靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

「靴を脱いで渡す」という交換方法

2014-01-05 07:27:53 | ファミリーディナートピック

お金や物を超え「大切なもの」を見出すこと(“Why Do the Highest Souls End Up Sometimes In the Lowest Places?”を参考に):

何かを手に入れるための手段といえば、お金で買う、物々交換などがあるけれど、その昔、ユダヤの慣習では、「靴を脱いで渡す」というものがあったそう。
それはあまりにも不釣合いに見える取引に用いられた。あの家を手に入れたい、靴を脱いで渡す、あの食器が必要、靴を脱いで渡すといったように。

「靴」は、ユダヤ神秘主義カバラでは、地上的な汚れや危険から身を守るもの、また、地上と魂を隔てるもの、つまり目に見える物質的なものと永遠に続くものを隔てるものと捉えられる。そして「聖なる場」では「靴を脱ぐ」ことになっている。そこではもう「靴」など必要でなく、地上の物質的なるものと、永遠に続くものが一体となる。

また夫が亡くなると、その夫の兄弟に嫁ぐのが善行(mitzvah)とされる慣習がユダヤにはあり、もしそれができないならば、その兄弟が特別な「靴」を履き、その未亡人が脱がすという儀礼がされた。兄弟に嫁ぐことがよしとされるのは、兄弟と未亡人の間にできる子供が、亡くなった夫の魂を生かすことになるためとされ、それができないならば、未亡人が「靴を脱がす」ことにより、亡き夫の魂が地上的な縛りから放たれると信じられていた。

交換の際「靴を脱ぐ」とは、目に見える物質的な「はかり」を超えた場を作り出すことを意味する。地上的な縛りを解き、お金や物には代えられない「大切なもの」を見出す場。それは、関係、愛、友情、家族、子孫、未来の世界、魂などであるかもしれない。あの家はあの食器は、確かに物質的にはこれほどの価値だろう、それでも、その交換によって生み出される「大切なもの」を見ていこうという姿勢。

ルースと結婚しないかと申し込まれる男二人。一人は、自分のような立派で地位もあり金持ちで人気のある者が、ルースのような生まれもユダヤでなく(改宗者)、貧乏で、不人気な女と一緒になるわけがないと断る。もう一人のボアズ(Boaz)は、裁判官で世間的にもう一人の男と同じようではあったが、「靴を脱いで渡し」、ルースと一緒になった。そうしてルースとボアズの間に生まれたのが、後にユダヤを救うことになるダビデ王だった。(『トラ』より)

チャーチルは言う「資本主義は富を不平等に分配することになり、共産主義は惨めさを(misery)を平等に分配することになった。」



ユダヤには、「低いところへ、高い魂が送り込まれる」といった考え方がある。魂は殻に覆われており、その魂(神性)が崇高であればあるほど、幾層もの悪しき殻に包まれている場合があるという。なぜなら、殻が存在するには中心の魂(神性)の力が必要であり、より厚く悪しき殻が生を受けるには、より強い魂(神性)が必要となるため。そして、その悪しき殻を破り神性を引き出すのに必要なのが、より悪しき苦しく汚い「低きところ」。「低きところ」から悪しき殻を突き抜け放たれる神性は、殻を破る必要もほとんど無く善き美しき「高きところ」から放たれるものとは、比べものにならないほど、とてつもない力を持つことがある。

宝石商と泥棒が同じ宿に泊まることに。宝石商に気をつけるようにと注意する知人。宝石商は高価な宝石を全て隠し寝床に。案の定、その泥棒は宝石商が寝入ったと思いきや、起き上がり、宝石を探し始める。部屋中隅々、宝石商の衣服や布団まで探すも、見つからずとうとう明け方になって諦める。宝石はどこに隠されてあったか? 泥棒のカバンの中。唯一泥棒が探さなかったところ。


大切なものは、最も予期しなかったところにある場合がある。それは自分の内でもあるのかもしれない。

お金や物や世間的な上下の価値を超えたところにある「大切なもの」を見てみること、「靴を脱いでみる」、子供達とそんな話をした夜でした。


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