ごきげんよう諸君。物凄く真面目に久し振りの更新である。皆、息災であれば何よりである。別に死にそうなぐらい忙しかったとかそういう訳ではないのだが、いや、まぁ一月九日から早速試験だったり、しかも一月九日の試験実は二個だったり、ついでに両方進級のかかった試験(=進級 or 退学 が決まる試験)だったりして死んでおったのは事実だが、なんか話が収拾つかなくなりそうだからやめる。
さて、諸君はいかがお過ごしかな。私が更新しない間、世間では色々な事が起こったな。以前からダントツで酷い事に定評のあった明治大学の応援団リーダー部がビデオ発見で死亡してついに消滅してしまったり、ついさっきのことならば支那畜毒餃子で幼児が死んだり死ななかったりしていたということだ。
尚、毒餃子だが、某親戚が一家揃ってよく似た症状を訴えていたのだが大丈夫だろうか。今のところ死にそうという事ではないらしいが…しかし、防虫剤がついてたってことは糞尿を落としてないんじゃ……まぁいいや、取り敢えず今日の話題とは関係ないから置いておこう。
日誌を書くのが久し振りすぎて上手く書けぬ。
さて、仕方ないから無理矢理本題に入ことにする。大分前のニュースだが、ニワンゴの奴をメモってあったから引用しよう。
>1月14日午後6時45分頃、栃木県宇都宮市のアパートで、3歳の四男を床に投げつけ重傷を負わせたとして、父親が逮捕された。妻と5人の子どもと母親宅を訪れていたが、しかった際に態度が悪かったため腹を立てたという。
馬鹿である。見事なまでに馬鹿、と言うかDQNである。殴るでもなければ蹴るでもなく、床に投げつけるというのは馬鹿とか阿呆を通り越した斬新なアイディアといえよう…と最初思っておったのだが、どうもおかしい。似たよーな事をしたアホを知っている気がしたのだ。
で、二日か三日たって思い出した。↓こいつらである。


同じ劉姓でありながら、両者には画質からして越えられない壁がある訳だが、これでも劉禅の画像は頑張って探したのだぞ。十分か二十分ぐらいかけて。初代三国志大戦ではネタカード筆頭(但し当時の劉禅は可愛い子だった為腐った人には人気だったが)であり、2で消滅したかと思いきや追加カードで復活するものの、ネタ度に磨きがかかった上に絵まで残念と言うか、責任者出て来い。朝と昼と夜三回に分けて念入りに殺してやる。
なお、下側の劉備だが、こちらは逆に一分もかからず出てきた枝。これだけ綺麗な絵が一発で出てきた訳で、その辺からも両者の差が判るだろう。
ま、愚☆帝と思いっきり書かれておるしな。
んで、この二人だが、親子である。絵こそ現代の日本で想像して描かれたものだが、紛れもなく実在の人物だ。三国志にはこの劉備とか曹操とか孫権みたいにガチで実在の人物で正史にもちゃんと伝が立ってる奴から、周倉とか関索とかいたかどうかすら怪しい連中まで様々な人物が出てくる。
我らがマンセーこと李典もそうだが、凡将こと廖化なんかもかなり謎の武将だ。こいつは黄巾の乱に参加していたという事になっておるのだが、その乱が発生したのが西暦でいうと184年。で、廖化はその後ずっと劉備に仕え、劉備が建国した蜀漢陥落の直後病死している。これが264年。
つまり、八十年戦場で戦った奇跡の男ということである。少なくとも文字で読める史料からはそうなる。しかし流石にそれはねーだろということで三人ぐらい同姓同名の奴がいたんじゃないかという説もあれば、いやいややっぱり一人で八十年戦場を駆け抜けた歴戦の猛者なんだという説もある。マンセーも三人ぐらいいたといわれておるな。
まぁ、三人いたとは言っても、吉川三国志の張郃みたいに戦死する場面が三回もあるというのとはまた違う訳だが。ありゃただの作者のミスだ。ただ、二回どころか三回も死んでは蘇り死んでは蘇りさせられたというのはむしろ何か意図がありそうな気もするが。
順調に話題が逸れた。
とにかく、この二人は三国志時代の実在の人物である。劉備は以前から何度か説明しておるから皆知っていよう。曹操の操り人形にされた漢王朝を復活させる事を目指す英雄である(という事になっている)。
