靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

希望について、いつかチーズを生み出す

2013-07-07 06:19:10 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

希望をもつということ

ローマーのシーザーが、ギリシャの賢人六十人とユダヤの賢人一人にディベートを行わせたという話が、タルムード(6世紀頃編纂)に載っている。

ギリシャ賢人:もしひよこが卵から孵る前に死んだら、その魂はどこから抜け出る? 殻に覆われてしまっている。
ユダヤ賢人:魂は、入ったのと同じところから出て行く

ギリシャ賢人: 塩が腐ったら、何で防腐すればいいかね。
ユダヤ賢人:ラバ(雄ロバと雌馬との雑種)の胎盤と胎膜(afterbirth)を使えばいい。
ギリシャ賢人:ラバに胎盤があったかね?
ユダヤ賢人: 塩が腐るなんてことあるだろうか?

といったなぞなぞのような問答が続く。
最後のやりとりが、卵とチーズについて。

ギリシャ賢人:ここに全く同じに見える二つの卵がある。どちらが黒い雌鳥から生まれ、どちらが白い雌鳥から生まれたか分かるかね?
ユダヤ賢人: ここに全く同じに見える二つのチーズがある。どちらが黒い山羊から作られ、どちらが白い山羊から作られたと分かるか?

このやり取りで、このディベートはユダヤの賢人の勝利と両者が納得したと。

長い間これらの問答にどういった意味があるのかと、様々なユダヤの賢人が議論解釈を重ねてきた。

その中で、16世紀のポーランドのラビShumuelEidelsによる一つの解釈( “The Greeks Vs The Jews: Black Eggs and White Cheese” by Y.Y.Jacobsonを参考に。):

雌鳥は21日間卵を温め孵す。白い雌鳥の21日間、黒い雌鳥の21日間、それはユダヤ暦での一年の始まりを祝う21日間の祭り行事と、一年が終わりに近づく頃行われる行事、二つの寺院が壊された歴史的な出来事を嘆き悲しむ21日間を象徴している。光の期間と、闇の期間。そして光と闇とはフィフティーフィフティーで同等であり、どちらがどちらに勝るということも、結局はどちらがどちらと区別することもできない。そして白く光に覆われた始まりも、闇に覆われ膜を閉じるだろう。一時栄えたユダヤも、ローマを前に、もう終わりなのじゃないかね。

そうギリシャの賢人は示したと。

山羊は寺院に供えられる山羊と、人々の罪を背負い荒野に放たれる山羊(”スケープゴート”という言葉の語源となったユダヤの行事)とを表している。神に近い山羊(白山羊)と神から離れた山羊(黒山羊)、それでも、やがて共に白いチーズを生み出す。そして荒野に放たれた山羊も罪がいずれは清められ白い山羊となる(放たれる時くくりつけられた赤い糸が白くなると清められたとされる)。白い雌鳥も黒い雌鳥も白い卵を生み出すように、白い山羊も黒い山羊も白いチーズを生み出す。暗く闇の中にあろうとも、それはいつか白い卵を、白いチーズを生み出すためなのだ。

そうユダヤの賢人が返したと。

辛く苦しいときも、いつか白いチーズを生み出すためなのだという世界観が、ユダヤの人々にその回復力弾力性(resilience)を与え、凄まじい迫害の歴史を乗り越え生き残ることを可能にしてきたのだというこの記事の著者の言葉に納得。

Henny Youngman(British-American-Jewishコメディアン)の言葉に、「ユダヤ人がなぜ酒を飲まないか知ってるかい? 苦しみの邪魔になるからさ。」というのがある。

著者曰く、二つの点で間違っていると。1.ユダヤ人は酒を飲む(祭り行事にワインごくごく)、そして2.決して苦しみを歓迎などしていない。

ただ苦しみの最中にこの「光も闇も、いつか白い卵を、白いチーズを生み出す」という世界観によって、立ち上がり続けてきたのだと。

希望を胸に、歩き続けていきたいです。


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希望を持つことの大きさを話し合い、子供達と納得。そして、その他のことについて長女から疑問: 

1.ギリシャの賢人はこれでユダヤの賢人より劣ってるいるということになるの? 何だか六十人の賢人を一人で負かして、ギリシャ悪者!みたいなちょっと意地悪な感じもする

ユダヤがローマ、ギリシャから迫害を受けた歴史を少しさらい。確かにギリシャ側の文献が残っていたら、全く違う見方が書いてあったかもしれないね。これはあくまでもユダヤの側から見た情報だからね。

欠けてるなとか、おかしいなと感じる部分というのは、どんな情報に触れてもあるはず。その感覚を大切にしつつね、全てを鵜呑みにすることなく、学べるところから学ぶのよ。光でも闇でも白いチーズを生み出すという考え方は、確かに希望を与えてくれるね。


2.なんで「白」がいい、「黒」が悪いというイメージなんだろう。これどうにかならないのかなあ。

白はすっきりと見通しやすいからピュアな感じがして、黒はよく見えなくて思わぬところで転んだり躓いたりしてしまいそうで、自然とこういったイメージを持ってしまうのだろうね。

でも確かに、そのまま単純に当てはめるべきでない場合も多くあるね。このイメージへの拘り、注意していこうね。

ギースの習性から学ぶこと

2013-07-07 06:18:15 | ファミリーディナートピック
近所の湖に行くと、カナディアン・ギースの家族。


赤ちゃん、可愛いねえ。


こうしてここアラスカで赤ちゃんを育て、秋になれば、暖かい地へと飛び立っていく。辺りが黄金色に染まる頃、くえ~くえ~という声に空を仰ぐと、こんなVの字になって旅立つギースの群れが。

