靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

病室の情景を眺める視点

2013-11-17 08:05:33 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

病室を外から眺める視点("inoculations" by Charlie Hararyを参考に):

八ヶ月の赤ちゃんを連れて小児科医へ定期健診に出かける父親。二人で出かけるのは初めてのこと。心躍る父親、きゃっきゃと腕の中ではしゃぐ赤ちゃん。

病室に着き、白い服を着た人々が現れる。あれ? ここはどこ、何が起こってるの? 服を脱がされ、あちらこちらに器具を突きつけられ。お父さん、どうして私をこんなところに連れてきたの? 楽しいお出かけのはずだったのに、痛い! とがった針がいくつも!(こちらでは、この年月で太ももに一気に4本ほど予防注射)、ひどい!

顔を真っ赤にして泣き喚く赤ちゃん。検診が終わり、父親の腕の中でしゃくりあげ、次第に落ち着く。

八ヶ月の赤子に、定期健診の意味、予防注射の意味、それらがいかにあなたにとって良いことなのかを説明しても、理解はできない。ただ辛く苦しく痛い。連れてきた父親を、なぜ私をこんな目に合わすの、そう恨めしそうに見上げ。


苦しい時というのは、こんな「病室の情景」に似ているのかもしれない。自分にとって、それらがいかに良いことであるかは、理解できない。ただ、目の前の痛みに悶え、なぜこんなことに?と恨めしく天を仰ぎ。

それでも、次第に内の奥深くの温もりに包まれ、癒され落ち着きを取り戻す。あの父親の腕の中の、赤子のように。


年を経、より理解する力がつくにつれ、通り過ぎたいくつもの痛みの意味を、知ることもあるかもしれない。赤子が小学校にもあがれば、徐々に、検診や注射がなぜ自分にとって必要だったのかが、理解できるように。

「全てはよき事のために」、病室を外から眺める視点を、覚えておきたい。
 



憎しみと愛("When Love Becomes Hate" by YY Jacobsonを参考に):

Menassehはユダヤ史上最も悪名高い王。偶像崇拝をもたらし、悪事の限りを尽くしたと言われる。聖典『トラ』を鼻で笑い、ユダヤへの改宗を拒否されたことにより、ユダヤを憎み続けた女性Timnahに自身を重ねる。
アッシリアに拷問を受け、あらゆる偶像への祈りが届かないと分かった死の寸前、偉大な指導者とされた父親が唱えていた祈りの言葉を口にするMenasseh。祈りが神に届かないよう天使達が遮る。あれほどの悪人が許されるべきはないと天使達が止める中、神はMenassehを救う。
(『ゲマラ』より)

なぜMenassehは救われたのか?

とてつもない憎しみと愛とは、常に表裏一体であるためと説明される。

必死で離れようとする裏には、とてつもない執着がある。

むき出しとなった憎悪の裏には、とてつもない愛情がある。


自身の、他者の、「憎しみ」の裏を見つめてみる。

拒否された痛み、受け入れられない痛みといった「憎しみの原因」を越えるには、「病室の外の視点」が有効。「全てはよき事のために」、例え生きている間にはその意味が分からないとしても。

「愛」の側にフォーカスすることで救われるのは、他の誰でもない、その人自身。

梯子の上と下と、二つのイメージ

2013-11-10 12:12:20 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

梯子の上の自分と梯子の下の自分(“Jacob's Ladder & The Baal Shem Tov’s Inferno”by YY Jacobseonを参考に):

ジェイコブは夢を見た。天へと続く梯子を下り上りする天使。梯子の上には「神」がいる。[Genesis 28: 12-13]

天使はなぜ下って上ってを繰り返していたのか?

様々な解釈がある中、ここでは「タルムード」の解釈を。

天使は、梯子の下にあるジェイコブのイメージと、梯子の上にあるジェイコブのイメージを何度か行き来し見比べていた。そして嫉妬により熱くなる。神は天使たちの嫉妬の炎を冷まそうと、上から扇であおっている。[Talmud Chullin 91b]

人には二つのイメージがあるとされる:

1.今の自分の姿(Who you are) 梯子の下のイメージ

2.自分がなれるだろう姿(Who you can be) 梯子の上のイメージ

1は、今この時点での姿。2は、自分であることを最大限生ききった姿。あなたはこうなれると「神」に元々形作作られた姿。この世に果たすために来たミッションを完遂した姿。真の姿。

夢の中の天使達は、ジェイコブの1と2が全く同じイメージであることに驚嘆し、こんな人間は見たことがないと嫉妬したと。「選択」というものは、人間にのみ与えられている。人間には瞬間瞬間の選択により、1と2のイメージを合わせていくことが可能。一方天使には、「選択」というものが与えられていない。

ジェイコブの息子ジョセフは、兄達に売られ、エジプトで奴隷として仕えていた主人の妻に、言い寄られる。故郷を離れ、奴隷として働くその家のみが、生きていくための全て。17歳の健やかな身体、目の前の誘いに今にも身を落とそうとする時、窓に、父ジェイコブの姿が映る。そして一気に自分を取り戻し、その場から走り去る。ジェイコブの1と2が合わさったイメージに、息子ジョセフは、梯子の上の自身を思い出したと。[Talmud and Zohar]


ウォーターゲート事件で辞職したニクソン氏。ホワイトハウスを後にする時、壁に並べられた歴代大統領の肖像画を眺め、JFKの画の前でこう話しかけという。「君がどうしてこれほどまでに人気があり続けるのか。君と私の違いが何か分かるかい? 君は国民が『こうなりたいと望む姿』なんだよ、私は国民の『今こうであるという姿』を代表しているんだ」


ユダヤには、「地獄」とは、炎燃えたぎり、ぐつぐつ煮える鍋に落とされ、針の山に横たわり、といったものではなく、二つの鏡を見比べることだという説明がある。「実際に生きた人生」と「生きることができたであろう人生」が映された二つの鏡を見比べること、その「違い」が大きければ大きいほど「地獄」なのだと。



ラクダの親子が話している。

ママ、どうして僕たちにはこんなぺちゃんと平たく大きな足があるの?

砂の上をはるか遠くまで歩くためよ。

じゃあどうしてこんなに長いまつげがあるの?

宙に舞う砂から目を守るため。

じゃあね、どうして背中にこんなコブをしょってるの?