三国志時代初期、戦乱の時代にあっても早くから中原(中華中央及び北方)に勢力を築いた曹操(魏)、同じく江東(中華南東)に根を張った孫権(孫呉)に比べ、劉備はなかなか駄目な感じである。何せこれといった本拠地を持つ事ができず、曹操の客将になってみたり、河北の袁紹のところに住ませてもらったり、劉表のところでぬくぬくしてみたりとこいつは本当に天下を取る気があるのかという感じだが、しかしそこは流石に歴史に名を残した男。
東西南北色んな場所を放浪していたにも関わらず、劉備はその人徳で確実に家臣を増やしていった。黄巾の乱以来の股肱であり義兄弟である関羽と張飛の武名は天下に響き渡っておった。実際、関羽が存在しているという理由だけで周辺が警戒するぐらいに戦争が上手い武将だったし、張飛も若い頃こそ脳筋の極みだが成長するにつれて立派な大将になった。
地元の豪商で、一生遊んで暮らせる財産を持っていた麋竺は、その財産を全部金に変えて劉備についていった。諸葛亮、魏延といったのちに蜀を背負って立った人物を発掘したのも劉備であれば、彼らに「この男についていこう」と思わせたのも劉備であった。
とは言え、まぁ時代が時代だし、地域も地域だからちょっとアレだ。何せ支那人だからな、やる事が過激である。
さて、一方の劉禅だが、阿呆である。一般的に馬鹿で阿呆という事になっている。いやまぁ事実頭が悪かったのだが、頭が悪いといっても消極的な馬鹿であった。これが積極的な馬鹿だと、暴政をしいて良民を苦しめたとか昔の王様の墓をあばいて金目のものを盗んでいったとかそういう嫌な話が出てくるのだが、劉禅は消極的だ。
こいつの場合はそもそも政治とかめんどくさい事を考えるのが嫌いな性質なのだ。だから、ただでさえ不況とか不作とか色々大変で戦争なんぞやれる様な状況ではないのに姜維が戦争したいと言えば「どーぞどーぞ好きにやりな」と言うし、黄皓が阿呆な政策を進言してきても「はいはいやっとけやっとけ」という反応をするのである。
しかし、こいつは腐っても劉備の子だ。しかも劉備が本拠地を得た後に育ったならまだ判るが、まだ蜀入りすらしておらず、放浪に放浪を重ねる厳しい時代に育ったのである。にも関わらず、何故か劉禅は頭が悪い。
で、ひとつ俗説があってだな。長坂の戦いというのがあって、これがかなり苦しい戦いだった。何せ、戦いとは言っても劉備側はただ逃げるだけで、どうやって曹操の追撃を振り切るかという戦闘だったのだな。バラバラに分かれた劉備軍は、最早劉備軍残党と化しており、どうにかこうにか関羽の確保した逃げ道を通過した。
んで、この時劉禅は赤子であった。それで、劉備の親衛隊隊長みたいな武将がいて趙雲というのだが、彼は敵陣のど真ん中に取り残されてしまう。そして幼い劉禅と劉備の側室麋夫人と会い、劉禅を託され、麋夫人は趙雲の邪魔にならないようにと自ら井戸に身をなげた。その姿に奮起した趙雲は劉禅を懐に収め、たった一騎で長坂を駆け曹操軍の陣列を突き破り、返り血でべっとりな状態で劉備と合流する。
普通、劉備が喜ぶ姿が想像するだろう。が、何と、顔を真っ赤にして激怒するのである。劉備は趙雲から劉禅を受け取ると、「俺のこせがれの為に、大事な俺の部下が、趙雲が危うく死ぬところだった。こんな餓鬼の為に、名将が死にかけたんだ!」とかなんとか言いながら赤子だった劉禅を投げ飛ばすのである。
これだけだと「あー、そういう見方もあるか」と大体の人が思う一方で「そこまでやるか、普通」と思う訳だが、ここで思い出してほしい。そう、劉禅は頭が悪いのだ。端的に言えば阿呆で間抜けで馬鹿なのだ。故に、俗説が生まれる。
劉備が投げたせいで馬鹿になったんじゃないか、と。
打ちどころが悪かったとかでな。まぁ真相は闇の中だが、劉禅が馬鹿だったのは誰も否定しないあたり、三国志系のゲームで劉禅がまともな武将として出てくることはないだろうな。
