靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

魚を口にするたび思い出すこと

2013-04-07 05:32:27 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
((毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


「過ぎたるは及ばざるが如し」:

 モーセの兄Aaronの二人の息子が、寺院での儀礼の最中に炎に包まれ亡くなる。なぜ? の一つの解釈として、何をどれだけ神前に供えるかが決まっていたのにも関わらず、「もっとあった方が神はもっと喜ぶだろう」という二人の「善意」から、供え物の量を多くしたためとも言われている。(聖書より)

大好きなクッキーを食べ過ぎ、お腹を壊した男の子の話しなども用いつつ。

例えそれ自体「善いものでも」、「過ぎ」ればよくないことにもなり得る。



「でくのぼう」であるということ:

 善き人々がなぜ苦しむ必要があるのか?というモーセの問いに、「神」は「あなたたちは私の背中を見ることができるが、私の顔を見ることはできない」と言う。「これが『神』」と断定できる「顔」を見ることができないと。

全てが分かったと思ってしまう時、人間でなくなると。全てが説明できる思ってしまうとき、そこに、共に悲しみ、共に涙を流しといった、相手の苦しみに共感するという「人間性」が無くなると。(ユダヤ聖典『トラ』より)

分かった気になっているのも、ただ「神」の背中を見、全体図のほんの一部を捉えているだけのこと。沈黙にあるときのみ、その全体図に近づける。

話は飛ぶようですが、宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩も子供達と読んでみました。

あれは宮沢賢治氏が、狭い人間の論理的思考で全てを説明しようとする自身、まるで全体図を把握した「神」にでもなったような目線で人々を眺めてしまう自身に向け、書いた詩でもあるように感じています。

「繋がる」のは、なぜ?という問いにすっきりと答えられるような、狭い人間の論理的思考からではないということ。


・魚を食べるということ

ユダヤ教では、「食べて良いもの」がこと細かく決められいて、それらはコッシャーと呼ばれます。コッシャーには、「口に入れるものによって、自身が作られる」という哲学が背景にあるのですが、一つ一つの食べ物の解釈には学ばされるものがあります。

なぜ魚はコッシャーか?

「ヒレとウロコがある魚がコッシャー」と記されたタルムード(ユダヤの口承律法集)の説明によると:

ヒレは自身が前に進むためのもので、ウロコは外から自身を守るため。

ヒレは「野心」を、ウロコは「バリュー」を象徴していると。あれを成し遂げよう、何としてでも達成させよう、そういった「野心」は人を前に進ませる、けれども、もしそこに「バリュー」というウロコが無いのならば、外からの刺激に崩れ落ちる。

魚を口にするたび、そんなメッセージを思い出しつつ。


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