長い間水や食物がなくても生きていけるように、脂肪を蓄えてあるのよ。

ふ~ん、じゃあもう一つ聞いていい?

ええもちろん。なに?

だったらね、どうして僕たちはこんな檻の中に暮らしているの?


多くの人生は、こんな動物園のラクダのようであると。これほど与えられているのに、活用するということがない。




自分自身の梯子の上のイメージを見つめてみる。そして、他者を前に、その人の梯子の上のイメージに向き合ってみる。

それは、師が生徒に対して、親が子に対して、という場合にも覚えておきたいこと。その子の、梯子の上の姿を見つめてみる。持てる力を最大限発揮する姿を。

ある夫婦が、ラビに相談に来る。父親が言う、9歳の息子にほとほと困り果てています。言うこと聞かず、嘘ばかりつき、盗みはするし、問題ばかり起こしている。私は分かっていたんです、あの子が三歳の時にこうなるだろうことを。あの三歳の時点で、あの子はもうこうなるだろうサインをいくつも放っていましたから。
ラビは答える。ではなぜ嘆くのですか? あなたの期待通りに成長しているじゃないですか。




子供達、かなり感じるところがあったよう。自分の梯子の上の姿、まだまだ出し切っていないポテンシャルを見つめるということ。

そして最後の9歳の男の子の話、ママよく考えてねと、長男長女。(笑) 確かに、子供達、私が何を見ているかに敏感に反応します。そういう目で見ないで! そういう話し方しないで! 彼彼女から、そんな言葉を聞くことがありますが、それは「そんな僕/ 私であらせないで!」という叫びでもあるのかもしれません。目の前の今ある姿を見止めつつも、その子のどんなイメージを見つめていくのか、心に留めていきます。

ママも心がけるね。あなたたちは、周りがどんなあなたを見ようが、どんなあなたを示してこようが、あなた自身で最大限の自分を見つめ続けてね、そんな言葉をかけつつ。

望みが叶うとき、邪悪さの自覚

2013-10-27 06:37:01 | ファミリーディナートピック
ァミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)



願いが叶うとき、まずは相矛盾するネガティビティーを自覚すること(“Discovering Your Hidden Agendas  And Not Despairing “ By Y.Y. Jacobson を参考に):

先週の「アンビバレンスの旋律」が見られる四つの箇所の一つ、エリエゼル(Eliezer)がアブラハムに息子アイザックの配偶者を見つけるよう命ぜられる部分は、『トラ』の中で最も長い章とされる。67の節(verse)が冗長に物語を繰り返す。

エリエゼルの「アンビバレンスの旋律」とは、配偶者探しの使命を成し遂げたいという望みと、アイザックに自分の娘と結婚して欲しいという望みを行き来する揺れ。配偶者が見つからないまま40になったアイザック、エリエゼルは、アブラハムが最後には妥協し、ふさわしくないとされた自分の娘との結婚を許してくれるのではないかと望んでいる。

「冗長な繰り返し」は、アンビバレンスに揺れるエリエゼルの心理的な変化を表しているとされる。


初めの部分でエリエゼルは言う、「『もしかすると』その女性はついてこないかもしれません。」アブラハムは「もしその女性がここへ来たくないというのならば、お前の使命はもう満たされた」と伝える。その後エリエゼルが使命を果たそうと祈る場面で「アンビバレンスの旋律」が表れる。

そして目当ての女性が見つかり、その家族にエリエゼルはアブラハムとの会話を再現する。「私は『もしかすると』その女性はついてこないかもしれないと、私の主人に伝えたのです」

この二回目の「もしかすると」は初めの「もしかすると」と表記が異なり、「私のために」といった意味にも取れる単語が用いられている。

そして結局その女性はエリエゼルとともにアブラハムのもとへ来、アイザックと結婚する。



何が起こったのか? この二回目の「もしかすると」を口にした時、エリエゼルははっきりと自分の内にあるもう一つの望み(アイザックに自分の娘と結婚して欲しい)を自覚したとされる。

相矛盾する望みは、時に片方が片方を隠し、無意識の領域に抑え込む。潜在意識に潜り込んだ「望み」は、見えないところで肥大化し、その者の根底を揺るがし始めることがある。闇の中で怪物が力を持ち、闇の中で悪が蔓延るように。

自らが矛盾した望みを持っていると自覚すること、無意識から意識にあげること。いかに邪悪な望みであろうとも、まずは正直に向き合う。すると、邪悪さは力を弱める、まぶしい光の中では闇の怪物が生きていけないように。

そして、エリエゼルがアイザックの配偶者を連れ帰ったように、望みは、現実となる(物質化materializeする)と。

ユダヤには「思いは両手で押す必要がある」という言葉があるという。多くの場合、人は、片方の手で思いを押し、もう片方の手で相矛盾する思いを抱き寄せようとしている。



人は何層もの複雑な意識を持っているもの。

大切なのは、いい人正しい人であろうと自らのネガティビティーに蓋をし続けるのではなく、自らに渦巻く邪悪さ・ネガティビティーを正直に自覚し続けること。

そうして初めて、光の力に頼ることができる。

アンビバレンスの旋律を超えて

2013-10-20 06:39:19 | ファミリーディナートピック
ァミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


アンビバレンスを超えて(The Tragic Music of Ambivalence The Secret of the Shalsheles Note By Rabbi Y.Y. Jacobsonを参考に):

ユダヤの人々は、聖典「トラ」を独特のメロディーにそって読む。まるで「トラ」の言葉の一つ一つが楽譜であるかのように、それぞれの言葉は特定の旋律と繋がっている。傍で聞いていると壮大な物語を歌詞とした歌を聴いているよう。それは仏教のマントラやお経にも似ている。

「トラ」の中には四箇所だけに現れる「珍しいメロディー」がある。その箇所にさしかかると、傷がついたCDのように、上がり下がりと高低の旋律を繰り返す。表記としては、ジグザグを縦にしたような記号が文字の上に小さく記されている。

この「シャルシャレス(Shalsheles)」と言われる「珍しいメロディー」は、「アンビバレンス:同一の対象に対して矛盾する感情や評価を同時に抱いていること」を意味するとされる。ヘブライ語には、「アンビバレンス」を意味する「言葉」は無いけれど、「メロディー」がある。

