長い間使っていないけれどもなぜか取ってある物が結構多い。改めて自分の仕事場の中を見回してみた。使う物は年中使うが、使わない物は本当に永久にと言えるくらいに使わない。それなのにそうした使わない物がごろごろしている。なぜなのか。答は分かっている。捨てられない性格だからだ。物を粗末にしてはいけない、と言う強迫観念がある。物の無い時代に育ち、加えて貧乏だった事もある。途中にはすごく金回りの良い時もあったが、それでも地道に培われて来た性格は直らない。
使わない物はあちこちに分散しているから目立たない。だからそれらを集めてみた。と言っても動かすのが大変だったり、また置く場所も無かったりするから、そう簡単には行かないが、出来るだけ、目に見えるようにした。
こうした物を処分して来なかった理由もまた明らかだ。決心したくないのだ。物を処分すると言うのは決断力が要る。それはエネルギーが要る。決断するまでに様々に考えなければならない。それが面倒だ。そこでついつい、一つくらいどうでもいいや、と決断を先延ばしにする事になる。しかしその「一つくらい」が幾つもある訳だ。
捨ててしまって、もしそれが要る事になったらどうしよう。無駄な出費になるではないか。だが、考えてみれば無駄な出費など様々な所でしている。その内の大きな一つが買いだめである。これは昔「暮らしの手帖」で花花森安治編集長が書いている。「買いだめのすすめ」として。だが、それは常に一つだけ予備を持っておく、との話だったはず。それを私は安いからとか、買いに行く手間が省けるなどの理由で二つも三つも買いだめしていた。
まだ無駄にはなっていない買いだめ品の例としては、CDのメディアがある。データをCDに焼くつもりで買ったが、MOの方がずっと簡単でしかも安全なので、使っていない。そのMOだって、50枚ほどの予備がある。保存しておくべきデータなどそんなには無い。しかもみな厚さのあるケース入りだから場所を取る。
買いだめしていた部品や消耗品の中には、肝心の本体が壊れたりして使えなくなり、泣く泣く捨てた事が一体何度あったか。そうした無駄を考えれば、もう一度買い直さなくてはならなくなる場合の損失など、さしたる事ではない。
そこで、使っていない物を捨てる事にした。中には思い入れの強く残っている物もある。買った時には高かった、とか、欲しくてたまらなかった、などの気持だ。でも、買った時には高かった、は有効な思い入れにはならない。なぜなら、今は様々な高機能品が安く手に入り、価格は問題にはならなくなった。だから残るのは欲しくてたまらなかった、との思いである。これはなかなか消えない。今でも欲しかった気持が続いている。だからこれは処分が出来ない。
そして、そこまで決断する必要は無い,と私は思っている。欲しい、と言うのは自分の生きている証でもある。そこまで禁欲的になる必要は無い。その分、思い入れの無い物は、たとえ高い物であっても捨てる。
こまごまとした物を捨てたら、45リットルのゴミ袋が一杯になった。大きな物はその比ではない。これだけの事で、何と気持がせいせいする事か、と今更ながら思った。
よく、保存しておく場所代が高いので、無駄な物は捨てよう、と言うが、私の場合は精神的な負担が大きいから、の方がずっと強い。場所をふさいでいる、との思いだけではなく、決断出来ない自分にイライラしている。
私の決断力は更に高まって、今までは捨てられなかった本にまで手を出している。中にはシリーズ本だから、と捨てられない本があるが、日本の歴史シリーズのように、いい加減な考えで書いている本もある。特に古代関係が駄目だ。古代が駄目なら、中世だって駄目に決まっている。何しろ監修者は同じなんだから。
そうしたシリーズ本は捨てる事に決めた。単行本で捨てる事に決めた本は数えたら50冊以上になった。私自身、本を書いている人間だから、本を捨てる事には大きな抵抗感があるが、古本屋に、などと考え始めたら、せっかくの決心が崩れてしまう。しょせん、捨てられる運命の本はそれだけの事なのだ、と割り切る事にした。
