靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

山へ上らないという境界

2014-01-19 13:00:22 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


「山へ上らないという境界」について、三つの解釈(“Borders Built of Roses” By Rabbi Y.Y. Jacobsonを参考に):

モーセがシナイ山に上ると、神が言う。「人々の間に、ここからはこの山を上ってはいけないという境界を設けなさい。どんな人も動物もその端に触れるのならば、生きてはいられない。」
そしてモーセは十戒(『トラ』)を受け取る。
神はもう一度言う。「山を下りて人々に告げなさい、山へ上ってはならないと。多くの『神に仕える者』(priests)達が境界を越え主へと上り寄ろうとするだろう。境界を越えてはいけないと伝えなさい。」モーセは答える。「あなたはもう既におっしゃったじゃないですか、シナイ山へ上らないよう境界を設け聖別(sanctify)するようにと。ですから人々は上るはずがありませんよ。」神は言う、「下りなさい、そして人々に伝えるのです。」そこで、モーセは山を下り人々に告げた。
(Yisro 19:12『トラ』)

この箇所について、何千年も議論がされている。境界を設けるとはどういうことなのか? なぜ「神」は二度も同じことをモーセに言ったのか?

ここでは三人のラビ(18世紀―20世紀)による解釈を。それぞれの解釈に理解のエッセンスと学びがある。


一.「バラによって作られる境界」が与えられたということ。

「境界」には二種類ある。
1.物理的な境界。明らかに目に見え、具体的で触ることのできる境界。
2.目に見えることなく抽象的メタフィジカルな境界。


1は動物でもぶつかり前に進むことができないが、2は理解しない動物や子供はやすやすと越えられる。「神」が一度目に言った「境界」とは1を指し(端に触れるなら動物でも生きていられない)、二度目のは2の境界を指している。

2とは、1のように明らかな罰があるわけではない。越えるならばこうなるといった恐怖を脅かすものでもない。『トラ』(広義には「人生の知恵」)を受け取った後の境界とは、2を指している。

2とは、「バラやユリの花で作られた境界」(Song of Songs 7:3『トラ』)とされるもの。その美しさその香りに、踏みにじりたくないと心の中に芽生える繊細さのようなもの。それは正義、公平さ、一人一人の尊厳、理想、夢であり。自身の真を大切にし、より理想に近い自分の人格を傷つけず、より高い自分に嘘をつかない、より高い魂を妥協しないというようなこと。

罰せられるからではなく、踏みにじりたくないという繊細さにより、境界を越えない。

『トラ』を受け取ることにより、人々が与えられたのは、こうした「バラによって作られた境界」。



二.一瞬一瞬自らに「境界」を問うことが大切だということ

動物も自然も、あらゆる存在は「法則」によって規則正しく動き続けている。ただ「人間の心」だけがパターンを越えた選択の幅を持っている。その複雑な「人の心」の指針となるのが『トラ』とされる。トラを受け取り、モーセは言う「神よあなたはもう既に境界を越えるなとおっしゃったじゃないですか、だから人々はもう越えるわけがないのです」と。それでも「神」は繰り返す、「越えてはならないと告げなさい」と。

『トラ』を受け取ったのだから、人生の知恵を知ったのだから、自分達はもう「善き人々」になったというわけではない、一瞬一瞬の選択の繰り返しの大切さを、「神」は教えようとしていたということ。



三.肉体や物質を置き去りにして「上る」のではなく、肉体や物質的世界にこそ、天を下ろしてくるのだということ。

『トラ』を与えられ、「神」にキスしようと山を駆け上ろうとする人々が増えるだろう。「山に上る」とは、世俗を離れ、聖域へと足を踏み入れることを象徴的に表した言葉。

「山へ上るな」とは、世俗に留まるということ。世俗の中に、『トラ』(人生の深い知恵)のエッセンスを実現していくということ。

『トラ』(人生の深い知恵)に触れ、二つの流れができる:
1.何時どのように祈り何時何をどのように食べ何時何をどのようにしと戒律に細密忠実に従い、自分達は境界をしっかりと守っているとする流れ。
2.瞑想、祈り、エクスタシー、センセーションなど形なきものを追い求め、物理的な境界を置き去りに、山を駆け上ろうとする流れ。

1と2を重ねる。物理的な境界を大切にしつつ、祈りを、「神」に触れる喜びを、世俗に、日常に行き渡らせていく。


結婚式で、壇上に上がるための階段の幅が狭く、誰が先に行くべきかと話し合いになる。あなたにはより多くの弟子がいるのだから先に、いやあなたの方が高齢なのだからあなたが先に。そこへ一人が言う、階段のないところから上りましょう。大切なのは結婚の祝いなのであり、こういう時は柔軟に壁(階段を上るという決まり)を突き抜けていきましょう。そこへ一人が言う「壁(決まり・境界)を突き抜けるのではない、ドアを広げ、ドアを通るのです。階段を継ぎ足して広くしましょう」

境界を越え突き進むのではなく、この世俗物質世界の境界の中に現実的な変化を起こしていくということ。




一.バラを踏みにじらない繊細さ、二。一瞬一瞬の自身を見つめていくこと、三、肉体・物質面と心面を共に大切に、心の奥深くにある「山」を形に実現していくということ、心に留めていきます。


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