その四箇所とは:

1.モーセが儀礼で生贄にした動物の血を、司祭アエロン(Aeron)の身体に塗りつける部分。[Levitikus ]

2.ロト(Lot)が家族と共に天使に連れられ、崩れ落ちるソドム(Sodom)の町を後にする部分。ロト慣れ親しみ自らを捧げた地ソドムが破壊されると天使に知らされ、それでも最後の最後まで去ることを拒む。そして結局天使に無理やり連れ出される。ロトの妻は、絶対に振り向いてはいけないとされながらも、振り向き、「塩」に変る。[Genesis]

3.アブラハムの召使エリザー(Elizer)がアブラハムの息子アイザックの配偶者を探しに行く場面。探すという命を受けつつ、エリザーの内面には自分の娘を嫁がせたいという思いがある。[Genesis]

4.ジョセフがマスターの妻に誘惑される場面。17歳で奴隷に売られ、異国の地でこのマスターに救われ地位を与えられ、ここにしか居場所がない。マスターの妻の毎晩の誘い、マスターを裏切るか、それでも妻の誘いを断れば奴隷の身でどんな立場に立たされるかも分からない、そして目の前の妻に対する欲望も入り交ざる。[Genesis]

「シャルシャレス」は、それぞれの人物が、枝分かれるする道を前に、決断を迫られる場面に現れる。どちらを選んでも、心の奥底から湧き上がるどちらかの誘惑や熱望を手放す必要がある。上へ下へのジグザグの旋律は、その人物が内面に引き裂かれんばかりの葛藤を抱き、激しく揺れ動いている状態を表している。



社会心理学的には、こうした互いに相矛盾する熱望を同時に抱いている状態を、「認知的不協和(cognitive dissonance)」と言う。そして人は、この不協和音に耐えられず、何とかこのアンビバレンス状態から抜け出ようとするとされる。

心理的な危機的状況アンビバレンスは、その人物を内面へと深く潜らせ、自分が誰なのか、つまり自分のよって立つバリューシステムがどういったものなのかに立ち返らせる機会でもある。そして、そこでどんな選択をするかが、その人の人となりの中核を明らかにする。

もし、その選択を前に、日々の蓄積がない場合は、こちらへ踏み出してもあちらを振り返りと、ジグザグのリズムに絡めとられ、挙句ロトの妻のようにその場に引き裂かれたままフリーズ状態に陥ることもある。また自分や周りに嘘をついたり、イソップの寓話「酸っぱい葡萄」のように言い訳をして決着をつける場合もある。

「日々の蓄積」とは、日々自らのバリューシステム、ミッションに立ち返ること。人は本当にすぐ忘れてしまうもの。よ~し!といったインスピレーションも時がたてば薄れ、元の日常に後戻り。日々生き生きと、自らが拠って立つバリュー、ミッションに立ち返る。

アブラハムは、故郷を離れ異国の地に暮らし、その地の行事や集まりに常に参加し人々と交わり、すっかりその地に馴染み安住しつつも、一生自らを「よそ者(stranger)」として暮らしたという。アブラハムがジグザグのリズム「シャルシャレス」に絡みとられることは、決してなかった。


ジグザグの旋律に何度も何度もはまり込んでしまう自分ですが、自らのミッションを書き出し、日々立ち返ること続けていきたいです。

なぜ働く必要があるのか?

2013-10-13 04:53:46 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

「働く」ということの意味について(“Why Do We Have To Work?” By YY Jacobson Yeshiva netより):

 アブラハムは旅の途中、いくつもの町を通り過ぎた。人々はパーティーに明け暮れ、飲んで騒いでいる。そしてTyleにたどり着く。人々は畑に出て一日中働いている。アブラハムは言った「この地に暮らしたい。」そこで「神」は言う、「あなたの子孫のために、この地を与えよう。」(Bereishis Rabbah 39:8)

聖書ではなぜ「働く」ということに重きが置かれるのか? 「働く」とはどういうことか? 

ユダヤの世界観では、「人の最終的な目的」とは、「自身の内の神性を思い出し自分自身が『神』にできる限り近くなること」とされる。
「神は神に似せて人を創った(Let us make man in our image, after as our likeness…)」(Genesis1:26)


「神」は全てを創造(create)するとされる。ならば「神」という存在に限りなく近くなるとは、自ら「創造する存在」になるということ。与えられるものを受け取り続ける受身の存在から、自らが創造し与える側へ。それが「神」へ近づく超越(transcend)。 自らが現実を創造し、自らが運命(destiny)を形作る。

「働く」とは、自らの手で創り出すということ。「神」はあなたにこの世界を創造するパートナーであって欲しいのだと。


タルムードにこんな文句がある。

「トラ(聖典or人生の知恵)のクリーム(熟成した抽出物)を見つけるのは誰か? 母乳を吐き出す者こそが見つける。With whom do you find the cream of the Torah? With him who spits out the milk that he has sucked from the breasts of his mother…」(Talmud Berachos 63b)

赤子が飲めば飲むほど、母乳は作り出され、尽きることなく注がれ与えられ続ける。それでも、その母乳を吐き出し、自らの足で立ち上がり、自らが創造し与える側になる者こそが、人生の根幹に近づくと。



目の前に貧しく恵まれない人が横たわっている。ある男がラビに言う。

「神がこの世を創り、神が全てを支配し、神が何もかも決める。あの人は富み、この人は貧しく、その人は幸せで、この人は不幸で、全ては神の意志でそうなったこと。神は私達には到底分かるはずもない壮大な計画の下に、現実を作り出している。この目の前の男の境遇も神の意志で創りだされたもの。だから私達のすることは何もない。貧しく弱いままであらせればいい、神の意志に基づいて。」

「神はあなたに創造者になって欲しいのです。共にこの世界の現実を創り出して欲しいのです。さあ、私達にできる限りのことをしましょう。」 

ラビはそう答えると、目の前に横たわる男を連れ帰り、温かいスープを飲ませた。


「働く」とは、自ら創り出すということ。受け取る側から創り出す側へのTranscend、覚えておきたいです。

カラスで突き進むも、築き上げるのは白い鳩

2013-10-06 06:05:43 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


「痛み」をサインとして:
 炎の中に手を入れ、もし痛い!と感じないのならば、やがて炎は腕をつたい身体に燃え移り全身を焼いてしまう。「痛み」は、このままではいけないというサインでもある。手を引っ込める、冷たい水で冷やす、それで手の先のやけどで済む。
 
