霧島家日誌

もう何が何だかわからないよろず日誌だ。

ムダヅモ無き改革

2007年11月27日 21時37分15秒 | これら以外の何か
あなたと合体したい(挨拶

ごきげんよう諸君v。アクエリオンのCMだの紅白の頭だのツンデレカルタだのと空気を読めないと言うかわざと読んでないんじゃないかと思う様な事ばかりの昨今だが、いかがお過ごしかな。私は活動開始こそ午前十時だったものの、午後は図書館で缶詰になったりならなかったりした為割とぐったりしておる。

そう言えば今日の運勢は全体運が☆4(☆5がMAX)だったのだが、結局今日は疲れていい事なかったなーと思いながらこうして帰宅し、空気を読めないアクエリオンのCMを挨拶に使った直後、私の指に神が宿り「ごきげんよう諸君」の後にvがつくというミスタイプをした次第である。

キモッ

ハートマーク代わりのvとか久しぶりに見た。別にそういう意味で打った訳じゃないと言うかミスタイプな訳だが。





……
………

…………いかん。


頭に何も浮かんでこないどころか睡眠薬も飲んでないのに地味に目が虚ろだぞ私。

毎日見に来てくれている諸君には申し訳ないが、今日はこの辺で勘弁してくれ。

真・三國無双5レビュー

2007年11月26日 20時42分10秒 | アニメ、ゲーム、映画等
ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。私は今日も今日とて鬱こもりである。それでも授業があれば大学に出向くぐらいの元気はあったから、一応上向いてきてはいる様だな。上向くのが遅すぎな気もするが気にしない方向でいく。

さて、昨日無双5を買ったという話をしたが、その出来とかレビューは書かなかったな。まぁ、結論から言うとやっぱりクソゲーだった。お陰で、今年の年末はエースコンバットシリーズにしろ無双シリーズにしろ各社の看板が悉く壊滅という最悪の状況である。年が明ければデビルメイクライ4とかメタルギアソリッド4とかが視野に入ってくるが、今年発売のビッグタイトルはもうない。本当に最悪だ。

私が購入予定のゲームは、年内だと残すところ人工少女3ぐらいであり、しかも私の場合ゲームとして遊ぶ気が全く無いからゲームに関しては最悪の年だったと言えよう。結局一番遊んだゲームってデビルメイクライ3と三國無双2、あとはPS版バスタードに家庭用イニDと次世代のじも無い連中ばっかりである。一番新しいゲームがDMC3SEって。あれの発売二年前じゃないか。



ま、そんな訳で最悪の一年の最後を飾ってくれやがったのが無双5(windowsゲー除)である。いや、その、なんだ、クソゲーである事は発売する前から判ってた。とうの昔に判ってた。何度でも言うが、判ってた。スクリーンショットを見るだけでもう駄目な気配だからな。

何が良くないって、爽快感が無い。これだけでクソゲーたりえる。何せ、爽快感こそ無双の醍醐味であり謳い文句だったのだからな。だが、今作には爽快感が無い。

何でって、まず一つは兵隊である。まずやられる時の声が酷い。エロゲの悪役でもここまで酷くない。まぁ流石にマスターオブアリーナのゲーム史上に残るアレよりかはマシだが、それでも、あの情けない「うわぁあ~」とかいう声をハモらせながら敵が倒れるのを見ておるとこっちまで情けない気分になる。

その上、昨日の日記に書いた通り、近年の無双は雑魚兵のローポリ化が進んでおる。判りやすく言えば、雑魚兵の3Dモデルが進化している。全力で悪い方向にな。

真面目な話、ショボすぎる。これは酷い、とかそういう次元ではなくショボい。まだ無双2の雑魚兵のが作り込まれてる。しかも今回、次世代機とあって武将のモデルはそれなりに綺麗になっておる上、悪い事に背景が滅茶苦茶に綺麗である。美しいとさえ言える完成度である。故に、明らかに手抜きな雑魚兵が浮いて見えるのである。

しかもなんだか大量にごっちゃごっちゃと動く残念な仕様になってしまった。PS2時代の雑魚兵は大抵五人一組になって行動しており、例え二十人の集団として動いておっても実際には五人四組として動いていた。その上で集団戦が成立しておったから、ビシッと決まったのだ。

今回は数えるのがめんどくさくなるぐらいの量の集団でわっせわっせと動いておる。多分、一集団につき50人はいるだろう。その人数が固まってどっすんどっすん動いており、しかもローポリなのもあいまって間違えて真・ピクミン無双5を買ったのではないかと錯覚してしまうほどである。

ちなみに、5の新要素で数少ない良いところである攻城戦では、味方の兵隊が敵城を攻略する為の破壊工作をしてくれる。具体的には、城壁周辺の守備隊を排除してやると味方の兵隊がやってきてせっせこせっせこ投石器や雲梯を作って設置し、最後には衝車を作って城門を破壊してくれる。これを援護する訳だが、まぁそれなりに練り込まれた感じのシステムだ。

ただ、その、なんだ。作業してる味方の兵隊を見ていると和むと言うか、ローポリだったりわっさわっわ動いてたりしてるのを見てると気分はピクミンであり、やっぱり真・ピクミン無双5なのかと頭を抱えてしまう事になる。


さて、ただでさえ殴る相手がこけしならぬピクミンで殴り甲斐が無いと嘆かねばならぬのに、爽快感を奪った要素がもう一つある。今回から新しく導入された連舞システムである。

以前であれば、□ボタンを押すと武将ごとに固有の通常攻撃モーションが出て、最大六連撃まで出せた(4のエボ攻撃は取り敢えずおいとけ)。で、六連目まで出し切ると槍を物凄い勢いで振ったりして敵を吹き飛ばせた。

この通常攻撃六連以外にもう一つ攻撃手段があった。チャージ攻撃である。これは□で出せる通常攻撃と組み合わせて使えた。例えば何もしてない状態から△を押すと周囲の敵の防御を弾いたりするC1が出るし、□四連から△を入れると敵を空中へ打ち上げるC5が出せた。

武将ごとに攻撃モーションは違う訳だが、共通しているのは通常攻撃六連もしくはチャージでないと敵は吹き飛ばないという点である。逆に言えば五連で止めれば敵が吹き飛ばないという事になる訳だが、何せ無双は敵の群れを殴り飛ばすのがウリである。敵を吹き飛ばしてやる事によって爽快感を得るのだから、この点は重要だ。

一方、5では□で弱攻撃、△で強攻撃という簡単な区分けになった。弱攻撃は押し続ければ永遠に続く。一段目→二段目→三段目→四段目ときてそれでも□を押せば、再び一段目が出る仕組みである。強攻撃もほぼ同じだが、弱攻撃から強攻撃に繋ぐ事はできても逆はできない。で、連舞ゲージというのがあって、このゲージが溜まると攻撃が多彩になっていくのだが…

メリハリがなくなった。何せひたすら□を連打しておれば攻撃が途切れないのだから、特に連舞ゲージが低くて強攻撃が使いにくい序盤では特に連打ゲーになってしまう。以前なら、通常六連で敵集団を吹き飛ばして敵将に近付いて、背中から通常攻撃入れて五段で止め、もう一回通常攻撃出してC5で打ち上げて…といった具合に戦法を組み立てられたのだが、今作では□を連打してダラダラと攻撃し続けるだけである。

んでまたこのモーションが酷いんだ。4のエボリューション攻撃などと比べる事はエボ攻撃に対し失礼と言えるほどである。これは口や文で説明しきれるものではなく最終的には自分でやってみないと判らないのだが、弱攻撃を延々とやり続けるのは本当に萎えるぐらいgdgdなのだ。じゃあ強攻撃はと言われると、まぁ確かに連舞ゲージが上がれば段数は増えるが、MGS2の刀装備ライデンのがまだ気の利いた技を出せるという駄目っぷりであるからもうどうしようもない。

むしろ連合vsザフトのがいい技出せるって時点でどうかと思う。爽快感とかとは完全に無縁のゲームなのに、アレ。つうか、もしカプコンが次回作を本気で作ったら戦国BASARAに抜かれかねない。戦国PAKURIと言われてたのが戦国HONKEになりかねんのだ。それぐらい酷い。


他にも色々と酷い点はあるのだが、殊爽快感に関し言及すると大体こんな感じである。雑魚兵にしろ攻撃にしろビシッと決まるところがなく、メリハリなくただただグダグダと進んでいくだけだ。しかも次世代機だからってんで雑魚兵を増量した結果、気付いたら千人斬ってたなんてのはザラである。達成したところで嬉しくないどころか哀愁を感じる。



まぁ、そんな訳で、無双はもう諦めた方が良さそうな気配である。3で無双の方向性を誤らせたへたれゲーマーども、豆腐の角に頭ぶつけて死ね。

無双シリーズ退化の歴史

2007年11月25日 19時26分01秒 | アニメ、ゲーム、映画等
ごきげんよう諸君。沙汰なしで死んだんじゃないかと思っておった人もいるだろうが、いつも通り精神的に死んでただけである。今日も今日とて我が家の改装作業に一日を費やし、ようやく終わってぐったりしてるところだ。

まぁそんな中でも何もやっていなかった訳ではない。別に何かをやりとげたという事はないが、四六時中鬱モードで寝込んでいるほど酷くはないからな。じゃあ何してたんだって言われると、その一つとしては三國無双5を購入しちょろちょろとやっておったというのが挙げられる。


いやまー、しかし、その、何だ。元より地雷は覚悟の上で買っておるからな。製作元こそオメガフォースだが基本的にはKOEIの下請けだ。KOEIというと、一般人は「ああ、歴史ゲーばっかり作ってる会社ね」と答え、軽度のゲーマーは「完全版商法マジ死ね」と答え、私みたいな重度のゲーマーは「実はエロゲもやってますwwwwフヒヒwwサーセンwwwww」となる。

いやまぁしかし、KOEIも悪いところばかりではない。私のイメージとしてのKOEIは、顧客の苦情に誠実に対応するものの誠実すぎてクソゲー化してしまうきらいのある会社である。

いい例が無双シリーズだ。三国2は神ゲーだったが、様々な苦情が殺到し、3以降クソゲー化した(4はまだまともだったが)。その苦情の中でも最高難易度における苦情として多かったと思われるのは、『弓どうにかしろ』『光学迷彩やめろ』といったところであろう。

三国2の最高難易度は難しいのだが、その難易度のバランスが絶妙な形で取られていた。柱を成すのは雑魚兵、弓兵、武将である。

まず雑魚兵だが、最高難易度では敵雑魚兵が大量に沸いて襲ってくる。襲ってくるが、まぁ殴られたところで大して痛くはない。但し異様に固く、殴っても殴っても吹き飛ばしても吹き飛ばしても死なず、このせいで、プレイヤーは敵陣に突撃するとまず孤立する。

次に弓兵だが、こやつらが撃ってくる弓は一発でも食らえば大ダメージである。先日弓防御の低い夏侯惇でやっておったら弓三本でHP三割持っていかれた時には流石にこれはマズいだろうと思ったりしたのだが、とにかく弓のダメージが大きい。

これでバランスを取っているのだ、このゲームは。最高難易度であるからには難しくあらねばならない。だから敵陣に突っ込んだプレイヤーが敵陣内で孤立するのは当たり前である。しかし、そうなると当然四方八方を囲まれる訳だから、雑魚兵がまともな攻撃力を備えておると一分と経たず背中から殴られて死ぬ。

