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靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

行為者になる

2013-01-20 01:06:07 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナーでの話し合いトピック二つです。

行為者になる

傍から眺め、ああでもないこうでもないと揶揄し、批評しているだけでなく、自身が行為者になる。どんなに拙くてもいいから、自分がしてみる、自分で生み出してみる。自分が揶揄され、批評される側に立つ。

セオドア・ルーズベルトの1910年のスピーチ「The Man in the Arena」を引用しつつ:

信頼・信望・名声(credit)は、実際にアリーナに立つ者が手にするのだ。

強い人がどうしくじったか、他の実行力のある行為者にやらせたらもっとうまくできただろうにといった批判する者は、信頼には値しない。

アリーナに立つ者の顔は、汗と埃と血にまみれている。勇敢に戦い、失敗し、何度も何度もあと一歩で届かないことの繰り返しだ。なぜなら失敗と欠陥のない努力などはないからだ。

アリーナに立つ者は、強烈な熱狂を知り、崇高な献身を知り、価値ある志のために自分の身を粉にする。

彼らは、最後に自身の最大限の高みに達した勝利を知るだろう。最悪、失敗に終わったとしても、少なくとも全身全霊で挑戦しての失敗だ。

彼らの魂が眠る場所は、勝利も敗北も知らない冷たい臆病な魂と、決して同じにはならない。

"It is not the critic who counts: not the man who points out how the strong man stumbles or where the doer of deeds could have done better. The credit belongs to the man who is actually in the arena, whose face is marred by dust and sweat and blood, who strives valiantly, who errs and comes up short again and again, because there is no effort without error or shortcoming, but who knows the great enthusiasms, the great devotions, who spends himself for a worthy cause; who, at the best, knows, in the end, the triumph of high achievement, and who, at the worst, if he fails, at least he fails while daring greatly, so that his place shall never be with those cold and timid souls who knew neither victory nor defeat."
"Citizenship in a Republic,"
Speech at the Sorbonne, Paris, April 23, 1910


同じパターンから抜ける

同じパターンを抜けるためには、行為を刻む、ということについて。身体を動かし掃除したり、立ち上がってエキソサイズを始めたり、外に出て新鮮な空気を吸うことで、それまではまり込んでいた思考パターンがぱっとシフトすることがある。行動してみる、違ったことへと足を踏み出してみる。

聖書の話を引用しつつ。

エジプトで奴隷だったユダヤ人が、エジプトを出て自由を手に入れる。奴隷から自由へ、奴隷的思考から自身で立ち上がり歩き出す思考へのシフト、その時、二つの行為が刻まれたとされる。一つは子羊の生贄ともう一つは男性の割礼。子羊はエジプトの神の一つともされていた。割礼はその後の長旅にとって危険を伴う行為。これら「神」によって示されたとされる二つの行為に従うことで、はまりこんでいた奴隷的パターンからシフトした、という話。

「不可能を可能にする」について

2013-01-06 01:50:03 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナーでは、「不可能を可能にする」というテーマについて話し合いました。毎週金曜日の夜のファミリーディナーでは、バリュー、哲学、宗教的な話などをします。


聞いたことのあるこんなたとえ話から。

野生のアンテロープの群れを移動させる必要がありました。すばしっこく、捕まえようとしても、なかなかうまくいきません。ところが赤い布で周りを囲んだところ、ぴたりと動かなくなりました。ひらひらの薄い布、少し押せば向こう側に行けてしまうもの。それでもアンテロープにとっては、頑丈な壁にしか見えなかったのです。

こんなことってあるね、赤いカーテンを分厚い頑丈な壁と思い込んで、進むのを止めてしまうこと。まずは足を踏み出し押してみる、まずは自分にできる限りのことをしてみる、そしたら向こう側へ行けるかもしれない。


聖書からの話も。

ファラオ(王)の「ユダヤ人に生まれた赤子は全て殺す」という命令に、モーセの父は離婚することを決意する。他のユダヤの人々もそれに続く。そこへ、モーセの姉ミリアムが抗議。自分達は自分達にできる限りの正しいことをし続けるべきだと父親を諭す。そこでモーセの父は再度結婚し、モーセが生まれた。

ファラオに見つかれば殺されてしまう赤子モーセ、バスケットに入れ川に流す母親。流れ行くバスケット。下流で涼んでいたファラオの娘バチャルが、赤子の泣き声がするのに気がつく。川の真中を流れていくバスケット。岸にいるバチャルには、とても届くはずの距離ではなかったけれど、何とか届こうと手を伸ばす。すると奇跡が起こり、バスケットがバチャルの手もとに。


ミリアムやバチャルみたいに、自分で足を踏み出し、まずは自分にできる限りのことをするのならば、頑丈な壁が赤いカーテンに変わることがあるのかもしれないね。

「壁」を前にしたら、一歩下がり、無限(infinity, divinity)ということを思い出してみるといい。そうすれば「頑丈な壁」というのが、自分で作り上げた思い込みだと気がつくかもしれない、また違った現実が目の前に広がり始めるかもしれない。そして足を踏み出し、自分にできる限りを精一杯していく。あとはゆだねて。本当に必要ならば、必ず与えられる。

そんな話をした夜でした。