心に痛みを感じるとき、それはサインでもある。そのまま突き進み、全身を焼いてしまうのでなく、何かを変える必要があるよというサイン。物事の見方、考え方を変えてみる。それでやがては癒える小さな傷で済む。



ワタリガラスが先導し、それでも新しい世界を作るのは白い鳩 (“The Raven and the Dove -When Cynicism Replaces Innocence- ” By Rabbi YY Jacobsonより):

ノアの箱舟の話。四十日間続いた大雨、世界を覆う洪水。ノアの家族とあらゆる種類の動物のつがいが箱舟に揺られること一年近く。ノアはワタリガラスを空に放つ。ワタリガラスは陸の上を何度も旋回し、船に戻り、また飛び立ちと繰り返す。その後、白鳩が放たれる。一度目は何も持たず船に戻る、二度目はオリーブの葉を口にくわえ(生命が再び息づいている証)、三度目は戻らない(陸が住める状態になったという証)
                                                    (旧約聖書or『トラ』より)

なぜ、ワタリガラスと白い鳩なのか? カラスは船から追放されたのだという解釈もある中、ユダヤ神秘主義カバラの解釈より:

カラスは、ネガティブなイメージの象徴でもある。攻撃性、厳しさ、荒さ、思いやりに欠け不親切、無情といったコンセプトと結び付けられる。「カラスのような暗さ」「自分の子供を見捨てる」といった記述が聖書にも。

対して白鳩は、無垢、純粋、誠実、忠誠、愛、平和、といったイメージ。

洪水の後、まず放たれるのはカラス。とてつもない惨事や痛ましい出来事、人生の洪水に見舞われた後、人はまず、カラスになる。疑心暗鬼であたりを見回し、それでも進むために攻撃性と厳しさと荒さを備え、親切であり寛容であってはまた傷ついてしまう、シニカルでいこう、もうあのとてつもない痛みを通りはしないのだ、そう力強く突き進む。

それでも、新しい地に降り立ち、再び世界を築くのは、白鳩。純粋さであり、誠実さであり、愛であり。

カラスで突き進むも、何かを築きあげていくのは、白鳩。このイメージを覚えておきたい。


*世界中でネガティブなイメージにとられるカラス。北米のネイティブ・アメリカンにとっては、「世界の創生主」とされているのも、また面白いです。

唯一の「失敗」とは

2013-09-29 07:13:50 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

究極のところでコーチを信じるということ(‘Take The Shot’by Charlie Harary aish.comを参考に):

 バスケットの試合。最強ライバルを招いてホームタウンで。一点入れられたかと思えば、また一点入れといった大接戦、観客席の盛り上がりもピーク、そこへ試合終了八秒前、相手側のロングシュートが決まる。

タイムアウトを叫ぶコーチ、チーム集まり、何としてでもゴールを!と引き締める。

試合再開、あと八秒。チームメートがボールを手に取り、コーチの指示通り、自分にボールが渡される。ドリブルして相手チームを切り抜けゴールに向かいながら、自分になどできるわけない、ここで失敗したら取り返しがつかない、やってみようか、いや無理に決まってる、そんな思いが駆け巡る。残り三秒、チームメートの一人にパス。

チームメートがボールを放つ、ゴールの丸い枠に当たり・・・、網の外へ。終了の合図。会場はブーイングの嵐。

ロッカールームで、「おまえたちは最善を尽くしたよ、次回取り返そう」、そううなだれるチームに声をかけるコーチ。皆がそれぞれ着替え始める中、コーチに別室へと呼ばれる。

「このゲームの結果がおまえのパスによるところが大きいのは分かってるね。自分にできるわけがないと、自分を信じられないのなら、せめて最後のところで私を信じなさい。私は三十年コーチをしてきている。最後の八秒で何をするべきなのか、よく分かっているつもりだ。」

ロッカールームに座り込む。コーチが自分を信頼してくれたありがたさと、できる限りのことをしなかった自分への後悔と。



自分になんてできるわけない、もっと他にできる人がいる、そんな能力ないし、容姿だって財力だって何をとったって、自分よりできる人や上の人なんていくらだっているし、自分にそんなレベルのことができるわけないじゃないか。心の底で繰り返される言葉。

ユダヤの慣習に、「毎朝の祈り」がある。「こうして再び魂を私に戻して下さり、ありがとうございます(寝ている間に魂は「神」の元に戻っていると信じられている)。あなたの信頼は、とてつもなく偉大なものです。」そう目が覚めるとすぐに、祈る。

「神」は一人一人に、ボールを渡しているという。こうして毎朝目が覚め、この世に日々生かされているということは、大きな信頼を預かっているのだと。究極のコーチが、あなたが行くのだと、あなたがボールをシュートするのだと、毎朝ボールを渡している。そして唯一の「失敗」とは、ゴールに入った入らなかったではなく、できる限りのトライをしなかったということ。

こんな小さな自分にできるわけがない、それでも最後のところでコーチを信じてみる。小さな自分などより、はるかに大きな視野で眺めているコーチを。

与えられたボール、できる限りをし続けたい。

最後の最後のところで委ねる

2013-09-15 03:03:54 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

 ユダヤ暦の新年が終わり迎えるハイホリデー「ヨムキッパー」。ユダヤでは「神」が降りて来る時とされる。断食し、罪を告白し、改める。


(Charlie Harary氏のクリップ、aish.comを参考に)

・「ヨム・キッパー」では、断食し祈り、自らの過ち・失敗を書き連ね、祈る。ずらりと並ぶ告白。そんなこと「神」は気にするだろうか。こんな小さな人間の小さな罪の一つ一つを? それは「神」との関係作りであるとされる。弱さ・失敗・だめだめなところをさらけだし、どうよりよくなっていくかと見てもらう。