リアルかもしれんが、ゲームとしてはてんで駄目なのは明白である。これが楽しいと思う奴は、こう、なんというか、あれだ。プロだ。色んな意味で。

話が逸れた。とにかく、雑魚兵に攻撃力を持たせる方向性で難しくしていくと、ゲームバランスが非常にとりづらい。かといって攻撃力の代償に装甲を薄くしたりHPを下げると、今度は最高難易度なのに取り敢えず殴ってればゲームクリアという事態になる。

そこで、弓兵に攻撃力を持たせた訳だ。雑魚兵はプレイヤーを孤立させる部分だけを担当し、ダメージを与えるのは弓兵に任せておる訳である。惜しむらくは、ダメージ担当故に弓兵は装甲が薄くないとならぬのになかなか死なないと言うか諸葛亮先生とかだと下手すると返り討ちにされる状態であり、叩かれたのだ。

実際、私も弓兵の装甲はもっと薄くしていいと思う。無双乱舞(必殺技な)を全段入れても死なないってのはまずいだろう。いくらなんでも。いやまぁ物理的に捌ききれないって訳ではないがな。所詮点が飛んでいく線の攻撃に過ぎぬから、横移動を上手く利用すれば弓兵を一発も殴らずに武将を斬ることも可能だ。

また話が逸れた。で、最後の要素が武将である。武将はそれぞれ『軍団』というものを持っており、そこらを歩いてる兵隊を統率している。文字通り武将という訳だ。この武将さえ倒してしまえば、敗残兵は放って置いても死ぬ。友軍に殴られてな。

先程説明した通り、雑魚兵はプレイヤーが殴ってもなかなか死なない。とは言え雑魚兵を殺さない事にはゲームが進まない。そこで、武将を倒せば残りは味方が何とかしてくれる、という次第だ。味方が勝手にやってくれるのだから、戦場を飛び交う矢にビクビクしなければならないいう事もない。


大体、三国2はこういう思想の下にゲームバランスが調整されていた。よって、武将もそんなに怖くない。いや、確かに攻撃力もあるし雑魚兵とは比べ物にならぬぐらい堅いのだが、雑魚兵の群れと一緒にプレイヤーを四方八方からタコ殴りにするから強いのだ。これが敵陣から叩き出されてプレイヤーとタイマンとなれば、確実にプレイヤーが勝つ。所詮、武将など攻撃力が高くて防御が堅くてHPが高い雑魚兵に過ぎぬ。

つうか、タイマンで強かったら困るだろう。多対一前提のゲームなのに一対一でも苦戦する相手が出てきたら大変である。そんな奴が雑魚兵と一緒に襲い掛かってきたりした日には、カーズ様が如く考える事をやめるしかない。

しかし、無双シリーズは爽快感がウリというのもあり、ゲーマー層のみならずへたれゲーマー層にも人気が高かった。と言うより、へたれゲーマーの方がプレイ人数が多かろう。んで、へたれゲーマー連中が「弓うぜー」とか抜かす訳である。このゲームのゲームバランスを欠片も考えもしないで、「弓の攻撃力下げろ」とかKOEIに注文しやがるのである。

何せ、無双の最高難易度は雑魚、弓、武将の三本柱によって支えられている。これで弓の攻撃力を雑魚兵と同程度まで落としてしまったら、何も考えずひたすら武将をモルスァするゲームと化すのは明白である。他の何らかの手段によってダメージ関連の難易度を上げてやらねばならない訳だが、雑魚兵の攻撃力を上げれば前述の通りクソゲーだ。一方、武将の攻撃力は元々高い訳で、これを更に上げてしまうと、うっかり二、三発食らったら即死というまたしてもクソゲーになる結果しか生まれぬ。

結局解決策は見付からず、結果、弓の弱体化に伴いゲームバランスはブッ壊れた。勿論弓だけが原因なのではないが、3以降は完全に壊れた。3以降しかやっていないだろう無双初心者が私の三国無双2プレイ動画に「毎度難易度最高でもヌルヌルな無双に上手いも下手も無い」とか抜かしやがるのも仕方のない事なのだ。ゲームバランスが華麗に逝ったからな。


光学迷彩にも同じ事が言える。光学迷彩というのは私が命名した名称故に他の人が違う呼び方をしておるかもしれんが、とりあえずここでは光学迷彩と呼称する事にする。

光学迷彩というのは何かを説明する前に、ちょっとPS2を見てくれ。PS2は確かに凄いハードである。ゲームに特化しただけあって、そこらのPCなどとは比べ物にならぬほどの性能を持ったゲーム機器だ。とは言え、人の作ったものだからその性能に限界はある。その性能を超えた処理をやらせようとすれば、処理落ちや、甚だしい場合はフリーズしたりする訳だ。

さて、無双シリーズでは敵がワサワサ沸いてくる。物凄い勢いで沸いてきて襲い来る。で、当然の事ではあるが、PS2がちゃんと処理できる人数には限りがある。例えば画面に100人の兵隊を並べて、それぞれの動きを滑らかに描写しようとしたら、超高性能ハードに変えるか、もしくはポリゴンモデルをPS初期ぐらいにショボくするしかない。

しかし、大量の敵が湧いてくるとは言っても、いつも50人も100人も敵がいる訳ではない。武将とタイマンの時もあれば、敵味方入り乱れた乱戦になる事もある。基本的にポリゴンモデルが綺麗=負荷が大きい(処理が大変)だから、どれぐらい綺麗なモデルにするかの匙加減が難しい訳だが、どんなに粗いモデルを使っても、どんなに性能の高いハードを使っても、いずれ限界は来る。

この限界を超えてしまった場合どうするかというのが、多対一をメインとする無双では重要になってくる。2では、画面に映る範囲内に処理能力の限界を超えた兵隊がいた場合、限界を超えた連中を表示しないという荒業に出た。故に、敵陣で自分を囲んでる連中を吹き飛ばしたら光学迷彩解除→ヘアッ!ヘアッ!ハァーッ!→アーッ!となる事もあったのだが、流石にそこまで酷い事態はあんまり発生しない。二人プレイだとよくあるけどな。

まぁ実際、このシステムにも難点と言うか欠陥がいくつかあった。例えば、武将を殴り倒したいと思って敵将のいる場所に行ったら、雑魚兵が多すぎて武将が表示されないという事態が普通に発生する事もあるしな。

上にあげた例に関しては、武将は非表示にしないとかそういう対処法もある。が、しかしへたれゲーマーどもは何も考えず「光学迷彩をなくせ」と抜かすのである。

できるならやっとるわ、たわけ。

できないから光学迷彩しておったのである。しかし、ユーザーの苦情に誠実に対応するKOEI(とオメガフォース)は本当に光学迷彩をなくしてしまった。当然、失われたものは大きい。『綺麗なポリゴンモデルを動かす』と『多数のオブジェクトを動かす』は完全に相反する要素である事はプログラマでなくても判る。

多数のオブジェクトを動かす事に全てをかけるとすれば、当然、ポリゴンモデルをショボくする以外に道は無い。結果、エフェクトはあるんだか無いんだか判らんショボさになり、「どうせ武将は一人だけしか出てこないんだから武将だけ綺麗なポリゴンにして、ワラワラ沸いてくる雑魚兵は手抜きモデルにすればいいんじゃね?」と言わんばかりに雑魚兵は適当なポリゴンになった。

無双シリーズで敵陣を砕いた時の爽快感は、敵が敵としてそこに存在している事が前提である。極端な話、人間を殴り飛ばすのは爽快でも、こけしを殴っても楽しくない。爽快に殴り飛ばしたいのであれば、殴る相手が殴るに足る価値を持った存在である事が必要なのだ。

つまり、雑魚兵もそれなりに作りこんでやらんと吹き飛ばしても楽しくないのだ。明らかに武将に比べると手抜きなポリゴンモデルで作られたとか、取り敢えず無抵抗に殴られて死んでいく様な連中では、倒しがいがない。



斯様に、KOEIは神ゲーをクソゲーにしてしまった訳だ。まぁ、無双シリーズは出る度に一応売れておる様だから、商業的には成功しておるのだろう。嫌な社会だ。無能な働き者が害を及ぼす典型例である。





腹を切って死ね。

怪しい伝説

2007年11月21日 20時01分52秒 | 日記
※今日は非常に疲れておる為、酔狂な人以外は読まずにリンク先の番組へ飛ぶのが賢明である。こういう時でも面白い記事を書かねばならんのだが、どうにもならんから勘弁してくれ。




ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。私は特に何かした訳ではないのだがすっごい疲れておる。何かの罰でも当たったのかな。


ところで。諸君は既に知っておるだろうが、私はテレビを全く見ない。アニメとかも、一度でもリアルタイムで見てしまうと続きが気になって気になって仕方ない為、放送が終わってから通しで見る派である。故に、漫画とか本も単行本派だ。

が、最近本気でディスカバリーチャンネルを契約しようかと考えておる。ディスカバリーなんて似非科学の塊じゃねぇかとか思う向きもあろうが、ディスカバリーチャンネル全体のクオリティなどどうでもいいのである。私はディスカバリーチャンネルのとある番組が見たくて仕方ないのだ。

何が見たいって、MYTHBUSTERS(邦題:怪しい伝説)である。

邦題が沈黙シリーズなみに怪しいが、日本の翻訳業界がカスなのは今に始まった事ではないから置いておく。この番組では、主に都市伝説を中心に、巷に溢れる様々な伝説、噂を紹介し、更にそれが事実かどうか実験で実証する。

こう書くとなんかつまんなさそうだが、それは日本のテレビ番組の感覚だからである。例えばトリビアなどでも、その伝説が本当か嘘かというのは専門家に話を聞いて終わりである。が、こいつらはアメリカ人であるから、そんな事では満足しない。自分で試したいのである。

また、オチがあんまり面白くなかった場合、脱線する事もある。例えば、ブランコは360度回転しうるかというお題で色々検証した結果、「不可能」という結論が出たのだが、ただ不可能というのでは面白くない。そこで、彼らは物理法則を捻じ曲げてでもとにかく360度回転させようとし、最後にはブランコに乗った子供形ダミー人形の背中に小型ロケットを装着し、ロケット噴射で無理矢理回転させたのである。

しかも、こんな事をやっていながら、この番組に出てくる奴は天才ばかりである。私など足元にも及ばない連中ばかりだ。主役二人組の、アダム・サヴェッジとジェイミー・ハイネマンはともに映画の特殊効果特殊撮影の専門家であり、アダムはマトリックスのメイキングビデオに出てきたりする。これがジェイミーになると、特撮業界でも指折りの企業であるM5インダストリーのCEOだったりする。

脇役連中も新スターウォーズ版R2D2を開発したグラントであるとか天才揃いだ。この天才達がアホな事に全力を傾注するのである。

例えば、「明王朝時代の宇宙ロケット」は著しく酷い、もとい素晴らしい回であった。伝説は、明王朝時代の占星術師が25本のロケットを搭載した椅子を開発し宇宙へ飛んでいったというものである。普通ならば、黒色火薬(当時は火薬は黒色だけである)がはじき出せるパワーを計算したりして「理論上不可能」と言うだけだろう。

しかし、こいつらは違う。「面白そうだ」とか抜かしながら竹林へ向かって当時のロケットの材料に使われた竹を入手、更に黒色火薬を合成し、板を張り合わせて椅子ロケットを再現してしまうのだ。

で、ダミー人形のバスター君を座らせていざ点火といくと、まぁ予想通りと言うべきか大爆発する。まぁ当たり前だが、その当たり前をわざわざやろうとするところにこの番組の面白さがある。

タンクローリー内についたコンクリートをダイナマイトで吹き飛ばせるか、という回では、内部で完全に固まってしまったコンクリートをどう頑張っても破壊できず、業を煮やした一行は警察、救急隊、果てはFBIまで呼び寄せ、FBIの協力を得て350kgの爆薬をタンクローリーに詰め、爆破した。

