雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のエッセイ「辞世の時」 第八回 楠木正行

2014-01-15 | エッセイ
 JR神戸駅のすぐ北側に、南北朝時代の南朝側の武将、楠木正成(くすのきまさしげ)公が祀られた湊川神社(通称なんこうさん)がある。 正成は一貫して南朝の後醍醐天皇に仕え、湊川の戦いで足利尊氏に敗れ弟の正季とともに自害した。 その嫡男「楠木正行(くすのきまさつら)も、父の遺志を継いで南朝に仕え、死を覚悟して四条畷の戦いに赴く。 その際に後醍醐天皇陵のある吉野の如意輪寺の門扉に、矢尻で「辞世の句」を彫った。

   ◆かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる

 戦で使う梓弓(あずさゆみ)の如く、我々も生きて帰ることはないと思うから、亡くなった人の仲間に入る者たちの名前をここに記す。

 如意輪堂(にょいりんどう)の壁板には、正行とその次弟正時ほか一族郎党143名の名前を記し、四条畷の戦いに赴くが、敗れて正行もまた弟の正時と共に自害して果てた。

 唱歌「桜井の別れ」は、父正成が死を覚悟して湊川の合戦に赴く際に、正行もまた父と共に死ぬことを望むが、「生きて南朝方の為に戦ってくれ」と諭す正成と、故郷へ戻っていく正行を歌ったものである。

   ◆青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
    木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
    忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙か はた露か

   ◆正成涙を打ち払い 我子正行呼び寄せて
    父は兵庫へ赴かん 彼方の浦にて討死せん
    いましはここまで来れども とくとく帰れ故郷へ  (以下略)

 南朝は破れ、北朝の御世となり、楠木正成・正行の父子は朝敵の汚名を着て末永く「悪者」扱いされ、正成は湊川の田圃の中の粗末な墓で眠る。
 江戸時代に入って民衆に忘れ去られるが、これを天下の副将軍水戸光圀の知るところとなり、ことの善悪よりも正成の「忠義心」を重くみて、ご老公が「嗚呼忠臣楠氏の墓」の石碑を建てた。 ドラマでは、ご老公が湊川の道端で正成の墓を見つけたことになっていたが、ご老公の諸国漫遊自体が「ウソ」である。

 時代は進み明治になって、南北朝のいずれが正統かと論争が起こり、皇室は南朝が正統とされたことにより「楠木正成・正行」の忠義が讃えられるようになった。 「悪者」から「忠臣」へ、そして湊川神社が建立された。 正成を大楠公と称せられたが、これは「チャングムの誓い」のチャングムが王の主治医になって「大ヂャングム」になったようなものか。(違うか) 息子の正行は小楠公と呼ばれたが、これは「桂米朝」の息子が「小米朝」と名乗ったようなものなのか。(これも違うか) 

 湊川神社は天皇国家を象徴するものとして明治政府が建てた。 正成が言ったとされる「七生報国」は、「七度生まれ変わって国に報いる」意味であるが、これは正成の弟正季(まさすえ)が自害の寸前に言った言葉とされている。 この言葉は太平洋戦争などのおり「国の為に死す」意味で盛んに利用された。

 ところで、正行(まさつら)は、いつ生まれて、何歳の時に父正成(まさしげ)と別れて、何歳で亡くなったのかはっきりしない。 「桜井の別れ」の時は11歳(満9才)だったとか、いや、20歳(満18才)だったとか説があり、こうなると、何もかもが創作みたいな気がしてくる。

   (以上は猫爺の勝手な解釈と想像を含みます)

   (原稿用紙5枚)

第一回 宮沢賢治
第二回 斉藤茂吉
第三回 松尾芭蕉
第四回 大津皇子
第五回 井原西鶴
第六回 親鸞上人
第七回 滝沢馬琴
第八回 楠木正行
第九回 種田山頭火
第十回 夏目漱石
第十一回 十返舎一九
第十二回 正岡子規
第十三回 浅野内匠頭
第十四回 平敦盛
第十五回 良寛禅師


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