 本当の関係は、いいところだけ見せていたって築けやしない。弱さを、だめなところをさらけ出し共に超えていくことで、より深い結びつきが生まれる。


・何日か降り続いた雨も止み、気持ちのいい天気。目を輝かせ土いじりをして遊ぶ五歳児。父親が玄関から「出かけるけれど行きたいなら準備しなさい」「うん、一緒に行きたい!」五分後同じ格好で土いじり。「あと十五分したら出かけるから、行きたいのなら準備しなさい」「分かった!」五分後まだ土いじり。「もうあと十分で行くよ」五分後まだ土に向かう。ようやく最後の五分になって、どろどろのまま家の中に入り、準備を始める息子。

手も顔も足もシャツもズボンもどろどろ。五分でとても準備できる様子じゃない。「もうとても間に合わないようだね。もうお父さんは行かなきゃならないからね」
涙目で「準備するから!お父さんと一緒に行きたいの!」「無理だよ」「どうしても行きたいの」「でもこれじゃあ」「お父さん、きれいにするの手伝って・・・」

久しぶりの天気、土の上を流れる水は輝き、様々な形に変わる泥、水を堰き止め、流れを変え、泥団子作り、穴を掘り。まぶしく輝く目で遊び続け。頭で言葉で「準備を始めないと」と分かっていても、まだまだ五歳、なかなか難しいもの。

「『神』が裁きに来るとされる日」、過ち・失敗を書き出し、自分がいかに汚いか、きれいにしようとしてもどれほど汚いか、自分はなんてだめなんだろうと落ち込み、私には一緒に行く資格などないのだとしゃがみ込み。

「どうぞきれいにするのを手伝ってください・・・」そう投げ出してみる。最後の最後のところで、そう委ねる

「神」とはそんな存在。


・”A righteous man falls 7 times and gets up” 「正しい人は七回転び起きる。」(トラより)

「正しい人も転ぶことがある」ではなく、「正しい人は七回転び」。正しい人でも失敗・過ちを必ずするということ。それでも立ち上がり続ける。また始める

新年が何度もあるというのもいいね

2013-09-08 09:24:41 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

 一昨夜はユダヤ暦の新年。りんごに蜂蜜をつけていただく。ジューシーでスイートな年になりますように!と願いをこめて。「ユダヤ暦に、グレゴリオ暦に、旧暦に、新年がいっぱいあるというのもいいね、何度も気持ちを新たにできて」と長女。(笑)


(Charlie Harary氏のクリップ、aish.comを参考に)

・ああ裁かれる or 愛

ユダヤの新年は、その九日後の「ヨム・キッパー(Yom Kippur)」、「神」が降りてくる「裁きの日」の準備の時ともされる。戒律にのっとり何日もかけこの裁きの日のために準備する。

あるビジネスマンが「君の子はまだ小さいから幸せだね」と話しかけてき、ため息をつく。日程が詰まり出張続きで飛行機を乗り継ぎやっと束の間自宅に戻ると、テキスティングしながらネットのゲームに目を向けイヤフォンを流れる音楽に夢中のティーンの息子が、顔を少しだけ父の方に向けまたゲームに戻る。廊下を歩きながら、その息子が友人と話している声が耳に入る。「ああ嫌になるよ、またあれしろこれしろってうるさいのが帰ってきた。」

何のためにこうしてがむしゃらに働いてきたのか。この子のために家族のためにのはずなのに・・・。

幼い時は、家に戻れば、両手をひろげ満面の笑みで、「パパ~!」と駆け寄ってきたものだった。嬉しさが全身に溢れ。

そう嘆くビジネスマン。


しなきゃいけない、やらされる、裁かれる、そう迎え入れるのか。出会えた喜びに溢れ、両手を広げ抱きつくのか。フォーカスをどこへ。幼い子のピュアさを思い出す。



いつ「偶像崇拝」になるか
 
 生活していくために必要なもの、それを得るために様々な葛藤や困難にぶち当たりつつも、ようやく手に入れ、ああ嬉しいなあ、よ~しもっともっと手に入れてやる、ふ~やったぞ! ああ幸せだなあ、それもっともっと! そしていつしか、それを手に入れることが目的となったとき。

 それを手に入れることではなく、それを手に入れる過程で成長していくことが、本来の目的だったはずだと思い出す。

罪の意識を昇華するということ

2013-09-01 08:24:15 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。

罪の意識を昇華するということ(“The Art of Transformation”By YY Jacobsonを参考に):
 
 ユダヤの新年は毎年九月頃(ユダヤ暦に則っているので現在世界各国で用いられるグレゴリオ暦では毎年ずれる)。新年の祝い「ロシュ・ハシャナー(Rosh Hashana)」では、海や川などの水に贖罪を流す「タシリー(Tashlich)」と呼ばれる風習がある。水を前に祈り、パンの屑を流す。

その九日後には、「ヨム・キッパー(Yom Kippur)」という「悔い改めの日、裁きの日」。二十五時間断食。

その五日後から「スコット(Skott)」。「スッカ」という四方を板で囲われ天井を枝などで覆われた小さな小屋のようなものが建てられ、天候が許すならその中で一週間ほど寝起きする。

この新年の一連の流れは、「畏敬(awe)による悔い改め」と「愛による悔い改め」を象徴しているとされる。

それはちょうど聖書にある「左手で押し、右手(利き手)で抱える」ということでもあると。

畏敬による悔い改め」では、必ずしも罰を恐れるといったことでなく、より高く正しいものに対する畏敬の念を基にした悔い改め。これが断食を伴う「ヨムキッパー」に当たる。そして、「畏敬による悔い改め」により、犯された罪は、例えそれが意図的で悪意に基づいたものであったとしても、「過ち(mistake)」に変わる。「過ち」という許される部類の罪に。

愛による悔い改め」は、周り、自分、天に対する「愛」を基にした悔い改め。これが屋外で食べ眠る「スッカ」に当たる。そして「愛による悔い改め」により、犯された罪は、「善行(Mitzvah)」に変わる。


つまづき、失敗し、罪を犯したことがない人などいやしないだろう。一瞬たりとも他人に、自分に、天に嘘をついたことのない人などいるだろうか。

それでももし「愛によって悔い改める」のならば、それらの一つ一つの罪も一つ一つの辛い痛みの時も、「善行」になると。それら罪や痛みの一つ一つが、人としての存在に幅をもたせ、他者に対するより深い理解をもたらし、「神や天」とのより強く近い結びつきをもたらすと。


