ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。私はあんまり元気ではない。まぁいつもの事だが。基本的に現在の私は大学在籍時の一番悪い時ぐらいであり、仮に大学行ってても授業には確実に出てないレベルである。そんな状態の私の調子がいい訳が無い。まぁ何とか生きておる程度である。
ま、そんな事は限りなくどうでもいいので、最近聞き続けて中毒になってる00のドラマCDでも貼り付けて本題に行こう。
だぶるおー
アトデアヤマリマス、サッカガ!! ドゲザモサセテイタダキマス、サッカガ!!
デモ、ジムショニナンテイエバ・・・
さて、なんか昨日ボイスチャットで火縄銃がどうとかこうとかいう話になったのでその辺の話でもする事にする。なんか火縄銃が普及したのは素人でも戦争できるようになるからだと思ってたらしいからそうじゃないという話だ。
主に射撃兵装が歴史上どういう変遷を遂げてきたという話になるかな。ただまぁ私の専門じゃない筈の西洋史がメインの話になるが。
古代地中海世界の覇者であったローマの主力が重装歩兵であり、整然と並んだローマ市民歩兵の両翼に補助兵力の騎兵がくっついていた事は有名である。古代において、戦場の主役は歩兵であった。彼らは高度に訓練され、戦列を乱さずに行軍、戦闘する事が可能であった。逆に言えば、のちの戦争の花形である騎兵は脇役であった。
これにはいくつか理由があるが、まぁその中でも今回に特に関係あるのを言えば重装騎兵が歩兵の戦列に突っ込んでも死ぬだけだからである。基本的に歩兵は槍を装備しており、ちゃんと陣形を組んだ歩兵が隙間無く前に槍を突き出す。するとハリネズミorアイアンメイデンみたいになる訳だ。そんな歩兵の戦列正面に騎兵が突っ込んだら…後はわかるな?という状態になる。
しかし、つい百年前ぐらいまでは騎兵は決戦兵種であった。既に時代遅れとなったとは言え第二次世界大戦初期にもまだ騎兵はいたのである。これは何故かと言うと、要するに、敵歩兵の陣形を何らかの方法で崩し、戦列の裂け目に重装騎兵を突っ込ませればそれで勝敗が決まるからだ。
まぁ普仏戦争の頃にはもう戦列なんてなくなってたが、側面に回りこんで突撃すると意外と効果があったりする。第一次世界大戦で機関銃が本格的に使われる様になって、正面からの歩兵突撃がただの自殺行為になったのも事実だ。しかし逆に言えば正面からの突撃が自殺行為なのであって正面以外からは誰も自殺行為なんて言ってないのである。
実際、第一次世界大戦でのドイツ軍はポーランド騎兵に苦戦している場面が結構ある。ちゃんと機関銃を据えた陣地に騎兵が突撃するならどうとでもなるが、そうでない場所にひょっこり出てくると困る。当時はフルオートで撃てる銃なんてそう無いからな。殆どがボルトアクション銃(一発撃つごとにレバーをこっきんこっきん動かさないといけない銃、当然連射速度は遅い)だ。
つまりまとめると、まず第一に騎兵は決戦兵種。但し騎兵が勝負を決める為には条件が必要で1:正面から突撃する場合、歩兵の陣形が乱れている事 2:もしくは側面に回りこんで突撃する事のどちらかを満たす必要がある、という事である。
ローマ軍団が主力を重装歩兵のとし、両翼に騎兵を置いていたと言った。この両翼の騎兵は、要するに条件2を満たされない為に存在しているとも言える。ローマ軍の主戦術は重装歩兵が戦列を乱さずのっしのっしと歩いて敵に接触、押し合いへし合いしてそのまま押し切るものだ。そこに射撃兵の出る幕は殆どない。
何故か。
射撃武器というのは、弓にしろボウガンにしろ火縄銃にしろ、それ自体が結構重い。更に弾なり矢なりを別口で装備しなければならず、又、機器の操作が複雑な為重い装備も望ましくない。つまり弓兵兼重装槍兵なんてのはほぼ不可能という事である。いや、別に重い鎧付けちゃいけないなんて決まりはないんだが、そんなん着たばかりに射撃武器の操作がおろそかになったら本末転倒である。
となると、射撃兵は近接戦闘なんてできない射撃専門の兵隊という事になる。では、ALL射撃兵とALL重装歩兵で戦争したらどうなるかと言えば、その射撃武器が機関銃とかでない限り確実に歩兵が勝つ。
どうせ射撃兵は近接戦闘ができないんだから、歩兵は何も考えず射撃兵の群れへ突っ込めばOK。射撃兵は自分達の所へ歩兵が到達する前に連中を全員射殺せねばならないがそんなもん不可能なのである。それこそ機関銃が必要だ。弓やボウガンでは、否、それが火縄銃であっても余程の兵力差がない限り無理と言える。
