雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺の連続小説「能見数馬」 第七回 江戸の名医

2013-06-17 | 長編小説
【能見数馬 第一回 心医】から読む

 数馬が新三郎に尋ねた。
  「新さん、あなた夜中に私の体から抜け出して、姉上の寝所へ行っていませんか?」
  「とんでもない、幽霊になってからは、そっちの方はからっきしダメでござんす」
  「姉が、深夜に天井で物音がして、誰かに節穴から覗かれているような気がする」というのだが、「新さんでないなら、何者だろう」
  「ねずみか、青大将でしょうよ」
  「そんなものが節穴から覗きますか」
  「あっしじゃありませんぜ、あっしには物音なんぞたてられやしません」
  「そうだなぁ」
  「あっしにお任せぐだせぇ、今夜、屋根裏で見張っていましょう」
 何も悩むことはない。新三郎なら簡単に正体を見極めてくれる。持つべきものは、幽霊の友達だと数馬は思った。

 真夜中前に、新三郎は数馬から「すーっ」と抜け出し、千代の寝所の屋根裏に入り込むと、ゆらゆらせずに隅っこで「じーっ」と待った。真夜中になって、大小の黒い塊が何処からか侵入して来た。ムササビの親子であった。ムササビからは新三郎の姿が見えないらしく、警戒することもなく、新三郎のすぐ近くで親がコロンと横になり、子供たちが競っておっぱいに群がった。
  「可愛いものですぜ、人間の棲家ということを弁えているのか、鳴き声もたてずに乳を飲んでいやした」
  「そっとしておいてやりたいが、糞尿が溜まると臭くなるので、出入り口を塞ぐしかない」
 翌日の夕方、数馬が屋根裏に入り、開いていた壁穴を古い金網で塞いだ。そのことを千代に話すと、「流石、数馬」と、褒めてくれた。心の中で、「あっしの手柄ですぜ」と、新三郎が叫んでいた。

 数日後、数馬の母千登勢が実家に戻った際に、千登勢もお付き合いのあるご近所のお屋敷でお嬢様が病の床に就き、医者を呼んだが病名が分からず、医者に「匙をなげられた」話を聞いてきた。

 お嬢様は、食事が喉を通らない所為で段々痩せ衰え、明日をも知れない病状だという。ご両親もまた心労が重なり、方々から医者や祈祷師や占い師を招いたが、やはり原因のわからない病気だと言われて、ただ神に縋る明け暮れだという。
  「新さん、この病何だと思います」
  「それは、お医者の仕事でしょう、幽霊にわかる訳がありませんぜ」
  「そうですねぇ、でもお気の毒です」
  「まてよ、打つ手があるかも知れない、あっしが御嬢さんに憑き、心の中を覗いて参りましょう、病気の手がかりが掴めるかもしれません」
  「それは妙案、明日母上の名代として、お見舞いに行きましょう」
  「ふーっ、若い女に憑ける」
  「何を喜んでいるのですか、新さん本当にそっちの方は、からっきしダメなのですか?」

 翌日、母上の承諾を得てお見舞いに行くことになった。病気の御嬢さんの屋敷を訪ねると、藁をも掴みたい心境の両親が「どうぞ見舞ってやって下さい」と、招き入れてくれた。
  「御嬢さん、私は能見千登勢の次男坊で、数馬と申します、私も医者を目指す者、この手拭の上からで構いませんから、お脈を診させてくださいませんか?」
  「お願いします」と、御嬢さんは蚊の鳴くような声で言った。
  「では、失礼して」と、脈を診ている振りをして固まっている間に、新三郎が「スーッ」と数馬から抜け出て、御嬢さんの中へ入り、暫くして戻ってきた。

  「数馬さん、これは恋煩(こいわずら)いですぜ」
  「なんだ、そうだったのか」
  「好きな男の名前も分かりました」
  「そうか、今からその男を探しに行こう」

 数馬が何やら呟いているので、母親が心配して数馬に声をかけた。
  「なにか、悪い病気なのでございますか?」
  「いえ、この病気は、私に治せるかも知れません」
  「本当でございますか」
  「はい、きっと治して見せましょう」
  「なんと、あれ程探した名医が、こんなにも近くにいらしたなんて」
 妙薬を取ってくると両親に告げると、数馬は屋敷を飛び出して行った。半刻(一時間)程のちに、数馬は若い男を連れて戻ってきた。
 男に訊くと、彼もまた名前しかわからぬ御嬢さんに一目惚れをして悩んでいたのだという。その御嬢さんが自分に恋をして寝込んでいると聞き、急いで掛け付けてきたのだ。男は数馬と同じく武家の冷や飯食いであったが、これが水も滴るよい男で、役者絵から抜け出てきたようであった。(落語・崇徳院のちょいパクリ)