ちなみに結果だが、タンクローリーはバラバラになったと言うか、タンクローリーのあった場所にクレーターができており、つうか点火した後の煙がきのこ雲だったりして、もうどうしようもない具合である。



嗚呼。

見たい。

AVP2激しく期待

2007年11月20日 23時47分52秒 | アニメ、ゲーム、映画等
なんだか最近のコメントを見ておると、どうやらエイリアンvsプレデターは今ホットな話題の様である。よく考えたらまさかの続編エイリアンvsプレデター2が今年の末に劇場公開な訳で、そのせいで釣られてきた人が多いのかもしれんな。

まぁ、DQNばかりだが。


あそこまで低能コメばっかりだと正直対応に困る。どう弄ってもネタにならぬからな。その点昨日話したDVD割りなどはいくらでもネタにできるからおいしいのだが。

まぁ、そういう訳でまたエイリアンvsプレデターの話だ。続編となるAVP2の予告編を見て一気にテンション上がったのでな。

そもそもAVPは何が良くなかったって、エイリアンが勝とうがプレデターが勝とうが人類にとってはどうでもいい話だったというのが一番良くなかったところである。


ここでちょっとストーリーを確認しておこう。遺跡で冷凍保存されていたエイリアンクィーンはプレデター母船による遺跡起動に伴い目覚め、戦士の証を得る為の試練を果たすべくプレデター三人組が遺跡に乗り込むという次第である。

エイリアンとプレデターにはそれぞれ目的がある。エイリアンは遺跡から脱出し地球上で繁殖するという目的があるし、一方のプレデターは凶暴生物であるところのエイリアンを狩って一人前の戦士の称号を得るのが目的だ。

ところが、人間側には特に目的は無い。強いて言えば、世界最古のピラミッド発見ツアーだ。二時間ぐらいある映画だが、映画が始まってから遺跡の調査があらかた終わるまで、つまりエイリアンとかプレデターが人間の前に現れるまでに一時間ぐらいかかる

で、プレデターの襲撃やら何やらでてんやわんやの騒ぎになり、エイリアンが何者かという事とプレデターの意図が確認された時点で残り三十分を切っておる


しかも、だ。プレデターが勝った場合、確かにプレデターは戦士の証を得て一人前のプレデターと認められるだろう。だが逆に言えばそれだけであり、人類にとってはどうでもいい話である。つうか他人の家の庭で狩猟遊びなんぞするなという話だ。

では仮にプレデターが負けた場合、つまりエイリアンが勝って地上に進出しようとした場合を考えてみよう。あの試練が行われた際、プレデターは母船を遺跡の近くに待機させておった。族長一行が主人公プレデターの遺骸を回収しにきた時に出てきたな。

また、プレデターは非常に高い技術力を備えている。試練に挑んだプレデター達の携帯端末は遺跡の3Dマップ表示機能を持っておったし、それどころか中にいる生物をグリッドで表示する機能までついておった。これらの事実から考えるに、試練は全て母船でモニタリングされていたと考えるのが妥当であろう。

んで、作中で最後の方まで生き残った男が言った通り、試練失敗(→エイリアンの勝ち≒繁殖)となった場合は爆破処理される筈である。もし仮に、試練に挑んだプレデターが全員爆破する前に死んでしまったとしても、母船でモニタリングされておる訳なのだから、エイリアンが喜んで地上に出てもプレデター母船に遺跡ごと爆破されて終了である。

つまり。

あの映画の謳い文句は「どちらが勝っても、人類に未来は無い」だった訳だが、実際のところは「どうあがいても、爆破」だったのだ。これではつまらんに決まっておる。



ところで例のAVP2予告編だが、予告編を見た限りだとかなり面白そうだ。無印AVPはアホな人間が人跡未踏の遺跡に乗り込んであぼーんだったのは知ってのとおりである。じゃあ2はと言うと、まずアメリカのコロラドでエイリアンが繁殖しはじめるらしい。で、エイリアン狩りを愛するプレデターが乗り込んできて、エイリアン、人間、プレデターの三者三つ巴の戦いが繰り広げられる…という様なストーリーらしい。

面白そうだ。

さっきも言った通り、無印AVPが何故クソだったかって、主人公であるところの人間に目的が無いからだ。いやまぁ無いではないが、目的が決まるまで一時間半かかかるからな。しかし2予告編を見た限りだと、どうやら今回は目的が決まっておる様だ。

取り敢えずエイリアンものはエイリアンが繁殖しないと始らないから一番最初の方でエイリアンが繁殖し、人を襲い始めるあたりまではいつもの通りなのだが、どうやらこの繁殖までの行程を軽く済ませてしまっておる様子だ。その後、警官隊(もしかしたら軍隊)とエイリアンのガチンコバトルが繰り広げられるみたいな感じである。


素晴らしい。


戦争は素晴らしい。


戦争 イズ ビューティフル







とまぁこの部分だけ見ると精神的に逝ってる人に見えると言うか、事実逝ってるから病院行ってるのだが、とにかく素晴らしい。人間側の装備が一番充実していたエイリアン2のキャッチコピーは「今度は戦争だ!」だったのだが、エイリアンと軍隊の戦闘は少ない。

最初は発砲禁止状態で奇襲を受け、その後エイリアン式911自爆テロで揚陸艇も装甲車も武器装備もまとめて全て炎上してしまう。お陰で、その後はクライマックスの脱出イベントまで戦闘が殆どない。

しかし、今回の舞台は惑星植民地ではない。アメリカはコロラドである。銃社会のアメリカである。赤ん坊がマグナムを撃つ社会である。テレビ番組で対戦車銃を市民プールにブチ込む社会である。

すると、あらゆるエイリアンファンが一度は夢見た人間vsエイリアンが見れるという事だ。これでwktkしない方がどうかしている。まぁ、予告篇の中で「軍はまず封鎖を考えるだろう」とか言っておったから、エイリアン鎮圧は失敗に終わるのだろう。が、それでもガチバトルが見れるというだけで価値がある。


話が物凄い勢いで逸れた。今回は主人公であるところの人間にはちゃんと目的がある様である。予告編を見た限りでは、多分、おおまかな流れとしては

何らかの理由で、アメリカコロラドでエイリアンが繁殖→ホラーお決まりの「化物なんていないぜpgr」とか言ってた奴が死ぬ→警察もどうやらマジらしいと判断して警官隊を送り込む→負ける→鎮圧不可と判断した軍がコロラドを封鎖(多分核か何かでコロラドごとエイリアンを蒸発させるつもり)→コロラド最後の生き残り(多分こいつが主人公)の命をかけた脱出劇が幕を開ける

となるのだろう。おもしろそうである。ただ、問題としてもう片方の化物であるところのプレデターがどう絡んでくるかが全く予測できないと言うか、無理にプレデター捻じ込んだら物語が薄くなる様な気もしないではない。



まぁ、十二月末に劇場公開という話だから、もうあと一か月ちょいで結果は判るんだし、公開日に徹夜で並ぶ所存。

DVDクラッシャー

2007年11月19日 15時20分01秒 | アニメ、ゲーム、映画等
ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。私は例の超短期出張を終えて今自宅に戻ったところである。疲れた。



さて、ミリアム氏に教えて貰ったのだが、エスコン6がクソゲー過ぎてDVDを割った奴が出たらしい。

ゲームソフト割りは、テレビゲーム創生期より行われてきた伝統行事である。いつぞや、重装機兵ヴァルケンの超劣化移植版が出た時はファンが真剣に怒り、割ったDVDを製作会社に送り付けたら郵便局員が誤って割ったと勘違いされ、部長と当人が平謝りに自宅へ来たという微笑ましい事件もあったりした。

私の子供の頃も、冗談のつもりでクロノトリガーを蹴ってROMを割ったという猛者がいたものである。しかしCDやDVDはともかくよくもまぁ小学生がROMを割れたものだな。しかも他人のゲームを。

話が逸れた。んで、リンク先を読んでおると、誰もエスコン6がクソゲーであることを否定しないあたりを見ると余程のクソゲーなのだろうが、私はやっておらぬし現在買う予定も無いからその辺はどうでもいい。問題は、今回のDVD割りが批判されておる点である。


ブログにはいくつかの種類が存在する。我が霧島家の場合はネタが本業だ。日常生活で何か見た事とか本を読んで思った事とか、とにかくあらゆるものを使って読者に楽しい時間を提供するのが本業である。

しかし、DVD割りをやった人のブログはちゃんと読んでないから判らぬが、多分ネタブログではあるまい。クリエイターの呟き的なブログであろう。そういうブログでDVDを割ったからと言って炎上させるのは大人気ないと言わざるを得まい。一方、ブログを書いてる方も、わざわざ最高難易度まで遊んだ上で頑張って割り、更に写真を撮ってアップロードするという手間をかけるほどの事ではなかろうと思われても仕方ないところである。そういう手間をかけたくなるほどクソゲーだったのかもしれんがな。

私はこの事件についてどちらも擁護せぬ。どっちもどっちである。しかしながら、ネタブログ著者としての私から見ると、ブロガーの方に少々物申したいものがある。


勿体ない。

実に勿体ない。これほどのネタをただ怒りの捌け口にするだけとは実に勿体ない。まず、いきなり割るところが勿体ない。どうせ割るのだ。割ってしまうという事は、そのゲームはプレイできなくなるのだ。ならばどうなろうと何ら問題ない。そんなものを即座に割ってしまうのは非常に勿体ない。

例えば、沸騰した水を入れた鍋の中に入れて煮込み、その後乾燥させてまだ動くかどうか試したり、動くようなら更なる実験、例えば日光に二、三日晒してみたり、どこまで切り欠けば動かなくなるか試したりといった様々な実験を行えばそれだけで極上のネタになるではないか。

更に、もう動かなくなって割るしかなくなった場合でも、ただ割るだけというのはいただけない。圧力計を使って何kgの力で割れるか計測するとか、屋上から落としてみるとかそういう試みを行えば再び極上のネタに仕上がる。

割ってしまった後であっても、それぞれの破片は基本的に無傷な訳だから耐圧実験に使うには基本的に問題ない筈であり、まだまだ実験続行可能である。木槌、金槌といった定番アイテムに加え、木刀やヌンチャク、果てはポールアックスの様な重破砕武器を持ち出し、どんなものがDVDを割るのに最適か調べてみるのも良かろう。

均等な大きさに分け、地上何階から落とせば割れるか調べるのも良いだろう。マンション程度の高さなら、例の9.8m/secの法則が空気摩擦による影響をあまり受けないから、落ちるまでの時間と落した破片の質量を計測する事によって、DVDが自重×速度によるどれだけの衝撃力で割れるのか計算する事もできる。


斯様に、DVDを割るといってもただ割るだけではなく、積極的に活用しつつ割るのが良いだろう。特にゲームのDVDは比較的高価だから希少価値が高い。次世代ハードのDVDであれば尚の事である。この様な実験に意味はあるかと言われると勿論無いのだが、だから面白いのである。



面白く割ろう。

恐怖の基盤

2007年11月18日 15時12分44秒 | 日記
ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。私はちょっとした用事がまだいくつか残っており、現在は京都に向かう新幹線の中である。この忙しい時期にわざわざ京都まで行くという事は無論会社の用事であり、まぁ、その、会社のPCが死んだからその修理である。日立の部品流用するんじゃなかった…

で、壊れたのは先日組み直した奴である。解体したら280WのL字型電源が出てきたり、ケースの中に謎の鉄骨が入っててケースすら流用できなかったアレだ。あのPCについては以前話したが、実は完成後も一騒動あったりした。