ローマ時代には既に弓と投槍という射撃武器があったが、これが結局主力武器にならなかったのはそのせいである。徒歩射撃兵も重装歩兵も「歩兵」だが、やはり「歩兵」と言えば盾とか剣とか槍を持ってる兵隊の事であった。ちなみにさっき騎兵について述べたが、勿論騎兵なんかに突撃されたら即死である。突撃発起から到達までの時間が短いからな。
但し、射撃武器の難しいところは何だかんだで戦場で一番殺傷力があるのは矢だったという点でもある。近接戦闘は発生しにくいのもあるが、割と人は死ににくい。やはり射撃で死ぬ人の方が多いのだ。しかしながら、主力武器になるほど強くもない。微妙な線なのである。
しかし、射撃武器は主力にならないにしてもある一つの強力な要素があった。
歩兵の陣列を崩せるのである。歩兵の槍が届かない距離から一方的に攻撃できる射撃兵器は、歩兵同士での押し合いへし合いに持ち込まずとも敵歩兵の陣形を乱す事ができる。だってそうだろう、矢に当たって死んだ奴が出たらそこの陣形は崩れるんだから。そこに騎兵突撃をかませば一気に勝負を決める事ができる。
まぁ、ローマ帝国の時代はともかく中世に入ると陣列を組まない場合が物凄い増える(暗黒時代の名は伊達ではない)んだが、それでも、矢の撃ち合いで戦争が始まって相手が怯んだらその隙を見逃さず騎兵突撃、というのは基本であった。まぁ言わば人が死にまくる牽制みたいなもんである。
ちなみに、よく「ボウガンは素人でも戦争ができる画期的な兵器であり、それ故に戦争の主力になりそうになった。しかし騎士階級などの存在意義が危ぶまれる為潰された」という説があるが完全にとは言わんが誤りである。確かに、時のローマ教皇がボウガンを「非人道的兵器」として非キリスト教徒以外への使用を禁ずるお触れを出したりもしている。
しかし、そういうお触れが出た時代というのは、そもそも戦争自体がイカサマ戦争時代だった事を頭に入れなければならない。当時の戦争は今でいう士官、将校にあたる貴族をとっ捕まえて身代金を要求するのが基本である。そんな時代に問答無用で人を殺しまくるボウガンなんぞ不似合いもいいところだったのだ。
又、当時は貴族階級以外で軍隊を形成するのは従者連中と傭兵で、射撃兵を含む徒歩の兵隊は殆どが傭兵であった。この傭兵というのが貴族に負けず劣らずのナイスガイsで、貴族様の都合に付き合って死ねるかと言わんばかりに戦った"フリ"をするだけというのがよくあった。激戦の一日が終わって双方の死者一桁なんてのもあった時代なのである。
傭兵にとっても大歓迎なお触れだったろうな。矢に当たって死んだフリはできないし。
但し、弓と違ってボウガンが素人にも扱いやすい兵器だったのは事実である。もうちょっと正確に言うと、弓は個人の特性に左右される部分が大きい。習熟に時間がかかる上、特にイギリスのロングボウや日本の和弓に代表される長弓を扱うには相当の腕力が必要とされるからである。
と言うか、はっきり言って農耕民族にはあまり馴染まない武器で、むしろ普段から使っている狩猟民族(と言うか遊牧民族)は大量の優秀な射手を容易に確保する事ができた。農耕民族は普段弓なんて使わないからな。世界的に珍しい重装弓騎兵が発達した日本と長弓隊の伝統を持つブリトンぐらいじゃないか、農耕民族で弓が主力の一つにされたのって。
さて、時代が下り火縄銃とかが登場する時代になる。まず一言言っておくが、銃というものはアルクビューズと呼ばれる初期の火縄銃登場(大体1410年ごろ)からイギリスのベンジャミン・ロビンスがライフリングを発明する1742年まで、銃というものの実質的な進化は全く無いと言っていい。
まず最初に、我々も御馴染みの火縄銃が発明される。その後、1610年に以前触れたフリントロック、火打石式銃が開発され、欧州では普及する。しかし火縄銃と火打石式の何が違うって火薬に火をつける方法が違うだけであり、しかも不発の可能性は火打石式の方が高い。
火縄銃は雨になると撃てなくなるイメージがあるが、実際には火皿って部分を保護すれば問題なく撃てるし火薬が湿ってしまえば撃てないのはどちらも一緒である。単純に、火打石式は火縄銃と比べて保管が簡単(火縄銃は火縄を管理するのがめんどくさい。専門知識が要るとか習熟が必要とかでなく本当にめんどくさい。濡れると撃てんからな)なだけだ。
