イェニチェリは、オスマン・トルコの奴隷軍人だ。皇帝直属の親衛隊である。親衛隊というとドイツ第三帝国の親衛隊(シュラハトシュタッフェル)が有名だが、他にも色々あるし歴史も異なる。フランス共和国親衛隊とか、日本の近衛師団とかな。ヴァチカンにだってスイス衛兵隊があるのだ。そう言えばこいつらはヘルシングの第九次空中機動十字軍に参加してたな。
大体において、親衛隊というのは二つの要素がある。まず第一に精鋭部隊である事。場合によってはこれが先鋭化し、単純に精鋭部隊を親衛隊と呼んでるだけという事もある。ソ連の親衛隊とかはこれが該当する。第一親衛狙撃師団とか、第八親衛軍なんて風に名付けられているが、基本的にただの名誉称号である。たとえば第八親衛軍は、元はと言えば第六二軍だったのがスターリングラードを最後まで守り抜いた功績を表して親衛の名を冠されたのだ。
どうでもいいが、ここの司令官ワシーリー・チュイコフはおっぱいぷる~んぷる~んで有名な某総統シリーズの元ネタ映画にも出てくる。ヴァイトリングが降伏交渉しに行った先で相手をしてるのがワシーリーだ。ニコニコで見る機会はあんまりないが総統閣下達がけいおん!の世界に移動するようですシリーズには出てたな。
もうひとつの要素は、国家元首直属の部隊である事であり、又、主な任務として国家元首の身辺警護を行う場合が多い。その為、戦争になっても国家元首が戦場に出ない限り出征しないという場合も又多い。まぁ、イェニチェリの時代には王自ら軍隊を率いて戦場に出向くから当然出征する訳だが、近代の親衛隊は本国に鎮座している場合も多い訳である。
さて、これを中世の国家であるオスマン帝国(オスマン・トルコ自体は1900年代まであったが、イェニチェリができたのは中世)にあてはめるとどうなるか。AOCのトルコの文明解説で説明した通り、トルコ人というのは元々テュルク系遊牧民が南下してアナトリア半島とかに住み着き、イスラム化した民族である。
このテュルク系遊牧民というのは、世界史でよく名前を見る匈奴、突厥、ウイグル、キルギスなどを含み、又、キプチャク・ハン国とかチンギス・ハンとかの「ハン」はテュルク系言語で皇帝を意味する言葉である。ここまで言えば判ると思うが、テュルク系遊牧民はモンゴルのマングダイの様な軽装騎兵を軍の主力としていた。勿論、重装騎兵隊もあったがな。
そしてオスマン帝国を創始したオスマン一世は、テュルク系遊牧戦士団のリーダーであった。つまるところ、初期オスマン帝国の主力である遊牧騎兵は皇帝(の祖先)の昔の同僚な訳である。故に、皇帝が頭ごなしに命令しようとすると何だあの野郎俺らがいなかったらふんぞり返ってもいられない癖にとなってしまう訳である。
又、オスマン帝国では在郷騎士団も重要な戦力であった。これは、いわゆるティマール制によって任命された地方の徴税官達である。普段は地方の徴税官として働き、いざ戦争となれば馬を持って騎士として馳せ参じるのだな。しかしながら、徴税官と言っても要するに地方領主であり、封建領主である。ぶっちゃけ戦争になんか行かないで税金取ってた方が儲かる。痛い思いもしなくていいし、戦争に行くとなると武具、食料品、馬、従者の給料と色々金がかかるからな。だからできれば戦争に行きたくない訳である。
初期オスマン帝国は、こういう連中に軍事力を依存していたのである。皇帝の意のままに動き、どんな命令でも黙って忠実に実行する軍隊は持っていなかった。なので、遊牧騎兵や在郷騎士団に不利な法律を施行しようとしたり、大規模な戦争を起こそうとしたりしようとすれば、良くて反対運動、悪いと反乱が起きる可能性があった。実際、王が強力な軍隊を持たなかった欧州中世では、貴族と王の争いが頻発している。