ばいば~い、また来年ね~、雪が解けたらね~と、手を振る子供達。


そんなギースの習性に学ぶ(Matot 5771 by Kalman Packouz、aish.comを参考に):

1.前のギースが羽ばたく度、後ろを飛ぶギースに高揚感(uplift)をもたらす。そのため一羽で飛ぶよりも、群れで飛んだほうが、71パーセントより長く飛ぶことができる。
レッスン:一人よりも皆で力を合わせるのならばより遠くまで辿り着くことが出来る。

2.V字からそれるなら、すぐに一人で飛ぶことの重さに気づき、群れに戻る。
レッスン:それた!と気がつくギースのような感覚があるのならば、たどり着きたいと思っている方向へと飛び続けられる。

3.リーダー(V字の尖った先)が疲れたのならば、すぐに他のギースがリーダとなる
レッスン:誰もがリーダーとなる準備のできている関係を築く。インターディペンデントな関係(独立しつつ力を合わせる)。

4.後ろのギースが前に向かって鳴き声をあげ続けることで、前のギースがスピードを保ち続けようと励まされる
レッスン:後ろから励ます声をあげているか? 後ろへと引きずり戻す声をあげてはいないか?

5.ギースが病気になったり怪我をしたり打たれたりして群れについていけなくなると、二羽のギースが群れから離れ、そのギースが回復するまでor死ぬまで付き添う。そしてまた群れに戻るか他の群れに加わる。
レッスン:ギースのように、人も互いに助け合えたら。


ギースを見るたび、思い出すこと。

継続について、朝に、夜に、子羊一匹

2013-06-30 05:08:01 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

継続するということ(Four Sages Debate What the Most Important Idea of Judaism Is By Y.Y. Jacobson Pinchas 5769 , July 6 2009を参考に):

ユダヤの賢人達がユダヤ思想(Judaism)の中で最も重要な教えは何かと話し合う。それぞれが聖書から引用しつつ:

1.「自分を愛するよう隣人を愛せよ」だ!

2.「人は神のイメージに似せて創られた」に違いない!

3.「神は一つ」なはずだ!

そこへ、一人の賢人が言う。4.「子羊を朝一匹、夜一匹生贄にする」であろう!

そして最終的な結論としては、4ということに落ち着く。(Authors Introduction to Ein Yaako,1492年より)


1.2.3.はそのコンセプトがいかに様々な方面へインパクトを与えたかを考えるとき、納得しやすいもの。

1.「自分を愛するよう隣人を愛せよ。”you shall love your fellow man like yourself“(Leviticus Chapter 19, Verse 18)」
集団社会、人の間で生きる上での理想として、社会学的な志向性をもたらした。

2.「神が人を創った日、神は人を神のイメージに創った。” on the day that G-d created man He created him in the image of G-d.“(Genesis Chapter 5, Verse 1)」
全ての人々は神に似せて創られ、全ての人々が神性を宿している。自身は本来神に限りなく近い存在なのだという心理的志向性、心理学的な影響をもたらした。

3.「主は私達の神、主は一つ」“the Lord is our G-d, the Lord is One.“
一神教の始まり、神は一つという神学的なインパクトをもたらした。いくつもの神がどちらがどちらより優れていると競うなど、神同士の覇権争い・ヒエラルキーといったストーリーに溢れていた世界に、大転回を与えたコンセプト。(私自身は、神は一つであり、その一つの神が森羅万象に表れているという考えと、日本の八百万の神とは同じようなものだと感じてます。八百万の神の背景にあり、それまで言葉で言及されることのなかった全てを司る一つの根源的な存在に、ユダヤ教は初めて言葉を与えた。エジプト神話やギリシャ神話などの多神教、その背景にある根源的な一つの存在に言及し、表に引き出した。)


人類に大きなインパクトをもたらした1.2.3のコンセプト、ではなぜ4の「子羊を朝一匹、夜一匹生贄にする」がそれらの上をいくほど重要だと?

4は、日々繰り返し遂行し続けるということを象徴している。朝も夜も、日々継続し続けること。それは、朝=光に溢れ順風満帆なときも、夜=闇に覆われ苦しく辛いときも、いいこと続きで飛び上がり風を切って進むときも、洒落にならないこと続きで落ち込みとてもそんな気分じゃないというときも、繰り返し繰り返し。

1.2.3は一つにもまとめられる。「全ての人は神性を宿し、神は一つ、よってあらゆる人々は神と共に一つに繋がっている、あなたを愛するように隣人を愛するとは、自分も含む全ての人々に宿る神を見出すことから可能になる」と。そしてこのコンセプトは、確かに素晴らしくインスパイヤリングになり得る。今までどれほどの人々が、よ~しと燃え上がり、情熱溢れ、時に奇跡的な出来事に触れ、体験し、エクスタシーにメルトダウンし、それでも日々の継続を、朝も夜もの継続を、人類は今だかつて果たしてきたことがない。

インスパイヤーされてからしばらくの間、祭りや祝いや特別な出来事など日常から離れた時、そういった一時だけでなく、何でもない日常、日々の暮らしの中で、朝に夜に遂行し続けること。そんな日常の中での積み重ね、継続、そこに最も重要な教えがあると。

善のためにロバに乗り出発したからこそ

2013-06-23 11:38:07 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

悪について: A Taste of Text―Balak by Chana Weisberg、 Balak: The Talking Donkey by Simon Jacobsenを参考に。

なぜ悪いことが起こるのか? 
一つには、鍛えるため。良いこと続きで緩んだ感覚を揺り起こし研ぎ澄ますため。悪く思えることが起こったならば、鍛えられる機会として、最善を尽くす。よくないと思えることでも、見方を変えるならば、好機でもある。より努力が必要となる、その物事を通して成長させられる、より強くなる、より大きな壁を越えられるようになる。悪には、時に善にはない衝撃や勢いがある。そのはずみ迫力勢力を善へと生かす。


