ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。霧島である。
最近、ついったーをはじめようかどうか悩んでおる。まぁこれは始めても特に何か変わる訳ではないからいいんだが、もう一つ悩んでるのが深刻で、まぁいわゆるアフィ厨になるかどうかである。これは前々から思ってた事で、と言うのも以前から友人にこんだけ書いてんだから何かしら儲ける方法考えてもいいんじゃないと言われていたのである。それに加え、最近通っているカウンセラーにこの日誌を紹介したところこんだけやってるんだからやらないと損だよ的な事まで言われてしまったのだ。
しかしなぁ。ブログで儲けるといったらアフィリエイトだろうとは思うんだが、そもそも儲かるだけクリックしてくれる人がいるのかという話がある。それに何より、アフィ厨は嫌われると聞いた事があり、アフィリエイトを始めるとそれまでブログを読んでくれていた読者が離れていってしまうというのである。正直、アフィリエイトでちょっとぐらい小銭が貰えるよりも読者が離れる方が私にとっては辛い。
まぁこんな話をした時点でアウトだとは思うが、実際のところどうなんだろうと思ってな。意見求む。
さて、昨日の続きである。昨日は、中世ドイツの村というの必ず一個は教会がある、というぐらい民衆支配機構として浸透していた、というところまで述べたな。
その支配は非常に強力であった。やはり、教会が民衆の生活と密接に結びついていたというのが非常に大きい。それは例えば秘蹟、即ちサクラメントが象徴している。これはカトリックの儀式みたいなもので、洗礼とかがそうだ。まず人は生まれれば洗礼を受けた(ついでに教会に登録される)、と言うか受けさせられたし、教会の許しがなければ結婚もできなかった。と言うのも、婚姻もカトリック教会の秘蹟の一つだったのだな。
更に死ぬ時には終油というのがあり、死の直前に許しを得る。これは要するに、今まで生きてきた中での罪を告白して司祭からこれを許してもらい、油を塗って聖別し、死んでからは天国に生ける様にする、といった感じのものだ。つまり中世のドイツ人は教会が許さなきゃ結婚もできないし天国にも行かせて貰えないという、教会に生死を握られてるどころか死後まで握られてる状態だった訳である。あ、ちなみに終油については歴史的変遷が色々あるのでかなりはしょってるぞ。
まぁそれは置いといて、こんな状況なら平民が教会に掌握されてるのも大体判るというものだろう。その支配構造の中に、聖書と文字もあった。実は聖書を読めるのは一部の特権階級だけだったのである。聖書を読める権利自体が一種の特権だったと言ってもいいな。何せ聖書はラテン語で書かれており、当然ながらラテン語が読めないといけない。ドイツ語すら書けない一般ドイツ人に読める訳がないのである。
だからこそ、だ。聖書に何が書いてあったとしてもそれをどう解釈するかはローマ・カトリック教会の一存で決まったし、明らかな嘘で民衆を統治する事も可能だった。何となればだな、どうせ聖書なんか読めないんだから、「神の前では人は皆平等、ではありません」なんて言っても聖職者連中が口裏合わせときゃそうそうの事じゃバレない訳である。貴族連中にはバレそうだが。
この様に、民衆を無知な状態に置いてその死後の世界までをも強力に拘束する、というやり方は中世ドイツにおいて有効に機能した。本当に非常に有効に。当然と言えば当然だがな。そしてこれを打ち破る(と言うとアレだが)契機になったのが宗教改革でありその一環のルターによる聖書訳なのである。宗教改革についてはまぁ学校でも習っているだろうからざっと流すが…
元々、ルターは宗教改革なんぞやろうとも思っておらなんだ。誠実な人柄の彼は、修道院で酷く怯えていたという。と言うのも、キリスト教というのは落とし穴が多いと言うか、どんなに戒律をよく守って善行を行ったとしても生涯に一回ぐらいは戒律破りぐらいする訳であり、仮にしなかったとしても「私は一度も戒律破りをしなかった。どやっ」とか思った瞬間傲慢の大罪で地獄へボッシュートの可能性がある訳である。
そう考えると、どんな人でも天国に生けるとは限らんしましてや自分は、となったのだ。それが長い間色々考えた結果、信仰義認という見解に達した。それまでのカトリック教会は、まぁはしょって言えば善行による点数制であり、善行を重ねると何ポイントプラス、悪行をやっちゃうと何ポイントマイナス、それで死ぬまでに点数を決めて合格点なら天国。足りない奴は終油とかで下駄を履かせるという感じだったのである。