あの時買った基盤はまたしても憎きMSIの基盤だった。実は、私はMSIの基盤で散々な目に遭っておる。生まれて初めてPCを組んだ高校二年の時、伝説の超爆熱CPUたるアスロンMP+3600を二台搭載という、今思えば正気の沙汰ではない仕様で組んだのだ。その時使った基盤がMSIであった。

二度とMSI製品は買うまいと、そのPCを使っていて何度も思ったものである。セミサーバ仕様(要は高性能って事)の基盤だったのにも関わらず、買ってからしばらくするとオンボードのサウンドボードが物理的にイカれるという事態が発生したのだ。

その後も不調は留まるところを知らなかった。今思えば、高熱のアスロン用の基盤だというのに耐熱性が貧弱だったのだろう。頻繁に熱暴走を起こすその様はアーマードコア・ネクサスを彷彿とさせるものがあり、最終的にはたまに起動すらしなくなるという体たらくであった。

結局、あまりの熱暴走の頻発により通常使用にすた耐えなくなり、先日死んだpen4搭載機に全面改装する事になった。MSIの基盤が何せあんな有様であったから、最初からMSIは考慮に入れず、さりとてあれこれ選ぶ覇気もなかった為インテル純正の865PEを買った。んで、そやつが先日死んで第二次全面改装に踏み切った訳だが、その際の騒動はいつぞや記事にした通りである。

いやな。その、だな。性能と値段は優秀だったんだ。それにアスロンだって今は相当な冷却性能を獲得して熱暴走を過去の出来事にしてしまったんだから、MSIだってまともになってるだろうと思ったんだ。んでまぁインストール時酷い目に遭った訳だがな…


で、先日の会社用PCである。私は今度こそMSI製品は買うまいという意気で京都の秋葉原たる四条寺町へと出撃したのだが、以前この日誌に記した通り電気店はほぼ姿を消しており、かつて近畿有数の電気街だった寺町通りは見るも無惨な有様になりはてておった。

故に、選択の幅が大きく限られたのである。

結局、グラフィックボードがオンボードで乗っててかつHDMI出力対応の基盤(わからぬ人は物凄くマイノリティな物体だと思ってくれ)を売ってる店は一軒だけ、その一軒に置いてあったのもMSIの製品だけだったのだな。仕方あるまいと思って買って帰り、PCを組み立てたのだ。んで、電源を入れた時の挙動が怪しかったというのは以前の日誌に書いた通りである。

だが、あの話には続きがあったのだ。あんなに美味しいネタを何故記事にしなかったのか今思えば不思議で仕方無いのだが、まぁつまりそれだけネタ力の強い出来事だったのである。


ところで諸君、基盤と一言で言っても色々ある事は承知していると思う。つまるところ基盤というのはこんな形をしている物体なのだが、その中でも中枢回路としてCPUからHDDであるとかHDDからメモリだとかの情報のやりとりを中継する中枢機能を持つものを、マザーボードだとかメイン基盤だとか呼ぶ訳である。

それで、この基盤だが、諸君も知っての通り主な原料はシリコンだ。いわゆる半導体な。んで、金色の回路が縦横無尽に基盤の上を走っている訳だが、そのある部分を、私は見てしまった。気付いてしまった。

























































焦げてやがる。


宮崎アニメは嫌いだというのに、不覚にも巨神兵を見た誰かさんと化してしまった。その、言い訳がましいかもしれぬが、焦げてたのである。最新技術の結晶であり、現代文明の繁栄を支えるコンピュータの中枢が、焦げてやがったのである。つうかどうやったら焦げるんだ。

とは言え、焦げてやがったとは言っても曲がりなりにも動いておった訳で、これじゃあ初期不良に持ち込めなぬかなと腕を組んで色々と考えておったのだが、パソコンを組み上げてから二日後、完全に死んだ。電源ボタンを何度押しても、うんともすんとも言わなくなりよった。

こういう場合、死んだ部品がどれかというのには二種類の可能性が考えられる。一つは電源そのものが死んだ可能性。もう一つは、基盤が死んだ場合だ。電源オンのボタンからその「電源オン」という命令を電源に繋げるのは基盤の役割であり、こちらが完全に死ぬと電源が何も言わなくなるのだな。

ま、基盤が死んだ可能性とは言っても、電源ボタンを押しても電源が入らない場合、電源オンの部分だけピンポイントに死亡しないとそうならないから、大抵は電源が死んだせいだ。とは言え、この基盤は焦げておる。

そんな訳で、解体して電源と基盤を抜き出し、店に持って行ったのだ。初期不良という奴だからな。初期不良というと耳慣れぬ言葉の様に思えるかもしれんが、要は買った瞬間から壊れてたっつう事だ。パソコンの部品の場合は大抵一週間以内に死んでた事が判れば新品と交換してくれる。


で、店に到着し、サポートセンターに直行。状況を説明し、取り敢えず電源が通電するかどうか試そうという話になった。焦げてた事は言わなかったからな。当然の対応である。そしたら目の前で店員が基盤、CPU、メモリといった、パソコンを取り敢えず動かす為に最低限必要な部品を持ち出して組み立て、結果、普通に通電した。どうやたら電源は無事らしい。

となるとやっぱり基盤か、という話になった。それで基盤を渡すと、店員は手慣れた手つきで基盤にメモリやら電源やらを挿しはじめたのだが、その手がピタっと止まった。彼の視線は基盤のある一点に注がれていた。

気付いてしまったか。

すると店員は同じ階にいる他の店員を呼び、「ちょっとこれ見て下さい」とか何とか話しておると思ったら、「なになに、どうしたの」という感じでその階にいた店員が全員集合し、あの焦げた部分を凝視しはじめたのだ。


で、複数の店員が話し合った結果、今度は焦げ基盤から部品を外し始めた。曰く、「こいつに部品挿したらうちの部品が壊されそうだから新品と交換で」。んで、並べてあった新品を取ってきて一応通電するかどうか試した後、めでたく交換という運びになった。



MSIよ。もう一度言う。


お前んとこのは二度と買わん。

伝達事項

2007年11月12日 19時55分54秒 | これら以外の何か
ここ一、二週間でアクセスが増えまくってる理由を誰か教えてくれ(挨拶


何日か前から更新をサボりっぱなしで申し訳ないのだが、今週はデウスの内在性と本地垂迹の外在性との考察であるとか、英語のレポートだとか、東京遷都に伴う産業業者の推移であるとかそういう小難しい話が山積であり、正直ちょっと更新できる気がしない。多分来週頭までには再開すると思うが、それまで辛抱してくれ。

では、又会う日まで諸君、息災でな。

非正規戦の簡潔な考察

2007年11月09日 00時15分39秒 | 社会、歴史
本日は故あって更新できぬ。すまないが昨日書いた歴史的和解の原動力となった適当な文書を貼るからそれで我慢してもらえたらと思う。



日付変わってるけどな。




さて、非正規戦とかゲリラ戦とか呼ばれる戦闘、及び便衣兵とかゲリラと呼ばれる戦士について我々は考察を行うが、その前に『これらは何であるか』という事についてまず定義づけておく必要があろう。しかし、これらの概念は民間人と軍人の定義及び戦争に関連する国際条約について確認しておく必要があり、先にそちらを見ていきたい。

戦闘時における軍人と民間人の定義に関しては、国際条約が簡単に答えてくれる。民間人と軍人、つまり非戦闘員と戦闘員の差は、軍服を着ているか否かで判断される事になっている。迷彩服も含め、各国軍が定めた服装をしていれば兵士であり、それ以外を着ているならばそれは民間人である。

さて、戦争法とでも呼ぶべき戦争に関する国際条約では、民間人の保護が義務づけられている。軍人は民間人に危害を加えてはならない。撃ってはならないどころか、その本人のみならずその財産を接収してはならない。つまり略奪も禁止されているのである。とは言え、占領した場所で何も接収しないとまともな野営もできないから、必要に応じて接収は許可されるが、略奪は絶対に禁止されている。

また、降伏等により捕虜となった兵士についても様々な規定があり、拷問したり、降伏を認めずそのまま射殺したりする事も禁じられている。捕虜は人間として保護されなければならない存在なのである。無論、保護とは言っても刑務所に入る様なものだが、虐待等の行為は絶対に行ってはならない。

何故ここまで細かく規定され様々な行為が禁止されているかと言えば、それはあらゆる律法と同じくそういう事が実際に起こるからである。民間人は人道的見地も確かに大きいが、捕虜の規定などはまさしく拷問虐殺が頻繁に行われた事に起因する。

例えば、ジュネーブ条約どころかもハーグ陸戦協定もとっくの昔に制定されている第二次世界大戦やそれ以降の戦争ですら、火炎放射器を装備した兵士は捕虜になってもまず間違いなく殺されてしまう。火炎放射器が軍事兵器として使われなくなり退場していった理由の一つに数えられるほど、火炎放射兵は憎まれ殺されていたのである。

これは明らかな捕虜虐待にあたる。そしてこの例、つまり火炎放射兵が必ずと言っていいほど捕虜虐待を受けるという例は、火炎放射で仲間が残虐にも焼き殺されたという怒りから発生している。人道道徳に対する怠慢である。しかしながら、実際の戦争では悠長な事を言っている場合ではない事も多々あるのは事実である。1m進んだり退いたりするだけでバタバタと両軍兵士が死ぬ戦場では、捕虜を取る余裕などどこにもない。そういう時の為に休戦協定などがあるのだが、これが正しく運用されなかった場合、正当防衛的に捕虜射殺が認められる場合もある。


さて、軍人と民間人の定義と彼らについての国際法を見てきた訳だが、今我々が見てきた法は全て『軍人が○○をするのは違法』というものである。では民間人についての律はあるのかと言えば、勿論存在する。存在するが、簡単な事でもある。

『民間人は、軍人においてのみ許可される行為を代行してはならない』

これこそが、民間人がやってはならない行為である。軍人においてのみ許可された行為とは、つまるところその手に銃を取り戦闘に及ぶ事である。また、ナポレオンの格言にある通り軍隊は腹で動く。即ち補給が必須であり、後方の基地での作業に従事し実際には銃を撃たない兵隊も多いのだが、そんな彼らとて奇襲を受けたとしたら反撃に出る訳であり、やはり民間人が手伝うなどという事は決してしてはならない。

何故か。

民間人にはあらゆる危害を加えてはならない。これは先程確認した通りである。しかしこの人道目標を達成するには軍人と民間人の明確な差が存在する必要がある。この区別は前に確認したものと同じく、軍服か否かで判断される。軍服を着ていれば、例え会社員であろうと何だろうと軍人と見做される。

ところで、兵隊の仕事というのは色々あるが基本的には敵をやっつける事である。より正確に言えば、敵対する軍人を殺す事が仕事である。故に、軍人は相手の軍人を撃つ。つまり、軍服を着た者を撃つし向こうも撃ってくる。逆に軍服を着ておらねば撃たないし向こうも撃ってこない。

斯様な両国間の合意の下、民間人の保護という人道目標が達成されるのである。

しかしこれは逆に言うと、交戦する両国間の合意が得られない場合、達成が非常に困難になるという事でもあり、甚だしくは全く不可能に陥る場合もある。ベトナム戦争などは絵に描いた様な例であると言えよう。


ここで我々は、ゲリラや便衣兵と呼ばれる戦士に目を向ける必要がある。彼らは戦士だが兵士ではない。ここが味噌である。便衣兵は軍服を持たぬ戦士なのだ。民間人と同じ服装で銃を構え容赦なく敵兵を撃つ。それが便衣兵である。