又、紙薬莢とか早合というのもあった。これは、規定の火薬量と弾をあらかじめ個別に紙に包んでおくものだ。本来はまず火薬袋から火薬を取り出して入れ、次に弾を弾入れから取り出して入れていたのだが、それをいっぺんにやれるのだ。ただまぁ要するにちょっと便利になっただけであって本質的に何かが変わった訳ではない。
つまり、火縄銃発明からライフル発明までの三百年以上銃は全く進化していないのである。まぁそれを言うと今の銃も結構そういうところあるんだけどな。拳銃とか、コルトM1911(ガバメント)登場以来本質的には全く進化しておらん。名前の通り1911年採用の銃だからそろそろ一世紀だな。
で、そんな銃の基本となる仕様はまず前装式(火薬及び弾を銃口から入れる方式)である事。そして滑腔銃である事である。滑腔というのは、銃身にライフリング(螺旋状の溝)が無いものの事を指す。現代でもショットガンなんかはこれだ。
この仕様から導き出される当時の銃の性能は連射速度が遅く命中率も低い上射程も短いというところである。割と散々な事書いてるが、まぁしょうがない。事実だから。ただ、威力は今の銃と変わらないレベルである。まぁ貫通力は劣るが、衝撃力はなかなかのものがある。
尚、以降の文章をいちいち火縄銃と火打石式を分けて書こうとすると難しい。後で登場するスペインの初期テルシオは火縄銃だったらしいが、オラニエ公マウリッツのオランダ大隊が火縄銃だったか火打石式だったかは議論があるし、スウェーデン王グスタフ・アドルフの軍隊は歯輪発火銃(ホイールロック)という珍しい方式だった。なので、以降は銃の事を全部「火縄銃」と呼称する。めんどくさいし。
それで、だ。火縄銃がちゃんと主力兵器の一つとして採用され始めるのは、十六世紀のスペイン最強伝説を支えたテルシオ軍団、及びそのテルシオ陣形においてである。それまでの従来型傭兵(イカサマ戦争型のことな)による火縄銃の運用では火縄銃は主力になりえなかった。
何せ発射速度も遅ければ命中率も悪いので、火縄銃を持った大量の兵隊を戦場の一点に集結させるなりして一斉発射しないとそもそも当たらないのだ。ナポレオン戦争の頃だったか、火縄銃の有効射程の目安は敵指揮官の瞳が見える距離と言われておる。
ただでさえ運用に金と手間のかかる火縄座右は傭兵軍団の手に余るというのに、戦場でこんな使い方しないといけないとなるととてもではないが傭兵の手には負えなかったのだな。なので、傭兵軍団は密集槍方陣がやはり主流だった。
そこでスペインは、馬鹿でも使える火縄銃100の方法を考えた。それがテルシオ軍団でありテルシオ陣形である。兵隊は傭兵だが、各部隊に配置する指揮官はスペイン人で、火縄銃とかにかかる費用もスペインが出す。傭兵部隊を戦争総合請負会社として雇うのではなく、傭兵を兵隊として雇うのである。
陣形としては、まず長槍隊で方陣を組む。その方陣の周囲に薄く火縄銃兵を配置、更に方陣の四隅に火縄銃隊を配置する。まぁ言葉で言っても判りにくいから何かいい画像ないかなと思ったら、wikipedia先生のところに判り易い画像があった。
クリックで拡大。アルクビューズは火縄銃、マスケットはまぁ強い火縄銃と捉えてくれればいい。パイクは長槍の事だ。こういう配置にしておいて、敵の歩兵隊が近付いてきたら火縄銃が前列から順次一斉射撃。敵の出鼻を挫くのである。射撃した火縄銃兵は役に立たないという事で後ろに退避。それでも敵が突撃してくるなら長槍隊で受け止める。例え重装槍騎兵の突撃であろうとも、火縄銃で数を減らされた上に20~30列もの縦深がある槍の群れを潰すのは無理だ。
逆にテルシオの火縄銃をぶっぱなして敵が崩れたら、のっしのっしと歩いて槍兵で制圧する。但し、さっきも言った通り縦に20~30列もある事から判る通り行軍すら困難な陣形なので、事実上迎撃専用陣形で攻めに使う事は殆どなかった。テルシオは歩兵で構成する要塞と言われるのはこの為である。
まぁテルシオの場合は、そもそも馬鹿でも使えるがモットーなので、整然とした行軍を求める事自体に無理があると言えばそうである。