あるラビはどんな人にも善を見つけられると評判だった。「ヨムキッパー」の日、礼拝に向かう途中、ユダヤの戒律をことごとく破り反抗的と評判の男に会う。断食日にむしゃむしゃと公で食べている。そしてラビに言った、「ラビ、この俺に良いところなんて見つけられる?」ラビは答える「あなたがうらやましいよ」「そりゃそうだよね、お腹ぺこぺこのところこんな思いっきり食べられたらとうらやましいだろうね」「いや違いますよ。あなたには溢れんばかりの善行を手に入れられる可能性があるからです!」

ある王の持つダイヤモンドに傷がついてしまった。台無しだと嘆く王。ある人が私はそれを直すことができますと進み出る。ダイヤモンドを花の形に削り、傷の部分を茎の形に作り変えた。傷はそのままだけれど、今は目の覚めるような美しい花の土台となっている。失敗、痛み、罪とは、この茎のようなものだと。

新年「ロシュハシャナー」で水に流した罪、「スコット」では、司祭が川や海の水を集め祭壇にかけるという儀式がある。それは水に流した罪を、再び集め取り戻すという意味でもある。それらを「善行」へと変えるために。


溢れんばかりに犯してきた罪・失敗、そして痛み、一つ一つを集め、一つ一つに向きあい、トランスフォームしていけたら、そう思いつつ。

金銀まぶしい器とみすぼらしい器

2013-08-25 07:39:06 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。

想像力・ビジュアル化を用いて(“Using visualizations” The Shmuz, by R’Ben Tzion Shafierを参考に):

インスパイヤーされ、新鮮な感覚に溢れ、よしっ!とやる気みなぎり、それでもしばらくすると、インスピレーションはフェードアウト、当時の感覚も色あせ、やる気なえ、その情報に触れる前に元通り。

どうしたらインスパイヤーされた瞬間の、あのビビッドな感覚を維持できるのか? あのやる気溢れた勢いをキープできるのか?

 モーセがユダヤの人々に言った、「今日、ハシェム(神)は全ての像と法を成し遂げなさいと命じた。(Today, Hashem has commanded you to fulfill all of the statues and laws)『トラ』or『旧約聖書』より
 この「今日」という言葉、「毎日、まるで今日命じられたかのように捉えるように」ということを意味しているとされる。(Rashiによる解釈)

毎日今日この瞬間に出会ったようなビビッドさを保つ、それには「想像力」を用いるのだと。小説を読み、映画を見、本当ではないと知りながらも、まるで実際に今ここで体験しているかのように嬉しくなったり涙を流したりするように、人には想像力というものが与えられている。想像力を用いてその瞬間をビジュアル化してみる、まるで今ここで全く同じ体験をしているかのように、初めてその情報に出会ったあの時のように。想像力を用い、ありありと自分をその場におき続ける、それがインスピレーションを維持する術と。

そんな話をしていると、長男が春に市の陸上競技会に出たときのことを話し始める。大会の前、コーチが選手全員を一部屋に集め、皆を床に仰向けに寝転ばせ電気を消し、自分が「勝った」時の様子をビジュアル化させるということをしたと。ゴールし高々と両手を挙げ喜ぶ姿、走って勢い良く遠くまで飛びガッツポーズを決める姿、まるで今実際に自分が体験しているかのようにありありとイメージさせていったと。

こうして与えられている「想像力」、うまく用いていけるといいね、そんな話をしました。


「金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏に」について(Why Do the Rich Get Richer and the Poor Get Poorer? By YY Jacobsonwを参考に):
この言葉は、19世紀に政治家に用いられもした言い回しといった説明がWikipediaに載っているけれど、オリジンは「タルムード」(15世紀編纂))とされる。

祭壇への供え用に祭司にフルーツを盛ったバスケットを渡す際のこと。金持ちは金銀でできた立派なバスケットに盛り、フルーツだけを渡しバスケットは持ち帰る。貧乏人は、破れかけた柳(willow)で編んだバスケットに盛り、そのままバスケットごと渡す。金持ちは器を自分のものとしてキープし続け、貧乏人は器ごと全て手放し続ける。そこにこの言葉の由来があると。

この言葉の背景には、重要な示唆が含まれているとされる。

まぶしく立派な器、みすぼらしくくたびれた器、それは人々の器を表していると。華やかで輝かしく向上心みなぎりインスピレーションに溢れ、一方、みすぼらしくくたびれやる気も無くインスピレーションも感じることなく。

それでも、器ごと祭司の手に渡り、「神」と一体となるのは、結局は金持ちの器ではなく、貧乏人の器なのだと。

なぜなら、そこに「エゴ」がないから。

目の覚めるような素晴らしい器、しっかり自分のものとしてキープし、ますます磨こう、ますます立派にぴかぴかにして、対し、こんな小さく弱くみすぼらしい私、もうまるごとどうぞ。

気持ちがダウンしやる気もせず、インスピレーションも感じないとき、それは自身を器ごと全部差し出せる時でもある。

器を磨く、それは、自分のものとするためなのか、それとも差し出すためなのか、見つめていきたいです。

「人生において唯一の障害とは」

2013-08-18 06:18:06 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。

そうすれば、全てはそれ自身でどうにかなっていく

アメリカンフットボールチーム「レイブン」の大ファンMatthew Jeffers氏がチームに送った手紙より。大学で演劇を学ぶ氏によるクリップメール原文はこちら

要約:
人生についての、ちょっとした秘密をシェアさせて下さい。人生は三回負け続けようが四回勝ち続けようがお構いなしです。どんなに勝ちたかろうが、どんなに勝つ必要があろうが、人生は知ったこっちゃないのです。人生とは、結局は単純に、不公平(unfair)なのです。

私は21歳で127センチしかありません。これまでに20回手術を繰り返してきました。気管切開、輸血、おしりにギブスをつけて歩くことをもう一度学ぶ必要もありました
。2003年に最後の手術をし、ようやく心臓の痛みから解放され、これでやっと終わったんだと思っていたところ、2011年に母が脳腫瘍と診断されました。そしてこの手紙を書いている今、医師達は母をホスピスへ移すかどうかの最終的な決断を迫られています。

自分の持てるほんの一握りのものを差し出そうとしても、こうして失ったものばかり。これがフェアと言えますか?

