靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

言葉と情熱の責任について

2013-12-29 07:27:06 | ファミリーディナートピック
言葉と情熱の責任について("God's arrow"by YY Jacobsonを参考に):

タルムードにある賢人達のディベート。

火を燈し、その火が広がり、隣の敷地まで及び被害を出してしまう。

この時の火は「矢」のようなものか? それとも「所有物(property)」のようなものか?

1.矢のようなものであり、放った者、燈した者に全責任がある。

2.所有物のようなものであり、所有者としての責任がある。


例えば広がる火によって死者が出た場合、矢を放って直接殺したと捉えられるか、所有する飼い犬が殺したと捉えられるかでは、罪は罪でもその重さは違ってくる。

どちらが正しいかについて、何千年もの間議論されている。


ここでは、それぞれの立場から学べることを:

.矢も火も、放ち、燈した瞬間に、その行為を行った者に全責任がある。例え燃え盛る火に自ら命を落とし、隣の敷地の人々に被害が及んだ時点で生きていないとしても、罪は、火を燈した瞬間にある。

「矢」と「火」は、「言葉」と「情熱」にも喩えられる。一旦言葉を放つならば、どんなに本人の意図と異なり広がろうが、その言葉を放った者に全責任がある。情熱も同じ。何かに燃える情熱を持ち、それがあらぬ方向へと燃え上がることになろうとも、情熱に火をつけた時点で、その全責任を負う。

言葉と情熱、放ち燈す時点で、その責任を自覚していること。


.矢(言葉)も火(情熱)も、飼い主の意図に反して凶暴化してしまう飼い犬になり得る。それでも言葉も情熱も源では「神」によって創られる。神が所有者で人はその所有物を使う者「仮の所有者」でもある。そして「神」と人との違いは、一旦放たれ燈された矢も火も「神」ならば、取り戻しコントロールできるということ。誤った言葉溢れ、誤った方向へと燃え上がる情熱、それら人のコントロールを超えたものを、人としてのできる限りの最善を尽くしガードし、後は委ねるという気持ちを持ってみる。自らの全責任を自覚し行動を起こしつつ、あとは天命にまかせるという姿勢。

1と2、どちらが正しいというよりも、どちらもまた違った側面の「真」を表し、それぞれに学ぶべき知恵が含まれている。


言葉も情熱も、用いる方向によって、とてつもなくポジティブなものを創りあげることができる。情熱なくしては、何も成し遂げることはできない。方向を見定め人事を尽くしたところで、委ねるという気持ち、覚えておこうねと話し合った夜でした。

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