ないない島通信

「ポケットに愛と映画を!」改め。

「シン・ゴジラ」再見

2016-11-04 20:51:21 | 映画


「シン・ゴジラ」また見てきました。二度目。

立川シネマシティ、昼間の上映が今日で最後なので (え、もう終わりなの?)行ってきました。
ゴジラはやっぱり大画面で見ないとね。

二回見るとよくわかります。
最初の方で、謎の水生生物が登場するまでの官僚たちのやり取りのスピード感は半端なく、
ぐいぐいと物語に引き込んでくれます。
日本政府に対する皮肉もけっこう笑えて、ゴジラがどんどん進化していくあたりまで、
目を離すことができないスピード感で、ゴジラの進化同様ぐいぐい物語が進行していきます。

一方、今回感じたのは、ゴジラの登場場面が意外と少なかったな、ということ。
官僚たちのやり取りも、最初のうちはスピード感あり、おお、そうだよなあと共感できるのですが、後半に至ると、もう少し別の視点から物語が展開してもよさそうな、
そんな雰囲気を感じました。

つまり、矢口という政治家(肩書はその都度書き換えられますが)が主人公である以上はどうしても、官僚や政治の話が中心になってくるのですね。
これって、外国人にわかるのか? 英語の字幕なんかで見たらすんごく大変だろうなあ、いやその前に子どもには無理だろうなあ、と余計なことを考えてしまいました。

 「愛してるよ」
 「私も愛してるわ」 
 がないのは、いっそ潔いと前に書きましたが、二回目見ると、
 牧博士の妻への愛が、ゴジラの存在に見え隠れしているようです。
 それを前面に出さずにほのめかすあたり、いかにも日本式。
 初代ゴジラの芹沢博士にも通じる部分がある気がします。
 かなわぬ恋の果てに、自ら発明したオキシジェンデストロイアを抱いて海底に沈み、ゴジラと共に果てるという役柄ですが、牧博士ももしかすると似ているかもしれません。

ともかく、
ゴジラが鎌倉から再上陸した時の、あの威厳に満ちた姿はどうでしょう。
もしかすると、ゴジラには何か目当てがあって進んでいるのではないかと思えるような確固とした足取りで、ゆっくりと、でも確実に歩を進めていきます。

多摩川に配備した自衛隊の攻撃にも全くめげず、自衛隊に歯向かうでもなく、ただ黙々と進んでいく、その姿は神々しくさえあります。

ところが、米軍が参加しゴジラに強烈な一撃を加えたあたりから、突然ゴジラは目覚めたかのように凶暴になっていきます。
自衛隊には決して歯向かわず、反撃もしてこなかったゴジラなのに、米軍の攻撃に対しては突然凶暴さを見せ始めるのです。なぜ?

まるで巨神兵の火の七日間のように、口から背中から白熱光線を発射し、口からはすべてを焼き尽くすような火の塊を吐いて都心のビル群をなぎ倒していきます。
その破壊力のすさまじさ。
あれは何度見ても凄い。
だから、何度でも見たくなる。
だから、もっとゴジラを登場させてほしかった。

ゴジラには、何か人間の本能に訴えかけるものがある気がします。
原始時代の恐竜の記憶がどこかにまだ残っているのかもしれない。
太古の記憶をゆさぶる力があるのです。
(恐竜と人類は共存していたという説もあるようだし)
だから、私たちはあの巨大で威厳に満ちた姿を何度でも見たいのですね。

最後のシッポの先についてですが、
今回、私が思ったのはこうです。
あれは、
初代ゴジラへの庵野監督のオマージュ。
ゴジラが先の大戦で亡くなった人たちの英霊であるという説へのオマージュではないかと思いました。
従って、ゴジラのしっぽの先には英霊たちの姿が刻みこまれているのですね。
あれは確かに人間の姿をしていました。

ゴジラの続編が作られるなら、
凍結したゴジラが再起動したところから始まるはずだし、
あのしっぽの説明もなされるはずだと思います。
でも、続編がなくても、「シン・ゴジラ」はこれだけで完結した物語になっていると思います。

いまだに収束の目途さえたたない福島第一原発を思うとき、
ゴジラの凍結した姿は今の日本を象徴しているのではないでしょうか。
今後のことは、私たち一人ひとりの課題であると、
そう突きつけられている気がします。
コメント
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