しかし、これはともすればどやっに繋がる。俺は○○という善行をした、これなら天国へ行ける!(キリッ→傲慢乙みたいな。そこで、善行を重ねる事によって神は人を義の人とするという旧来の考え方をやめ、信仰によって神は人を義の人とすると考えたのだ。神を信じて神に全てを委ねる事によって、神はその人を義とするのである。点数制は損得勘定が混じるから傲慢の罪とか入る余地がある。
そもそも善行をする事自体が天国に行きたいという欲望から発生してるという可能性はある訳だ。その点、信仰義認はただひたすら神を信仰する、神にすがるというものだからそういう罪が入り込まないという理屈だな。もし天国に行きたいから神を信仰するというのなら、神に全てを委ねてないから信仰にならない、という理屈でもある。
こんな事を考えてる奴であるから、当時物凄い勢いで売られていた贖宥状(いわゆる免罪符)は許せなかった訳である。さっき点数制のカトリック教会においては、点数の足りない奴は終油で下駄を履かせると言ったが、中世カトリックでは教会が神にとりなす事で人の罪を軽減できると考えられておった。終油もこの考え方を汲んでいる訳だが、告白という秘蹟も同じだ。これはまぁ知ってる人も多いだろうが、ほら、教会で神父様に「私は○○という悪い事をしました」と告白し、神父がそれを聞いて許す、という奴である。
ただこれ、告白すれば許される訳ではない。後悔した上で告白する必要があるのと、告白した神父に「じゃああなたは償いとしてこうこうこういう事をしなさい」と言われ、償いとしてそれをせねばならんのである。で、信者が償いをしてる間、神父は教会を通して神に信者の許しを請う、つまりとりなすのである。昔はこの償いが厳しかったのだが、その中には「今教会作ってるんで寄付を」なんてのもあった。罰金である。贖宥状というのは「あなたはこれを買う事で教会に寄付するという償いをしました」って書いた紙みたいなもので、駐禁の罰金をあなたは払いましたっていう領収書に近いものである。
まぁ、ルターなんかにしてみれば最早冒涜に近いレベルである。神を信仰し、神に全てを委ねる事によってのみ人は救われる、なんて考えてる奴だからな。なのでこれに反対したのだが、最初は「これはどうなんですかね」みたいな質問状を出しただけである。しかし満足できる答えが返ってこなかった上、修道院で戒律も犯さず禁欲生活してても天国行けないかもとか考えるぐらいの小心者、言い換えれば潔癖主義者だった為、突き詰めた議論をしていく内に教会とかいらないんじゃねぇ?という話になって結局宗教改革に行き着くのだ。
この宗教改革の中で、聖書の翻訳作業も行われる。元々聖書というのはヘブライ語で書かれており、当時流通していたラテン語訳というのはギリシャ語訳版からの重訳であり、誤訳が多いとされていた(実際に多かったらしい)。その為学問的にもヘブライ語版からの直訳版が求められており、又、ルターのいう信仰義認を達成するには民衆が手に取れる聖書、つまりドイツ語版が不可欠だった。
何故なら、今までは教会が信仰のやり方を教えてくれていたがルターは教会の権威で神に許されるなんて思ってないのであり、個人個人が神に全てを委ねる、言い換えれば神と直接向き合わなければならないとしている。そして個人が神と向き合うには、過去の聖人達が神の言葉(もしくはそれに近いもの)をまとめた聖書を読むしかない。ならば万人に読める聖書が必要である、という理屈だ。それこそイエスなんかは神の子であって彼の言葉は神の言葉に限りなく近い訳だからな。まぁ新約にしか出てこないけど。
そして彼はこうも言った。「聖書に書かれていない事は、私には認める事ができない」と。例えば教会に従えなんてどこにも書いてない。だからこそ彼は最終的に「教会イラネ」となったのだ。であれば、だ。民衆は王侯貴族に統治されなければならないなんてのも聖書に書いてない。重税にあえぎ、宗教改革以前から反乱を相次いで起こしていたドイツ農民に、彼の言葉は大変な勇気を与えた。更に言えば、この当時、領主にとっても教会は邪魔っけであった。
何故なら、既に全国的な統治機構は彼らのものが完成している為教会は必要なく、むしろ教会は領土は持ってく税金は持ってく政治に口は出すと非常に邪魔な存在だったのだ。故に、「聖書に教会は必要なんて書いてねーぞ」と言ったルターを、のちのプロテスタント諸侯と呼ばれる人々は受け入れ、教会領を没収したりしてウマーしたのである。まぁ、こういう連中は「カトリックもプロテスタントもどうでもいい、儲かるからプロテスタントだ」という奴も多かったんだが、領主様公認の宗教ともなればプロテスタントは大いに盛り上がる。
そこに来ての、一般民衆の為の聖書、ドイツ語版聖書の出版である。売れない方がおかしい。