こんな状況の中、イェニチェリが誕生した。キリスト教徒居住区の幼少男子を徴集して奴隷軍人とし、厳しい訓練を課すのである。幼少から訓練を重ねる事により彼らは屈強な兵士となり、精鋭イェニチェリ軍団が誕生するのだ。又、訓練という鞭だけでなく、免税とか高給といった特権を与えるという飴も与え、皇帝への忠誠心を育てた。又、彼らは皇帝と会食する権利があり、一般人には雲の上の人である皇帝と触れ合うという行為は彼らのエリート意識を大いに高めただろう。尚、奴隷が皇帝と会食ってどういう世界だと思うかもしれんが奴隷軍人王朝よりはまだ現実的だ。
ともかく、結果として、皇帝の命令に絶対服従する精鋭軍団が誕生したのである。まるで人形の様に統制された動きとまで言われた精鋭部隊だ。こうなれば、遊牧騎兵や在郷騎士団と皇帝との立場は一変する。今までは彼らの権益とかに配慮して、言わば部下に遠慮する政治をやってきたのである。変な事を言ったら、彼らが反旗を翻す可能性があったのだ。しかし、今や皇帝には強力なイェニチェリ軍団がある。「俺の言う事が聞けないのか? あん?」「や る か ?」という感じで脅しをかけられるのだ。そこまでしなくとも別にいいよ、俺の言うこと聞けないなら出てっても。もう君用済みだからとも言えるのだ。
こうなっては、遊牧騎兵も在郷騎士団も皇帝に従うしかない。彼らの権益は、何だかんだ言ってオスマン帝国あってこそのものだからな。こうして、皇帝の命令は確実に実行される事になりオスマン帝国は欧州より一世紀以上早く中央集権体制(絶対王制)を確立したのである。お陰で、オスマン帝国は地上最強の国家として中世終盤の大陸に君臨する事になった。
一般的に、封建制国家よりも絶対王制国家の方が強い。当たり前である。封建制国家は、言ってみればイェニチェリ誕生前のオスマン帝国みたいな側面がある。何か新しい法律を作ろうとしたりした時に「その権益俺によこせ」「いや俺によこせ」「好きにやれよ、でも俺の権益は保障してもらうぞ」なんてどっかでよく見るような光景が繰り広げられる国と、国家元首が「やるぞ」と決めたらそれを押し通せる国ではどっちが強いかなんて考える必要もない。
まぁ勿論、絶対王制側の王が余程の間抜けではないという条件はあるがな。そうは言っても、間抜けな王ってのは権益の亡者に権力をむしりとられて体制が後戻りするってのが大多数なんだが。それはともかく、オスマン帝国はこの中央集権体制と優秀な指導者、そして優れた軍事力と経済力によって史上稀に見る大発展を遂げた。見ての通りな。
黒海を手中にし、東はカスピ海西岸やイラン西部まで。紅海も完全に手中にし、ホワイトアフリカも制覇、アナトリアは勿論ルーマニアやギリシャを含む東欧諸国が存在するバルカン半島も完全に制圧している。オーストリア、ドイツに十分手が届く距離であり、事実、神聖ローマ帝国首都ウィーンは二度にわたって包囲されている。
しかし盛者必衰は世の常。歴史上日の沈まぬ国のひとつであったオスマン・トルコの衰退の主原因(の一つ)は、皮肉にもオスマン帝国の躍進を支えたイェニチェリであった。つまりだな、オスマン・トルコのスルタン(君主)はイェニチェリという手駒があったから強権を振るえた訳である。
ではイェニチェリが皇帝に反旗を翻したらどうなるか?