これを改良したのがネーデルラント(オランダな)のオラニエ公マウリッツである。マウリッツはまずテルシオ自体を小型化した。密集槍方陣の縦深を10列に削減したのである。テルシオは巨大故に攻撃で崩す事は難しいが、同じくに巨大故に自分から動くのが難しく、又、後ろの方の兵隊は遊んでる場合が多い。そこで縦を浅くしたのだな。
更に火縄銃兵の数を増加。テルシオでは槍と火縄銃の比率が2:3だったのがオランダ大隊では3:2と逆転している。そして一番注目されるべくは信長の三段撃ちと同じ方法を採用した事である。つまり、火縄銃隊は最前列が射撃したら最後列まで走り、装填。その間に二列目が前に出て射撃、やはり最後尾へ走って装填。その間に三列目が、という流れである。
世の中には長篠の三段撃ちを否定したくてあんな戦術実現不可能だと言い張る愚か者もいるが、マウリッツのオランダ式大隊以降、火縄銃の運用として基本中の基本となったのがこの三段撃ち戦法である。この戦法を向こうの言い方でいうとカウンター・マーチになる。これによって火縄銃の火力が格段に増し、敵の密集槍方陣を蜂の巣にして陣形を崩すのが容易になった。後は騎兵を突撃させたり、こちらの槍方陣で蹂躙、制圧したりすればいいのだ。
ただこれ、相当訓練しないとできない。オランダ軍も傭兵が多かったが、従来の傭兵では正直話にならなかった。なので、マウリッツはマニュアルを作って傭兵に厳しい訓練を課した。オランダ式大隊になって初めて火縄銃は戦場の主役に躍り出たと言えるが、訓練量はむしろ以前より増えている。
テルシオ軍団以前からの密集槍方陣自体、馬鹿でもできる長槍の使い方100なところが大きいからな。取り敢えず列作って槍前に突き出してればいいんだから。まぁその方陣を、マウリッツみたいに前進後退自由自在に機動させようとすると凄い訓練が必要になるので、密集槍方陣担当の皆さんも大分訓練させられている。
ちなみに、オランダ式教練による厳しい訓練の結果、盗賊と同レベルだった傭兵の皆さんが大分更正したらしい。「なんという事でしょうか。我々オランダ市民は泊り込みの兵隊と娘を留守番させる事が恐ろしくないのです」とか書いてある資料が残っておる。元がどんなんだったか大体判るな。某ヨットスクールの言う事も、あながち的外ればかりでもないのである。
流石にアレはどうかと思うが。人死んでるしなぁ。
で、最後に三十年戦争の英雄グスタフ・アドルフだが、彼はスウェーデン王であり、徴兵制を敷いて強兵に努めた。ただこれは、別に素人が戦争できるようになったからとかそういう理由ではなく、単純に数が揃えられる事、そして傭兵と違って裏切らないのが主な理由であろう。古今東西、傭兵が戦争のプロという時代、地域は少ない。殆どの場合はイカサマ戦争の代表なのだ。又、カウンター・マーチをさらに改良した漸進射撃という射撃法も編み出している。
ちなみに、グスタフ・アドルフのスウェーデン式大隊の凄いところは砲兵を配備したところである。火縄銃の話から離れてしまうからあまり言わないが、火縄銃兵のみならず砲兵によって密集槍方陣を耕し、崩れたところに騎兵が突撃し、最後にはスウェーデンの密集槍方陣が制圧する。この時、テルシオと違って火縄銃兵は密集槍方陣についていく。
この、砲が耕し騎兵が蹂躙し歩兵が制圧するというのは以後の戦争の基本スタイルであり、形を変えて現代にも継承されている。
さて、ここまで読んで鋭い読者はお気付きだろうが、火縄銃兵はあくまで敵密集槍方陣を崩す為に使われている。テルシオも、近付いてくる敵歩兵(もしくは騎兵)に射撃で痛打を与えて有利に立つ事を目的としていた。つまり、そういう意味では槍を装備した歩兵こそがいまだ主力だった訳である。騎兵が突撃するのも、密集槍方陣を崩す為だからな。これは、前に説明した射撃兵は近付かれたら即死という特性がまだまだ残っていたからである。
この特性がなくなるのは、銃剣が発明されてからだ。はっきり言って火打石式の発明なんぞより銃剣発明の方が余程画期的だった。何故なら、火縄銃兵はこの銃剣を装備する事によって槍を装備したも同然になったからである。こうして密集槍方陣は消え、戦場の歩兵は全て射撃兵となったのである。
火縄銃が戦場を席巻したのは、第一に敵歩兵陣を崩す為であり、第二に銃剣が発明されたからであった。
ま、そんな事は限りなくどうでもいいので、最近聞き続けて中毒になってる00のドラマCDでも貼り付けて本題に行こう。
だぶるおー
アトデアヤマリマス、サッカガ!! ドゲザモサセテイタダキマス、サッカガ!!
