戦後は吉田茂首相で幕が開き、自民党の歴代の首相は小物という印象が強い。
ところが、昨日見たNHKの番組で初めて知った。
素晴らしい政治家がいたことを初めて知った。
そこで、改めて調べてみた。
石橋湛山:
1884年9月25日、京都府生まれ。
早稲田大学卒業後の1911年、東洋経済新報社に入社。
支那事変が勃発してから敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて、長期戦化を戒める論陣を張った。署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリストたち(清沢洌など)にも、同誌は匿名での論説の場を提供した。石橋や匿名執筆者の論調は、常に冷静な分析に基づいており、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する、といった物であったため、同誌は政府・内務省から常に廃刊の標的にされ、インクや紙の配給を大きく制限されながらも、『改造』や『中央公論』のような、政府によって廃刊される事を免れた。
戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、自由党から総選挙に出馬して落選したが、第1次吉田茂内閣では大蔵大臣として入閣した。
大蔵大臣在任時には、デフレーションを制えるためのインフレーションを進め、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や、復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進した。
しかし、戦後補償打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題などでGHQと対立。
進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて日本の国家予算の3分の1を占めていた。
このあまりの巨額の負担を下げる様、石橋は要求した。
アメリカは諸外国の評判を気にしたことと、以後の統治をスムーズに進行させることを考慮し、日本の負担額を2割削減することにした。
戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は、国民から心臓大臣と呼ばれるも、アメリカに嫌われ、1947年にGHQの公職追放令により公職を追放された。
1951年に追放が解除された後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山一郎派の幹部として、打倒吉田内閣に動いた。
1954年の第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。
石橋は中華人民共和国、ソビエト社会主義共和国連邦との国交回復などを主張し、国民の期待も高かったが、アメリカの猛反発を受ける。
アメリカのダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。
このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言い放った。1
955年11月、日中輸出入組合の結成を支援し中共との貿易が軌道に乗るようになる。
同年11月15日の保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田を継承した緒方竹虎の自由党が合同して、自由民主党が結成され、石橋もこれに入党した。
総理に就任した頃1956年10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年12月、鳩山首相が引退。
これを受けて、アメリカ追従を主張する岸信介が総裁選に立候補、これに対し石橋は、社会主義圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。
総裁選の当初は、岸優位であったが、石井光次郎と二位・三位連合を組んだ。
1回目の投票では岸が一位であったが、決選投票では、石橋派参謀の石田博英の功績もあって、岸に7票差で競り勝って総裁に当選、内閣総理大臣に指名された。
親中派でもある石橋政権の樹立によって日本を反共の砦としたいアメリカのアイゼンハワー大統領は岸を望んでいたために狼狽した。
しかし内閣発足直後に真冬にも関わらず、積極的に有権者の話を聞くべく各地を回ったために、肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候がある事が判明。
「私の政治的良心に従います」として僅2ヶ月で辞職した。石橋はかつて『東洋経済新報』(現・『週刊東洋経済』)において、暴漢に襲われて帝国議会への出席ができなくなった当時の浜口雄幸首相に対して、退陣を勧告する社説を書いたことがあった。
もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を騙く事態になる、と考えたのである。
すぐに親米派の岸が総理の座につき、岸は中共を正当な国家と認めず、アメリカに追従したため中共との貿易は断絶。
1959年9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であるため日本政府とは一切関係ないものとする」と言われながらも中共を訪問。
政府の一員ではない石橋は、訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処はつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談を実現させた。
冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張。この主張は、まだ国連の代表権を持たない中共にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束。
「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。
1960年、中共との貿易が再開した。この声明が後に第1次田中角榮内閣での日中共同声明に繋がったともいわれる。
その後も、少人数ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には批判的な態度をとるなど、自民党内鳩派の重鎮として活躍したが、1963年の総選挙で落選し、そのまま政界から退いた。
政界を引退すると、立正大学の学長も務めた。