  「御嬢さん私です、お逢いしとうございました」
 人前で、しかも両親が見守るところで、二人は抱き合った。見る見る元気になる娘を見て、両親は唖然としていた。
 御嬢さんは武家のひとり娘、男は旗本の三男坊、話はとんとん拍子に良い方に進むに違いない。
  「これは、心ばかりですが、娘の命を救ってくださったお礼です」と、帰りに小さな紙包みを数馬に持たせてくれた。中に十両もの大金が入っていた。
  「その十両、あっしに貰えませんか」新三郎が数馬の心に話しかけた。
  「幽霊が大金を何に使うのですか」
  「はい、実は私の屍が、鵜沼の山深くに打ち捨てられています、体の骨は狼に持っていかれてありませんが、頭骨だけが草に埋もれています」
  「それを拾いに行くのですね」
  「はい、数馬さんの屋敷裏にでも埋葬してほしいのです」
  「間もなく藩学が夏休みに入ります、鵜沼へ行きましょう」
 数馬は、両親に旅の途中で倒れた親友の骨を拾いに行くのだと打ち明け、旅の許しを乞うた。数馬は、長旅は生まれて初めてである。鵜沼宿は今の岐阜県である。しかし、我が新三郎の為である。尻込みしている場合ではない。旅慣れした新三郎が憑いていることだし何とかなるだろうと、父親の篤之進が止めるのも聞かず、一人旅に出立した。

 お江戸日本橋を出て、中山道を行くと、六十九次の五十二番目の宿が鵜沼である。序に記すと、中仙道、木曽街道、または木曾海道と呼び名は違うが、いずれも中山道のことである。起伏の激しい街道なので、若い数馬でも時にはへこたれることもあるが、そこは先を急ぐ旅でもないので、中山道を旅慣れた新三郎に身を任せ、のんびりと旅を楽しんだ。

 幽霊の新三郎もまた、数馬の目を通して昼間の風景をみることが出来るので、大のおとなとは思えないはしゃぎようであった。
  「前から美人がきやしたぜ」
  「顔を見てはいけませんぜ」
  「振り返ってはいけませんぜ」
  「お貴さんが泣きますぜ」
 数馬が煩い新三郎を窘めた。
  「ちっとは黙っていて下さいよ」
  「お貴さんが…」
  「お貴さんとは、何でもないのですから」
  「それ、顔が火照った」
 数馬がちょっぴり原をたてた。
  「いったい、誰の為にこんな旅をしているのですか」
  「それは…」
 やっと新三郎が静かになった。この足の早さであれば、往復しても二十日ちょっとだろうと、新三郎は予測していた。
  「ここは、南木曽(なぎそ)馬籠(まごめ)の宿ですが、間もなく美濃の国に入ります」  新三郎の道案内に堂が入って来た頃、鵜沼の宿に着いた。宿を取りゆっくり体を休め、明日の朝から山へ入ることにした。どこかの農家で手向けの花を分けてくれるところがないか、旅籠の女将に尋ねようとしたら、新三郎が遮った。
  「あっしゃ、花なんぞ要りません、酒にしてくだせえ」
 翌朝、女将に訳を話して、塩握りと竹筒に酒を満たして持たせてもらった。
  「数馬さん、これからあっしの骨を拾いに行くのですぜ、なんですかそのウキウキした顔は、まるで子供が袋をぶら下げて栗拾いに行くみたいじゃないですか」
  「いちいちうるさいなあ、新三郎さんは注文が多すぎます」
  「それでも、もう少し神妙な顔つきで出かけて下さいよ」
  「えーっと、これから山へ出かけるのは、誰のためでしたかねえ」
  「はいはい、わかりました、あっしのためです」
 こんな遣り取りを宿の者に聞かれたら、新三郎の声は聞こえないので、数馬はアホみたいみえるだろう。

 山裾のなだらかな斜面に、半分土と草に埋もれた頭骨が見つかった。来る途中、農家に立ち寄り、金を払って穴掘り鍬を借りてきたので、少し広く掘って骨格を探してみた。殆どが野犬か狼に持ち去られて大きな骨はなかったが、ばらばらになった小さな骨を拾い集めて持ってきた袋に入れた。頭骨の土を払って拾い上げ、胸に抱えると生きて元気に走りまわっていた新三郎の体温が感じられ、数馬はハラハラと涙を頭骨の上に落とした。新三郎もまた泣いているらしく、二倍の涙で頭骨が濡れた。
 一旦頭骨を岩の上に置き、酒をかけて涙を洗った。

