靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

「隣人を愛す」、「自転車の車輪」という世界観

2013-04-21 05:01:09 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナー・トピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


隣人を愛する、について。


・聖書の「自分自身を愛するように隣人を愛せよ(You shall love your neighbor as yourself)」(Leviticus, Chapter19)がオリジン。


・「愛する」と一言で表されるものの、現実的実用的に、隣人を愛する「行為」とは?(HaKav V’HaKabbalah[1785-1865])より
1.尊敬をもって他者に接する(Treat others with respect、)
2.他者の最善を求める(Seek the best for them.)
3.他者の痛みを共に感じる(Join in their pain.)
4.好意をもって親切に他者に挨拶する(Greet them with friendliness.)
5.真実かどうか不確かでも相手に有利に解釈する(Give the benefit of the doubt.)
6.物理的に金銭的に援助してやる。(Assist others, physically or monetarily.)
7.相手より自分がより良いとみなさない(Don’t consider yourself better than others.)


・ユダヤの世界観
 人は自転車の車輪のようなもの。車輪の中心から枝分かれした部分が互いに異なる個人。それでも異なる個々人それぞれが奥深くに潜ったところでは、一つ。実際に触れられるもの見えるもののみに拠っているのならば、「違い」しか見えない。



・昔読んだルドルフ・シュタイナーの著書に、「最も自身と相容れないと思う考え方価値観信条を持つ人々、自身が最も憎む人々に、『繋がり』を感じることが、魂を成長させる」というようなことが書かれていたのを覚えている。これは、目の前に見えるものを超え、奥深く「自転車の車輪の中心」を見出すことに似ている。


・心理学者ユングが唱えた「集合的無意識」。「一人一人の心の奥深くに、個々人・集団・民族の違いを超えた普遍的な場がある。」


・「もし人が肉を切っていて、ナイフで手を傷つけてしまったからと、仕返しにナイフを持っていた手を傷つけるだろうか?」(タルムードより)

もし、個々人の心の奥深くに、違いを超えた普遍的な場、「車輪の中心」があるとするのならば、相手に嫌なことをされたり、相手に傷つけられたから、やり返してやろうと思うことは、同じ自分自身を傷つけるようなもの。もし、心の奥底で、普遍的場に出会うのならば、他者に対して投げかける言葉も、行為も、自分自身に対してしているのと同じこと。




「隣人を愛す」とは、自分や他者に対し、間違いや過ちを愛し受け入れあるがままにしておけばいいということではない。与えられた「違い」「個性」、それらの欠けた部分は、より良くしていこうと励まし合い、改善へ向け努力し続ける。

それでも、それらの間違いや過ちなどの互いに欠けた部分が、「隣人への愛」を何ら損なうものではないということ。車輪の広がり部分は、何ら隣人に対する尊敬や愛に影響を与えるものではない。

「自身を愛するように隣人を愛す」とは、互いの違いを超えた「車輪の中心」、個々の心の奥深くで繋がる普遍的な場に対する、尊敬であり、愛。

心の奥深くにそんな場を感じられるのならば、どんな隣人をも愛することができるのかもしれない。


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