靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

踊り、空白に、繋がる

2014-02-16 08:20:57 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

文字と空白部分と(”The Ink Left In the Quill” by YY Jacobsonを参考に):

モーセがシナイ山から二つのタブレット(トラ)を持って下りてきた時、「コラン」が見えたという。ヘブライ語は同じ言葉でも違う意味を持つことがあり、この「コラン」は一般に「角」と訳されてきた。

ミケランジェロによるものなど、古くからモーセを表した多くの彫刻や絵にも、「角」が表されたものがある。

それでも、これは「角」ではなく、「頭部から光が放たれていた状態」を表していたとユダヤの世界では言われている。

では、この「頭部から光が放たれていた状態」とは何を意味しているのだろう

モーセは、「二度」二つのタブレットを持ってシナイ山から下りてきた。「頭部から光が放たれていた状態」とは、二度目にシナイ山から下りて来た時のこととされている。

一度目のタブレットは、四十日間山の中で、「神」から直接『トラ』の内容を習い、一語一語書き記していった。そして山を下り見つけたのが、ユダヤの民が「金の牛」という偶像を、「神」として崇め拝する様子。この時、タブレットから一語一語飛び去り、タブレットは地面に叩きつけられ壊される。

こうして『トラ』は粉々となり、一旦人々は、『トラ』との関係を失った。ちなみに、『トラ』の一文字一文字は、一人一人の魂と繋がっているとされている。

そして、モーセは「許しを請う」ため、シナイ山に再び上る。四十日間、どうかユダヤの民を許して欲しいと、叫び、嘆き、議論し、自分はどうなってもいいからどうにか彼らを助けて下さいと。「神」は、一度目とは異なる『トラ』を授ける。

一度目と二度目では、『トラ』と人々との関係は、違ったものになっていた。

この時与えられ、現代まで受け継がれている二度目の『トラ』は、二つの部分からなっている。

1.インクで記される文字
2.文字の周りを囲む空白部分
 

文字部分は必ず四方を空白で囲まれていなければならないという決まりがある。

そして

1のインクで書かれた文字部分は、人々の意識、言葉や形で表される部分と繋がりを持ち、

2の空白部分は、人々の無意識の領域、奥深くにある言葉や意識を超えた部分との繋がりを持つとされる。



モーセは羽のペンにインクをつけ、「神」の言葉を書き記していく。そして全て書き終わると、残っていたインクを、頭にふりかける。この「残ったインク」は、『トラ』の「空白部分」を表し、それが、「頭部からの光」となったとされる。

一度目には与えられず、二度目に与えられたこの「空白部分」、『トラ』との新しい関係、それが「光」となって周りを照らしたと。

『トラ』とは広義には、「人生の知恵」とされる。「文字で表される部分」「意識でとらえられる部分」だけでなく、「空白部分」を感じてみる。そのサイレンスに、潜ってみる。


『トラ』は読むだけでなく、トラを抱え共に踊る儀式などもある。踊ることで、この「空白部分」に繋がると。

旋律に身をゆだね、感じてみる。

言葉を超え、沈黙に、空白に、繋がる。

このイメージを覚えておきたいです。


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