  「ご苦労様でしたなあ」と、旅籠の女将が労ってくれた。
  「余計なことだったかも知れませんが、お骨を納める桐の箱を用意しておきました」
 箱にお骨を納め、白い布で包み、首から掛けて道中の妨げにならないようにと、女将が気を使ってくれたのだ。
  「ご親族の方ですか?」
  「はい、出来の悪い兄でして、私や両親を散々泣かせた上にこのあり様です」
  「そうでしたか、どんなお人でも、亡くなれば仏様です、大切に弔ってあげてください」
  「ありがとうございます」
  「誰が出来の悪い兄ですか」
 新三郎が文句を言った。
  「誰の為にこんな苦労をして遠くまで…」
  「あ、はいはい、あっしのためです、もーどれだけ恩に着せるのですか」
  「ははは、分かればよろしい」
 江戸を出立して、二十二日目に戻ってきた。経念寺に立ち寄り、十両から旅で四両使ったので残った六両を亮啓に渡し供養を頼んだ。亮啓は快諾し、早速本堂にお骨を置き、経を読んでくれた。数馬には亮啓が一段と僧侶らしくなったと、頼もしく思えるのだった。   「母上、数馬戻りました」
  「おかえりなさい、この塩を体に振り掛けて、お浄めをしなさい」
 数馬は躊躇した。もしや塩を掛けたら新三郎が融けてしまうのではないかと危惧したのだ。
  「あのねえ数馬さん、あっしはナメクジじゃありませんぜ」

    「数馬、日に焼けて随分黒くなりましたね」と、姉の千代。
  「ほんと、男らしいですよ、数馬」と、母上。
  「あのなまっ白いピーヒョロの数馬さんが、こんなに逞しくなったのは、誰のお蔭ですかねえ」と、新三郎。
  「それは、あのー」
  「あのー何ですか?」
  「お日様のお蔭です」


   (江戸の名医・終)   ―続く―  (原稿用紙13枚)


  「リンク」
   「第一回・心医」へ
   「第二回・江戸の探偵」へ
   「第三回 十四歳の占い師」へ
   「第四回 若き霊媒者」へ
   「第五回 父の仇!」へ
   「第六回 二つの魂を持つ男」へ
   「第七回 江戸の名医」へ
   「第八回 幽霊新三」へ
   「第九回 江戸の痴漢」へ
   「第十回 遠山裁き」へ
   「第十一回 数馬、若様になる」へ
   「第十二回 悪霊退散!」へ
   「第十三回 姉の縁談」へ
   「第十四回 墓参り」へ
   「第十五回 父と子」へ
   「第十六回 弟子入志願」へ
   「第十七回 墓荒らし」へ
   「第十八回 暫しの別れ」へ
   「第十九回 新三独り旅」へ
   「第二十回 数馬危うし」へ
   「最終回 数馬よ、やすらかに」へ
  「次のシリーズ 佐貫三太郎」
   「第一回 能見数馬の生まれ変わり?」へ

猫爺の連続小説「能見数馬」 第六回 二つの魂を持つ男

2013-06-17 | 長編小説
【能見数馬 第一回 心医】から読む

 水戸藩江戸上屋敷の藩士、能見篤之進の次男能見数馬が帰宅の途につく早足を遮った男がいた。男は役人らしく、腰に大小の刀の他に、真っ赤な房が付いた十手を差していた。
  「能見数馬どので御座るか」
  「はい、能見数馬ですが」
  「拙者は同心、桧山進八郎と申す」
 数馬が北町奉行に散々頼みごとをするものだから、時には借りを返せと用事を謂いつけに来たのかと数馬は勝手に想像した。
  「よく私が能見数馬だと分かりましたね」
  「いや、声を掛けたのはお主で四人目だ」
  「私がこの刻にこの道を通ることを桧山様にお教えしたのはどなたですか?」
  「伊藤良庵先生のところの松吉でござる」
  「お知り合いですか?」
  「お役目中、眩暈がして倒れ、運び込まれたのが伊藤良庵養生所で、松吉に診てもらった時に故郷の話などをしました」
  「その松吉どのが、どうして私を桧山様に紹介したのでしょうか?」
  「実は拙者、霊媒師を探しておりまして、松吉に話したところ、あなたが高名な霊媒師の御曹司で在らせられると聞きました」
  「違いますよ、松吉のヤツ嘘をつきよったな」
  「嘘でござるか?」
  「嘘ですよ。以前に人助けの為、そんな風に騙ったことが有りましたが…」
  「騙りでも何でも良いですから、是非幽霊に逢ってやって下され」
  「また、幽霊ですか、そんなものはこの世に存在しませんよ」
  「私もそう思っていましたが、今度ばかりはそのお思いが翻りました」
  「へー、面白いかも知れない、お話をお聞きしましょう」
  「聞いて下さるか、有り難い」
 桧山の話を要約するとこうである。街道が山道に差し掛かって間もない場所に、朽ち果てた寺がある。その寺に幽霊がでると近くの村人たちの噂にのぼり、たまたま道を尋ねるために新八郎が村に立ち寄ったところ、腰に差した十手を見て、恐ろしいので調べてほしいと村長(むらおさ)に頼まれたのだった。

 夜が更けて進八郎が寺を見張っていると、やはり村人たちがいうように寺の中から何者かが出てきて、ふわりと空中高く舞い上がると、闇の中へと消えて行ったのだそうである。その出(い)で立ちは、道中合羽に三度笠、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に紺の股引(ももひき)、足に草鞋(わらじ)、腰に長脇差(ながどす)だったらしい。

