靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

自尊心と謙虚さ

2013-03-17 02:59:02 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。

自尊心(self-esteem)」について

「自尊心(self-esteem)」を高めること。昨今のこちらの教育現場でとても重視されていること。親と先生との集まりなどでも、今年のクラスに何を期待しますか?と問われれば、多くの親の口から、healthy self-esteem, to feel good about herself, develop self-esteem、そんな言葉が聞かれる。

周りは、その子がするどんなことにも、ポジティブな言葉を用い、否定的な言葉を使わないよう気をつける。「なんて上手なの!」「素晴らしい出来だわ!」そうこぞって褒めつつ。

それでも、self-esteemというのは、あなたが何をしたかや、あなたの能力や選択や、他の人にあなたがどう評価されるか、他の人があなたをどう思うか、そんなことには関係ないところに築かれるもの。

こうしてこの世に生まれてきたということ、自身と源との繋がり、そこにself-esteemの根幹をおくこと。

周りからけなされようが、周りから認められなかろうが、決して損なわれることのないself-esteemを築いていくこと。

寓話を用いつつ:

 ある男が、風呂場へ行き、服を脱ごうとする。ああこの服を脱いでしまったら、自分がジョンだということを忘れてしまうじゃないか。どうしたらいいものか。そうだ!足の先に赤い紐をくくりつけておこう。そうすれば私は私がジョンであるということ覚えていられる。嬉々として足先に紐をゆわえつける。風呂を終え、脱衣所に戻り、ふと足先を見ると、紐がはずれなくなっていた。しまった! 私は一体誰なんだ!?



謙虚さについて

能力、何らかの結果、今おかれた状況、全てが与えられたもの。自分のものなど何一つない。

まずはその自覚。

それでもそこから、私はこんなにも与えられるよう選ばれた人間、私ってすごい、そんな考えが生まれることもある。そしてそこから、傲慢さが始まる。

私はこんなにも与えられている、と、謙虚さが、共に成り立つには?

聖書に描かれるモーセの人物像にヒントをもらいつつ:

 出エジプトを率い、ユダヤの民を奴隷から解放し、「十戒」を受け取り、「神」と面と向かって話し。俺ってすごいじゃない、俺みたいな人いやしないよ。なぜそう思うことなく、「地球上で最も謙虚な人物」と言われ続けたのか。

 モーセには、これだけの霊性、能力、知恵、知識、生い立ち、境遇を与えられるのなら、自分以外の誰もが、自分よりもっと多くのことを成し遂げられただろう、自分以外の誰もが、自分よりはるか遠くにたどり着くことができただろう、そんな思いが常にあったとされる。モーセの目には誰もが、もし自分と同じ状況に置かれたら、よりよくできただろうにと映っていたと。それ故に、モーセは誰に対しても尊敬を持って接し、常に誰よりも謙虚であったという。
(ラビSchneur Zalmanが1792年にトランス状態で導き出した解釈より。アダムはこんなにも与えられて俺ってすごい!?と、「知識の実」に依るようになったとも)



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謙虚であるために、いやいや私はそんなものもらっちゃいないのですよと、ギフトを否定していても何も生み出さない。

まずはどれほど与えられているかを自覚する。

そして自身のself-esteemを満たすために、さまざまなギフトを与えられていると勘違いしないこと。ギフトはこの世を少しでも良くするために用いるよう与えられている。

ギフトを磨き、成長させるのはself-esteemを満たすためではなく、他の人ならもっと上手に使えるだろうに、申し訳ない、至らない私だけれどできる限り頑張るしかないといった謙虚さ。源との個人的な関係。

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