら少々細かいところは抜けていたとしても自信を育てていく方が大切なのかもしれない、最近よくそう感じている。

「成績表」を「レッテル」でなく「過程での励み」として用いていけたらと思っている。Aは頑張ったという一つの表れ、BやCなら何をどう変えていったらいいのかと考える一つのきっかけ。「自己評価」とずれるのならば、自分が気づいていない点先生が気づいていないように思われる点を話し合い。変化し続ける過程での単なる目安として、前へ進む力を萎えさせるのでなく前へ進み続ける励みとできれば。

先生の評価により自信を失わせるのでなく、アップダウンの評価の波の中で自信を培っていけたら、そう思っている。