こんな政治家が今いてほしい。
ところが、昨日見たNHKの番組で初めて知った。
素晴らしい政治家がいたことを初めて知った。
そこで、改めて調べてみた。
石橋湛山:
1884年9月25日、京都府生まれ。
早稲田大学卒業後の1911年、東洋経済新報社に入社。
支那事変が勃発してから敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて、長期戦化を戒める論陣を張った。署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリストたち(清沢洌など)にも、同誌は匿名での論説の場を提供した。石橋や匿名執筆者の論調は、常に冷静な分析に基づいており、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する、といった物であったため、同誌は政府・内務省から常に廃刊の標的にされ、インクや紙の配給を大きく制限されながらも、『改造』や『中央公論』のような、政府によって廃刊される事を免れた。
戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、自由党から総選挙に出馬して落選したが、第1次吉田茂内閣では大蔵大臣として入閣した。
大蔵大臣在任時には、デフレーションを制えるためのインフレーションを進め、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や、復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進した。
しかし、戦後補償打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題などでGHQと対立。
進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて日本の国家予算の3分の1を占めていた。
このあまりの巨額の負担を下げる様、石橋は要求した。
アメリカは諸外国の評判を気にしたことと、以後の統治をスムーズに進行させることを考慮し、日本の負担額を2割削減することにした。
戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は、国民から心臓大臣と呼ばれるも、アメリカに嫌われ、1947年にGHQの公職追放令により公職を追放された。
1951年に追放が解除された後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山一郎派の幹部として、打倒吉田内閣に動いた。
1954年の第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。
石橋は中華人民共和国、ソビエト社会主義共和国連邦との国交回復などを主張し、国民の期待も高かったが、アメリカの猛反発を受ける。
アメリカのダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。
このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言い放った。1
955年11月、日中輸出入組合の結成を支援し中共との貿易が軌道に乗るようになる。
同年11月15日の保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田を継承した緒方竹虎の自由党が合同して、自由民主党が結成され、石橋もこれに入党した。
総理に就任した頃1956年10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年12月、鳩山首相が引退。
これを受けて、アメリカ追従を主張する岸信介が総裁選に立候補、これに対し石橋は、社会主義圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。
総裁選の当初は、岸優位であったが、石井光次郎と二位・三位連合を組んだ。
1回目の投票では岸が一位であったが、決選投票では、石橋派参謀の石田博英の功績もあって、岸に7票差で競り勝って総裁に当選、内閣総理大臣に指名された。
親中派でもある石橋政権の樹立によって日本を反共の砦としたいアメリカのアイゼンハワー大統領は岸を望んでいたために狼狽した。
しかし内閣発足直後に真冬にも関わらず、積極的に有権者の話を聞くべく各地を回ったために、肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候がある事が判明。
「私の政治的良心に従います」として僅2ヶ月で辞職した。石橋はかつて『東洋経済新報』(現・『週刊東洋経済』)において、暴漢に襲われて帝国議会への出席ができなくなった当時の浜口雄幸首相に対して、退陣を勧告する社説を書いたことがあった。
もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を騙く事態になる、と考えたのである。
すぐに親米派の岸が総理の座につき、岸は中共を正当な国家と認めず、アメリカに追従したため中共との貿易は断絶。
1959年9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であるため日本政府とは一切関係ないものとする」と言われながらも中共を訪問。
政府の一員ではない石橋は、訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処はつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談を実現させた。
冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張。この主張は、まだ国連の代表権を持たない中共にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束。
「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。
1960年、中共との貿易が再開した。この声明が後に第1次田中角榮内閣での日中共同声明に繋がったともいわれる。
その後も、少人数ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には批判的な態度をとるなど、自民党内鳩派の重鎮として活躍したが、1963年の総選挙で落選し、そのまま政界から退いた。
政界を引退すると、立正大学の学長も務めた。
こんな政治家が今いてほしい。