答えは一つだな。元々幼少期からの訓練という鞭、そして特権階級という飴の二つがキーだった。しかしながら、イェニチェリの拡充(元は歩兵だったのが砲兵、騎兵まで持つ様になり人員もかなり増やした)に伴い、幼少期に徴集するという体制を維持できなくなっていく。更に、特権に目がくらんだ連中が制度を破壊し、妻帯したり子供をイェニチェリにしたり(つまりイェニチェリの世襲化)する様になる。これでは首都にいるだけで地方領主と変わらない。
こうして肥え太ったイェニチェリ軍団はやがて政治にも介入する様になり、イェニチェリの気に入らない政策があれば皇帝、宰相を廃位、更迭したり、最悪の場合監禁したり暗殺したりするという事態に発展する。それでもオスマン帝国が強国ならばいいが、ティマール制の崩壊によって在郷騎士団が崩壊。つまり重騎兵隊が消滅し、欧州でテルシオやスウェーデン式大隊が開発される間、イェニチェリの装備と戦術は何も進化しなかった為、オスマン帝国の軍事力は急速に弱体化した。
やがて、オスマン帝国は瀕死の重病人とまで言われる弱体帝国と化し、欧州列強に領土を蚕食されていくのである。
どうでもいいが、今回の記事は一万三千字ほどある。そして、昨日一万字書いたところでフリーズして吹っ飛んだ。泣けるな。
大体において、親衛隊というのは二つの要素がある。まず第一に精鋭部隊である事。場合によってはこれが先鋭化し、単純に精鋭部隊を親衛隊と呼んでるだけという事もある。ソ連の親衛隊とかはこれが該当する。第一親衛狙撃師団とか、第八親衛軍なんて風に名付けられているが、基本的にただの名誉称号である。たとえば第八親衛軍は、元はと言えば第六二軍だったのがスターリングラードを最後まで守り抜いた功績を表して親衛の名を冠されたのだ。
どうでもいいが、ここの司令官ワシーリー・チュイコフはおっぱいぷる~んぷる~んで有名な某総統シリーズの元ネタ映画にも出てくる。ヴァイトリングが降伏交渉しに行った先で相手をしてるのがワシーリーだ。ニコニコで見る機会はあんまりないが総統閣下達がけいおん!の世界に移動するようですシリーズには出てたな。
もうひとつの要素は、国家元首直属の部隊である事であり、又、主な任務として国家元首の身辺警護を行う場合が多い。その為、戦争になっても国家元首が戦場に出ない限り出征しないという場合も又多い。まぁ、イェニチェリの時代には王自ら軍隊を率いて戦場に出向くから当然出征する訳だが、近代の親衛隊は本国に鎮座している場合も多い訳である。
さて、これを中世の国家であるオスマン帝国(オスマン・トルコ自体は1900年代まであったが、イェニチェリができたのは中世)にあてはめるとどうなるか。AOCのトルコの文明解説で説明した通り、トルコ人というのは元々テュルク系遊牧民が南下してアナトリア半島とかに住み着き、イスラム化した民族である。
このテュルク系遊牧民というのは、世界史でよく名前を見る匈奴、突厥、ウイグル、キルギスなどを含み、又、キプチャク・ハン国とかチンギス・ハンとかの「ハン」はテュルク系言語で皇帝を意味する言葉である。ここまで言えば判ると思うが、テュルク系遊牧民はモンゴルのマングダイの様な軽装騎兵を軍の主力としていた。勿論、重装騎兵隊もあったがな。
そしてオスマン帝国を創始したオスマン一世は、テュルク系遊牧戦士団のリーダーであった。つまるところ、初期オスマン帝国の主力である遊牧騎兵は皇帝(の祖先)の昔の同僚な訳である。故に、皇帝が頭ごなしに命令しようとすると何だあの野郎俺らがいなかったらふんぞり返ってもいられない癖にとなってしまう訳である。
又、オスマン帝国では在郷騎士団も重要な戦力であった。これは、いわゆるティマール制によって任命された地方の徴税官達である。普段は地方の徴税官として働き、いざ戦争となれば馬を持って騎士として馳せ参じるのだな。しかしながら、徴税官と言っても要するに地方領主であり、封建領主である。ぶっちゃけ戦争になんか行かないで税金取ってた方が儲かる。痛い思いもしなくていいし、戦争に行くとなると武具、食料品、馬、従者の給料と色々金がかかるからな。だからできれば戦争に行きたくない訳である。
初期オスマン帝国は、こういう連中に軍事力を依存していたのである。皇帝の意のままに動き、どんな命令でも黙って忠実に実行する軍隊は持っていなかった。なので、遊牧騎兵や在郷騎士団に不利な法律を施行しようとしたり、大規模な戦争を起こそうとしたりしようとすれば、良くて反対運動、悪いと反乱が起きる可能性があった。実際、王が強力な軍隊を持たなかった欧州中世では、貴族と王の争いが頻発している。