普段から、緩み切らないようにしておく。それが予防にもなる
今自分の置かれたいい悪いといった状況に関わらず、自分のペースでより良き方向へと自分を少しずつプッシュし続ける。少し不快さに身をおき、少しチャレンジを課し続け、自分で少しずつ無理するなら、「し過ぎ・張り過ぎ」にならない加減が分かる。すると、悪いことが起こったときも、乗り越える準備ができていて、また緩み過ぎていないところには、悪いことが入り込みにくくもある。


本質を思い出す
昼間、影遊びしていた子が、夜、壁に映った影を見て怖がる。同じ影であるのに、明るい時は、遊び・楽しむ対象が、暗闇に囲まれた真夜中には、不安を呼び起こすものに。コントロールできていたものに、コントロールされることに。影は、かつて灼熱の陽光からほっと憩いをもたらしたものであり、追いかけ踏み遊んだものであり、視点に奥行きを与えたもの。


「悪は幻」?
アブラハムが善のためにロバに飛び乗り早朝出かけ、その何世紀が後に預言者バラーム(Balaam) が呪いをかけユダヤの国を滅ぼすためにロバに飛び乗る。(聖書より) バラームがロバに飛び乗り早朝出発できたのも、何世紀か前に、アブラハムが善のために同じことをしたからこそ。悪は善の偽モノでしかないと解釈されている。

ユダヤの世界観にある、「悪は幻でしかない、神は絶対的な善であるのだから」

奴隷から始まり迫害され続けた歴史を持つユダヤの世界観に、こうあるのが感慨深い。この言葉を目にするたび、ホロコーストの屍の山が浮かび、なぜそんなことが言えるのだろうと頭を抱える。この世界観を理解するには、肉体、この世、個々の命といったものを超えた、まだ実現していない世界への視線が必要になるのだろう。結局は全て善きことのためだった、そう佇む時への視点。

そんなまだこの世には実現していない理想郷を見上げ続けるのは、確かに、進み続ける力を与えてくれるかもしれない。身近なところから。自身の内のネガティブなエネルギーを、より良い方向へと生かしていくことから。


良心の声に耳を澄ませて
ロバの前に剣を持った天使が立ちはだかる。ロバには見えるがバラームには見えない。なぜ止まるのだと怒り、ロバを打つバラーム。ロバが「なぜ私を叩くのだ、私は今まであなたに忠誠を尽くし続けてきたじゃないか」と口を開く。そこでバラームの「目が開き」、天使の姿が目に入る。(聖書より)

ロバはヘブライ語で「chamor:物質(matter)」という意味。悪の目的のために見えなくなったバラームの目を開かせるために、ロバ(物質)に口を開かせる必要があったと。

預言者バラームのように、最もポジティブになり得る力、霊的な力を、ネガティブな目的に使うほど悪いことはなく、その内面の崩壊も大きい。内面の崩壊は、魂をシャットダウンさせる。良心の声が届く隙間がなくなる。そんな状態の心に、メッセージを届かせるものが「物質」と。「その人が偉大であるほど、その人の悪(evil)の性向も強い」(タルムードより)という言葉があるように、突出した人ほど独特のチャレンジがあり、より強いディッシプリンが必要。

良心の声は、心に、身体に、響き続けている。心柔らかく、耳を澄ませていきたい。

どうしたら言い争いを避けることができる?

2013-06-08 23:20:33 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

夏休み、一日中顔を突き合わせていると、喧嘩やいさかいもチョコチョコ起こるもの。どうしたら言い争いを避けることができるか、話し合い。これから8日間、楽しい旅にするためにも!(Korach 5773 by Kalman Packouz  aish.comを参考に。)

「ディスカッション」と「言い争い」は違うもの。ディスカッションは話し合うことで互いにより良い着地点を見出そうという試み、言い争いは自分が勝ちで相手が負けか、自分が負けで相手が勝ちかしかない。

どうしたら言い争いを避けることができるか?

1.言い争いは二人必要。もし言い返さないのならば、言い争いは成り立たない。「今それについてしゃべりたくないの」とソフトに繰り返す。It takes two to argue. If you don't answer back, there cannot be an argument. Just say, "I don't want to talk about it now" and just softly repeat that phrase.

2.声のボリュームが上がるにつれ言い争いも白熱するもの。「ソフトな答えは怒りを退ける」と聖書にあるように、相手がより力強く言い争うなら、より静かに返すようにする、すると相手のトーンも下がっていくことに気がつく。Arguments escalate with the volume of the arguers."A soft answer turns away wrath" (Proverbs 15:1). The more forceful the other person argues, the quieter your response becomes. You will see the other side tone down his/her voice in response.

3.同意するなら、言い争いは成り立たない。「それはいいポイントだね」「それについて考えたこともなかったよ」「あなたは確かに正しい」などなど。違うことよりも、同意できることにフォーカスする。You can't have an argument if you agree. "That's a good point." "I hadn't thought about that." "You are definitely right." Focus on where you can agree, not where you differ.

4.間違いを認める。全て正しいなんて人はいないもの。謝れること、責任をとれることを探してみる。相手も気分を持ち直し、相手自身の過ちを認め始めるかもしれない。Admit you were wrong. No one is ever totally right. Find something to apologize for, to take responsibility for. The other person will feel better and may even own up to some mistakes of his/her own.

5.非難したり攻撃したりしない。「こういったじゃない!」「こうしたじゃない!」といったステートメントでなく、質問する。攻撃するための刃のように切り立った気持ちででなく、誠実に質問する。Do not accuse or attack. Don't say, "You said this!" "You did that!" Ask questions, don't make statements. And ask questions with sincerity not as a cutting sword to make an attack.

