靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

自身にとっての「真」と共にあり続けるということ

2014-01-12 08:02:12 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

共に行くということ (“Ruth and Arpah: A Tale of Two Daughters-In-Law” by YY Jacobsonを参考に):

ユダヤの町JudeaのリーダーだったElimelechは、飢饉になると、自身の富を分け与えることに堪えられず、家族でモアブ(Moav)という町へ移る。リーダーとしての責任を逃れ、家族でひっそりゆったりと暮らすという願いをかなえたElimelechは、やがて亡くなり、妻のナオミと二人の息子が残される。二人の息子はモアブ人の王室の娘二人と結婚。十年して二人の息子共に亡くなる。ナオミと義理の娘二人アルパとルースが残される。

ナオミはJudeaに戻ることを決意。旅の途中、二人の義理の娘に、あなたのオリジンに戻りなさい、あなたの母の元へ帰りなさいと説得。ナオミを慕う二人は泣き叫んで拒否。あなた達はまだ若いのだから新しい夫に嫁ぎまた新しく家族を始めなさいと諭すナオミ。泣き喚いて拒否。私の子宮にはもう赤子はいない、あなた方の夫になる子供はもういないのです、そして例え今から子供を育てたとしてもその子達が大きくなるまであなたがたは待てるはずがない。そう「三度」、モアブへ戻るよう話す。

アルパは承諾し、泣きながらナオミにキスし去る。ルースは言う、「あなたがどこへ行かれようと、私は行きます。あなたが住まれるところに、私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神。あなたが死ぬ地で私も死にます、そしてそこに葬られるのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」そしてナオミと共にJudeaへ。
『トラ』より

(ユダヤ教では、改宗したいという者に対し「三度」断ると決められており、それはこのシーンからの学びだとされる。)

当時、モアブは退廃した町として知られていた。快楽を追い求め偶像崇拝に浸る人々に溢れていたと。十年ナオミの家で暮らし、アルパもルースも全く違う暮らし方があるのだと体験し、知り、その新しい価値観や慣習を讃え感謝し愛していた。だからこそナオミをそれほどまで慕い。

それでもナオミは今では財産も何ももっておらず、貧しい暮らし。それはJudeaに戻っても同じこと。一方、モアブの実家に戻るのならば、アルパもルースも何不自由ない恵まれた暮らしができる。

アルパは戻ることを選び、ルースは共に行くことを選んだ。


ルースはJudeaで裕福な裁判官のボアズに嫁ぎ後に王となるダビデの祖母となる。アルパはナオミから離れたその晩に百人の男と関係し、その後嫁ぎ四人の巨人を産む。三番目の子がゴライア。少年ダビデと無敵の強さで人々を震撼させたゴライアは対峙し、ダビデが投げた石の額への一撃でゴライアは崩れ落ちる。『トラ』より

(こちらで子供向け物語などでもよく聞く「ダビデとゴライア」にそんな関係があったとは驚きでした)。

 何らかの「真」に触れたと心の底から感じ、深いインスピレーションにこれが私の進む方向だと確信し。それでも「本当にこれでいいの?戻った方がいいよ」と思わされる試練は、幾度となくある。それでもその一つ一つの試練を越えることが、その道を行くために必要な覚悟と決意を鍛える。

 そして進む過程で表に表れる美やロマンスだけでなく、それらを支える犠牲やハードワークや努力にも同じように「喜び」を見出しているか。美やロマンスだけを見ているのならば、根のない草花のように、少しの風で宙に舞う。「ナオミ」というのはヘブライ語で「スイート」という意味を持つ。「スイート」な面だけを見ていていたのか、それを支える見えない部分をも見ていたか。

 アルパは、ナオミから去った後の空虚さをどんなことをしても埋めることができず(「百人の男」という極端な行動に走るも)、その「空しさ」を次世代へと渡し、憎しみの塊ゴライアを産むことになる。ゴライアは母が触れたにも関わらず背を向けた「真」を心の奥に受け継いでいたからこそ、あれほどの強烈な憎悪の塊になったと。強い愛が強い憎しみを生むように。


触れてまでも、まだ元に戻ろうとするのか? 自身に問いかけていきたいです。

前に広がる「喜び」の圧倒的な大きさを思うなら、軽やかに踏み出せます。共に前へ。


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