ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)
美と実質について(”Substance Vs. Beauty” By Rabbi YY Jacobsonを参考に):
先週に引き続き、ジョセフの夢の話。今回はまた少し違った角度から。
兄達にエジプトへと奴隷に売られ、ジョセフを慕う雇い主の妻により、無実の罪で何年も牢に閉じ込められることになったジョセフ。ある日、夢の解釈ができるという噂を聞きつけたファラオに呼ばれ王宮へ。(『トラ』より)
『トラ』では、まずファラオの夢の内容として、「見かけ麗しく美しく健やかなる頑丈な七頭の牛が川から上がり、続いて、醜い病み痩せこけた七頭の牛が川から上がる」と描写されている。その後、ファラオ自身がジョセフに夢の内容を伝える場面で、「健やかなる頑丈な見かけ麗しく美しい七頭の牛が川から上がり、続いて、病み痩せこけた醜い七頭の牛が川から上がる」とファラオが話したとされている。
二度繰り返される夢の描写の中で、牛を形容する言葉の「順序」が異なっている。それはなぜか?
『トラ』についての文献には、本当に小さく細かく見えることにも、何千年もの間、様々な賢者が議論し見解を示した記録が載っている。ユダヤにとって『トラ』とはその存在の中心、どんな細部にも意味があり、何らかの象徴的メッセージが隠されているとされるため。
また『トラ』を広義に捉えると、『人生の書』ともされ、「人生そのもの」が『トラ』であるという見方がされることもある。文献の『トラ』に向き合う姿勢を、「人生そのもの」である周りへ、今この目の前への事象へと向けてみる。するとどんな日常の細部からも、学ぶべきことが浮かび上がってくる。
『トラ』に触れることで、私が学んでいるのは、『トラ』の内容自体だけでなく、そんな周りへの視線、今目の前のことへと向き合う姿勢でもあるのかもしれません。
と、話はそれましたが、この七頭の牛を形容する言葉の順序について。この「順序の違い」は何を表しているのか?
1.美(見かけ麗しく美しい)、そして実質(健やかで頑丈)
2.実質(健やかで頑丈)、そして美(見かけ麗しく美しい)
『トラ』や『タルムード』には、この「美」と「実質」についての議論が、いくつか記されている。
脂ののったうっとりするほどの肉と、引き締まり贅肉なく痩せた健やかなる肉、どちらのヤギの肉を買うべきか?
答えは後者。
バビロニア時代の賢者二人。一人はより狭い範囲の中で深く鋭くインスピレーショナルで驚くべき考察をする、もう一人は広い範囲に渡って知識を持っている。どちらが勝っているか?
答えは後者。教えを請うどんな人にも地に足の着いた妥当で適切な言葉をかけられるため。
こうした「美」と「実質」の関係は、ユダヤの特性をよく表している。「実質」は必ず「美」の前に来る必要がある。「美」は必ず「実質」を伴わなければならない。
スピリッチュアル的には、こう説明される。
「美」カバナ: 瞑想、インスピレーショナルな衝撃、霊的でセンセーショナルな体験、エクスタシー、感覚、香り、雰囲気
「実質」マイサ: 善い行い、儀礼儀式、慣習、律、習慣
モーセに手渡されたとされる『トラ』。『トラ』以前は、「美」のみが存在していた。十戒や613の善行(Mitzvot)が記された『トラ』は、その「美」に「実質」である「乗り物」を与えたのだと。
ここで、先の七頭の牛について。
まず、ジョセフは『トラ』の中で唯一「美しい」と形容された男性(女性は何人かいる)。その「見かけのゴージャスさ、麗しさ」が何箇所かに記されている。同時に、ジョセフは「見かけ」以上に「実質」を持っていたされる。「見かけの美」はその実質の表れに過ぎないと。ジョセフは、「見かけの美」と「実質」の両者を持った象徴的存在。
ファラオがジョセフを前にした時、そのジョセフが「体現するもの」に触れ、言葉の順序を変えたという説明が、何千年にも渡る議論の中での「一つの解釈」(Yosef Rozinというラビによる)。
強烈な「美」を前にすると、ついくらくらうっとりとそこに留まってしまいがちなのですが、こつこつと形にし続けていきたいです。
パッと目を惹く「美」、次から次へと周りに溢れる「見かけの美」に惑わされ、「美」のみを追い求めるのでなく、「実質」に目を向けよう、「実質」をしっかりと磨いていこう、「美」は、それらの乗り物にのってにじみ出る、子供達とそんな話をしました。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)
美と実質について(”Substance Vs. Beauty” By Rabbi YY Jacobsonを参考に):
先週に引き続き、ジョセフの夢の話。今回はまた少し違った角度から。
兄達にエジプトへと奴隷に売られ、ジョセフを慕う雇い主の妻により、無実の罪で何年も牢に閉じ込められることになったジョセフ。ある日、夢の解釈ができるという噂を聞きつけたファラオに呼ばれ王宮へ。(『トラ』より)
『トラ』では、まずファラオの夢の内容として、「見かけ麗しく美しく健やかなる頑丈な七頭の牛が川から上がり、続いて、醜い病み痩せこけた七頭の牛が川から上がる」と描写されている。その後、ファラオ自身がジョセフに夢の内容を伝える場面で、「健やかなる頑丈な見かけ麗しく美しい七頭の牛が川から上がり、続いて、病み痩せこけた醜い七頭の牛が川から上がる」とファラオが話したとされている。
二度繰り返される夢の描写の中で、牛を形容する言葉の「順序」が異なっている。それはなぜか?