6.ゴールを思い出すこと! こうして共にいるのは、調和と平安といい雰囲気と愛情を育むため。言い争いは、平安や心地よさでなく、ストレスや不安を産み出す。Remember your goal!  In the case of marriage, you want harmony, peace, a good atmosphere, love. Arguments breed stress and anxiety, not peace and pleasantness. Tell yourself: I love my spouse, I love my kids.

7.敬意を表す。相手を傷つけたり、相手にとって意地悪だったり、意味のないことを言わない。Don't show disrespect to another person by saying things that are damaging, mean or not worthwhile. This especially applies to one's spouse. Remember, you chose your spouse over every other person on this planet!

8.言い争いをディスカッションへと導く。自分の立場を守ろうとしない。はっきりさせたアイデアや問題を明確にする。オープンマインドで聞く。Turn the argument into a discussion. Don't defend a position; set forth an idea or problem to be clarified. People of good will who reason together can come to a common conclusion. Listen with an open mind. Be a judge, not a lawyer!

9.「この言い争いは本当に意味がある?」そう自身に問う。何について言い争っていようが、それは結局はささいなことかもしれない。Ask yourself, "Is this argument really worth it?" In the end, whatever you are arguing about may be ultimately trivial. Likely, there are other issues regarding communication, respect, responsibilities which create the angst and anger leading to arguments -- rather than discussions.

まずできること、口にする言葉に気をつける

2013-05-26 06:20:36 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

「口にする言葉に気をつける」について。Be’halot”cha 5773 by Kalman Packouz aish.comを参考に。

世界には様々な問題があって、今日もたくさんの人々が理不尽な境遇にあり、貧困や飢餓に苦しみ。争いや紛争も絶えない。

(話しているところに絶妙のタイミングでサイレンの音が響きパトカーや消防自動車が次々と近所に。結局、何事もなかったようで、誤っての通報だったようです。)

こんな小さな自分達に何ができるんだろう、こんな北の果ての小さな町に住む私達に。そう絶望してしまうこともあるかもしれないけれど、まず一つできることが、「どう話すか、どういう言葉を使うかにより気をつけること」。

ゴシップ、中傷・悪口(slander)、分裂性(divisiveness)、怒り(anger)を、自身の用いる言葉から取り去ってみる。すると、自身も、周りの人々の関係も、劇的に変化していくことに気がつく。


気をつけたい言葉:

1.たとえ本当であっても、相手を軽蔑したり傷つける言葉(derogatory)を用いない。You are forbidden to make a derogatory comment -- the person did something wrong, has faulty character traits or lacks a virtue -- even if it's tr

2.軽蔑したり傷つけたりする言葉でなくても、相手の不利になったり、痛みや怒りを起こす言葉を用いない。Any comment, even if not derogatory, that might ultimately cause financial loss, physical pain, mental anguish or any damage is forbidden.

3.書いたり、ジェスチャーや、表情だったり、相手を軽蔑したり傷つける意味を示すことをしない。
Any method of conveying or implying derogatory infortion about others is forbidden: writing, hand motions, facial expressions.

4.冷やかしや冗談でも、軽蔑したり傷つける内容を含んだ言葉を用いない。One is not allowed to relate derogatory information even in jest.

5.軽蔑や傷つける言葉が、何のダメージを起こさないとしても用いない。Even if the derogatory statement won't cause damage or loss, it is forbidden.

6.建設的な目的のために、情報を伝えることは必要。誰かが誰かをだまそうとしている、など。When it is necessary for someone to know derogatory information for a constructive purpose, you are obligated to relate the information to him, i.e. someone is planning to cheat or harm another person.


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自身を振り返り、意図せずということもあるなあと。自分自身が「される側」なら構わないのですが、こちらが意図してないのに、どうしても「あなたは私を傷つける」、そうとられてしまうこともあり。最大限の反省をし気をつけつつも、どうしてもそうなってしまう相手とは距離を持つべきなのかな、と最近思っています。相手の幸を祈りつつ、向こうから何かを言ってくれるのならば喜んでするけれど、こちらからは目に見える働きかけをしない。まだまだ私の力不足、もっと力がつくまで。底のところでは、いつでも繋がっていると信じつつ。

「愛」の「まがいもの」?

2013-05-19 09:08:23 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


「愛」の「まがいもの」とは? について ”5 levels of pleasures” by Noah Weinbergを参考に。


「慰み(comfort)」は「喜び(pleasure)」の「まがいもの(counterfeit):本物と見分けがつかないほど、よく似せてつくってあるもの」。

「慰み」は痛みフリー努力フリー、「喜び」は時に痛みを伴う努力を必要とする。

喜びにフォーカス。



「愛」の「まがいもの」とは?

 
「愛」は努力フリーで偶然たまたま起こってしまうという理解。コミットメントする必要もなく。「心酔・のぼせ上がり(infatuation)」。

本物の「愛」は、キューピットに次々とハートを射抜かれ、次から次へとたまたま起こってしまうのではなく、自らの努力を必要とし、永遠に続くもの。


ではどうしたら、これは「愛」ではなく「愛のまがいもの」だと自分でわかるか?

もし、彼女は、彼は、完璧だ! と思っているのなら、「まがいもの」。


至らない部分、欠けた部分もひっくるめ、コンスタントに「愛する」からこそ、愛の「喜び」に溢れる。

どういうときに嘘を言っていい?