  「幽霊に十手を突き付けても糠(ぬか)に釘でござる、ここは一度引き下がって霊媒師にお出まし願おうと数馬殿を探しておりました」
  「変な幽霊ですね、草鞋履きだなんて」
  「はい、ふざけた幽霊で、生前はやくざだったようです」
 何にでも興味をもつ数馬のこと、何が出来るか分からないが結局は今夜出かけてみることにした。数馬もまた、借り物の縞の合羽に三度笠をかぶり。

    夜半になって、例の幽霊が姿を現した。道中合羽に三度笠の数馬を見つけると、飛んで来て中腰で右手を差さ出し、掌を上に向け、「お控えなすって」
  「あんさんこそ、お控えなすって」
  「いや、あんさんから…」
 こんなことを何時までやっていても埒(らち)が明かないので、数馬が控えると。「早速のお控え、ありがとうござんす」と、仁義が始まった。
  「手前、生国と発しますのは、信州にござんす。信州と申しましても些か広うござんす。信州は木曾の山裾、木曽川の水で産湯を使い、樵(きこり)の親父の背中をみて育った山猿の新三郎と発します。長じて、木曽川で中乗りをしておりましたことから人呼んで中乗り新三というケチな野郎にござんす」
 数馬も負けじと、
「手前生国は水戸にござんす、水戸に生まれて江戸育ち、墨田の数(かず)と発します」
  「ところで、今夜お見えなすったのは、このあっしに何かご用でござんすか?」
  「この近くの村人が、ここで幽霊を見たと騒いでおりますので、どのような事情であなたがここに滞在されるのか、お話を聞こうと参りました」
  「よくぞお訊きくださった」と、説明が始まった。
 木曽川で中乗りをしていた頃、材木の取引で世話になっていた江戸の材木商木曾屋孫兵衛が、やくざの陰謀にかかり殺害された。店も乗っ取られようとしていると噂を聞き、中乗りの水棹(みざお=筏を操る棹)を長脇差(ながどす)に持ち替え、江戸に出向き、やくざの親分を叩き斬り木曾屋の難を救ったが、凶状持ちになりお上の十手から逃げ回らなければならない旅鴉になった。
 一旦は木曾に戻り、将来を約束していたお蓑の家に匿(かくま)って貰ったが、追手が迫りお蓑に火の粉が降りかかってはならぬと、こっそり木曾の架け橋、太田の渡しを越え、鵜沼まで来たがお蓑が恋しくて鵜沼が立ち難く、もう一日、もう一日と日を延ばしているうちにやくざの子分たちに見つかり、 闇討ちに合ったと語った。

 ここで、中乗り新三のテーマ演歌を・・・

   ▽やくざ渡世の白無垢鉄火、ほんにしがねえ、渡り鳥
    木曾の生まれヨ、中乗り新三、いつか水棹を長脇差…
         (木曽節三度笠より)

 幽霊となったが、いつかはぐれてあの世にも行けず、魂魄(こんぱく)この世にとどまりて、独り彷徨う幽霊旅鴉、人恋しさに村里に来たが、人に嫌われ追い払われて、かくなる上は木曽路に身を潜め、悪霊となって旅人を驚かせてやろうかと…。
  「だめですよ、そんなことになれば、もっと人間に嫌われます」と、数馬は慌てて言った。
  「わかりました、私と一緒に人里へ行きましょう」
 だまって遣り取りを聞いていた桧山進八郎は、数馬の袖を引っ張った。
  「町へ連れて行ってどうするのですか」
  「まあ、私に任せて下さい」と、数馬。
  「知りませんよ、命を取られても」
 言い出したら聞かない数馬である。
  「新三郎さん、私の体に取り憑きつきなさい」
  「いいのですか?魂が二つになりますよ」と、新三郎。
  「これからは、この私の体を棲家となさい」
  「本当にいいのですかねえ」
  「私は一向に構いません、ただし、時は密偵として働いてもらう事があるかも知れません、よろしいですか」
  「はい、喜んで」と、中乗り新三。
  「私は夜中にやることがあります、気が散りますからごじゃごじゃ言わないでくださいよ」
  「はい、それはもう、あっしも男でござんすから、よく弁(わきま)えておりやす」
  「あっしも男とは、何なのですか」
  「それは、あのー、布団の中でゴソゴソと…」
  「違いますよ、勉強です!」
  「数馬殿、耳が真っ赤ですよ」と、蝋燭の火を翳して桧山。
  「さあ、新三郎さん、私の中へ入って下さい、もう夜が更けたので私は帰ります」

 翌朝、何時もの時間に雀の鳴く声を聞いて数馬は目が覚めた。何の違和感も無い。数馬は藩学の帰り道、桧山進八郎に会おうと北町奉行所に立ち寄り、「桧山進八郎さんの居場所を教えて下さい」と、尋ねてみたが、北町奉行所に桧山進八郎という人は居ないということだった。
  「南にもそんな名前の同心はいませんよ」と、尋ねた役人は不思議そうな顔をした。
  「数馬殿、夢でも見ているのでは…」
  「は?夢ですか?そんな筈はないのですが」
 ゆうべ、確かに桧山進八郎という人が待ち受けていて、一緒に朽ち果てた寺に行ったのだが、あんな馬鹿げた幽霊が居る筈もなく、自分の体に憑いた感じもない。やはり夢だったのかと思い直した。