これは戦時国際法でいう背信行為にあたり、当然の事ながら戦時国際法違反である。

何故か。そもそも、民間人保護という行為は、民間人と戦闘員の区別をはっきりしているからこそ可能なのである。そしてこの区別は便宜上軍服を着ているか否かで判断するのだが、便衣兵は軍服を着ず普段着で、つまり便衣をまとって攻撃を仕掛ける。

これが一人でも民間人の居住区に紛れ込んだ日には、とんでもない大惨事に至る可能性をも秘めている。何せ普段着であるから、便衣兵を特定するのは大変難しい。それでも、軍当局としては便衣兵を特定する必要がある。戦争遂行上必須だからである。しかし、やはり捜索は難しい。まかり間違って民間人を便衣兵と勘違いして逮捕してしまった日には、もう悲劇としか言い様がない。

何故ならば、便衣兵に与えられる刑罰は例外なく死刑だからである。ゲリラ活動は何の関係もない多数民間人を巻き込みあらゆる人間を不幸にする策略であるからして、極刑に処するしか手段がないのである。法律によるゲリラ活動の抑止は、残念ながら刑罰を極刑にする以上の対策を出す事はできない。

彼らは戦士だが兵士ではない。これが重要なのだ。


さて、便衣兵についての説明を終えた故に次は非正規戦に焦点を移そう。これは便衣兵を積極的に使って戦局を有利にする戦術である。無論、最低最悪、稀に見る大愚策ではあるものの、しかし、有効な戦術である事もまた事実である。

非正規戦には二種類のやり方がある。一つは地元住民の協力を得て行うもの、もう一つは地元住民を脅して行うものである。

便衣兵による活動は、やはり便衣兵の数が多ければ多いほど効果が上がる。しかし、数を投ずるだけでは良好な戦果は期待できない。そもそも便衣兵に期待される効果は、敵正規兵を殺すものではない。例えば敵が占領した地区に便衣兵を送り込むとする。すると、敵正規軍は紛れ込んだ便衣兵を特定する為に不案内な占領地をうろうろして探す必要が出てくる。場合によっては、便衣兵だと思って処刑した人が無実だったという事が後から判る事もあるだろう。結果、敵正規軍は割かなくていいところにマンパワーを割き、その上場合によっては国際世論の非難を受けたりや占領地住民の反感を買ったりしてしまうという事態に陥るのである。

しかしながら、便衣兵が大きい成果をあげるには、先程言った通り数を送り込むばかりでは足りない。長期間潜伏するという必要があるのである。当たり前と言えば当たり前だが、その当たり前を実行に移すには地元住民の協力が不可欠である。地元住民にしてみれば、便衣兵の特定は占領軍に比べ容易い業である。そして、便衣兵は地元住民にとっては大変迷惑な存在である事は既に述べた通りである。よって、地元住民の協力がなければ早晩その便衣兵は軍当局に突き出されて終了となってしまう。

これを回避する為の方法が、先に挙げた二つのやり方である。第一の方法、即ち地元住民の協力を得て活動するものは、第二次世界大戦時のパリ・レジスタンスにその典型を見出せよう。

戦争が始まるまでは、内政外交国防といった政治的諸行為をやる気があるのかどうかすら怪しいフランス人はだが戦争が始まっても軍隊にやる気があったのか疑わしいと思ってしまうほど簡単に屈伏してしまった訳である。しかし、フランス人は黙ってドイツに従うを良しとはしなかった。ほぼすべてのパリ市民が協力して抵抗活動、つまるところゲリラ活動を行いドイツ軍当局の頭を悩ませたのは世界史上有名である。

このフランスの場合は、パリ住民全員と言っていいほどの数市民がゲリラ活動を助けた。時には匿い、時には調達した。故に、パリ解放までドイツ軍は延々と便衣兵に頭を悩ませられる羽目になったのである。

ただし、一見素晴らしい義挙に見えても国際法上重大な違反である事には留意せねばならない。ゲリラ活動には無辜の民の犠牲がつきものである。パリの場合は「死んででも絶対にナチ公を追い出す」と市民のほぼ全員が思っていたから問題にならず、むしろレジスタンスによる死者は英雄の様に受け取られているが、決して好ましいものであるとは言えないであろう。


さて、第二の方法、即ち地元住民を脅して行うゲリラ活動だが、これはベトナム戦争や支那事変が有名である。現在でもPLOの民間人巻き添え戦術をはじめ、効果的なテロ活動として広く使われている。第一の方法がまだ人道的余地を持っているのに対し、これは完全な外道と言えよう。

これは以前にも述べた事のある話だが、要は無理矢理非正規戦の手伝いをさせるというものである。主に国民国家ではない後進国で使われる。と言うよりは、国民国家に脱皮した国では使い難い戦法と言った方が相応しかろう。

やり方は簡単で、ベトナム戦争の場合南北どちら側にもついていない村に武装して押しかけ、協力を要請(強要)する。拒否されれば皆殺し。また、拒否されなくても南に協力したとでっち上げ、酷虐の限りを尽くす場合もある。これは見せしめの効果を狙ったものである。また、南側についている村にも押しかけ、同様の脅迫を行う場合もある。こうなると、協力を強制された村人は非正規戦を行わざるを得ないのである。

こうして、無辜の民である村人達は戦争に巻き込まれていく。


悲惨な話ではあるが、現実である。

さて、では非正規戦の拡大に対する手段が何かないのか、という意見が出てくるのは理の当然であろう。だが残念な事に、効果的な手段は存在しない。世の中都合良くはいかないのである。黒人と白人を同じ学校に放り込んだところで何の効果も無いどころかむしろ悪影響が出てしまう事すらあるのと同じで、国際法でいくら禁止しても非正規戦の発生を止める事は不可能である。

だが対処の研究を怠っているという指摘は誤りである。例えば米軍は現在世界最強の軍隊であり、同時に先進諸国の中で一番戦争している軍隊である。よって報道機関の目は厳しく、かの有名なホモ爆弾を真面目に作ろうとしたほど神経質である。だが、法律で統制できない行為、集団を実力以外でねじ伏せられるというのは幻想に過ぎる事も自明である。

では、実際に非正規戦を大規模に展開されたとして、どうやって対処するのか。非正規戦を止める事が不可能なのは自明ではあるが、その強度を緩和するぐらいならできない事はない。但し、どれほど美名を謳おうとも、本質的には非正規戦を指導する外道と同じ事をやっている事には留意しなければならない。

例えば、米軍はベトナム人居住区を作り強制的にベトナム人をそこへ強制的に避難させ――必要であれば村を焼いてでも避難させ、そこから出た者は即座に便衣兵と看做すという対策をとった。ベトナムの文化に対してこれ以上の侮辱はあるまい。しかし、人命優先を考えると妥当な策である事もまた事実であろう。米軍が管理している以上、ベトコンがやってきて協力する様に脅迫してくる事はないのだから。

一方、敵として現れた便衣兵への対処だが、これはもう極刑に訴えるしか方法が無い。厳罰化が犯罪発生率をある程度抑える事は法制史が証明している。しかしながら、極刑に訴えるというのは単なる対処療法であり、根本的な解決はなされない。しかし、その根本的な解決ができない場合は多々ある。ベトナム戦争はまさにそれであった。ベトナムの熱帯雨林に点在する村々全てを防衛する様な余裕は無い。

ベトナム戦争は、一般には数や戦車など最新兵器を備えた米軍をベトコンの巧みなゲリラ戦術でねじ伏せたと思われているが、実際のところどうかと言えば間違いも甚だしい。確かにゲリラは多かったが、北ベトナム軍は米軍と何度も真正面からがっぷり四つに組んだ一進一退の戦いを何度も繰り広げている。無論、米軍の作戦指導の愚かさにも責はあるものの、北ベトナム軍は決して蛇ではなかった。それは強大な龍だったのである。

米軍が強いとは言っても、こういう連中を相手にしている以上非正規戦の発生を防ぐのは不可能だったのである。囲い込みや極刑、そういった対処療法でしか緩和できなかった。みせしめに無辜の民を虐殺するベトコンに対抗するには、逆説的な様だが米軍も同じ様な事をしなければならなかったのである。故に米軍兵士は女子供を撃ったし、無辜の村を焼き打ちにした。ベトコンと化した村人達は一人前の戦士であり、それは女子供も同様である。だから撃った。焼き打ちにするぐらいの事をしなければ村人が囲い込み地域に行ってくれない。だから焼いた。

人道の為には人を殺さなければならない事もあるという事である。情けをかけてとどめをささなければ甘く見られ、一層強力な戦士として『ペイバックタイム』の挙に出るだろう。情けをかけて命令に背き村を焼かなければ、ベトコンの毒牙にかかるかもしれぬ。

悲しむべき事だが現実である。現在のところ、受け入れる以外の手段を人類は持たない。

歴史的和解

2007年11月08日 14時32分03秒 | 日記
連続ですまぬが、昨日の記事で一応補足しておきたい事がある。女は結婚すると退職する事が多いと書いたが、一昔前は結婚したら退職せねばならないというのが日本企業であった事は無論承知している。あくまで一般的な例として掲げただけである。


で、急に話が変わるが、何やら小沢続投だそうである。一昨日諸葛亮先生がシャッシャッシャホォゥとか抜かしたのは辞任の意向を受けて民主党が大混乱に陥っていた時期だった訳で、流石は天下の大天才。千里眼とでもいうべきだろうか。その千里眼をC5の出の速さに使って欲しいと願うことしきりであるが、それはこの際置いておく。

ま、民主党なんぞ異端にされて追い出された元自民党組と旧社会党組(社民党)、その他諸々の寄り合い所帯であってとてもではないが党なんて名乗れるものではないのだがな。それに、どうやら旧社会党組の勢力も相当なものの様である。ニコニコでたまたま見付けた番組を見てびっくりしたのだが、何にびっくりしたって、憲法改正案である。

憲法改正は昨今世間の注目を集めている話題だが、実は民主党も憲法改正案を作っているという話である。で、その内容なのだが、凄い。真面目にびっくりした。凄すぎる。

要約版から引用すると、


これに対して、21世紀の新しいタイプの憲法は、この主権の縮減、主権の抑制と共有化という、まさに「主権の相対化」の歴史の流れをさらに確実なものとし、これに向けて邁進する国家の基本法として構想されるべきである。それは例えば、ヨーロッパ連合の壮大な実験のように、「国家主権の移譲」あるいは「主権の共有」という新しい姿を提起している。





……


………





「国家主権の移譲」あるいは「主権の共有」









「国家主権の移譲」

あるいは

「主権の共有」















「国家主権の移譲」

あるいは

「主権の共有」



一応聞いておきたいが、正気か?もしくは何かしらのジョークか?なぁ。小沢。っていうか民主党。お願いだから、頼むから冗談だと言ってくれ。

そもそも欧州とアジアじゃ歴史が全然違うだとか、つうかEUはそういうのじゃねーだろとかそういう次元を通り越しておる。よく「売国奴」という言葉が使われておるが、これは一般的には国を裏切った者という意味である。しかしこやつら、本当に売ろうとしてるではないか。初めて見たぞ、国を売ろうとした奴。



と、まぁ、掴みが本題になった気配は否定できないのだが、一応今日のお題は和解である。和解って誰と誰が和解したんだと言えば、私と水曜英語の教員である。何度か記事にした人だ。あの教員と、昨日深夜と言うか日付の上では今日の朝に歴史的和解が成立した。

世間では『可愛さ余って憎さ百倍』という。しかし私は逆である。『憎さ余って可愛さ百倍』だ。この友人観は一般的ではないだろうが、喧嘩を繰り返す事でより一層友情が強固になると私は考えている。