2013-05-12 01:03:40 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

どういうときに嘘(untruth)をついていいか?について

日本には「嘘も方便」という言葉があってね、自身にどういった意図があるのか、それを見極めるのが大切と。”Love Your Neighbor” by Zelig Pliskinを参考に、それぞれの項目について話し合いました。

1. 争う二人の間にピースを築くため。「相手はしたことを後悔しているよ」と伝えるなど。to tell an untruth to make peace between two people who are having a dispute, or to save someone from harm. For example, you may tell someone that a person with whom he has quarreled now regrets his behavior, even if it is not true -- if you have no other option. Your words should be as close to the truth as possible.

2.ホストが快く誰でも受け入れもてなす人ならば、良心的でなく不徳な者へ「あなたも歓待されるだろう」と伝えない。If your host was very hospitable, you should not tell an unscrupulous person about the hospitality extended, since he might take advantage of the host.

3.誰かに聞かれその答えがうわさを生み出すような情報ならば、真実を伝えるべきでない。 When someone asks you for information that if you answered truthfully would constitute rechilus, (talebearing -- needlessly telling someone what another person said or did something against him) -- you should tell him a lie rather than relate that information.

4.自分に注目が集まらないよう、謙虚さからなら、真実を伝えなくてもいい。You are permitted to tell an untruth out of humility to not draw attention to yourself.
この項目については、日本と米国の違いについての話に。日本では褒められると「全然そうじゃないんですよ、できないんですよ、本当に馬鹿で」などと答えるけれど、こちらでは「そうなんですよ」と肯定する場合が多く、その上に「自分がいかにできるか」をアピールし始めることも。子供たちもその違いをよく感じるよう。長男曰く「いや、そうでもないんです」と言う方が、「いやいや本当に!だってあれもだしこれもだし」と余計に褒められることになるとも。過度に卑下することなく、過度に自慢することなく、状況に応じて。エゴを太らせない、それに最も注意しつつ。本心から自分はまだまだだと思いつつ「ありがとうございます」という気持ちでいるといいねと。日本では親が子供に対して、「この子は本当に出来が悪くて馬鹿で」というようなことを、昔はよく子供の前でも言ったものだけれど、最近はあまり見られなくなった、というようなことも。

5.騙そうとする相手に対して。You are permitted to deceive someone who is trying to deceive you in order to save yourself from being cheated. However, you may not deceive someone to revenge a past wrong he perpetrated upon you.

6.褒めることが相手にとって良いと思われるなら、その褒め言葉に必ずしも値しなくとも。You are allowed to praise something that someone has acquired, though it may not deserve that praise.

7.命を救うためなら。 You may lie to save someone's life.

8.師が生徒に学習に集中させるための罪のない偽りならいい。A teacher may say an incorrect statement to see if his students are paying attention or remember their learning

9.慣用句やよく用いられる言い回しは嘘ではない。「何千回も言ったじゃない!」など。It is not lying to make a statement that everyone knows is an exaggeration, i.e.. "I told you a thousand times."

少し別の器によそい、思い出すこと

2013-05-05 05:41:07 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


様々な人々の助けや条件の重なりによってこうしていられると思い出すこと:

「いただきます!」と始める前に、少し食事を別の器によそい、仏壇なり神棚なりに供える、そんな風習が日本にもあったもの。ユダヤの聖典にも、様々な祝い事に用いられる「ハラ」というパンを、生地の段階でどれほどの量食べないよう分けておくかといった決まりが細かく記載されている。

自分で作って、全部自分で食べる、自分で稼いだのだから、全部自分のもの。そうではなく、様々な人々(祖先や周りの人々や)の助けや、様々な条件の重なり(今こうしていられない可能性はいくらだってあるもの)、そうした自分をはるかに超えた存在によって、こうしていただけるのだということを思い出すために。

家には仏壇も神棚もありませんが、食事の度に思い出し、「いただきます」「ごちそうさま」に心を込められるよう。


・ルールもその子のためを思ってこそ:

帰宅時間を守らなかった男の子が、学校から帰ってからの外出を両親から一週間禁止させられる。同じように遅く帰った友人は、何ら咎められなかったのになんて不公平なんだろうと姉に愚痴を言う。何ら口を出さないのと、罰を与えるのと、どちらがその子のことを思っているか、姉とそんな話しをする内に、両親は自分のことを思ってくれるからこそ、こうして叱ってくれたのだと思い直す。

そんな話(aish.comより)を九歳次女が読み、皆に説明。

「隣人を愛す」、「自転車の車輪」という世界観

2013-04-21 05:01:09 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナー・トピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


隣人を愛する、について。


・聖書の「自分自身を愛するように隣人を愛せよ(You shall love your neighbor as yourself)」(Leviticus, Chapter19)がオリジン。


・「愛する」と一言で表されるものの、現実的実用的に、隣人を愛する「行為」とは?(HaKav V’HaKabbalah[1785-1865])より
1.尊敬をもって他者に接する(Treat others with respect、)
2.他者の最善を求める(Seek the best for them.)
3.他者の痛みを共に感じる(Join in their pain.)
4.好意をもって親切に他者に挨拶する(Greet them with friendliness.)
5.真実かどうか不確かでも相手に有利に解釈する(Give the benefit of the doubt.)
6.物理的に金銭的に援助してやる。(Assist others, physically or monetarily.)
7.相手より自分がより良いとみなさない(Don’t consider yourself better than others.)