デモ、ジムショニナンテイエバ・・・
さて、なんか昨日ボイスチャットで火縄銃がどうとかこうとかいう話になったのでその辺の話でもする事にする。なんか火縄銃が普及したのは素人でも戦争できるようになるからだと思ってたらしいからそうじゃないという話だ。
主に射撃兵装が歴史上どういう変遷を遂げてきたという話になるかな。ただまぁ私の専門じゃない筈の西洋史がメインの話になるが。
古代地中海世界の覇者であったローマの主力が重装歩兵であり、整然と並んだローマ市民歩兵の両翼に補助兵力の騎兵がくっついていた事は有名である。古代において、戦場の主役は歩兵であった。彼らは高度に訓練され、戦列を乱さずに行軍、戦闘する事が可能であった。逆に言えば、のちの戦争の花形である騎兵は脇役であった。
これにはいくつか理由があるが、まぁその中でも今回に特に関係あるのを言えば重装騎兵が歩兵の戦列に突っ込んでも死ぬだけだからである。基本的に歩兵は槍を装備しており、ちゃんと陣形を組んだ歩兵が隙間無く前に槍を突き出す。するとハリネズミorアイアンメイデンみたいになる訳だ。そんな歩兵の戦列正面に騎兵が突っ込んだら…後はわかるな?という状態になる。
しかし、つい百年前ぐらいまでは騎兵は決戦兵種であった。既に時代遅れとなったとは言え第二次世界大戦初期にもまだ騎兵はいたのである。これは何故かと言うと、要するに、敵歩兵の陣形を何らかの方法で崩し、戦列の裂け目に重装騎兵を突っ込ませればそれで勝敗が決まるからだ。
まぁ普仏戦争の頃にはもう戦列なんてなくなってたが、側面に回りこんで突撃すると意外と効果があったりする。第一次世界大戦で機関銃が本格的に使われる様になって、正面からの歩兵突撃がただの自殺行為になったのも事実だ。しかし逆に言えば正面からの突撃が自殺行為なのであって正面以外からは誰も自殺行為なんて言ってないのである。
実際、第一次世界大戦でのドイツ軍はポーランド騎兵に苦戦している場面が結構ある。ちゃんと機関銃を据えた陣地に騎兵が突撃するならどうとでもなるが、そうでない場所にひょっこり出てくると困る。当時はフルオートで撃てる銃なんてそう無いからな。殆どがボルトアクション銃(一発撃つごとにレバーをこっきんこっきん動かさないといけない銃、当然連射速度は遅い)だ。
つまりまとめると、まず第一に騎兵は決戦兵種。但し騎兵が勝負を決める為には条件が必要で1:正面から突撃する場合、歩兵の陣形が乱れている事 2:もしくは側面に回りこんで突撃する事のどちらかを満たす必要がある、という事である。
ローマ軍団が主力を重装歩兵のとし、両翼に騎兵を置いていたと言った。この両翼の騎兵は、要するに条件2を満たされない為に存在しているとも言える。ローマ軍の主戦術は重装歩兵が戦列を乱さずのっしのっしと歩いて敵に接触、押し合いへし合いしてそのまま押し切るものだ。そこに射撃兵の出る幕は殆どない。
何故か。
射撃武器というのは、弓にしろボウガンにしろ火縄銃にしろ、それ自体が結構重い。更に弾なり矢なりを別口で装備しなければならず、又、機器の操作が複雑な為重い装備も望ましくない。つまり弓兵兼重装槍兵なんてのはほぼ不可能という事である。いや、別に重い鎧付けちゃいけないなんて決まりはないんだが、そんなん着たばかりに射撃武器の操作がおろそかになったら本末転倒である。
となると、射撃兵は近接戦闘なんてできない射撃専門の兵隊という事になる。では、ALL射撃兵とALL重装歩兵で戦争したらどうなるかと言えば、その射撃武器が機関銃とかでない限り確実に歩兵が勝つ。
どうせ射撃兵は近接戦闘ができないんだから、歩兵は何も考えず射撃兵の群れへ突っ込めばOK。射撃兵は自分達の所へ歩兵が到達する前に連中を全員射殺せねばならないがそんなもん不可能なのである。それこそ機関銃が必要だ。弓やボウガンでは、否、それが火縄銃であっても余程の兵力差がない限り無理と言える。
ローマ時代には既に弓と投槍という射撃武器があったが、これが結局主力武器にならなかったのはそのせいである。徒歩射撃兵も重装歩兵も「歩兵」だが、やはり「歩兵」と言えば盾とか剣とか槍を持ってる兵隊の事であった。ちなみにさっき騎兵について述べたが、勿論騎兵なんかに突撃されたら即死である。突撃発起から到達までの時間が短いからな。