相手の良いところも悪いところも全部受け入れてこそ親友は形作られる。故に、私には喧嘩仲間が何人かいる。そういう意味じゃ手っ取り早いからな、喧嘩は。四、五年ぐらい前に理由は知らんが知人の英語科教員がいたのだが、そいつとも私は喧嘩友達であった。故に私も向こうさんも互いに互いを宿敵とまで思っておったが、しかし宿敵であるが故に我々は友であった。心から哀悼の意を表し墓参りもしたし、死んだと聞いた時には結構ショックだったものだ。

んで、まぁそれは置いておいてだな。正直なところ、前期の間は向こうさんの意図が読めなくて困っておった。何と言うべきか、何考えてるんだかよく判らない感じであり、ガチ反戦ではないがかと言って現実主義者でもなさそうだし、さりとてノンポリにも見えないという見事なまでのケイオスが形成されており、その思想真情が全く掴めなんだ。地獄の蓋をあけた感覚である。

ただまぁ悪い人ではないとは思っておった。確かに、ベトナム(=旧仏領印度支那=フランス領インドシナ)の歴史を解説してるのにフランスがさっぱり出てこないとかアレなことはあったが、しかしやはり悪い人ではなかった。

嫌がらせ的親切、世間でいうお節介という奴になるのだろうが、そんな事を私は前期の間二回やった。最初は、教科書として読んでいるベトナム戦争の小説にM16やらM79やら45(フォーティーファイブ=.45→M1911≒コルトガバメント)やらといった専門用語が続出しているのに教員自身よく判っていなかった気配だった為に、そういうのを解説したA4四枚の資料を作って配った。無論頼まれてやったのではなく勝手にやった訳であり、お節介である。

二回目は私が発表の役割をあてられていた回であり、ベトナム独立宣言を読んできてその内容を語れという役だったのだが、独立宣言である。つまりベトナム戦争で絡んできたアメリカではなくフランスに向かって喋っているのがベトナム独立宣言なのだ。故に、フランスとベトナムの関わりについて語らねば独立宣言に辿り着けぬ。

にも関わらず、教員の説明でははっきり言って不十分であった。フランスがいなくなってからをメインに話しておったから一概に責められる話でもないのだが、いずれにしろ不十分であり、そのまま発表すると確かに日本語なのだが意味不明な発表になってしまう為、ベトナムの歴史概略を作ったのである。フランス支配から独立宣言に至るまでの歴史を、な。

が、書き上げた後何となく嫌がらせしたくなり、独立宣言後ベトナム戦争に至るまでの経過、及びベトナム戦争雑学などおまけ要素も盛り込んだA4四枚に及ぶ資料を配布し、その上ベトナムの歴史について解説してから本題を発表するという暴挙に出た訳である。

いや、まぁ、その、なんだ。仏領印度支那時代がわからんとベトナム独立宣言は意味不明だから、その、な。何となく嫌がらせしたくなったのは、ほら、あれだ。アダムとジェイミーがとにかく爆発させたがるのと似た様なものだ。

と、まぁ、気の短い教員であればプッツン来るかさもなければ憤死する様な事をやった訳だが、特に苦情は来ず、どちらかというと好ましい内容だったみたいな評価ですらあった。私にしてみれば暖簾に腕押しと言うか肩透かしというかそんな感じで、心が広い人なのかそれとも意図が何かあるのかちょっと判りかねて困った。


ところが、後期になって前期期末試験の答案が返ってきた時に割と攻撃的なコメントがついており、オヤっと思ったのである。こんな攻撃的な事書く人だっけと思ったのだな。

で、Full Metal Jacketである。ハートマン軍曹である。ほほえみデブが観客の腹筋をブレイクし、戦争となると今度は史上最強のスナイパーと史上最弱の米軍のガチンコバトルが、著しくショボい背景セットを使って放映される訳である。

正直なところ、この映画はマズイと思ったのだ。フルメタルジャケットといえば、Q「よく女子供が殺せるな」A「簡単さ。動きがのろいからな」とか、「俺の垂らしたクソからピーナッツを探して食え」とか様々な名言が飛び交う映画である。この映画を見るには軍事的歴史的知識が必須であり、一般人が見たらドン引きするだけだ。

あれを見るくらいなら、むしろランボーとかの方が良いと思うのである。2と3はアレだが初代はベトナム帰還兵を題材にした真面目な映画だし、一般人向けでもある。

さて、FMJを見終わった後、映画鑑賞レポート用紙とかいうのが配られた。なんか感想を書けとのことである。で、適当ぉーに適当なことを書いて提出したのだが、翌週の授業、即ち昨日の授業でそれが返却された。そしたら、意外な事に大変攻撃的な事が書かれておったのである。

曰く、「建設的な意見を」「ポイントを絞って深い議論を」とかその辺はまだしも、「他人を批判するのは結構だけど深い考察しれ」とか甚だしきは「だから何?」と言われる始末である。それを見た私の脳内では、某ピザ好きデビルハンターが"Come on get me!!"とか抜かして激しく挑発してきておった。




そうかそうか。ならば戦争だ。


この水曜英語の授業は四限であり、水曜日は五限の授業を取っておらぬから帰宅である。この帰宅中、情報改竄中の長門と化した私は電車の中どころか乗り換え待ちのホームでも、立ちながら左手でPCを持ち右手で打鍵する暴挙に出た上、帰宅後は何かに憑かれたかの様にひたすら打鍵し続けたのである。

ただ、私の言いたいことを書くには、その前にいわゆるゲリラ及びゲリラ戦の説明、及びその対処法についての考察を述べる必要があり、その考察に時間の殆どを費やした。と言うか、たった今40x40の紙にコピペしたところ6ページに及んでおり、400字詰原稿用紙に突っ込んでみると実に17ページという大漁大量という感じである。

んで、まぁこの説明は字数が多すぎるから添付ファイルに突っ込んで、添付ファイル読んでから本文読んでね☆と書いて、本文にもしかるべき内容を書いて送ったのである。

いや、まぁ、その、別に攻撃的な内容ではないのだが、「オブライエンは内面的であり叙述的であるが、一方FMJはあくまで外在的な存在として心に語りかけるものである」とかそんな感じで確かに漢字仮名交じりなのだが日本語じゃない文章であり、自分でもどうかと思うのだが、何せ最近哲学に手を出しておるせいでどうしてもそういう方向に傾いてしまうのである。


で、昨日深夜と言うか本日早朝返信があった。それによれば、本人も挑発のつもりで書いてたらしく、前々から私の事を気にかけてくれてはいたらしいのだが、私の想像とは完全に逆であった。私は「向こうさんやりすぎだお前って思ってるんだろうな」と考えておったのだが、実際のところは「もっとやれ!もっと過激にもっとやれ!と思っていたらしく、重い腰を上げない私を無理矢理動かそうとして敢えて挑発したんだそうだ。

両者の不幸な誤解はこれで完全に氷解し、本日をもって水曜英語の冷戦は終わったのである。試験あるけどな。




ところで、諸君は「明日はネタフルとか言ってたのにネタがねーぞ」と思っているだろう。私もそう思う。実は、本日のネタはここまでが前座である。

向こうさんにメールを送った時、ゲリラやゲリラ戦についての説明を書いて添付した事は話したな。その添付ファイルについて、な。



教員曰く
この情報はなかなか良いものだと思います。
誰がどこに書いたのか、書誌データを教えて下さい













































  ( ゜д゜)
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/_ 
  \/     /
     ̄ ̄ ̄

  ( ゜д゜;)
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/_ 
   \/     /
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やっべどうしよ…アレ二、三時間で私が書き上げたファイルだなんて今更言えないぞ……

男女公平

2007年11月07日 10時09分00秒 | 社会、ニュース
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。私は、水木は一限だ。しかも水木ともに一限の授業をやるのは、我が敬愛なる教員である。よって確実に出席する為、朝の六時に家を出て喫茶店でしばらく待った後、八時に学校へ入る。で、九時の授業開始を待ちつつこれを書いておる次第である。

ところで、昨日の記事でちょっと訂正がある。天智と天武どっちがどっちだったか忘れたって話のところで「どっちも天系」と言ったが、あれは「どっちも天○だから「ぶ」のとこを忘れた」という意味である。天智以降天智系の天皇が続き、光仁天皇に至り天武系と天智系が合流したというのはちゃんと知っておる。が、流れを知らぬ様に見えて誤解を与えた様に思う。まぁここまで読んできて何のこっちゃと思っている人は気にしなくても大丈夫である。どうしても知りたければぐぐるべし。


さて、昨日田嶋がどうこうという話をしたが、本日はちゃんと田嶋の事を書いてみたいと思う。

そもそも田嶋は英文学者である訳だが、芸能人としてはフェミニストという位置づけである。フェミニストというものは、かいつまんで言えば、男尊女卑という世界各国の伝統を廃し男女同権を目指す主義を持つ者だ。私も同じ女として、フェミニストには頑張って貰いたいとは思うのである。












































先の発言見て胡散臭い

と思った奴手を挙げろ。


確かに、男女同権の為に運動している連中は、私は大嫌いである。

無論、田嶋陽子は腹を切って死ねと思っておる。真面目に

しかしこう書くと、実際のところ「じゃあお前男尊女卑でいいと思ってんだろ」と言われても仕方のないものがある。だが、私は男尊女卑は是正されねばならぬと思っておる。これも真面目に思っておる。


じゃあ何で田嶋が嫌いかと言われると、潔いまでに馬鹿だからである。カッコいいぐらい馬鹿である。カッコいいぐらい馬鹿で阿呆なのだ。

ああいうのがテレビに出演すると、「なんで女は感情でしかものを言えないんだ」とか「理想を追うのはいいが、なんで女は現実を見ることも重要だってのが判らないんだ」とか、視聴者に思われてしまう訳である。

近年インターネットの台頭が著しいものの、それでもテレビには及ばぬ。テレビは最強の報道機関なのだ。逆に言えば、テレビは最強の洗脳装置なのである。選挙がいい例だ。テレビのニュース番組とかが「政治は駄目です、なっとらんです」「国会は駄目です、なっとらんです」とか言うぐらいならまだしも、選挙が近くなると今度は一票の格差がどうのこうのと理屈を捏ね回し、「選挙は駄目です、n(ry」とか言いまくる訳であり、投票率が下がって当然である。特に若い奴はな。

これと同じ原理で、田嶋みたいな奴がテレビに頻繁に登場すると、出る度に女の評価が下がっていくのである。ほら、あれだ。野村が阪神タイガースの監督とかやってた頃、嫁が出る度に勝率が下がっただろ。

…ちょっと原理が違うか、これは。

まぁ、そういう訳で、田嶋みたいなのにはテレビに映ってほしくないのである。社民党と言うか社会党と言うか、あそこのドン(落ちぶれたが)の土井たか子なども、テレビに映るほど女=馬鹿の印象が強くなるからもう二度とテレビに映ってほしくない。


そもそも、私は男尊女卑は嫌いだが、かと言って男女同権主義者ではない。男女公平主義とでも言うべきか、同権には賛成しかねる次第である。何故かって、男と女は物理的に違うのである。男は子供を産めぬし、女は毎月生理が来る。

権利は義務を伴って生まれるものだ。義務は仕事と言い換えてもよかろう。例えば、会社に毎日出社し、同じく毎日真面目に勤務しているからこそ、ストライキやボーナスのつりあげや有給休暇を行う権利が生まれる訳である。また、社長であるとか専務であるとかそういうお偉いさんは、会社を発展させる以外にも、部下がへまをやらかした時は責任をとってやめたりしないといけないからこそ高い給料貰っておる訳だ。