・ユダヤの世界観
 人は自転車の車輪のようなもの。車輪の中心から枝分かれした部分が互いに異なる個人。それでも異なる個々人それぞれが奥深くに潜ったところでは、一つ。実際に触れられるもの見えるもののみに拠っているのならば、「違い」しか見えない。



・昔読んだルドルフ・シュタイナーの著書に、「最も自身と相容れないと思う考え方価値観信条を持つ人々、自身が最も憎む人々に、『繋がり』を感じることが、魂を成長させる」というようなことが書かれていたのを覚えている。これは、目の前に見えるものを超え、奥深く「自転車の車輪の中心」を見出すことに似ている。


・心理学者ユングが唱えた「集合的無意識」。「一人一人の心の奥深くに、個々人・集団・民族の違いを超えた普遍的な場がある。」


・「もし人が肉を切っていて、ナイフで手を傷つけてしまったからと、仕返しにナイフを持っていた手を傷つけるだろうか?」(タルムードより)

もし、個々人の心の奥深くに、違いを超えた普遍的な場、「車輪の中心」があるとするのならば、相手に嫌なことをされたり、相手に傷つけられたから、やり返してやろうと思うことは、同じ自分自身を傷つけるようなもの。もし、心の奥底で、普遍的場に出会うのならば、他者に対して投げかける言葉も、行為も、自分自身に対してしているのと同じこと。




「隣人を愛す」とは、自分や他者に対し、間違いや過ちを愛し受け入れあるがままにしておけばいいということではない。与えられた「違い」「個性」、それらの欠けた部分は、より良くしていこうと励まし合い、改善へ向け努力し続ける。

それでも、それらの間違いや過ちなどの互いに欠けた部分が、「隣人への愛」を何ら損なうものではないということ。車輪の広がり部分は、何ら隣人に対する尊敬や愛に影響を与えるものではない。

「自身を愛するように隣人を愛す」とは、互いの違いを超えた「車輪の中心」、個々の心の奥深くで繋がる普遍的な場に対する、尊敬であり、愛。

心の奥深くにそんな場を感じられるのならば、どんな隣人をも愛することができるのかもしれない。

悪口とは、宙を舞う羽毛のようなもの

2013-04-14 05:10:01 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

今週は「言葉の力」について話し合いました。


・ネットのチェーンメールなどでも出回っている話:
癇癪もちの女の子。母と相談し、怒って癇癪を起こすたびに庭のフェンスに釘を打っていこうと話し合います。一日目に20本、二日目に19本、一週間後に15本、そう減っていき、ある日一本も打ち込まなくていい日が!じゃあこれから一回も怒らなかった日には釘を一本一本抜いていくことにしようと。釘が全部抜けた日がやってきます。そこで母親が言います。「釘は確かに抜けたけれど、見てごらん、釘の跡がいくつも残っている。あなたが怒りの言葉を投げつけた相手の心は、この釘の穴のように、決して消えることはないのよ」

どんな言葉を相手にかけるかを気をつけること。


・誰もが良い面悪い面を持っている。悪口は、たとえ本当だとしても、その人の一面だけを強調し、ラベルを貼り、その人をそうしてしまうといった働きがあるということ。子育てにも、自分に向ける言葉にも気をつけたいこと。逆にいい面を強調した言葉かけをするのなら、実際にそうなっていくという面も。


・「悪口は、言った本人と、聞き手と、言われた人物の三人を殺す」(ユダヤの口承律法タルムードより)


・(Levit. Chapter 13聖書より):
Tzara’atという皮膚病にかかった者の治療は、明らかに誰から見てもTzara’atと分かったとしても、 Kohen(世襲の最高祭司)の言葉「unclean」によって治療が始まり、言葉「clean」によって治療が終わる。Tzara’atは悪口(slander)を言ったものに対する「神」の罰だとされる。言葉の罪、よって言葉に始まり言葉に終わると。その治療プロセスは、いかなる集団からも離れ、一人でさまよい、また戻るというもので、これは「悪口」がいかに人と人との間に隙間やひび割れを生み、一人一人に孤独感をもたらすかを、「一人でさまよう」に象徴させているといわれる。

タルムードに見られる悪口の定義とは:
1.例え事実でも、よい目的のない悪口。相手にとってよい目的のある「悪口」は含まれない。
2.事実でもなく、誰かを貶めようと作り上げたもの。
3.聞き手にその人物に対してネガティブな思いを抱かせようと意図した悪口


・古代ギリシャ哲学者プラトンの言葉:
賢者は言うことがあるから話す、愚か者は何かを言わなければならないから話す。(Wise men talk because they have something to say; fools talke because they have to say something)」


・枕から羽毛を取り出し放る。風が吹きあちらこちらに舞い。悪口とは、そんな羽毛のようなもの。全部集めて枕に戻そうとしたって、できやしない。(ユダヤの寓話より)


・私が実父に子供時代言われ、今でも心に刻まれている言葉。

「人と人とを離すことをしてはいけない」

人と人とを離す言葉を用いない。人と人との間を近づけピースを築く言葉を。
「ねえねえ、○○ちゃんあなたのことこう言ってたよ」その「こう」に入れる言葉を気をつけて。 

魚を口にするたび思い出すこと

2013-04-07 05:32:27 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
((毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


「過ぎたるは及ばざるが如し」:

 モーセの兄Aaronの二人の息子が、寺院での儀礼の最中に炎に包まれ亡くなる。なぜ? の一つの解釈として、何をどれだけ神前に供えるかが決まっていたのにも関わらず、「もっとあった方が神はもっと喜ぶだろう」という二人の「善意」から、供え物の量を多くしたためとも言われている。(聖書より)

大好きなクッキーを食べ過ぎ、お腹を壊した男の子の話しなども用いつつ。

例えそれ自体「善いものでも」、「過ぎ」ればよくないことにもなり得る。



「でくのぼう」であるということ:

 善き人々がなぜ苦しむ必要があるのか?というモーセの問いに、「神」は「あなたたちは私の背中を見ることができるが、私の顔を見ることはできない」と言う。「これが『神』」と断定できる「顔」を見ることができないと。

全てが分かったと思ってしまう時、人間でなくなると。全てが説明できる思ってしまうとき、そこに、共に悲しみ、共に涙を流しといった、相手の苦しみに共感するという「人間性」が無くなると。(ユダヤ聖典『トラ』より)