私たちは痛みの溢れる世界に生きています。それについて何の疑問もありません。それでも、私にこのことを伝えさせてください。人生の唯一の障害(disability)とは、「悪しき態度(bad attitude)」なのです。もう一度言います、人生の唯一の障害とは・・・、悪しき態度なのです。ポジティブな態度は、人生の不幸にとって、最も強力な戦力です。

それが私の秘密の武器です、戦い、生き残り、勝つための意志。そして私は、まあうまくやってきたのだと思います。

日曜日の試合では、どうぞ、勝とうとしたり、批判を鎮めようとしたり、誰かが間違っていると証明しようとしたり、負け続きの劇を終わらせようとしないで下さい。人生とは、ただ「正しい見地」(right outlook)によって克服されるのだという、シンプルで強力な理解に専念してください。

約束します。そうすれば、すべてはそれ自身でどうにかなっていくのだと。


日々、100の恵み(blessings)を思い出すこちらの映像より
ユダヤの伝統には、1日に100の恵みに感謝を捧げるというものがあるそう。このクリップには、以下のような言葉が、分かりやすい映像と共に綴られています。

食事について文句を言う人もいれば、ただ食べられることに幸せな人もいる
キャリアに不満を持つ人もいれば、ただ働けることにハッピーな人もいる
自分の容姿にハッピーじゃない人もいれば、体があることに感謝する人もいる
家事について文句を言う人もいれば、家がせめてあることを喜ぶ人もいる
配偶者の小言にうんざりする人もいれば、まだ相手が周りにいるということに幸せを感じる人もいる
子供にフラストレーションの溜まる人もいれば、子供に少しでも会えたことを喜ぶ人もいる
友人を妬む人もいれば、運は様々な形でやってくると知っている人もいる
天気について文句を言う人もいれば、今日という日を迎えられることを喜ぶ人もいる
物の値段に苛立つ人もいれば、最も大きな楽しみはお金がかからないものから得られると知っている人もいる
もっと人気者だったらと望む人もいれば、既に周りに大切な人々がいることに感謝する人もいる
自分は敗北者だと感じる人もいれば、人生はアップダウンの連続だと知っている人もいる



子供たちと共に、「人生の唯一の障害」、態度・姿勢を整えていくこと、「日々恵みを数えてみること」、思い出していきたいです。

その時、どう謙虚であれるか?

2013-08-11 05:52:19 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


・「裁くなかれ」について
(Shoftim, Taste of text by Chana Weiseberg & “What you do not know?” by Yanki Tauber, The Scroll August 1013より)

裁判には、検察官と弁護士が必要。容疑者がいかに悪かを証明する側と、容疑者のよき部分や止むを得ずそうなってしまった事情などを明らかにしていく側。

この力関係は、一人一人の内にも当てはめられる。もし、相手の悪いところしか見えないのならば、その人について何らかの判断を下すところにはいない。

そして、「Do not judge your fellow until you have reached his place. “その人の場所”に至るまで、その人をジャッジするべきではない」(『トラ』より)という言葉にあるように、例え、検察&弁護といった相対する力関係の中で、その相手が社会的に良くない行為行動をしたといった判断を下したとしても、その相手の全存在までを判断することはできない。

“その人の場所”とはその人の中心、つまり「車輪の中心」、そこでは、あなたはその人でもあり、その人はあなたでもある。

人付き合いの中で、覚えておきたいこと。



・リーダーとは?
(“The Most Powerful Person; The Most Humble Person” by YY Jacobson & “If I were a Rich Man” by R’ Ben Tzion Shafierより)
「My heart is empty within me. 私の心は私の内に空である」とダビデ王が言うように(詩篇より)、セルフレスであり、完全に仕える者こそがリーダー。

王(リーダー)を敬い王に仕えることを義務とする『トラ』。同時に王に対する警告も様々記されている。名誉(honor)・権力(power)・富(wealth)が、いかにリーダーがリーダーたる資質を失わせるものであり得るかと。

リーダーは、名誉・権力・富、何一つとして、彼/彼女(リーダー)自身によるものでないと常に思い出す必要があると。それには自分がどこから来てどこへ行くのかを常に思い出すこと。全ては過ぎ去っていく。あっという間に。今日自分の名前が賞賛とともに歌われたとしても、明日は忘れられているもの。

そして名誉・権力・富の中でも、「富」が最も危険とされる。「富」を得ることで、自分は何でもできる、一人で生きていけると思い込んでしまうため。どんな立派な王であったとしても、このチャレンジほど難しいことはないと。そしてこれは、現代の物質溢れる世界の一人一人にあてはまるチャレンジでもあると。

必要なものは自分で手に入れることができる、自分は自立独立している、誰の世話になる必要もないという思い。同時に、自分には何のコントロールもないと思い出し続けること。

「自分がしている」と思い始めるとき、リーダーはリーダーでなくなる。「リーダーでないリーダー」が司るなら、カオス。逆に、「私の心は私の内に空である」という真のリーダーが司る
とき、そのリーダーに仕える者皆も「私の心は私の内に空である」となり、永久に繁栄し続けると。


将来、あなた達も、何らかの名誉・権力・富を手に入れることもあるかもしれない。それが例え小さなものであっても大きなものであっても、その時、どう謙虚であれるか? そんな話を子供たちと。

長女:例え自分が好きなように色々なものを買えて、好きなように暮らせたとしても、自分が生きて死んで、そういったことを自分自身では何にもコントロールできないと思い出してみる。

長男:お金を全く持たずに過ごす日を作ってみる。欲しいもの何も、ドリンクの一つさえも手に入れられないという状態に時々自分を置いてみる。

そんなアイデアを出していました。

もぐもぐと、そのきらめきを引継いで

2013-08-04 05:36:51 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

・二別れ蹄と反芻

ユダヤでは、何を食べ何を食べないかということが決められていて、「食べる」とされるものを「コッシャー」と呼ぶ。

森羅万象「神」に与えられた「きらめき(spark)」を宿していて、それを「食べる」という行為は、それらの「きらめき」を引き継ぎ生かすということ、そんな世界観
が「コッシャー」の背景にある。

例えば、魚がなぜコッシャーかについては、以前にも書いたことがあるけれど、この日は、
1.「反芻する習性」
2.「二つに分かれた蹄」
をもつ哺乳類がなぜコッシャーか?について話し合ってみた:

牛・ヤギ・羊・ガゼルは1.2共に持つので「食べる」。馬やロバは両方とも欠き、豚は2をもつけれど1を欠き、らくだは1をもっているけれど2を欠いているため「食べない」。

1.「反芻する習性」
 一旦呑み込み、また口の中に戻して、何度も何度もくちゃくちゃと噛み、また呑み込み、また戻して噛み、また呑み込みと繰り返す「反芻」。
考え方、姿勢、感性、癖など、一度身につけておしまい、ということではなく、見直し、磨き、より良きものへと鍛え続けていくということの象徴。

2.「二つに分かれた蹄」
蹄は「動き」を司る。動くということは、常に「善」と「悪」といった二分かれした選択をしていくということを象徴している。

じゃあね、豚は、反芻はしないけど、人の嫌がるゴミを積極的に口にして満足している。海老や蟹などの甲殻類(コッシャーでない)は、頑丈な鎧をまとって、ちょっとやそっと外から攻撃されようがびくともしない。そういうのはどうかなあ。

そんな話にも。

日本に育ち、山のもの海のものありがたくいただくことが自然と感じる私にとって、コッシャーはやはり異文化ですが、こうして一つ一つの意味を知ることはインスパイヤリングです。

「きらめき」を引き継ぎ生かす、そんなことを意識して食事をしていると、確かに目の前の見慣れた食事も、また違って見えてきます。他の命を口にすることでこうして生かされているということを、しみじみ思い出し。

普段ついつい忙しくしていると、何でもかんでも周りにあるもの口にしておしまい、といった自分を見直しつつ、「いただきます」。



・誰の言葉を信じるのか

預言者、理想を掲げる者の中には、真に奇跡を起こすことができる者がいる。それでも、いかにその奇跡が真実であろうと、もしその者が、「さあ、これでよく分かっただろう、あなたがまだ見知らぬ他の神を信じ崇めにいこう」、そう言うのなら、その者の言うことを聞いてはならない。それは、すべての心をもって、すべての魂をもって、あなた自身の神を愛せるかどうかを知るための、テストなのです。(Deuteronomy 13: 2-4『トラ』より)

海面を赤色に変えたり、飢饉や疫病をもたらしたり、海を開いたり、病を治したり、奇跡を起こせる者は確かにいる。それでも、その者の言うことを信じるか信じないかという時、それら奇跡の大きさは問題ではない。その者が、「あなたの神を信ぜよ」というのなら、その者を信じられると。

私自身、いわゆる奇跡というものを目の当たりにしたことがありますが、確かに、と感じる言葉です。

相手の心を射抜く言葉とは?

2013-07-21 03:11:09 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

子供時代受けた授業の中で、一つ一つの言葉が今でも心に残っているものがある。

同じ内容だとしても、心に残る場合と、右から左へさらりと流れ残らない場合がある、それはなぜだろう? 

食い入るように見つめる子供たちの目、この子達の心を射抜き、その心に深く刻まれる言葉とはどういったものなのだろう?

今、こうして子供たちを前にし、そんなことを考えたりする。

(以下、“How Do We Inspire Our Children?” By Y.Y.Jacobson, July 27 2009を参考に。)


それらの問いへのヒントに、ヘブライ語の"veshenantam levanecha"と"vlemadetem levanecha"がある。共に「教育」を意味する言葉。後者がより一般的に用いられる言葉であるけれど、ユダヤの聖典『トラ』では、教師に対して主要なプリンシプルを教えるための言葉として、前者が用いられている。

前者は、「力持ち(mighty man)が放つ鋭い矢のように」聞き手の心を射抜き、心と魂をもって腐敗することなく保たれ(preserve)、実行される(implement)教えを意味する。

後者は、耳のみに入り、すぐに捨てられるだろうコミュニケーションを意味する。

そして、前者と後者の違いとは、「その言葉が来る場所(the “location” where the words are coming)」に依ると言う。

もしその言葉が教師自身の心に存在するなら、それらの言葉は心から心へと進み、聞き手の心に届く。力持ちが弓を引き、より弓が自分の側にしなえばしなうほど、矢が遠く力強く飛んでいくように。

それでももし外に出されるものが、心の奥深くにせき止められた(stem)ものでないのなら、それは「口と口(mouth to mouth)」だけのコミュニケーションとなり、それらの言葉は聞き手の耳に進み、外側に留まり、実りを生み出すことがない。


アイスクリームが欲しいと叫ぶ子供達、母親が「だめ!」と言い、それでも一時間近く駄々をこね、泣きわめき、最後にほとほと疲れ果てた母親、アイスクリームを子供達の前に差し出す。

次の日同じ親子がスーパーで。「これが食べたい!」と子供が戸棚から食品を取り、母親に差し出す。パッケージを眺め、「これはコッシャー(ユダヤで食べて良いと決められている食べ物)じゃないからだめよ」と言う。すぐにあきらめる子供。

同じ子供が、なぜ? 

子供は感じ取ることができるため。

その言葉がその言葉を放った相手のどこから来ているのか。三週間前に「子供達にヘルシーな食事を!」教室で習ったものなのか、何代もかけ受け継がれ話し手の
心の底にその存在と関わるほど深く根ざしたものなのか、感じることができるため。



これは本当にその通りだなあと感じます。

どこかで聞きかじり、そのまま耳から耳へと伝えている言葉なのか、

自らの心の底に熟成し、心の奥深くから発する言葉なのか、

子供はすぐに察知できる。

冒頭にあるような、子供時代から今でも心に残っている授業や言葉というのは、やはり話し手の心の底に熟成されたもの。教科書をなぞって与えられたノルマをこなす
だけでなく、それらの知識がその先生の内面で練られ熟成され、パッションと共に力強く放たれたものが、子供達の心を射抜く。

記事には、ユダヤがいくつもの試練を越え何千年もの間生き残ってきたのも、この二つの「教育」の違いを区別し、ユダヤのプリンシプルを伝える師一人一人が、教え子に放つ言葉の力を意識してきたためとある。


自分が深くインスパイヤーされていないのならば、相手をインスパイヤーなどできやしない。

自分が深く抱き、反芻し、熟成させ、そんな言葉でないのならば、相手の心に残ることもない。

相手の心の奥深くに残り、実りをもたらす言葉を放っていけたら、

子供達と接する毎日、思い出していきたいです。