無双4でも、劉禅の嫁である星彩が苦戦しはじめると「星彩!今助けに行くぞ!」とか言いながら敵陣に特攻して、予想通り総大将苦戦!至急救援せよ!って情報が流れて、星彩より早く死んでたしな。
さて、諸君はいかがお過ごしかな。私が更新しない間、世間では色々な事が起こったな。以前からダントツで酷い事に定評のあった明治大学の応援団リーダー部がビデオ発見で死亡してついに消滅してしまったり、ついさっきのことならば支那畜毒餃子で幼児が死んだり死ななかったりしていたということだ。
尚、毒餃子だが、某親戚が一家揃ってよく似た症状を訴えていたのだが大丈夫だろうか。今のところ死にそうという事ではないらしいが…しかし、防虫剤がついてたってことは糞尿を落としてないんじゃ……まぁいいや、取り敢えず今日の話題とは関係ないから置いておこう。
日誌を書くのが久し振りすぎて上手く書けぬ。
さて、仕方ないから無理矢理本題に入ことにする。大分前のニュースだが、ニワンゴの奴をメモってあったから引用しよう。
>1月14日午後6時45分頃、栃木県宇都宮市のアパートで、3歳の四男を床に投げつけ重傷を負わせたとして、父親が逮捕された。妻と5人の子どもと母親宅を訪れていたが、しかった際に態度が悪かったため腹を立てたという。
馬鹿である。見事なまでに馬鹿、と言うかDQNである。殴るでもなければ蹴るでもなく、床に投げつけるというのは馬鹿とか阿呆を通り越した斬新なアイディアといえよう…と最初思っておったのだが、どうもおかしい。似たよーな事をしたアホを知っている気がしたのだ。
で、二日か三日たって思い出した。↓こいつらである。


同じ劉姓でありながら、両者には画質からして越えられない壁がある訳だが、これでも劉禅の画像は頑張って探したのだぞ。十分か二十分ぐらいかけて。初代三国志大戦ではネタカード筆頭(但し当時の劉禅は可愛い子だった為腐った人には人気だったが)であり、2で消滅したかと思いきや追加カードで復活するものの、ネタ度に磨きがかかった上に絵まで残念と言うか、責任者出て来い。朝と昼と夜三回に分けて念入りに殺してやる。
なお、下側の劉備だが、こちらは逆に一分もかからず出てきた枝。これだけ綺麗な絵が一発で出てきた訳で、その辺からも両者の差が判るだろう。
ま、愚☆帝と思いっきり書かれておるしな。
んで、この二人だが、親子である。絵こそ現代の日本で想像して描かれたものだが、紛れもなく実在の人物だ。三国志にはこの劉備とか曹操とか孫権みたいにガチで実在の人物で正史にもちゃんと伝が立ってる奴から、周倉とか関索とかいたかどうかすら怪しい連中まで様々な人物が出てくる。
我らがマンセーこと李典もそうだが、凡将こと廖化なんかもかなり謎の武将だ。こいつは黄巾の乱に参加していたという事になっておるのだが、その乱が発生したのが西暦でいうと184年。で、廖化はその後ずっと劉備に仕え、劉備が建国した蜀漢陥落の直後病死している。これが264年。
つまり、八十年戦場で戦った奇跡の男ということである。少なくとも文字で読める史料からはそうなる。しかし流石にそれはねーだろということで三人ぐらい同姓同名の奴がいたんじゃないかという説もあれば、いやいややっぱり一人で八十年戦場を駆け抜けた歴戦の猛者なんだという説もある。マンセーも三人ぐらいいたといわれておるな。
まぁ、三人いたとは言っても、吉川三国志の張郃みたいに戦死する場面が三回もあるというのとはまた違う訳だが。ありゃただの作者のミスだ。ただ、二回どころか三回も死んでは蘇り死んでは蘇りさせられたというのはむしろ何か意図がありそうな気もするが。
順調に話題が逸れた。
とにかく、この二人は三国志時代の実在の人物である。劉備は以前から何度か説明しておるから皆知っていよう。曹操の操り人形にされた漢王朝を復活させる事を目指す英雄である(という事になっている)。