但し、射撃武器の難しいところは何だかんだで戦場で一番殺傷力があるのは矢だったという点でもある。近接戦闘は発生しにくいのもあるが、割と人は死ににくい。やはり射撃で死ぬ人の方が多いのだ。しかしながら、主力武器になるほど強くもない。微妙な線なのである。
しかし、射撃武器は主力にならないにしてもある一つの強力な要素があった。
歩兵の陣列を崩せるのである。歩兵の槍が届かない距離から一方的に攻撃できる射撃兵器は、歩兵同士での押し合いへし合いに持ち込まずとも敵歩兵の陣形を乱す事ができる。だってそうだろう、矢に当たって死んだ奴が出たらそこの陣形は崩れるんだから。そこに騎兵突撃をかませば一気に勝負を決める事ができる。
まぁ、ローマ帝国の時代はともかく中世に入ると陣列を組まない場合が物凄い増える(暗黒時代の名は伊達ではない)んだが、それでも、矢の撃ち合いで戦争が始まって相手が怯んだらその隙を見逃さず騎兵突撃、というのは基本であった。まぁ言わば人が死にまくる牽制みたいなもんである。
ちなみに、よく「ボウガンは素人でも戦争ができる画期的な兵器であり、それ故に戦争の主力になりそうになった。しかし騎士階級などの存在意義が危ぶまれる為潰された」という説があるが完全にとは言わんが誤りである。確かに、時のローマ教皇がボウガンを「非人道的兵器」として非キリスト教徒以外への使用を禁ずるお触れを出したりもしている。
しかし、そういうお触れが出た時代というのは、そもそも戦争自体がイカサマ戦争時代だった事を頭に入れなければならない。当時の戦争は今でいう士官、将校にあたる貴族をとっ捕まえて身代金を要求するのが基本である。そんな時代に問答無用で人を殺しまくるボウガンなんぞ不似合いもいいところだったのだ。
又、当時は貴族階級以外で軍隊を形成するのは従者連中と傭兵で、射撃兵を含む徒歩の兵隊は殆どが傭兵であった。この傭兵というのが貴族に負けず劣らずのナイスガイsで、貴族様の都合に付き合って死ねるかと言わんばかりに戦った"フリ"をするだけというのがよくあった。激戦の一日が終わって双方の死者一桁なんてのもあった時代なのである。
傭兵にとっても大歓迎なお触れだったろうな。矢に当たって死んだフリはできないし。
但し、弓と違ってボウガンが素人にも扱いやすい兵器だったのは事実である。もうちょっと正確に言うと、弓は個人の特性に左右される部分が大きい。習熟に時間がかかる上、特にイギリスのロングボウや日本の和弓に代表される長弓を扱うには相当の腕力が必要とされるからである。
と言うか、はっきり言って農耕民族にはあまり馴染まない武器で、むしろ普段から使っている狩猟民族(と言うか遊牧民族)は大量の優秀な射手を容易に確保する事ができた。農耕民族は普段弓なんて使わないからな。世界的に珍しい重装弓騎兵が発達した日本と長弓隊の伝統を持つブリトンぐらいじゃないか、農耕民族で弓が主力の一つにされたのって。
さて、時代が下り火縄銃とかが登場する時代になる。まず一言言っておくが、銃というものはアルクビューズと呼ばれる初期の火縄銃登場(大体1410年ごろ)からイギリスのベンジャミン・ロビンスがライフリングを発明する1742年まで、銃というものの実質的な進化は全く無いと言っていい。
まず最初に、我々も御馴染みの火縄銃が発明される。その後、1610年に以前触れたフリントロック、火打石式銃が開発され、欧州では普及する。しかし火縄銃と火打石式の何が違うって火薬に火をつける方法が違うだけであり、しかも不発の可能性は火打石式の方が高い。
火縄銃は雨になると撃てなくなるイメージがあるが、実際には火皿って部分を保護すれば問題なく撃てるし火薬が湿ってしまえば撃てないのはどちらも一緒である。単純に、火打石式は火縄銃と比べて保管が簡単(火縄銃は火縄を管理するのがめんどくさい。専門知識が要るとか習熟が必要とかでなく本当にめんどくさい。濡れると撃てんからな)なだけだ。