 ある日、数馬が考え事をしながら町を歩いていると、どこからか数馬を呼ぶ声が聞こえた気がした。
  「数馬さん、この先の神社の杜で、若い女がチンピラ男たちに囲まれています」
  「行きましょう、なんとか止めさせることが出来るかも知れない」
 神社の裏山にいってみると、案の定三人の男が娘を押さえつけていた。
  「待ちなさい、今役人を呼びに行かせたので、もう直ぐ飛んできます」
  「なに、役人?ちっ!邪魔が入った」
  「逃げようぜ!」
 チンピラたちは丸くなって逃げ去った。
  「見ればお武家の御嬢さん、大丈夫でしたか」
  「はい、ありがとうございます、祈願をかけ、御百度参りをしていて襲われました」
  「今日は、これで帰りましょう、またあの男たちが襲って来るかも知れません」
  「はい、そうします」
  「お屋敷の近くまで、お送りしましょう」
 帰り道、祈願とはどのような… と、数馬が尋ねると、娘は「父の病が良くならないので」と、心配そうに言った。

 貧乏長屋の入り口で、「あばら家ですので恥ずかしいからここで失礼します」と、娘。
  「明日は、私の知り合いの同心に頼んで男たちを召し取って頂きましょう」
 娘を送り届けると、その足で同心長坂清三郎を訪ねた。
  「数馬さん、一緒に隠れて見張っていましょう、仙一も連れていきます」
 娘が御百度参りを始めると、案の定昨日の三人のチンピラたちが娘を取り囲んだ。娘に猿ぐつわをすると、担いで杜の中へ入っていった。

 今まさに乱暴をしようとした時、長坂が叫んだ。
  「待てー!北町奉行所の者だ、神妙にお縄につけ」
 驚いて逃げようとした男たちの一人に、長坂が取っ組み、投げ飛ばした。二人目は、仙一が習いたての十手術で羽交い絞めにした。三人目は、数馬が手に持った石を、足の踝めがけて投げつけた。三人の男は、数珠つなぎにお縄を受け、近くの番屋まで連れていかれた。
  「これで安心して御百度参りができます」と、娘。
  「そうですね、でもお供をお連れになった方がよろしいかと」
  「まだ、御百度参りが終わっていません」
  「では、お済みになるまで、私がここで見張っていましょう」
  「重ね重ね、ありがとうございます」

 数馬も医者を目指す者、娘の父のご病気が気になるので、会わせてくれないかと言ってみた。娘は父の病気のこととなると、恥も外聞も無い様子だった。
  「はい、お願い致します」
 娘は快諾してくれた。一間しかない長屋の部屋で、浪人は煎餅蒲団に寝かされていた。浪人の名は、新井良太郎、娘の名前はお貴であった。
  「新井様、お脈をとらせていただけませんか」
 数馬は、まだ医者ではありませんがと断って頼んでみた。
  「お願い申す」と、良太郎は痩せた腕を差し出した。さらに、お腹を打診しながら数馬は言った。
  「時々、たくさん血を吐かれましょう?」
 良太郎はこっくりと頷いた。お貴も、「それはもう」と、心配そうに言った。そして、数馬に訊き返した。
  「労咳でしょうか?」
  「まだ、医者には一度も診て貰っていないのですか?」
  「はい、父が拒みますので」
どうやら、娘にお金の心配をさせたくないのであろう。
  「労咳ではありません、胃の腑が爛れているようです、放置していると胃の腑に穴が開きます」
 現在で言う胃潰瘍であった。
  「この病は養生次第で治ります、小石川養生所で受け入れて貰えるか、私から問うてみましょう」
 もし、患者がいっぱいで待たなければならないのであれば、伊藤良庵の養生所に数馬の出世払いで頼んでみようと数馬は思った。
 とにかく、早く治療しなければ命に係るのだ。運よく、お奉行の耳にいれて置いたのが功を奏したのか、お奉行が口添えしてくれたらしく、小石川養生所の承諾が得られた。

 翌日、駕籠を差し向け、新井良太郎を小石川養生所に連れて行った。やはり、数馬の見立ては当たっていた。而もその原因は、娘に苦労をかけることに対する心労から来るものらしかった。
  「新井様、もう心配は要りません、娘さんには、暫くここで介護をして頂くそうです」
 数馬が、ここはお金が掛かりませんから安心してしっかり養生して下さいよ、と言うと気の所為か新井良太郎の目が潤んだように見えた。
  「新三郎さん、良いことをしましたね」
  「もう一つ、数馬さんに伝えることがあります」
  「何でしょう?」
  「数馬さんは、お貴さんに惚れてしまいます」
  「ん?そんな事が分かるのですか?」
  「あっしは、色恋沙汰では場数を踏んでおりやす」
  「へー、なんか、嫌なやつ」
  「まあ、そう言いなさんな、今にお役に立つときがきますぜ」
  「ところで、桧山進八郎さんはどうしたのですか?」
 気になって訊いてみた。
  「あの同心は信州のお役人さんで、あっしの成仏を気にかけてくれていました」
  「それで、新三郎さんが私に憑いたことで安心して帰ってしまわれたのですね」
  「本当は、凶状持ちのあっしを捕えるお役をお奉行から命じられていたようですが、あっしに同情して、わざと逃がしてくれました」