長い間、ドイツ語に標準語ができなかったのにはいくつか理由がある。しかし書き言葉に関して言えば、一番の問題はドイツ人に共通の読み物がなかったというものが挙げられるだろう。ドイツ人なら(少なくとも文字を読めるドイツ人なら)誰でも知っている、絶対に読んでいる、という本がなかったのである。例えば我々現代日本人は、小学校で使う教科書を(種類がいくつかあるとは言え)必ず読む。その教科書に使われている日本語が統一されていれば、それが人々の使う標準日本語の土台となる。当時はそういうのがなかったのだ。
一応標準ドイツ語を作ろうという動きは早くからあり、特に吟遊詩人達は自分らの書いた詩が万人に読まれる様、誰でも読める様なドイツ語で詩を書いたという事もあった。中高ドイツ語って奴だな。しかしながら、そんな吟遊詩人の詩をあらゆるドイツ人が読むかと言えばんなこたーないのである。大体にして、吟遊詩人(トゥルバドゥールとかジョングルール)なんてのは暇をもてあます王侯貴族を楽しませるのが目的だ。
貴族なんてのは普通、何もしなくても一生遊べるだけの資産があって暇で暇でしょうがないのが一般的なのだ。動乱の時代とか、国の中枢にいる場合を除いてな。そんな奴ら向けの詩が、一般ドイツ人に読まれる訳がない訳である。ファンタジーRPGとかによく登場する吟遊詩人(バード)は、むしろケルトの吟遊詩人がモデルである。彼らはドルイドの一種で、神話、歴史、時には法律を暗記し歌にして人々に伝える役割を負った専門職であった。
話が逸れたな。そんな訳で、ドイツ人なら誰でも知ってる、読んでるという書物は長らく存在しなかった。しかしながら、聖書なら誰でも読むし、それがドイツ語で書かれているとなれば、読み書きのできるドイツ人なら誰でも読める。しかも宗教改革の社会情勢なら、読む率は飛躍的に上がる。こうして、ルターによるドイツ語版聖書はドイツ人なら誰でも知ってるand読んでる初の書物になったのである。
こうなれば、当然、ルターの書いたドイツ語が標準ドイツ語の祖形として定着する事になる。ドイツ語を読み書きできるなら誰でも読んでる訳だから、自分の出身地の方言で文章書いて見せても理解してもらえなかった場合ルター風ドイツ語っぽく書けば確実に理解してもらえるのである。これは非常に大きい。
それに、当時は識字率が低かった。これは逆を言えばある程度教養のある連中に定着しさえすればそれが標準ドイツ語となるという事である。あくまでルター版聖書は書き言葉だからな。知的好奇心と仕事、そして当時の社会情勢と習慣の関係から、読み書きできる連中がルター版聖書を読む確率は高い。そして読まなかったとしても、ルター風ドイツ語なら相手に通じると判れば、読み書きする連中は読まざるを得ない。特に読み書きで収入を得てる奴はな。
斯様な歴史的背景を経て、はじめてルター版ドイツ語聖書は標準ドイツ語の祖形となったのである。まぁ実際に標準ドイツ語と呼べるものが形成されるのは、三十年戦争を経てドイツ民族という意識が高まる必要があったんだけどな。グリム童話の作者として有名なグリム兄弟はこの流れを受け、かの有名なドイツ語辞書を作った。又、ウムラウトとかは長兄ヤーコプ・ルートヴィヒ・カールの造語である。彼らの書いた童話が各家庭に普及するなど、ルター版聖書以外にもそれに似た役割を果たした本はある。
しかしながら、ルター版聖書は何せ初めての存在であり、それ故に祖形と呼ぶに相応しいのである。こういった流れを理解した上で考えないと、何故聖書という神学的な物体が現代まで続く標準ドイツ語の祖となったのかは理解できないのである。まぁ、件の福嶋とかいう人の発言はおそらくツイッター上のものであり、所詮はつぶやきに過ぎないのであって目くじら立てるものでもないとは思うが、ネタになりそうだったので一つの記事に仕立てさせてもらった次第である。
最近、ついったーをはじめようかどうか悩んでおる。まぁこれは始めても特に何か変わる訳ではないからいいんだが、もう一つ悩んでるのが深刻で、まぁいわゆるアフィ厨になるかどうかである。これは前々から思ってた事で、と言うのも以前から友人にこんだけ書いてんだから何かしら儲ける方法考えてもいいんじゃないと言われていたのである。それに加え、最近通っているカウンセラーにこの日誌を紹介したところこんだけやってるんだからやらないと損だよ的な事まで言われてしまったのだ。
しかしなぁ。ブログで儲けるといったらアフィリエイトだろうとは思うんだが、そもそも儲かるだけクリックしてくれる人がいるのかという話がある。それに何より、アフィ厨は嫌われると聞いた事があり、アフィリエイトを始めるとそれまでブログを読んでくれていた読者が離れていってしまうというのである。正直、アフィリエイトでちょっとぐらい小銭が貰えるよりも読者が離れる方が私にとっては辛い。
