悲しいガチョウ夫婦の結末

2017-08-10 | ◆名城フォトスケッチ


毎日暑くてウンザリですが、
久しぶりに名城散歩に行ってきました。

行く前は城内だけの散歩と
ガチョウの様子を見て帰ろうと思っていましたが、
いざ名城公園に着くと久しぶりなので、
やっぱりしっかり歩きたくなりました。

名城公園にスクーターを停めて、お堀周りを歩き始めましたが、
昨日はコブハクチョウ以外は、
カモもアオサギも姿は見られませんでした。
さすがにこの猛暑に皆、
日陰かどこかに姿を隠しているようです。
(そういえばホシハジロも見なかった…)

容赦なく照りつける日差しと、
暑さを一段と高めるセミの鳴き声を聞きながらも、
お堀の周りを歩き続け、ガチョウの棲家に近づくと、
棲家の辺りでは草刈り除草作業が行われていて、
やっぱり一羽だけのままのガチョウは、
草刈り作業で棲家を追い出され、
ガアガアと鳴きながら不満げに
棲家の周りを泳いでいました。



ひょっとして草刈りの業者さんなら
何か知っているかもと、一人の作業員の人を捕まえ、
もう一羽はどうしたのか聞いてみました。

すると「どうも死んだようだよ…いつも餌やりに来ていた
おばさんが言っていた」と言われました。
作業員の人もそこまでしか分からないようだった。

どうして死んだのか?なぜ二羽とも姿を消していたのか?
疑問は色々と湧いてくるがどうしようもない…

ここを通る人々みんなに愛されていた
微笑ましい夫婦ガチョウだっただけに、
何とも寂しい結果になってしまった。

ただ、ガチョウの周りはカモやコサギ、
小鳥、鯉とあらゆる生き物たちが集まるコロニーのような
不思議な場所になっていて、これからは他の生き物たちと
楽しくやっていて欲しいと願うしかありません…
なんて思うのは、人間の勝手な思い入れですね。





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不思議レーサー鮒子田寛

2017-08-09 | ◆気になるコト・モノ・ヒト



先日、恒例のアウトガレリア“ルーチェ”参りをしてきました。
今回は昭和のレースファンにちょっと胸熱なレーサー
鮒子田寛氏に関する車の企画展示でした。

鮒子田氏は若くしてトヨタワークス入りし、
TOYOTA7等で活躍したメーカーレーサーでしたが、
当時それほど派手さや印象深さは感じませんでした。
けっこうワークスドライバーの数も多くて、
あくまでも、その中の一人という感じでしたので…
その頃のトヨタワークスには、
福澤幸雄(福沢諭吉の曾孫)や河合実といった
派手(芸能人と浮名を流す)で目立つ
レーサーが居たので尚更でしたね。


▲ TOYOTA2000GT SPEED TRIAL車(1966年/レプリカ車)


▲ TOYOTA7 415S(1968年) 日本GP用ポルシェ&ニッサン対抗車



▲ TOYOTA7 474S(1969年)
 1969年日本GP対ニッサンリベンジ用車両。
 リベンジ用に排気量を5リッターにアップしたが
 ニッサンR382は6リッターエンジンで登場し、
 敢えなく返り討ちに合う…

それでもトヨタワークス退社後はアメリカに渡り、多くのレースに参加し、
けっこう気になる存在のレーサーではありました。
特に当時大人気だったCAN-AMシリーズ(グループ7カー・レース)に
鮒子田氏がデビューした時は、
大変驚いた(車も不思議な車=2ストエンジン4基載せ)記憶があります。
その後もシグマMC73でル・マンに、1973年にはマキF101CでF-1にと
思わぬシーンに突然現れて何度かビックリ(ワクワク&ドキドキ)させられました。
あの頃、世界に挑戦といえば
“目指せF-1一直線”の生沢徹氏(大好き)でしたが、
生沢氏とはまた違ったアプローチで世界に挑戦するパイオニアレーサーで、
その行動はちょっと不思議で、大変印象深いレーサーの一人でした。

レーサー引退後はトヨタでの監督業や、ベントレーでル・マン車両の開発、
そして童夢の社長等、マネジャーとしても幾多の活躍・結果を残されています。

そんな鮒子田氏に関係した車を集めた展示は、
昭和のレースシーンのほんの断片ではありますが、
本当に感慨深くて胸熱な企画展示でした!


▲ DOME S102.5(2008年) 
 鮒子田氏が童夢で開発指揮をしたル・マン用車両


▲ TOM’S ANGEL T01(1994年)
 トムスGB時代に開発した記念モデル


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