分かった気になっているのも、ただ「神」の背中を見、全体図のほんの一部を捉えているだけのこと。沈黙にあるときのみ、その全体図に近づける。

話は飛ぶようですが、宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩も子供達と読んでみました。

あれは宮沢賢治氏が、狭い人間の論理的思考で全てを説明しようとする自身、まるで全体図を把握した「神」にでもなったような目線で人々を眺めてしまう自身に向け、書いた詩でもあるように感じています。

「繋がる」のは、なぜ?という問いにすっきりと答えられるような、狭い人間の論理的思考からではないということ。


・魚を食べるということ

ユダヤ教では、「食べて良いもの」がこと細かく決められいて、それらはコッシャーと呼ばれます。コッシャーには、「口に入れるものによって、自身が作られる」という哲学が背景にあるのですが、一つ一つの食べ物の解釈には学ばされるものがあります。

なぜ魚はコッシャーか?

「ヒレとウロコがある魚がコッシャー」と記されたタルムード(ユダヤの口承律法集)の説明によると:

ヒレは自身が前に進むためのもので、ウロコは外から自身を守るため。

ヒレは「野心」を、ウロコは「バリュー」を象徴していると。あれを成し遂げよう、何としてでも達成させよう、そういった「野心」は人を前に進ませる、けれども、もしそこに「バリュー」というウロコが無いのならば、外からの刺激に崩れ落ちる。

魚を口にするたび、そんなメッセージを思い出しつつ。

悲劇に向き合う

2013-03-31 03:20:00 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。

(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

悲劇に向き合うには:

もし、全体的な図を眺める視点があるのだとしたら、私達が見ているのは、その一部分。私達が分かった!と思っているのは、全体的図のほんの一部分。

何の罪もない善き人々が事故に会う、病気になる、亡くなる。周りに日常的に起こる「理不尽」なこと。

なぜ? そう問い続けたとしても、言葉だけが宙に空回り。

もしその全体図に近づく術があるのだとしたら、それは「沈黙」のみ。

聖書より:

寺院に初めて「神」を迎えるというめでたい祝いの日。モーセの兄Aaronの二人息子が、香をたき、その器を神前に差し出す。すると、炎が二人に燃え移り、モーセとAaronの目の前で二人の息子は焼け死ぬ。Aaronはただ沈黙。(Levit.,Chapter 10)

モーセが未来の賢者アキバ(大人になっても読み書きのできなかった貧しい農民だったアキバ、子供に混じり勉強を始めやがて何万人という弟子を持つ賢者に。彼の聖書の解釈も多く残され、その知恵は温もりに溢れている)について知らされ、「これだけの貢献をしたアキバ、どれほどの報酬を手にしたことでしょう!」と「神」に問うと、ローマ人に拷問を受け、吊り下げられ生きたまま焼かれ死んでいくアキバの様を見せられる。「なぜですか?  報酬はどこにあるんですか?」そう詰め寄るモーセに、「沈黙せよ」と「神」は言い放つ。(Minachot 29b)

「分かってしまったら」それはもう「神」ではないのだと。論理的に説明ができ、小さな人間の頭で理解してしまうのなら、もうそれは「神」ではないと。


「理不尽」な悲劇に、向き合う姿勢を教えられた話に、ホロコーストを体験した精神科医フランクルの著書に記された女性の話がある。

その女性は、金に埋め込まれた歯を繋ぎ合わせたブレスレットをしている。

「これは○○、これは○○、これは○○で、この小さなのは○○・・・」

そう一つ一つの歯を指しながら、ヘブライ語の名前を言う女性。ホロコーストで亡くなった九人の子供さん達の歯を、繋ぎ合わせて身につけているのだと。

「なぜそれほどの悲劇を思い出すものを、そうして常に身につけていられるのですか?」

そう問うフランクルに、その女性は笑顔で答える。

「私は今イスラエルの孤児院を経営しています。このブレスレットは私がこうして生きていく力の源なのです」


注意点:

・これらは自分にのみ当てはめる。悲しみの淵にいる他者に対し、私達にはなぜだかは分からないのだから、受け入れ、他のために生かしていきなさい、といった態度では接しない。他者に対しては、その悲しみ苦しみにただ寄り添うのみ。

・どうせ分からないのだしもう受け入れたのだから、と何もしないのではなく、受け入れつつ、自分にできる限りのことをし続けるということ。

自尊心と謙虚さ

2013-03-17 02:59:02 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。

自尊心(self-esteem)」について

「自尊心(self-esteem)」を高めること。昨今のこちらの教育現場でとても重視されていること。親と先生との集まりなどでも、今年のクラスに何を期待しますか?と問われれば、多くの親の口から、healthy self-esteem, to feel good about herself, develop self-esteem、そんな言葉が聞かれる。

周りは、その子がするどんなことにも、ポジティブな言葉を用い、否定的な言葉を使わないよう気をつける。「なんて上手なの!」「素晴らしい出来だわ!」そうこぞって褒めつつ。

それでも、self-esteemというのは、あなたが何をしたかや、あなたの能力や選択や、他の人にあなたがどう評価されるか、他の人があなたをどう思うか、そんなことには関係ないところに築かれるもの。

こうしてこの世に生まれてきたということ、自身と源との繋がり、そこにself-esteemの根幹をおくこと。

周りからけなされようが、周りから認められなかろうが、決して損なわれることのないself-esteemを築いていくこと。

寓話を用いつつ:

 ある男が、風呂場へ行き、服を脱ごうとする。ああこの服を脱いでしまったら、自分がジョンだということを忘れてしまうじゃないか。どうしたらいいものか。そうだ!足の先に赤い紐をくくりつけておこう。そうすれば私は私がジョンであるということ覚えていられる。嬉々として足先に紐をゆわえつける。風呂を終え、脱衣所に戻り、ふと足先を見ると、紐がはずれなくなっていた。しまった! 私は一体誰なんだ!?