で、男と女は物理的に構造が違う。個人差があるとは言え、根本的に違う。故に、例えば軍隊の歩兵だとして、女、特に生理となると凄い辛い思いをする女だった場合、とてもではないが前線で戦えない。となれば運用が面倒な訳だ。しかし男は部隊に迷惑かけずに運用できる。故に、男女相互の権利に格差が生じる訳である。これは文句の言える問題ではない。

それに、女は子供を産む訳である。これは個人差が大きく、出産後かなり衰えてしまう人もいればピンピンしてる人もいるから単純には言えぬが、妊娠から出産に至るまでは結構大変な経過をたどらねばならん。妊娠した女が会社員であれば、出産期ぐらいになるとどうしても会社を休まねばならん。だがその間男の社員はちゃんと働いておる訳である。ここでも権利の格差が生じて当然であろう。

故に、私は男女同権には賛成しかねる。だからと言って、男中心の社会にしろとは言わぬ。しなくてもいいが、しかしなまじの男より有能な女はゴロゴロしておる訳である。だから、女の社会進出もどんどんやってしまえば良い。

が、一度社会に進出したからには、ボコボコ退職するんじゃない。例えば女は結婚すると退職する場合が結構多い。となると、長期にわたるプロジェクトの責任者に女を据えると、とんでもない事になるという意識が会社に植え付けられてしまう。そうなると、会社側としても女に重要な仕事を任せるのに躊躇せざるを得なくなる。

結果、機会均等、機会公平が失われる。


私が男女公平主義者なのはこういう理由はこんなところである。まず男女の物理的な違いは考慮に入れるべきであるということ。そして機会均等を目指す為、機会を得た者はその機会を完遂すること。これが私の男女公平思想の理念である。




と、最近真面目なことばっか話してて読者諸君もうんざりしておろうから、明日はネタフルにお送りしたいと思う次第。これでも前半の田嶋ネタで笑いを取ろうとしたつもりなんだがな。




追記:記事を読み返すと全然田嶋について書いてないな。看板に偽りありである。

アマにも意地を

2007年11月06日 20時41分31秒 | 日記






さて、ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。記事の頭で諸葛亮先生が語っておるが、本日のニュースを見た脳内諸葛亮先生がシャッシャッホォゥッとか言いながらビームを撃った為掲載されておる。画像は私が加工したのではなく、いわゆる諸葛亮ジェネレータを使った。これだ。ついでに、またぞろカスラックが暴挙に出やがった事も宣伝しておく。今更感はあるがな。


あと、田嶋陽子の顔が何かに似てると前からずいぶん悩んでおったのだが、最近知人の顔に似てるのだと気付いて胸のつかえが取れた。取れたついでに田嶋についてネットで検索をかける事にした。

んで、取り敢えずwikipediaでも覗いてみるかと思って見てみたら、予想外なことに削除合戦が発生していない。wikipediaと言えば削除合戦、削除合戦と言えばwikipediaである。

wikipediaの取る『wiki』というスタイルは誰もが書け、誰でもその内容を書き換えられるものである。ただこの『誰でも』というのが曲者で、自分の気に入らない記述があると大幅な書き換えを行ったり、甚だしくは以前の著者の人格まで攻撃する内容に改変してしまう。

ただ、『気に入らないから』という理由で行うには、文書の執筆は少々めんどくさい作業である。自分の信念に反するからとかならいくらでも書けようが、気に入らないから、とかだとそんな事をする気は起きない。

そこで発生するのが削除合戦である。やる事は簡単で、ある人がとある記事を見て気に入らなかった場合、その記述を消す。極端な話、「すべて検索→右クリック→削除」という三度の手間でできてしまうのである。ここで終わればただ削除されたという事実だけが残る訳だが、大抵の場合、何の理由もなしに発生した削除に気付いた誰かが消された記述を復活させる。

ここで終わらないと削除合戦になるという道理である。とことんその内容が気に食わない山田さん(仮名)はwikipediaのその記事に粘着し、一時間おきに更新ボタンを押して内容をチェックし、記述が復活させられていたら削除する。復活させる側も同じく粘着し復活させる。これが延々と続くと、削除に留まらず、消す側復活する側双方に職人が降臨して互いの人格や品性まで攻撃する悪文が追加登場したりして滅茶苦茶になってしまう訳である。

wikipediaのみならずwikiというシステムそのものが、削除合戦を阻止できないものとして造られておる。何せ誰でも見れるし誰でも書けるのだからな。削除合戦を防げる方がおかしい。一応、ノンポリでただ削除するのが楽しいだけみたいなDQNならばアクセス制限をかければ良いのだが、根本的な解決にはならん。下手を打つと言論統制である。

この理の為、歴史上の事件はもとより企業の情報や軍事兵器、果てはガンダムに至るまで、ありとあらゆる場所で削除合戦が日夜行われておるのである。故に、wikipediaは引用したり参考資料として運用する場合は細心の注意を払う必要がある、と言うか、素直に百科辞典引け

最近の電子辞書はマイペディアどころかブリタニカ百科辞典まで入ってるという話ではないか。


んでようやく本題だが、最近ちょっとwikipedia厨が増え過ぎである様に思う。私は一応、曲りなりにも学生としての毎日を過ごしておる。専攻は日本史だが、現在は欧州の思想史や神学に興味を抱きつつ日本の中世や古代のありようにも食指を伸ばしておる。っつっても本読んでるだけだろと言われればそこまでだがな。

とは言え、仮にも我々は大学生である。義務教育じゃないとかそういう次元を遥か彼方に置き去って、卒業する時には一端の論文を書いてしまう学者であり研究者なのである。

まぁ、昨今の日本は過半数の若者が大学を卒業する情勢にある訳で、別に大学にまじめに行けとかそういう事を言いたいのではない。つうか言われる側だ、私は。教授陣がやる気ゼロなのを見てるだけでもう、大学なんぞ適当に過ごしておれば良い、そう思う。無論留年しない程度に適当である必要がある訳だが。

しかし、とさっきから逆接ばっかり使っておるが、しかし、我々は大学生である。学者である。研究者である。一応外面的にはそうなっておる。例えば文学部日本史専攻の私などは、一般人にしてみれば歴代天皇の名を暗記したり、日本が過去に締結した国際条約の本文をソラで言える様な凄い奴だろうと思ってる訳である。

だからといって私は、他の大学生諸君に「そういう凄い奴になれ」と言うつもりはない。しかし、最低限体面を取り繕って欲しい。

例えば、私は日本史専攻だが、歴代天皇の名前などまるで覚えておらん。むしろ天武と天智どっちがどっちだったか忘れた。同じ天系だからな。こう言うと、はっきり言って面目丸潰れである。

しかし、「忘れた」の一言で済ませなければどうにか取り繕う事はできる。「どっちかがどっちかの弟で、兄貴が弟じゃなくて息子を皇太子にしたから戦争になったっとかそういう話はちゃんと覚えてるんだが、肝心の名前が出てこない」とか言っておけば、多少なりとも体面は保てる。


もう大体諸君は何を言いたいか判っておるだろうが、要は、【参考文献】【wikipedia】は☆YA☆ME☆RO☆という話である。んな事書いたら手抜きが一発でバレるからな。他のまともな参考文献に混じって存在しておるならまだしも、wikipedia一本はマズイと思う次第。

ま、そういうのを見ても基本的に萎えるだけで、別に怒る気は全くないのだがな。いやまぁ、昔の某名無しさんだったら怒ったかもしれぬが、私の目の前に「○○を知らないなどというのは××として恥だと思え!」とか言ってる奴が存在しておる訳で、そういうことを言ってる奴ほど自らの無知を恥じないという事が良く判っておるからな。

そう思うと、太田(爆笑問題の頭悪そうな方細い方)とか典型的な恥じない無知者だな。無知蒙昧というのはああいうのをいうのかもしれん。ああ、ちなみに、現実の私の目の前に、今そこに、そういう奴がいる訳ではないぞ。一応念の為に言っておくけど。私が授業を取ってる教員の話だ。無論切る気満々である。


まーしかし、同じ学者でもどうしてこう差があるかな。私ら大学生はいわばアマチュアであり、学者は学者でも素人だ。だが教授とかはそれが本業であり、いわばプロの学者な訳である。同じプロでも月と鼈が多すぎる気はする。年間百万払ってるのに。

鞘当て

2007年11月05日 19時59分56秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。私は二万もするヘッドホン衝動買いしてしまった。ただ、値段が値段なだけに性能は非常に良い。

お陰様で、以前爆熱ノートPCを使っていた時と同じ格差社会が我が霧島家に発生してしまった。先日お亡くなりになられたノートPCの液晶画面は、私のデスクトップPCと比べ明らかに、かつ物理的に大きい。その上デスクトップの液晶が1024までしか対応できなかったのだが、ノートは1024どころか二段階上の解像度まで対応しておった。

今回、ヘッドフォンを買ってしまった訳だが、高級品である故に性能も良い。一方、我がデスクトップPCのスピーカは6年ぐらい前に2980円で買った超安物であり、ノートPCもDELLにしてしまった為驚くほど酷い音しか流れてこない。その上テレビの音響装置がそろそろ寿命らしく、頻繁にステレオになったりモノラルになったりする。

この二万もするヘッドフォンは現在当家最強の音響設備なのだ。こんなにちっさいのが他のあらゆる音響より高性能というのはちょっと嫌な話である。



ところで、首都圏在住の人は電車に乗る機会が多かろう。乗り換えの為に駅の中を歩いたりもするだろうと思う。私も電車通勤だから二回ぐらい乗り換えるし横浜駅周辺は買物に行く機会が多く結構電車に乗る。乗るのだが、よく「右側通行にご協力ください」という表記を見るし、逆に「左側通行」とか書いてある駅も見かける。

現在の道路交通法がどうなってるのか知らんが、日本の歴史上では伝統的に左側通行が正しいとされている。何でそうなったかと言うと、江戸時代は侍が偉かったからである。

最近の人は時代劇をあまり見ておらぬから知らぬかもしれんが、鞘当てというのがある。侍が腰に差した刀は当然鞘にしまいこんである訳だが、その鞘を何かしらの理由で、例えば自分の刀の鞘でガチャリと当ててしまうと鞘当てになる。これは重大なマナー違反というか、対応の仕方を間違えれば真剣勝負どころか無礼討ちで首チョンパである。

日本が伝統的に左側通行なのはここに理由がある。江戸時代、刀を差して歩いておるのは侍だけ(例外はあるが)であり、侍にとって鞘当ては非常に嫌な行為なのだ。これを避ける為の左側通行なのである。刀は左腰に差すから、左側通行だと物理的に鞘当てする余地がないという次第だ。


んでこの鞘当てだが、私は子供の頃からずっと不思議に思っておった。確かに、鞘に何かをぶつけられると中に入っておる刀身が暴れ、鞘の中の部分にガツガツ当たってしまう。だから、鞘が鋼鉄製だと確かにマズイ。しかし、刀の鞘は鉄製ではない。一般に木製である。

洋画に出てくる剣士が剣を抜くとやたらとシャキーンシャキーンと五月蝿いが、あれは鉄の剣を鉄の鞘から取り出すからあんなに音が鳴るのだ。一方、日本の鞘は木製であるからあんな音は出ない。だから時代劇でも抜刀時に物凄い音が響くという事はない。まぁ時代劇はともかく、アニメとかだとシャキーンシャキーンと鳴っている事は多いがな。

