雑文の旅

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猫爺のエッセイ「辞世の時」 第六回 親鸞上人

2014-01-13 | エッセイ
 親鸞は、浄土宗の開祖である法然上人の弟子である。 弟子になったのは29才のときで、師の法然は69才であった。
 法然が浄土宗を開宗するまでは、生前に功徳を積んだものだけが死んで極楽へ行けると言われ、貧乏な百姓などは極楽へは行けないと悩み苦しんでいた。
 法然は、例え功徳は積めなくとも、阿弥陀如来を信じて、身を任せることで極楽へ行けると説いた。 これは折りに付け「南無阿弥陀仏」と、念仏を唱えること(専修念仏)である。 親鸞はこの教えに触れて共感し、法然の「吉水教団」への入門を決意する。

 この後、法然は既存の仏教教団から弾圧を受け、朝廷への中傷や吉水教団の中止を訴えられたが、朝廷はこれを静観し、取り合わなかった。
 しかし、「一念往生義」(念仏を唱えなくとも、阿弥陀如来を信仰するだけで極楽へ行ける)を説いた弟子の行空(ぎょうくう)と、「六時礼讃」(法要などで経を読む)で、美しいメロディーを付けて経を読んだ弟子の遵西(じゅんさい)が非難の的にされた。
 法然はやむなく行空と遵西を破門にすることで収まったが、後鳥羽上皇の留守中に、上皇が寵愛(きゅうあい)する「松虫」と「鈴虫」という側近の女性が、六時礼讃の美声に魅了されて出家を懇願する。 しかも、上皇不在の御所に二人を招き入れ、夜遅くなったからとしてそのまま御所に泊めたとされている。
 これを知った後鳥羽上皇は憤怒(ふんど)して、この二人の弟子と、これに関連する二人の弟子たちを含めた四人を死罪に、法然の専修念仏の停止を決定し、法然以下親鸞を含む七人の弟子たちを流罪(るざい)に処した。

 法然は僧籍を剥奪され讃岐へ、親鸞もまた僧籍を剥奪され越後へ流された。 親鸞はこの地で農家の手伝いをしながら細々と布教活動を行っている。
 やがて法然は赦免され都に戻るが、親鸞がこのことを知ったのは雪深い季節であり、法然に逢いたいが戻るに戻れなかった。
 そうこうしている間に法然が死んでしまう。 この後、親鸞は都に帰らず東国にて布教活動を20年間行っている。 親鸞は法然の教えをそのまま布教しているのだが、親鸞亡きあと弟子たちが教団(浄土真宗)をつくり、極楽往生するには信心だけでよいと説く「一念往生義」が取り入れられている。

 親鸞上人の辞世の短歌(言葉)である。

    ◆我なくも 法は尽きまじ 和歌の浦 あをくさ人の あらん限りは

 私が死んでも和歌の浦の波が寄せては返しまた寄せるように、私もまたこの世に戻ってくる。 苦しむ人、悩む人がこの世に居る限り、仏法は永遠に尽きないだろう。

 享年90才の入滅である。

        (原稿用紙4枚)

第一回 宮沢賢治
第二回 斉藤茂吉
第三回 松尾芭蕉
第四回 大津皇子
第五回 井原西鶴
第六回 親鸞上人
第七回 滝沢馬琴
第八回 楠木正行
第九回 種田山頭火
第十回 夏目漱石
第十一回 十返舎一九
第十二回 正岡子規
第十三回 浅野内匠頭
第十四回 平敦盛
第十五回 良寛禅師


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