謙虚さについて

能力、何らかの結果、今おかれた状況、全てが与えられたもの。自分のものなど何一つない。

まずはその自覚。

それでもそこから、私はこんなにも与えられるよう選ばれた人間、私ってすごい、そんな考えが生まれることもある。そしてそこから、傲慢さが始まる。

私はこんなにも与えられている、と、謙虚さが、共に成り立つには?

聖書に描かれるモーセの人物像にヒントをもらいつつ:

 出エジプトを率い、ユダヤの民を奴隷から解放し、「十戒」を受け取り、「神」と面と向かって話し。俺ってすごいじゃない、俺みたいな人いやしないよ。なぜそう思うことなく、「地球上で最も謙虚な人物」と言われ続けたのか。

 モーセには、これだけの霊性、能力、知恵、知識、生い立ち、境遇を与えられるのなら、自分以外の誰もが、自分よりもっと多くのことを成し遂げられただろう、自分以外の誰もが、自分よりはるか遠くにたどり着くことができただろう、そんな思いが常にあったとされる。モーセの目には誰もが、もし自分と同じ状況に置かれたら、よりよくできただろうにと映っていたと。それ故に、モーセは誰に対しても尊敬を持って接し、常に誰よりも謙虚であったという。
(ラビSchneur Zalmanが1792年にトランス状態で導き出した解釈より。アダムはこんなにも与えられて俺ってすごい!?と、「知識の実」に依るようになったとも)



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謙虚であるために、いやいや私はそんなものもらっちゃいないのですよと、ギフトを否定していても何も生み出さない。

まずはどれほど与えられているかを自覚する。

そして自身のself-esteemを満たすために、さまざまなギフトを与えられていると勘違いしないこと。ギフトはこの世を少しでも良くするために用いるよう与えられている。

ギフトを磨き、成長させるのはself-esteemを満たすためではなく、他の人ならもっと上手に使えるだろうに、申し訳ない、至らない私だけれどできる限り頑張るしかないといった謙虚さ。源との個人的な関係。

ファミリーディナートピック、「七つ目のモード」

2013-03-10 03:02:54 | ファミリーディナートピック
毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。「神」という言葉を使っていますが、それは人を超えたエネルギーのようなものだと感じています。


自分がまずはぱっと動く
 「洗浄機からお皿出してしまうのおねが~い」そう声をかけると、上と下のラックそしてナイフやスプーンやフォーク入れ、と三つに分かれた分担、どれが一番簡単そうかを吟味して「私は上!」「僕はスプーン!」と決めることが多い上三人。

「テーブルセットアップしてね~」「ティクバ(犬)外に出して~」「ちょっと手伝って~」誰かがしてくれないかと周りの動向を見守るのではなくて、まずはぱっと自分が動く。

「自分がいかに楽できるか」よりも、「自分が動いていかに周りに楽をさせてあげられるか」そう考えてぱっと動いていけるといいね。

聖書からの引用:
 移動式の寺院を作るための寄付を募っていた部族のリーダー、「皆が寄付した後に足りないものを私が全てカバーしよう」と。善意で自分のものを差し出そうとするこの行為でさえ、「神」は好きでなかったとある。自分は動かずじっと腕を組んで周りを眺めているのではなく、家々を回り、人々に話し、自分が汗をかき、まずは自分がぱっと一番に動きなさいと。

夫との話:
 子供にこうしてぱっと動く姿勢を培うのは、まず親が体現すること。コミュニティーに助けが必要な状況に対してぱっと動くこともだけれど、まずは家庭の中からも。
「あ、車の中に今日買ったパン置いてきちゃった」「ガレージ行って持ってくるよ」
「テーブルの上にミルクがないわね」「冷蔵庫から持ってこよう」
そうぱっと動く姿勢を普段から示していこうと。


「最も自己のない人」
 コミュニティーの人々を助けることに一生を尽くしたある故ラビの話。祭の時には必ず身寄りのない人々に連絡を取って招き、いくつもの倉庫にもらいものを置きいつでも必要な人々が持っていけるようにし、誰かが亡くなると一番に飛んでいき残された者達と共に過ごし、悲しみ辛い時を送る人々を毎日訪ねて歩いた。傍にいるだけで皆が温かい気持ちに。

 彼は「最も自己中心的な人(selfish)こそ、最も自己のない人(selfless)」と言っていたと。「神」に仕える喜びのためのみに動くという「最も自己中心的な人」ほど、「最も自己がない」と。

喜びこそが人を最も遠くへ連れて行ける。


引き離して眺める時を持つ 
 ユダヤ神秘主義カバラでは、「七つ目のモード」ということを言う。東西南北上下という六つのモードの他に、中心の点、「七つ目のモード」があると。六つのモードがあらゆる方向に向かって外へ外へと伸びていこうとするのに対し、七つ目のモードは内に源に向かうもの。

 これは一週間のサイクルにも当てはめられる。六日間外へ外へと物質的な達成をするために動き、七日目は外への動きをやめ内に向かう。物質を用いて物質的状況をより良くしていこうと、六日間は力の限り走り回るわけだけれど、そういったものから切り離し、その源を見つめる習慣。六日間かかりきりだった全ては、その源の表れなのだと改めて眺めてみる時。

「偶像崇拝」の始まりは、必要でないものに必要以上に重きを置いてしまうこと、物、仕事、お金。仏教でいう「執着」でもある。この「七つ目のモード」は、それらのバランスを整えてくれる。それらは、源からのチャンネルに過ぎないと。

この七分の六、七分の一というイメージを胸に。