又、紙薬莢とか早合というのもあった。これは、規定の火薬量と弾をあらかじめ個別に紙に包んでおくものだ。本来はまず火薬袋から火薬を取り出して入れ、次に弾を弾入れから取り出して入れていたのだが、それをいっぺんにやれるのだ。ただまぁ要するにちょっと便利になっただけであって本質的に何かが変わった訳ではない。
つまり、火縄銃発明からライフル発明までの三百年以上銃は全く進化していないのである。まぁそれを言うと今の銃も結構そういうところあるんだけどな。拳銃とか、コルトM1911(ガバメント)登場以来本質的には全く進化しておらん。名前の通り1911年採用の銃だからそろそろ一世紀だな。
で、そんな銃の基本となる仕様はまず前装式(火薬及び弾を銃口から入れる方式)である事。そして滑腔銃である事である。滑腔というのは、銃身にライフリング(螺旋状の溝)が無いものの事を指す。現代でもショットガンなんかはこれだ。
この仕様から導き出される当時の銃の性能は連射速度が遅く命中率も低い上射程も短いというところである。割と散々な事書いてるが、まぁしょうがない。事実だから。ただ、威力は今の銃と変わらないレベルである。まぁ貫通力は劣るが、衝撃力はなかなかのものがある。
尚、以降の文章をいちいち火縄銃と火打石式を分けて書こうとすると難しい。後で登場するスペインの初期テルシオは火縄銃だったらしいが、オラニエ公マウリッツのオランダ大隊が火縄銃だったか火打石式だったかは議論があるし、スウェーデン王グスタフ・アドルフの軍隊は歯輪発火銃(ホイールロック)という珍しい方式だった。なので、以降は銃の事を全部「火縄銃」と呼称する。めんどくさいし。
それで、だ。火縄銃がちゃんと主力兵器の一つとして採用され始めるのは、十六世紀のスペイン最強伝説を支えたテルシオ軍団、及びそのテルシオ陣形においてである。それまでの従来型傭兵(イカサマ戦争型のことな)による火縄銃の運用では火縄銃は主力になりえなかった。
何せ発射速度も遅ければ命中率も悪いので、火縄銃を持った大量の兵隊を戦場の一点に集結させるなりして一斉発射しないとそもそも当たらないのだ。ナポレオン戦争の頃だったか、火縄銃の有効射程の目安は敵指揮官の瞳が見える距離と言われておる。
ただでさえ運用に金と手間のかかる火縄座右は傭兵軍団の手に余るというのに、戦場でこんな使い方しないといけないとなるととてもではないが傭兵の手には負えなかったのだな。なので、傭兵軍団は密集槍方陣がやはり主流だった。
そこでスペインは、馬鹿でも使える火縄銃100の方法を考えた。それがテルシオ軍団でありテルシオ陣形である。兵隊は傭兵だが、各部隊に配置する指揮官はスペイン人で、火縄銃とかにかかる費用もスペインが出す。傭兵部隊を戦争総合請負会社として雇うのではなく、傭兵を兵隊として雇うのである。
陣形としては、まず長槍隊で方陣を組む。その方陣の周囲に薄く火縄銃兵を配置、更に方陣の四隅に火縄銃隊を配置する。まぁ言葉で言っても判りにくいから何かいい画像ないかなと思ったら、wikipedia先生のところに判り易い画像があった。
クリックで拡大。アルクビューズは火縄銃、マスケットはまぁ強い火縄銃と捉えてくれればいい。パイクは長槍の事だ。こういう配置にしておいて、敵の歩兵隊が近付いてきたら火縄銃が前列から順次一斉射撃。敵の出鼻を挫くのである。射撃した火縄銃兵は役に立たないという事で後ろに退避。それでも敵が突撃してくるなら長槍隊で受け止める。例え重装槍騎兵の突撃であろうとも、火縄銃で数を減らされた上に20~30列もの縦深がある槍の群れを潰すのは無理だ。
逆にテルシオの火縄銃をぶっぱなして敵が崩れたら、のっしのっしと歩いて槍兵で制圧する。但し、さっきも言った通り縦に20~30列もある事から判る通り行軍すら困難な陣形なので、事実上迎撃専用陣形で攻めに使う事は殆どなかった。テルシオは歩兵で構成する要塞と言われるのはこの為である。
まぁテルシオの場合は、そもそも馬鹿でも使えるがモットーなので、整然とした行軍を求める事自体に無理があると言えばそうである。