要は、刀は鋼鉄であり鞘は木だから鞘当てされても大して嫌な事が起きる事はないという話だ。にも関わらず、江戸時代において鞘当ては非常に重く見られるものであった。確かに鉄鞘が存在しなかった訳ではないが、稀である。

そこで、先日ふと思い当たるものがあった。刀という武器は、現代で言えば短機関銃と拳銃を足して二で割ったようなものだ。んで、銃という奴は、実は割と簡単に誤作動するのである。例えば、先日こんな事件があった。

こういう事件は沢山ある。こんなんとか。普段銃に接する機会の少ない我々は、銃というのは非常に安全なものだと勘違いしておる。じゃあ実際のところどうかと言えば、安全装置が解除されておる状態でかつ薬室に弾が入っており撃鉄が起きている銃を床に落とすと、高確率で暴発する。

とは言え、暴発してばっかりという訳ではない。取り扱い上注意すべきいくつかのものに気を配っておけば、落としたりしても大丈夫だ。100%ではないにせよ大丈夫と言ってよいレベルである。


で、本題の鞘当てに戻る。この鞘当てという行為、現代でいうと「自分の銃を他人が叩いた」というものだろう。そう考えると、確かに嫌だ。何せ安全装置をかけておいても、稀に暴発が起こる機会である。それに激しい衝撃を与えられた場合、誰でもムッと来ると言うか、精神衛生上非常によくない

もしかしたら鞘当ても、そんな経緯で生まれたものなのかな、とそんな事を考える秋の午後であった。しかし、恋の鞘当てなんて言葉が生まれるところからすると、鞘が当たった当たってないだと大喧嘩する武士は「大人気ねーな」とか町民から思われておったのかもしれんな。

エスコンゼロまでの軌跡

2007年11月04日 21時07分32秒 | アニメ、ゲーム、映画等
物凄く久し振りだが、ごきげんよう。諸君は元気に過ごしておるかな。息災であれば何よりである。先日、明日更新するみたいな事を書いて以降全く更新しなくなった為、インターポールとか警察とか特別高等警察とかSDに捕まったか、そうでなければCIAの執行事務局であるとかSASのカウンターテロリストとか逆に北朝鮮の秘密部隊とかハイチ秘密警察あたりに殺されたかと思った人も多かろうが、一応生きておるし襲撃も受けておらぬ。

デュバリエはパパもjrもくたばったじゃねーかとか言われそうだが、今でもキューバマフィアから仕事貰ったりFRAPHに加わったりしてテロ活動を頑張っているそうである。ちなみにFRAPHは『Front for the Advancement and Progress of Haïti』だが、これの正式な訳は『ハイチの進歩と発展のための戦線』だったりする。この訳語を作った奴は頭が海綿状になっているに相違ない。

話がそれた。

まぁ、どうにかこうにかここ一週間ぐらい生きておった。とは言え、全然更新しておらなんだのを見ての通り見事なまでの鬱モードだった訳で、死なない程度に生きていたと言うのがより正しい表現であろう。運動なんぞする気が起こる筈もなく、折角減らした体重もリバウンドで激しく萎える。しかし、主食が、と言うかむしろカロリーメイト以外ロクなもの食べてないのに何で体重が増えるんだろうな。



さて、十一月の初日に天使とダンスするゲームが発売されてしまった。しかし私は元々PS3派である。いや、確かに高いしデカいけど、初期投資としてはXBox360に比べ大した差は無い。箱はこの前値下げしたみたいだが、PS3も廉価版を出す模様である。これ以降出るビッグタイトルはまず三國無双5にデビルメイクライ4とメタルギアソリッド4だが、こいつらはどっちでも遊べる。

どっちでも遊べるなら私はPS3である。PS、PS2のゲームを快適にエミュレートできるし、頑丈だ。私は描画能力とか音質とかそういった細かい性能差はよく判らんが、ゲイツ箱は購入してから一年以内に33%の可能性で壊れるらしいから、正直パスだ。

で、エースコンバット6に戻ってくる訳だが、良ゲーならそれに越した事はないのだが、クソゲー臭が凄い為控える事にした。エスコンはアーマードコアみたいに明らかな宣伝工作員がネットにまみれておるからレビューもあてにならんしな。


さて、エスコンシリーズの話に戻る。今日はゼロまでの流れだ。


そもそも、エースコンバットはフライトシミュレータ風シューティングゲームである。まぁ初代は某ゲーセンのゲームの移植という色が濃いが、2以降は基本的にその方向で作られておる。

で、問題となるのがストーリーである。2まではただ黙々と敵を叩き落とし続けるゲームな訳だが、日本人の国民性の関係上、ただのシューティングゲーは売れない。一応、コアな層がいるからにはコンスタントにある程度は売れるのだが、一般人には見向きもされない。よって、商業的に考えれば何かしら+αする必要がある。

その+α要素として、3ではストーリーを大々的に導入した。いや、まぁ2にも無いではないが、さっきも言ったとおり基本的には無いに等しい。で、導入したのだが、大失敗であった。

どういうストーリーだったかというと、近未来もので、その、なんだ、要するにエヴァのパクリだったのである。パクリでも完成度が高ければ誰も文句は言わぬのだが、これがまた酷い出来だったのだ。はさまるしな。

で、4だが、こちらは3と違い手堅いつくりになっておる。3はストーリーの比重がかなり大きかったし、主人公(どう見てもエヴァの綾波)にもちゃんとした設定があった。一方、4は主人公(メビウス)に何ら設定が無い。あるとすれば、一人で戦局を変えるスーパーエースというただそれだけである。とあるミッションでは味方の通信で「嘘でもいいからメビウスが来てるって言っとけ!」とか抜かされてなかなかワロスだ。

ならば、4のストーリーはどうかというと、主人公のメビウス1はただ黙々と敵国(エルジア)と戦い続けるだけだ。なのだが、その合間合間に、エルジアに占領された中立国の人の独白が流れる。それだけだ。


はっきり言って、4は新しい客層を得るなどという事は全く考えておらん。しかし、5は違った。5ではハリウッド映画風の演出とジャパニメーション的ストーリーを大々的に導入し、ストーリーの為ならばゲームバランスも無視するという潔いまでの変化ぶりを見せてくれる。

この5が名作だった。確かに、話の流れも演出も、映画やアニメでよくある普通のものだ。しかしそれは陳腐ではなく、王道を突っ走ったと表現した方がより真実に近い。王道の中の王道を走ったストーリーと、エースコンバットシリーズ特有の爽快な空中戦で5は大人気を博したのである。エースコンバットは一躍看板タイトルにのしあがったのである。


だが、ここで問題が生じる。5は確かに名作だった。ストーリーの為ならゲーム性を落とすという潔さ故に名作だった。しかし、この新しい展開により客層が変化した、今までエースコンバットシリーズはコアなオタクしかプレイしないシリーズだった。そういう連中はフライトシミュレータ風シューティングゲームを求めておるのであり、極端な話、ストーリーなどなくてもいい連中なのだ。

5はストーリーに潔く特化した故に名作なのだが、旧作ファンにしてみれば不満である。ストーリーの為にゲームバランスを崩したミッション、例えばミッション冒頭で2分ぐらいかかるようなものがいくつもあり、ただ戦闘機でカッ飛んでバシバシ敵機を撃ち落としたい人にとっては不満の極みな訳である。

つまり、5はオタク、もしくはコアなファンには受けが悪かったのだ。じゃあゲーマーにはどうなのかと言われると、そもそもエスコンシリーズはやりこみ要素があんまり無いからゲーマーには受けないシリーズである。世の中には稀にこのシリーズをやりこむ奴もいるらしいが、そういう奴にとってはゲーム性を犠牲にした5は不満であろうな。


さて、5の大成功を受け、エスコンチームは期待作エースコッバットゼロを作る事になった。しかし、どう作るかが問題である。4(と言うかむしろ1とか2とかから)ずっとプレイしてきているコアなファンは、ゲーム性の復活を期待する。一方で、5からエースコンバットをやり始めたプレイヤーは更なるストーリー性を要求する。

で、この二つを融合すべくエーススタイルシステムなるものが採用された。プレイヤーの操作に応じ、エーススタイルが変わる。具体的には、弱者をいたぶる事を好まぬナイトエース、戦略戦術判断に優れたソルジャーエース、目に入ったものはすべて破壊するマーセナリーエース、この三つだ。

それぞれが三段階の難易度となっており、基本的にストーリーは一本道なものの、出現するライバルエースが変わる。ナイトが一番簡単だ。こうやって難易度を自分で選べるようにしてゲーム性の要求に応え、同時に選択によって変化するストーリーをも楽しめるようにしようとしたのだな。

が、大失敗であった。

まぁ確かにストーリーの為にゲームバランスを崩すようなマネはしておらぬのだが、出てくるライバルエースがどいつもこいつも雑魚である。低速旋回しながらミサイル撃ってりゃ勝てるし。

で、ストーリーはどうかと言うと、クソの一言に尽きる。大体だな、ゼロの題名は「ACE COMBAT ZERO -THE BELKAN WAR-」である。ベルカンウォーっつーのは日本語で言えば「ベルカ戦争」だ。5で「十五年前の戦争」といわれていたベルカ戦争を主題にしたゲームなのである。で、一応20ぐらいのミッションがあるのだが、半分こなす前にベルカ戦争が終わる。

その後はなんかよくわからん共産主義革命テロ組織みたいな連中と戦う。出てくるエースの違いによってストーリーが変わる事などほとんどない。


一応、ストーリーの芯は主人公(やっぱり何の設定も無い)の相棒のピクシーという奴だ。このピクシー、傭兵なのだが、なんだかよく判らんが精神障害者に違いない。

首都解放のミッションで市民の歓声の中「聞こえるか相棒!これが俺達の戦争だ!」とかおおはしゃぎしてた癖に、その2、3個後のミッションではPJなるDQNが「俺は平和の為に戦う」みたいな事を言ったのに対して「その平和の下、世界では何万ガロンもの血が流れてるんだよ。現実を見ろ、小僧」とかなんとか抜かしたりする。

んで、敵国のベルカの連中は「市民の避難より軍の部隊の撤退を優先させろ!」とか言っておる奴らだ。なのだが、自分は一体何の為に戦っているのか判らなくなったピクシーは、敵のベルカ軍人を見てこう言う。「ベルカの奴らは誇りで戦える」



一刻も早く精神病院行け。



最後のミッションになると、行方不明になってたピクシーが最新鋭機モルガンに乗って現れ、「よう相棒、戦う理由は見つかったか?」とか抜かしながら襲いかかってくる。んで、共産革命の為に核を撃つのである。「このV2(核ミサイルな)で全てをゼロに戻し、後の世代に未来を託そう」とか言ってくる。

お前、そんな方法でゼロに戻したら地球人類が死滅するぞ。

まぁそんな感じであらゆる要素がクソゲーだった訳である。はっきり言って5の成功を台無しにしてくれやがったのがゼロだ。ストーリーの為にゲーム性を敢えて捨てるという、従来のファン層に叩かれる事が必至のゲームを世に出した、勇気と努力が両方備わったゲームが5である。ゆえにゼロの失望感は大きい。

まぁ、とは言え、FFは何度クソゲーを出しても売れるのと同じ様に、エースコンバットが今やビッグタイトルである事に疑いはない。今回の値下げと6がどの程度ゲーム市場に影響を及ぼすかが面白い話題なのは確かだ。

今はwiiの一人勝ちで、PS、SS、64の三者が競った時代の初期から中期にかけて他を圧倒したセガサターンが、最後にはエロゲー専用機と化した様に、現実世界はどう転ぶかなかなか判らんものだから、注意深く見守る次第。