 やはり、あの変な出来事は夢ではなかった。あの日以来、「独り言の数馬」と異名をとるようになってしまった。
  「年寄りになったみたいで嫌だなあ」と、思ったが、新三郎の人の良さが快かった。数ヶ月後、数馬がお貴さんに会いに行くと、新井良太郎の病気は改善していて、爽やかな笑顔で迎えてくれた。新三郎の言う通り、数馬の胸がキュンとなったが、抑えて何事も無かったように別れてきた。

 新三郎は、何もかもお見通しの様子であった。

   (二つの魂を持つ男・終)  ―続く―   (原稿用紙17枚)


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猫爺の連続小説「能見数馬」 第五回 父の仇!

2013-06-17 | 長編小説
【能見数馬 第一回 心医】から読む

 白装束に白鉢巻、仇討ち姿の男女が能見家の門前に立った。女は十七・八歳、男は十歳前後だろうか、キリリと結んだ襷と腰に差した二本差しが凛々しい。

  「当家の数馬様は只今外出中ですが…」
  「それでは、門前にて待たせて戴きましょう」
 奥に下がった伝兵衛は、この家の内儀に伝えた。
  「何かの間違いでしょう。いくら道場で褒められたとは言え、数馬は一度も真剣を腰に差したことがありません。仇討の助太刀など無理というものです」と、言いながら、「わたくしがお話を伺いましょう」と、台所に立っていた内儀が前掛けを外して門口まで出て来た。
  「わたくしは数馬の母、千登勢です。お二人はどちらから参られましたか?」
  「はい、陸奥は越後長岡藩から参りました。わたくしは、長岡藩士加藤大介が一子雪と申します。こちらは弟の小太郎でございます」
  「それはまた遠方からご苦労様です。数馬にどのような御用でしょうか」
  「父の仇にございます。数馬どのが越後に武者修行に参られたおりに、卑怯にも父の背後から不意打ちで斬り付けました」
  「お待ち下さい。数馬はまだ塾生の身、而も真剣さえも握ったことのない十四歳の若造です。武者修行になど出かける訳がありません」
  「ですが、わたくしは父の苦しい息の下から、江戸から来た能見数馬の不意打ちに合ったと、はっきり聞きました」
  「それはおかしいですね、数馬は一度も長旅は致しておりません、数馬は医者を目指しており、寧ろ武道にあまり興味がありませんが」
  「それも、数馬殿から直に聞きましょう」
  「間もなく、数馬は藩学から戻ります。数馬がそのような男で無いことは一目みれば分かると存じます。くれぐれも冷静に見てやって下さい」
  「分かりました。待たせて頂きます」
  「どうぞ、座敷にお上がりになって、お寛ぎ下さい」
  「いえ、ここで待たせて頂きます」
 四半刻の後、数馬が帰ってくると、門前で刀の柄に手をかけて「キッ」と自分を睨み付けている二人が目に入った。
  「能見数馬どのですか」
  「左様、数馬ですが、どなた様です?」
  「わたくし共は、越後長岡藩士、加藤大介の一子雪です」
  「同じく、弟の小太郎です」
  「そのように遠方のお方々が、私に何の御用でしょうか」
  「黙まれ能見数馬、父の仇、尋常に勝負!」
 雪は仇討の決まり文句を言ったものの、腰に剣も差さず、柔和な、まだあどけなさが残る自分より年下らしい少年を見て「やはり人違いだったか」と、がっかりした。
  「私は逃げも隠れもしません。座敷の方でお話を聞きましょう」
 数馬は、自分が無防備であることを示す為に、故意に二人に背を向けて門を潜った。
  「母上、数馬ただ今帰りました」
  「はい、はい、お帰りなさい」
 濡れた手を前垂れで拭きながら、千登勢が出て来た。
  「お客様も、どうぞご一緒にお上がりになって、数馬と先ほどのお話をなさいませ」
 先ほど、仇討ちの話を姉弟から聞いた様子なのに、何と落ち着いた母上の態度と、半ば呆れ気味に数馬は母親を見ていた。
  「雪さんと、小太郎さんもお腹が空いていらっしゃるでしょ?いま用意しますからね」
 雪が「どうぞお構いなく」と言う間もなく、千登勢は奥に下がった。数馬も、二人を客間に残して「着替えをして参ります」と、座敷を出た。