ついでに百科事典もCDROMになっている別の百科事典を持っているから、本の方は捨てる事にした。これだけで相当すっきりする。百科事典を処分するほどだから、つまらない小物を取っておくような本末転倒な事は絶対にしてはならない、と自分に言い聞かせた。
考えてみれば、物を捨てるのが楽しいのは,決断が出来る楽しさだった。
使わない物はあちこちに分散しているから目立たない。だからそれらを集めてみた。と言っても動かすのが大変だったり、また置く場所も無かったりするから、そう簡単には行かないが、出来るだけ、目に見えるようにした。
こうした物を処分して来なかった理由もまた明らかだ。決心したくないのだ。物を処分すると言うのは決断力が要る。それはエネルギーが要る。決断するまでに様々に考えなければならない。それが面倒だ。そこでついつい、一つくらいどうでもいいや、と決断を先延ばしにする事になる。しかしその「一つくらい」が幾つもある訳だ。
捨ててしまって、もしそれが要る事になったらどうしよう。無駄な出費になるではないか。だが、考えてみれば無駄な出費など様々な所でしている。その内の大きな一つが買いだめである。これは昔「暮らしの手帖」で花花森安治編集長が書いている。「買いだめのすすめ」として。だが、それは常に一つだけ予備を持っておく、との話だったはず。それを私は安いからとか、買いに行く手間が省けるなどの理由で二つも三つも買いだめしていた。
まだ無駄にはなっていない買いだめ品の例としては、CDのメディアがある。データをCDに焼くつもりで買ったが、MOの方がずっと簡単でしかも安全なので、使っていない。そのMOだって、50枚ほどの予備がある。保存しておくべきデータなどそんなには無い。しかもみな厚さのあるケース入りだから場所を取る。
買いだめしていた部品や消耗品の中には、肝心の本体が壊れたりして使えなくなり、泣く泣く捨てた事が一体何度あったか。そうした無駄を考えれば、もう一度買い直さなくてはならなくなる場合の損失など、さしたる事ではない。
そこで、使っていない物を捨てる事にした。中には思い入れの強く残っている物もある。買った時には高かった、とか、欲しくてたまらなかった、などの気持だ。でも、買った時には高かった、は有効な思い入れにはならない。なぜなら、今は様々な高機能品が安く手に入り、価格は問題にはならなくなった。だから残るのは欲しくてたまらなかった、との思いである。これはなかなか消えない。今でも欲しかった気持が続いている。だからこれは処分が出来ない。
そして、そこまで決断する必要は無い,と私は思っている。欲しい、と言うのは自分の生きている証でもある。そこまで禁欲的になる必要は無い。その分、思い入れの無い物は、たとえ高い物であっても捨てる。
こまごまとした物を捨てたら、45リットルのゴミ袋が一杯になった。大きな物はその比ではない。これだけの事で、何と気持がせいせいする事か、と今更ながら思った。
よく、保存しておく場所代が高いので、無駄な物は捨てよう、と言うが、私の場合は精神的な負担が大きいから、の方がずっと強い。場所をふさいでいる、との思いだけではなく、決断出来ない自分にイライラしている。
私の決断力は更に高まって、今までは捨てられなかった本にまで手を出している。中にはシリーズ本だから、と捨てられない本があるが、日本の歴史シリーズのように、いい加減な考えで書いている本もある。特に古代関係が駄目だ。古代が駄目なら、中世だって駄目に決まっている。何しろ監修者は同じなんだから。
そうしたシリーズ本は捨てる事に決めた。単行本で捨てる事に決めた本は数えたら50冊以上になった。私自身、本を書いている人間だから、本を捨てる事には大きな抵抗感があるが、古本屋に、などと考え始めたら、せっかくの決心が崩れてしまう。しょせん、捨てられる運命の本はそれだけの事なのだ、と割り切る事にした。
ついでに百科事典もCDROMになっている別の百科事典を持っているから、本の方は捨てる事にした。これだけで相当すっきりする。百科事典を処分するほどだから、つまらない小物を取っておくような本末転倒な事は絶対にしてはならない、と自分に言い聞かせた。
考えてみれば、物を捨てるのが楽しいのは,決断が出来る楽しさだった。