これを改良したのがネーデルラント(オランダな)のオラニエ公マウリッツである。マウリッツはまずテルシオ自体を小型化した。密集槍方陣の縦深を10列に削減したのである。テルシオは巨大故に攻撃で崩す事は難しいが、同じくに巨大故に自分から動くのが難しく、又、後ろの方の兵隊は遊んでる場合が多い。そこで縦を浅くしたのだな。
更に火縄銃兵の数を増加。テルシオでは槍と火縄銃の比率が2:3だったのがオランダ大隊では3:2と逆転している。そして一番注目されるべくは信長の三段撃ちと同じ方法を採用した事である。つまり、火縄銃隊は最前列が射撃したら最後列まで走り、装填。その間に二列目が前に出て射撃、やはり最後尾へ走って装填。その間に三列目が、という流れである。
世の中には長篠の三段撃ちを否定したくてあんな戦術実現不可能だと言い張る愚か者もいるが、マウリッツのオランダ式大隊以降、火縄銃の運用として基本中の基本となったのがこの三段撃ち戦法である。この戦法を向こうの言い方でいうとカウンター・マーチになる。これによって火縄銃の火力が格段に増し、敵の密集槍方陣を蜂の巣にして陣形を崩すのが容易になった。後は騎兵を突撃させたり、こちらの槍方陣で蹂躙、制圧したりすればいいのだ。
ただこれ、相当訓練しないとできない。オランダ軍も傭兵が多かったが、従来の傭兵では正直話にならなかった。なので、マウリッツはマニュアルを作って傭兵に厳しい訓練を課した。オランダ式大隊になって初めて火縄銃は戦場の主役に躍り出たと言えるが、訓練量はむしろ以前より増えている。
テルシオ軍団以前からの密集槍方陣自体、馬鹿でもできる長槍の使い方100なところが大きいからな。取り敢えず列作って槍前に突き出してればいいんだから。まぁその方陣を、マウリッツみたいに前進後退自由自在に機動させようとすると凄い訓練が必要になるので、密集槍方陣担当の皆さんも大分訓練させられている。
ちなみに、オランダ式教練による厳しい訓練の結果、盗賊と同レベルだった傭兵の皆さんが大分更正したらしい。「なんという事でしょうか。我々オランダ市民は泊り込みの兵隊と娘を留守番させる事が恐ろしくないのです」とか書いてある資料が残っておる。元がどんなんだったか大体判るな。某ヨットスクールの言う事も、あながち的外ればかりでもないのである。
流石にアレはどうかと思うが。人死んでるしなぁ。
で、最後に三十年戦争の英雄グスタフ・アドルフだが、彼はスウェーデン王であり、徴兵制を敷いて強兵に努めた。ただこれは、別に素人が戦争できるようになったからとかそういう理由ではなく、単純に数が揃えられる事、そして傭兵と違って裏切らないのが主な理由であろう。古今東西、傭兵が戦争のプロという時代、地域は少ない。殆どの場合はイカサマ戦争の代表なのだ。又、カウンター・マーチをさらに改良した漸進射撃という射撃法も編み出している。
ちなみに、グスタフ・アドルフのスウェーデン式大隊の凄いところは砲兵を配備したところである。火縄銃の話から離れてしまうからあまり言わないが、火縄銃兵のみならず砲兵によって密集槍方陣を耕し、崩れたところに騎兵が突撃し、最後にはスウェーデンの密集槍方陣が制圧する。この時、テルシオと違って火縄銃兵は密集槍方陣についていく。
この、砲が耕し騎兵が蹂躙し歩兵が制圧するというのは以後の戦争の基本スタイルであり、形を変えて現代にも継承されている。
さて、ここまで読んで鋭い読者はお気付きだろうが、火縄銃兵はあくまで敵密集槍方陣を崩す為に使われている。テルシオも、近付いてくる敵歩兵(もしくは騎兵)に射撃で痛打を与えて有利に立つ事を目的としていた。つまり、そういう意味では槍を装備した歩兵こそがいまだ主力だった訳である。騎兵が突撃するのも、密集槍方陣を崩す為だからな。これは、前に説明した射撃兵は近付かれたら即死という特性がまだまだ残っていたからである。
この特性がなくなるのは、銃剣が発明されてからだ。はっきり言って火打石式の発明なんぞより銃剣発明の方が余程画期的だった。何故なら、火縄銃兵はこの銃剣を装備する事によって槍を装備したも同然になったからである。こうして密集槍方陣は消え、戦場の歩兵は全て射撃兵となったのである。
火縄銃が戦場を席巻したのは、第一に敵歩兵陣を崩す為であり、第二に銃剣が発明されたからであった。