『トラ』についての文献には、本当に小さく細かく見えることにも、何千年もの間、様々な賢者が議論し見解を示した記録が載っている。ユダヤにとって『トラ』とはその存在の中心、どんな細部にも意味があり、何らかの象徴的メッセージが隠されているとされるため。
また『トラ』を広義に捉えると、『人生の書』ともされ、「人生そのもの」が『トラ』であるという見方がされることもある。文献の『トラ』に向き合う姿勢を、「人生そのもの」である周りへ、今この目の前への事象へと向けてみる。するとどんな日常の細部からも、学ぶべきことが浮かび上がってくる。
『トラ』に触れることで、私が学んでいるのは、『トラ』の内容自体だけでなく、そんな周りへの視線、今目の前のことへと向き合う姿勢でもあるのかもしれません。
と、話はそれましたが、この七頭の牛を形容する言葉の順序について。この「順序の違い」は何を表しているのか?
1.美(見かけ麗しく美しい)、そして実質(健やかで頑丈)
2.実質(健やかで頑丈)、そして美(見かけ麗しく美しい)
『トラ』や『タルムード』には、この「美」と「実質」についての議論が、いくつか記されている。
脂ののったうっとりするほどの肉と、引き締まり贅肉なく痩せた健やかなる肉、どちらのヤギの肉を買うべきか?
答えは後者。
バビロニア時代の賢者二人。一人はより狭い範囲の中で深く鋭くインスピレーショナルで驚くべき考察をする、もう一人は広い範囲に渡って知識を持っている。どちらが勝っているか?
答えは後者。教えを請うどんな人にも地に足の着いた妥当で適切な言葉をかけられるため。
こうした「美」と「実質」の関係は、ユダヤの特性をよく表している。「実質」は必ず「美」の前に来る必要がある。「美」は必ず「実質」を伴わなければならない。
スピリッチュアル的には、こう説明される。
「美」カバナ: 瞑想、インスピレーショナルな衝撃、霊的でセンセーショナルな体験、エクスタシー、感覚、香り、雰囲気
「実質」マイサ: 善い行い、儀礼儀式、慣習、律、習慣
モーセに手渡されたとされる『トラ』。『トラ』以前は、「美」のみが存在していた。十戒や613の善行(Mitzvot)が記された『トラ』は、その「美」に「実質」である「乗り物」を与えたのだと。
ここで、先の七頭の牛について。
まず、ジョセフは『トラ』の中で唯一「美しい」と形容された男性(女性は何人かいる)。その「見かけのゴージャスさ、麗しさ」が何箇所かに記されている。同時に、ジョセフは「見かけ」以上に「実質」を持っていたされる。「見かけの美」はその実質の表れに過ぎないと。ジョセフは、「見かけの美」と「実質」の両者を持った象徴的存在。
ファラオがジョセフを前にした時、そのジョセフが「体現するもの」に触れ、言葉の順序を変えたという説明が、何千年にも渡る議論の中での「一つの解釈」(Yosef Rozinというラビによる)。
強烈な「美」を前にすると、ついくらくらうっとりとそこに留まってしまいがちなのですが、こつこつと形にし続けていきたいです。
パッと目を惹く「美」、次から次へと周りに溢れる「見かけの美」に惑わされ、「美」のみを追い求めるのでなく、「実質」に目を向けよう、「実質」をしっかりと磨いていこう、「美」は、それらの乗り物にのってにじみ出る、子供達とそんな話をしました。