おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

最近考えていること

2007-08-20 21:12:21 | Weblog
近年、多くの「学習用」ソフト(コンテンツ)というものが、学校現場で見られるようになってきた。
子どもたちは、その変化に富んだ動きやビジュアルの美しさに心奪われて、興味を持つが、
その姿を見つめる教師は苦虫をかみつぶしたような顔になることが多い。

また「学習支援用IT機器」と呼ばれる種々の機能を持った危機が導入された時にも
教師がそうした表情になることがある。

理由は2点考えられる。

一つ目は、「また、ソフトやハードの操作や機能を覚えなければならないということ」
すなわち、子供たちの喜ぶ「学習用」ソフトや「学習支援用IT機器」の新規導入は新規の操作スキルが必要となり、
そうした新しい操作スキルの獲得は、高齢化しつつある教師にとっては最も苦手とするところであり、
新たな負担感が生まれるわけである。

しかし、こうした点については、教師側の習得努力も必要であり、
教師の操作スキルを向上させる支援を行うことで改善できる部分もあると考えられる。

教師という職業にコンピュータリテラシーが必要な時代になっているという認識は
十分教師間に浸透していることもあり、スキルアップ研修が増え、時間がたてば解消していく問題なのであろう。
            
しかし、もう一点については、時間の経過だけでは解消できないものだと考えている。
それは、いわゆる「学習用」ソフトというものや「学習支援用IT機器」というものが
「教師が作りたい指導場面、すなわち授業」を行う上で不便だと感じているからである。

簡単な例をあげれば授業で使いたい1枚の写真を手に入れるため、
コンピュータの電源を入れ、立ち上がるのを待ち、検索サイトをひらけ、
膨大なデータから、自分の授業に使いたい一枚を見つけ出すのに要する
労力や時間がかかりすぎる場合が多いことを挙げておく。

これは事前の教材研究の場面で、
スキルのある教師でも感じていることであり、
どこかに電話をかけ、こちらの意図を伝えれば何枚かのデータを
メールで送ってくるようなシステムがあれば瞬時に解消することであり、
そうしたICTを活用した指導方法支援システムが必要と考えている。

こうした点は実際に教壇に立ち指導を行う教師でなければ
理解しにくい点であるが、教室は教師と子供たちで作る創造の場であり、
ICT機器はあくまでその創造の場を作るための「便利な道具」でなければならないと考えている。

ソフトやハードの性能や機能はどんどん進化し
「できること」は多くなってきた。

企業も開発に力を入れ教育用ソフトの導入を進めに来る企業も増えてきたが、
そうした方々の「こんな機能があります。こんなことができます。先生も楽になります。」
といううたい文句にうなずく教師は少ない。

価格の問題以上に、目新しいソフトや機器を導入しても
現実はその年に何人かの教師が使って、
そのまま使い続けることができないできたという経験をすでに持っているからである。

「使う教師が限られているのは教師の操作スキルが低いため」
「指導方法を知らないから指導案をつくり定型化していないから」等々の意見も
否定はできないが、それだけの理由であるとは考えられない。

長年教師をしているものならこうした新しい機器の導入に伴う混乱は何度も経験している。
それは視聴覚機器においてよくみられた。

古くはスライド、8ミリ、テレビ、ビデオ、OHP、実物投影機と多くの機器が教室に導入され、
それに見合ったソフトが開発されてきた。

しかし最後まで根付いたのは、黒板とチョークでしかないのが現状であるように思える。

「学習用」と銘打たれたITテクノロジーが「機能としてできること」は
教師が自分の授業を作る時に「必ずしも必要なものでない」
むしろ「不便なもの」となっているということに気づく必要がある。

授業は生き物のでありテンポがある。
機器の操作がそうした教師と子供が作る空間や時間の流れを分断するものなら、
力ある教師ほどそうした機器を使わないであろう。

多くの教師はITが教育現場に導入されたとき、
漠然とした不安感を抱いた。
JRに自動改札口装置が導入され多くの改札員と呼ばれた人達がリストラされたように、
省力化というイメージがITの代名詞となり
「機械化によって、今までそこにあった人と人とのコミュニケーションをも含めて省力化される」方向になるのでは
という危惧であった。

「ティーチングマシン」という発想はまさにそのものであったし、
そうした考え方が大きな潮流になれば「授業における教師自身の存在」が不必要なものとなるわけである。

私たちの考える授業の構成者は教師と子供たちであり、
ICT機器の活用はそうした「授業」を創造するための「便利な道具」であらねばならない。
なぜなら、「教師の目指す授業」を創造するときに不必要
また不便であった視聴覚機器は淘汰され使われなくなったからである。

現在の教育現場で見られる学習ソフトは
すぐに使えるという環境があったうえでも、
「自習の時間」「補習の時間」「宿題」「反復練習時」等
教師の不在時での利用は有効としても
「各教科における授業」で継続して利用できているものは非常に少ないし、
むしろ、実際の授業においては、個々の学校でコンテンツ作りに堪能な教師が
一部の機能に特化したものを自作したシンプルなコンテンツが長く使われている場合が多い。

こうした事例は、多機能な「学習用ソフト」が
「不便である」証左と考えられるし、
ハードに関しては「不便であるから」使わないということは
使用頻度をみれば歴然としている。

設定に手間取る機器の利用はよほどの時以外行われず、
教室で日常的に使用している機器は、
スイッチを押せば直ぐに画面が映るテレビぐらいのものである。

適切な例ではないかもしれないが、
どんなに美しく様々な景色を映せるソフトや機械ができても、
噺家の名人は扇子と手ぬぐいですべてを表現できるから
そんなものは高座では使わないであろう。
使うのはその準備の段階や、ほんの一部だけではないだろうか。

もう少し補足しておけば、
「児童のための学習コンテンツや学習支援用IT機器」と
「教師のための指導用コンテンツや指導支援用IT機器」は似てはいても、
別物であるという認識が必要であると思う。

個に応じた手だては、コンピュータがそれぞれの画面で行うものではなく、
教壇に立つ教師がそれぞれの子どもたちの顔を見ながら、
便利な機械を使って行うものだと考えている。

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