雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「辞世の時」 第五回 井原西鶴

2014-01-12 | エッセイ
 井原西鶴は、著書「日本永代蔵」の中で「死光り」という言葉を使っている。 これは、子孫に財宝を残し、尊敬されて立派な葬儀で送られた者のことを言っているのだ。 実在した人では「鴻池善右衛門」、「紀伊国屋文左衛門」、近年では「松下幸之助」のような人々を指すのであろう。 井原西鶴自身も、金銀財宝に劣らないものを後世に残している。 前述の作品のほか、「好色一代男」などの作品の数々である。 然るに、西鶴自身も「死光り」である。

 井原西鶴は大阪の裕福な商人の家庭に生まれ、若くして俳人として名をあげている。 その後、妻の死をきっかけに商人の現役を離れ、頭髪を剃り、俳諧師として、また浮世草子作家として活躍している。

 西鶴は51才の折りに後妻を亡くし、翌年52才で世を去っている。 辞世の句として

   ◆人間(じんかん)五十年の究まり それさへ我にはあまりたるに ましてや浮き世の月、見過しにけり末二年

 人間の平均寿命は五十年と言われている。 それさえ自分には長いと思われるのに、もう二年も過ぎて五十二才になってしまった。

 謡曲「敦盛」のなかに、下のような文句がある。

   ◆人間(じんかん)五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 

 下天とは神の住むところ。 人間の一生である五十年は、下天の一日であり、夢うつつのごとく過ぎ去る。 そんな意味であろうか。 ここで言う人間(じんかん)とは、仏教の輪廻六道(天道、人道、修羅道、畜生道、地獄道)のうちの人道に居ることができる平均年数が、五十年だと言っているのだ。

 これは、猫爺の解釈であり、嘘かも知れません

      (原稿用紙2枚)

第一回 宮沢賢治
第二回 斉藤茂吉
第三回 松尾芭蕉
第四回 大津皇子
第五回 井原西鶴
第六回 親鸞上人
第七回 滝沢馬琴
第八回 楠木正行
第九回 種田山頭火
第十回 夏目漱石
第十一回 十返舎一九
第十二回 正岡子規
第十三回 浅野内匠頭
第十四回 平敦盛
第十五回 良寛禅師


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