猫爺のエッセイ「辞世の時」を整理した。辞世とは、この世を辞するとき、すなわち死ぬ時のことである。
正岡子規や宮沢賢治のように病に苦しみ、若くして死んでいった人、苦しまずに「端然としてご臨終あそばされ」、八十に歳で亡くなった滝沢馬琴も、世を辞した後は平等である。
大富豪の家に生まれ、不自由なく一生を終え、国葬級の葬儀で数千人の参列者に送られようとも、独り寂しく貧しい生涯を送り、ひっそりと亡くなってお骨の引き取り手さえ居ない人であっても、死んだ後は富豪のそれと何ら変わらずに「無」という平等なのである。
どんなに楽しい思い出も、苦しく辛い思い出も、「死に土産」だと言って持って行けるものではない。この「死の平等」こそ、私は「真の平等」だと思っている。
さて、猫爺のエッセイ「辞世の時」は、十五回で止まっている。まだまだ続けて行きたいと思っているのだが、連続小説にかまけてなかなか進まない。小説を書くのが楽しすぎるからである。
このエッセイ十五編に「リンク」を張った。連続小説にも、「次回」にリンクを張るつもりである。
第一回 宮沢賢治
第二回 斉藤茂吉
第三回 松尾芭蕉
第四回 大津皇子
第五回 井原西鶴
第六回 親鸞上人
第七回 滝沢馬琴
第八回 楠木正行
第九回 種田山頭火
第十回 夏目漱石
第十一回 十返舎一九
第十二回 正岡子規
第十三回 浅野内匠頭
第十四回 平敦盛
第十五回 良寛禅師
正岡子規や宮沢賢治のように病に苦しみ、若くして死んでいった人、苦しまずに「端然としてご臨終あそばされ」、八十に歳で亡くなった滝沢馬琴も、世を辞した後は平等である。
大富豪の家に生まれ、不自由なく一生を終え、国葬級の葬儀で数千人の参列者に送られようとも、独り寂しく貧しい生涯を送り、ひっそりと亡くなってお骨の引き取り手さえ居ない人であっても、死んだ後は富豪のそれと何ら変わらずに「無」という平等なのである。
どんなに楽しい思い出も、苦しく辛い思い出も、「死に土産」だと言って持って行けるものではない。この「死の平等」こそ、私は「真の平等」だと思っている。
さて、猫爺のエッセイ「辞世の時」は、十五回で止まっている。まだまだ続けて行きたいと思っているのだが、連続小説にかまけてなかなか進まない。小説を書くのが楽しすぎるからである。
このエッセイ十五編に「リンク」を張った。連続小説にも、「次回」にリンクを張るつもりである。
第一回 宮沢賢治
第二回 斉藤茂吉
第三回 松尾芭蕉
第四回 大津皇子
第五回 井原西鶴
第六回 親鸞上人
第七回 滝沢馬琴
第八回 楠木正行
第九回 種田山頭火
第十回 夏目漱石
第十一回 十返舎一九
第十二回 正岡子規
第十三回 浅野内匠頭
第十四回 平敦盛
第十五回 良寛禅師