雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「冥土の旅の一里塚」

2015-05-17 | エッセイ
 一休宗純の作とされている狂歌に、

   ◇正月や 冥土の旅の 一里塚 めでたきもあり めでたくもなし

 人生を、冥土(死後行き着くところ)への旅として、一里塚は街道一里ごとに立てられた塚を正月(誕生日)に例えている。東海道であれば、江戸日本橋で生まれ、京の三条大橋を冥土に例えている。
 
   ◇門松は 冥土の旅の 一里塚 馬籠もなく とまり屋もなし

 最初の狂歌と同じような意味で、この旅は止まることが出来ないと詠んでいる。

 この二つの狂歌を合わせたような

   ◇門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたきもあり めでたくもなし
 これがよく知られている。(私は、門松は ではなく、門松や と憶えている)

 人は四十代にもなると、人生の半分を使い果たした気持ちになり、昔は正月、今は誕生日がくると「また一つ歳をとるのか」と、お祝いどころか「糞めでたくもない」と憂鬱になる。

 だが、ものは思いようで、「よくここまで、元気で凛として生きてくることが出来たものだ」と考えれば、このうえもなく「めでたい」ではないか。

 あるブログでお偉い方が、自分は「生かされている」と記述されていた。私はその言葉に、ペットを連想して些か違和感を憶えていたのだが、じっくり考えてみると納得できた。

 この宝石のような美しい地球で、水や緑や花や建物に囲まれて、家族や周りの人々に自分は生かされているのだと考えると、貧しくとも幸福感を憶えざるを得ない。

 私ほども歳をくうと、誕生日を祝うことなど考えなくなるが、「祝う」とは、デコレーションケーキに立てきれない程の蝋燭を立てなくとも、例え独りきりであろうと、ちょっと贅沢なお茶と茶菓で、「よくここまで生きて来たな」と、自分を労うだけでもいいのではなかろうか。
 私は一休和尚と違い、人生を「冥土の旅(冥土への旅)」とは考えていない。

   ◇誕生日 脈打つ五体 慰撫しいう 「よくぞここまで 持ち堪えし」と

 かっこつけたりして。