  「お待たせいたしました」と、数馬が座敷に戻ると、一瞬警戒して脇に置いた大刀を引き寄せたが、数馬が丸腰なのに気づくと、「ふっ」と、緊張した気持ちを緩めた。
  「お食事の用意が出来ました」と、下女のお多美が姉弟に「数馬さまとご一緒でよろしゅうございますか?」と聞いた。
  「はい、お世話をおかけします」と、雪は素直に応えた。
  「なにも気の利いたものは有りませんが、どうぞご遠慮なく召し上がって下さい」と言って、「大丈夫ですよ、お毒見は数馬にさせますから」と、千登勢は笑って見せた。
  「母上!毒見をわが子にさせる母親はどこの国に居ますか」と、怒ったのを見て、弟の小太郎が「ふふっ」笑った。
  「いますよ、伊達家のお家騒動で、若様が毒で殺されようとしたとき、若様の乳母の実子が、常々母に教えられていたことを守り、若様に献上されたお菓子を毒入りと知って食べて死に、若様の命と母の窮地を救うのです」
  「それはお芝居でしょう。伽羅(めいぼく)先代萩とかいう」
  「あら、知っていたのですか?」
  「知っていますよ、小さい頃お芝居を観に連れて行ってくれたでしょ。母上がメソメソ泣くもので、数馬は恥ずかしかったです」
  「泣いていませんよ」
  「泣きました、芝居が終わって外に出たら、目を真っ赤に泣き腫らしていて」
  「嘘ですよ」
 親子の会話を聞いていた雪も、控え目に「くすっ」と笑った。

 弟は、国に独り残してきた母のことが気がかりなのか、少し寂しげであったが…。
  「お話によると、お父上と賊が、擦れ違い様にお父上と確認して背中から斬り付けているようですね。その時に、私の名前を告げたのでしょう」
  「はい、そうだと思います」
  「武者修行など真っ赤な嘘で、何者かに雇われた殺し屋が殺ったものでしょう」
  「態々、江戸から殺し屋を呼び寄せたのでしょうか」
  「それは、考え難いですね。流れ者の殺し屋でしょう」
 それにしても、どうして自分の名前を出したのだろう。自分が恨まれるとしたら、盗賊楽天組の残党かも知れないが、全て磔になった筈である。或いはその家族か、あの皆殺し事件の時に居なかった仲間の逆恨みだろうか。それとも、殺し屋が咄嗟に口にした名前が、たまたま能見数馬だったのだろうか。

  「雪さん、小太郎さん、今から北町奉行所へ行って能見数馬という男が、最近江戸を離れていないか調べて貰いましょう」
  「お奉行様が、取り上げて下さるでしょうか」
  「大丈夫です、お奉行の遠山さまは、私の友達ですから」
  「これ数馬、お奉行さまを友達とは何事ですか、少しは口を慎みなさい」と母上。

 北町奉行所の門前で「能見数馬ですが」と言いかけると、奉行所の門番は「また、お奉行に頼みごとですか」と笑ったが、すぐに門を開いてくれた。

  「数馬、お前はこの奉行を余程暇人と思っておるようじゃのう」
  「いえ、人がひとり殺された事件ですので、いや、一人ではないかも知れません」
  「拙者の耳には入っておらぬぞ」
  「はい、越後の事件ですから」
  「そのような遠方の事件を、江戸の奉行にどうしろと申すのじゃ」
  「下手人が江戸の者らしいからです」
  「聞こう、申してみよ」

 数馬は、雪と小太郎を奉行に引き合わせ、事の次第を申し上げた。
  「その下手人の名が、能見数馬というのじゃな」
  「はい、左様でございます」
  「それで、数馬は自訴して参ったのか?」
  「違いますよ、数馬は越後などへ行っておりません」
  「その能見数馬という男の人別帳を調べろというのか?」
  「はい、どうかお願いいたします」
  「よし、わかった、今から調べさせよう。待っている間に、良いものを見せてやろう」
 奉行は、配下の者に耳打ちをすると、若い役人は「どうぞこちらへ」と、奉行所の裏へ案内してくれた。
 そこでは、同心が一人の若い町人に十手術を教えていた。
  「数馬殿、このことは決して外部に漏らしてはならぬぞ」と、役人は特別の事だと勿体ぶるように言った。

 指導を受けている若い町人は、数馬に気付き、「あっ」と声を上げた。  教えていた同心は「隙あり」と、町人の脳天を竹刀で打った。町人は、殺された目明し、達吉の倅仙一だった。  「話なら、稽古が終わってからにしなさい」と、同心は稽古を続けたが、仙一は浮き足たって打たれっぱなしだった。

 稽古が終わらないうちに、奉行の呼び出しがあった。能見数馬という男は居ないが、最近越後に行って、重い怪我を負って帰ってきた高須庸介という浪人者が居たという。現在は小石川養生所で怪我の治療をしているそうである。