こんな状況の中、イェニチェリが誕生した。キリスト教徒居住区の幼少男子を徴集して奴隷軍人とし、厳しい訓練を課すのである。幼少から訓練を重ねる事により彼らは屈強な兵士となり、精鋭イェニチェリ軍団が誕生するのだ。又、訓練という鞭だけでなく、免税とか高給といった特権を与えるという飴も与え、皇帝への忠誠心を育てた。又、彼らは皇帝と会食する権利があり、一般人には雲の上の人である皇帝と触れ合うという行為は彼らのエリート意識を大いに高めただろう。尚、奴隷が皇帝と会食ってどういう世界だと思うかもしれんが奴隷軍人王朝よりはまだ現実的だ。
ともかく、結果として、皇帝の命令に絶対服従する精鋭軍団が誕生したのである。まるで人形の様に統制された動きとまで言われた精鋭部隊だ。こうなれば、遊牧騎兵や在郷騎士団と皇帝との立場は一変する。今までは彼らの権益とかに配慮して、言わば部下に遠慮する政治をやってきたのである。変な事を言ったら、彼らが反旗を翻す可能性があったのだ。しかし、今や皇帝には強力なイェニチェリ軍団がある。「俺の言う事が聞けないのか? あん?」「や る か ?」という感じで脅しをかけられるのだ。そこまでしなくとも別にいいよ、俺の言うこと聞けないなら出てっても。もう君用済みだからとも言えるのだ。
こうなっては、遊牧騎兵も在郷騎士団も皇帝に従うしかない。彼らの権益は、何だかんだ言ってオスマン帝国あってこそのものだからな。こうして、皇帝の命令は確実に実行される事になりオスマン帝国は欧州より一世紀以上早く中央集権体制(絶対王制)を確立したのである。お陰で、オスマン帝国は地上最強の国家として中世終盤の大陸に君臨する事になった。
一般的に、封建制国家よりも絶対王制国家の方が強い。当たり前である。封建制国家は、言ってみればイェニチェリ誕生前のオスマン帝国みたいな側面がある。何か新しい法律を作ろうとしたりした時に「その権益俺によこせ」「いや俺によこせ」「好きにやれよ、でも俺の権益は保障してもらうぞ」なんてどっかでよく見るような光景が繰り広げられる国と、国家元首が「やるぞ」と決めたらそれを押し通せる国ではどっちが強いかなんて考える必要もない。
まぁ勿論、絶対王制側の王が余程の間抜けではないという条件はあるがな。そうは言っても、間抜けな王ってのは権益の亡者に権力をむしりとられて体制が後戻りするってのが大多数なんだが。それはともかく、オスマン帝国はこの中央集権体制と優秀な指導者、そして優れた軍事力と経済力によって史上稀に見る大発展を遂げた。見ての通りな。
黒海を手中にし、東はカスピ海西岸やイラン西部まで。紅海も完全に手中にし、ホワイトアフリカも制覇、アナトリアは勿論ルーマニアやギリシャを含む東欧諸国が存在するバルカン半島も完全に制圧している。オーストリア、ドイツに十分手が届く距離であり、事実、神聖ローマ帝国首都ウィーンは二度にわたって包囲されている。
しかし盛者必衰は世の常。歴史上日の沈まぬ国のひとつであったオスマン・トルコの衰退の主原因(の一つ)は、皮肉にもオスマン帝国の躍進を支えたイェニチェリであった。つまりだな、オスマン・トルコのスルタン(君主)はイェニチェリという手駒があったから強権を振るえた訳である。
ではイェニチェリが皇帝に反旗を翻したらどうなるか?
答えは一つだな。元々幼少期からの訓練という鞭、そして特権階級という飴の二つがキーだった。しかしながら、イェニチェリの拡充(元は歩兵だったのが砲兵、騎兵まで持つ様になり人員もかなり増やした)に伴い、幼少期に徴集するという体制を維持できなくなっていく。更に、特権に目がくらんだ連中が制度を破壊し、妻帯したり子供をイェニチェリにしたり(つまりイェニチェリの世襲化)する様になる。これでは首都にいるだけで地方領主と変わらない。
こうして肥え太ったイェニチェリ軍団はやがて政治にも介入する様になり、イェニチェリの気に入らない政策があれば皇帝、宰相を廃位、更迭したり、最悪の場合監禁したり暗殺したりするという事態に発展する。それでもオスマン帝国が強国ならばいいが、ティマール制の崩壊によって在郷騎士団が崩壊。つまり重騎兵隊が消滅し、欧州でテルシオやスウェーデン式大隊が開発される間、イェニチェリの装備と戦術は何も進化しなかった為、オスマン帝国の軍事力は急速に弱体化した。
やがて、オスマン帝国は瀕死の重病人とまで言われる弱体帝国と化し、欧州列強に領土を蚕食されていくのである。
どうでもいいが、今回の記事は一万三千字ほどある。そして、昨日一万字書いたところでフリーズして吹っ飛んだ。泣けるな。