三国志時代初期、戦乱の時代にあっても早くから中原(中華中央及び北方)に勢力を築いた曹操(魏)、同じく江東(中華南東)に根を張った孫権(孫呉)に比べ、劉備はなかなか駄目な感じである。何せこれといった本拠地を持つ事ができず、曹操の客将になってみたり、河北の袁紹のところに住ませてもらったり、劉表のところでぬくぬくしてみたりとこいつは本当に天下を取る気があるのかという感じだが、しかしそこは流石に歴史に名を残した男。
東西南北色んな場所を放浪していたにも関わらず、劉備はその人徳で確実に家臣を増やしていった。黄巾の乱以来の股肱であり義兄弟である関羽と張飛の武名は天下に響き渡っておった。実際、関羽が存在しているという理由だけで周辺が警戒するぐらいに戦争が上手い武将だったし、張飛も若い頃こそ脳筋の極みだが成長するにつれて立派な大将になった。
地元の豪商で、一生遊んで暮らせる財産を持っていた麋竺は、その財産を全部金に変えて劉備についていった。諸葛亮、魏延といったのちに蜀を背負って立った人物を発掘したのも劉備であれば、彼らに「この男についていこう」と思わせたのも劉備であった。
とは言え、まぁ時代が時代だし、地域も地域だからちょっとアレだ。何せ支那人だからな、やる事が過激である。
さて、一方の劉禅だが、阿呆である。一般的に馬鹿で阿呆という事になっている。いやまぁ事実頭が悪かったのだが、頭が悪いといっても消極的な馬鹿であった。これが積極的な馬鹿だと、暴政をしいて良民を苦しめたとか昔の王様の墓をあばいて金目のものを盗んでいったとかそういう嫌な話が出てくるのだが、劉禅は消極的だ。
こいつの場合はそもそも政治とかめんどくさい事を考えるのが嫌いな性質なのだ。だから、ただでさえ不況とか不作とか色々大変で戦争なんぞやれる様な状況ではないのに姜維が戦争したいと言えば「どーぞどーぞ好きにやりな」と言うし、黄皓が阿呆な政策を進言してきても「はいはいやっとけやっとけ」という反応をするのである。
しかし、こいつは腐っても劉備の子だ。しかも劉備が本拠地を得た後に育ったならまだ判るが、まだ蜀入りすらしておらず、放浪に放浪を重ねる厳しい時代に育ったのである。にも関わらず、何故か劉禅は頭が悪い。
で、ひとつ俗説があってだな。長坂の戦いというのがあって、これがかなり苦しい戦いだった。何せ、戦いとは言っても劉備側はただ逃げるだけで、どうやって曹操の追撃を振り切るかという戦闘だったのだな。バラバラに分かれた劉備軍は、最早劉備軍残党と化しており、どうにかこうにか関羽の確保した逃げ道を通過した。
んで、この時劉禅は赤子であった。それで、劉備の親衛隊隊長みたいな武将がいて趙雲というのだが、彼は敵陣のど真ん中に取り残されてしまう。そして幼い劉禅と劉備の側室麋夫人と会い、劉禅を託され、麋夫人は趙雲の邪魔にならないようにと自ら井戸に身をなげた。その姿に奮起した趙雲は劉禅を懐に収め、たった一騎で長坂を駆け曹操軍の陣列を突き破り、返り血でべっとりな状態で劉備と合流する。
普通、劉備が喜ぶ姿が想像するだろう。が、何と、顔を真っ赤にして激怒するのである。劉備は趙雲から劉禅を受け取ると、「俺のこせがれの為に、大事な俺の部下が、趙雲が危うく死ぬところだった。こんな餓鬼の為に、名将が死にかけたんだ!」とかなんとか言いながら赤子だった劉禅を投げ飛ばすのである。
これだけだと「あー、そういう見方もあるか」と大体の人が思う一方で「そこまでやるか、普通」と思う訳だが、ここで思い出してほしい。そう、劉禅は頭が悪いのだ。端的に言えば阿呆で間抜けで馬鹿なのだ。故に、俗説が生まれる。
劉備が投げたせいで馬鹿になったんじゃないか、と。
打ちどころが悪かったとかでな。まぁ真相は闇の中だが、劉禅が馬鹿だったのは誰も否定しないあたり、三国志系のゲームで劉禅がまともな武将として出てくることはないだろうな。
無双4でも、劉禅の嫁である星彩が苦戦しはじめると「星彩!今助けに行くぞ!」とか言いながら敵陣に特攻して、予想通り総大将苦戦!至急救援せよ!って情報が流れて、星彩より早く死んでたしな。