  「どうだ、同心と目明しを付けるから、数馬得意の鎌をかけて問い質してみるか」
  「鎌をかけるなんて人聞きがわるい、尋問ですよ」
 数馬にはすぐに分かった。同心とは、先ほど仙一に十手術の稽古をつけていた若い同心で、目明しは仙一のことだろう。
  「はい、行って参ります」
 現れたのは、やはり数馬の推察通りだった。
  「数馬さん、私は同心長坂清三郎、こちらは目明しの仙一です」
  「長坂どの、よろしくお願い申します、仙一は私の友人です」
  「そうでしたか、どうりで稽古途中、数馬どのを見て仙一はそわそわしておりました」
  「すみません、懐かしかったものですから」
 仙一は、腫れ上がった頭を撫でながら弁解した。
  「事情はお奉行から全て聞きました」
  「そうですか、こちらの二人が其の殺された長岡藩士加藤大介殿のご子息小太郎どのと、姉上の雪どのです」
  「無念でしょうお悔やみ申す、それにしても、よく江戸まで無事に来られましたなあ」
  「弟も、幼いながら武士の子です、わたくしをしっかり護ってくれました」
  「いやァ、頼もしいですな」
 小太郎は、ちょっと得意顔だった。

 小石川養生所にも、奉行から繋ぎを受けていたらしく、五人を快く迎えてくれた。高須庸介の病室に入ると、高須もまた背中を斬られたらしく、俯せに寝かされていた。
  「高須さん、分かりますか、私は能見数馬と申します」
 高須はギクッとしたが、観念したのか「名前を騙って申し訳なかった、皆殺し事件の時に耳にした名前だったのでつい出てしまった」と、詫びた。
  「名前のことは良いのです、あなたは誰かに呼ばれて越後へ行きましたね」首を少しコックリとして、頷いてみせた。
  「その人が誰か言えますか?」
 高須は、だまり込んだ。
  「言わなくても結構です、今、早馬を乗り継いで密偵が越後に向かっています」  数馬は続けた。
  「あなたは、加藤大介という長岡藩士を知っていますね」
 高須は肯定した。
  「あなたは、長岡藩士の誰かに金を貰って、加藤大介殿を卑怯にも背中から不意討ちをかけましたね」
 高須は、観念したようだった。
  「あなたを口封じのために斬ったのは、その藩士でしょう?」
 掠れた声で「はい」と言って、顔を布団に埋めた。
  「ここに居るお二人が、その加藤大介殿のご子息と姉君です、なぜここに来られたかわかりますよね」
 高須は頷いて、「申し訳ないことをしました」と、あっさり白状した。
  「では、その殺しを頼んだ藩士の名前を訊きましょう」
  「松井稼頭之進です」
 雪と、小太郎は驚いた。松井稼頭之進は、父加藤大介の古くからの親友だった。
  「そこまで白状したのです、密偵が戻らぬうちに全部吐いて、楽になりませんか?」
  「越後の縮緬問屋、光衛門に金で頼まれて二人の商人を殺しました」
  「長坂殿、お聞きになりましたか?」
  「しかと聞き申した」
  「雪どの、小太郎どの、こんな男を殺したとても気が晴れないでしょう、ここはお役人に任せて、お国にお戻りなさい」
お奉行に頼んで、一部始終を書簡にしたためていただき、長岡の殿様の裁量を待ちましょう。別件の越後の縮緬問屋の方も、調べさせて下さるでしょう。
 「仇討をすれば、周りの者が天晴れと褒めたたえてくれるでしょうが、人を斬った感触は一生不快な記憶として残ると思いますよ、ねえ、長坂どの」
 「いえ、私はまだ斬ったことは有りませんが、お役目ですから斬ることもあるでしょうし、不快などと言っていられませんよ」
 「正直な長坂どのですね、この二人の為に、話を合わせて下さいよ」
 「私も武士の子ですから平気です」と、小太郎。
 「仙一どのは、私の言うことがわかりますよね」
 「わかりません、わたしは父のように殺されても、人を殺すことはないでしょうし」
 「そうですか、そうですか、私の思いを分かってくれるのは雪さんだけですよね」
 「いいえ、わたくしも武家の娘です」
 「・・・・・」

 雪は頼もしい小太郎と共に越後へ帰っていった。二ケ月後、雪から書状が届いた。そこには、松井稼頭之進が藩金横領と、それを加藤大介に知られて自訴を薦められ、大輔の口封じのために殺害を高須庸介に依頼したことを告白して斬首刑となったこと。藩主が雪と小太郎の働きを褒め、加藤小太郎を跡目相続人として、お家の再興を許可してくれたこと、縮緬問屋光衛門が町奉行に捕えられたこと等がこと細かく記されていた。

 数馬からも、殺し屋高須庸介が磔になったこと、北町奉行遠山影元が長岡藩主と連絡を取り合って、事件を解決へと導いてくれたこと等を記した書状を送った。その追伸に、悪戯半分、冷やかし半分で「同心長坂清三郎殿が、雪さんに一目惚れしたらしい」と、書いたことが切掛けで、後に清三郎は越後へ行き雪さんと夫婦になり、夫婦して江戸へ戻ってきた。

   (父の仇!・終)  ―続く―   (原稿用紙16枚)


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