まぁこんな話をした時点でアウトだとは思うが、実際のところどうなんだろうと思ってな。意見求む。
さて、昨日の続きである。昨日は、中世ドイツの村というの必ず一個は教会がある、というぐらい民衆支配機構として浸透していた、というところまで述べたな。
その支配は非常に強力であった。やはり、教会が民衆の生活と密接に結びついていたというのが非常に大きい。それは例えば秘蹟、即ちサクラメントが象徴している。これはカトリックの儀式みたいなもので、洗礼とかがそうだ。まず人は生まれれば洗礼を受けた(ついでに教会に登録される)、と言うか受けさせられたし、教会の許しがなければ結婚もできなかった。と言うのも、婚姻もカトリック教会の秘蹟の一つだったのだな。
更に死ぬ時には終油というのがあり、死の直前に許しを得る。これは要するに、今まで生きてきた中での罪を告白して司祭からこれを許してもらい、油を塗って聖別し、死んでからは天国に生ける様にする、といった感じのものだ。つまり中世のドイツ人は教会が許さなきゃ結婚もできないし天国にも行かせて貰えないという、教会に生死を握られてるどころか死後まで握られてる状態だった訳である。あ、ちなみに終油については歴史的変遷が色々あるのでかなりはしょってるぞ。
まぁそれは置いといて、こんな状況なら平民が教会に掌握されてるのも大体判るというものだろう。その支配構造の中に、聖書と文字もあった。実は聖書を読めるのは一部の特権階級だけだったのである。聖書を読める権利自体が一種の特権だったと言ってもいいな。何せ聖書はラテン語で書かれており、当然ながらラテン語が読めないといけない。ドイツ語すら書けない一般ドイツ人に読める訳がないのである。
だからこそ、だ。聖書に何が書いてあったとしてもそれをどう解釈するかはローマ・カトリック教会の一存で決まったし、明らかな嘘で民衆を統治する事も可能だった。何となればだな、どうせ聖書なんか読めないんだから、「神の前では人は皆平等、ではありません」なんて言っても聖職者連中が口裏合わせときゃそうそうの事じゃバレない訳である。貴族連中にはバレそうだが。
この様に、民衆を無知な状態に置いてその死後の世界までをも強力に拘束する、というやり方は中世ドイツにおいて有効に機能した。本当に非常に有効に。当然と言えば当然だがな。そしてこれを打ち破る(と言うとアレだが)契機になったのが宗教改革でありその一環のルターによる聖書訳なのである。宗教改革についてはまぁ学校でも習っているだろうからざっと流すが…
元々、ルターは宗教改革なんぞやろうとも思っておらなんだ。誠実な人柄の彼は、修道院で酷く怯えていたという。と言うのも、キリスト教というのは落とし穴が多いと言うか、どんなに戒律をよく守って善行を行ったとしても生涯に一回ぐらいは戒律破りぐらいする訳であり、仮にしなかったとしても「私は一度も戒律破りをしなかった。どやっ」とか思った瞬間傲慢の大罪で地獄へボッシュートの可能性がある訳である。
そう考えると、どんな人でも天国に生けるとは限らんしましてや自分は、となったのだ。それが長い間色々考えた結果、信仰義認という見解に達した。それまでのカトリック教会は、まぁはしょって言えば善行による点数制であり、善行を重ねると何ポイントプラス、悪行をやっちゃうと何ポイントマイナス、それで死ぬまでに点数を決めて合格点なら天国。足りない奴は終油とかで下駄を履かせるという感じだったのである。
しかし、これはともすればどやっに繋がる。俺は○○という善行をした、これなら天国へ行ける!(キリッ→傲慢乙みたいな。そこで、善行を重ねる事によって神は人を義の人とするという旧来の考え方をやめ、信仰によって神は人を義の人とすると考えたのだ。神を信じて神に全てを委ねる事によって、神はその人を義とするのである。点数制は損得勘定が混じるから傲慢の罪とか入る余地がある。
そもそも善行をする事自体が天国に行きたいという欲望から発生してるという可能性はある訳だ。その点、信仰義認はただひたすら神を信仰する、神にすがるというものだからそういう罪が入り込まないという理屈だな。もし天国に行きたいから神を信仰するというのなら、神に全てを委ねてないから信仰にならない、という理屈でもある。
こんな事を考えてる奴であるから、当時物凄い勢いで売られていた贖宥状(いわゆる免罪符)は許せなかった訳である。さっき点数制のカトリック教会においては、点数の足りない奴は終油で下駄を履かせると言ったが、中世カトリックでは教会が神にとりなす事で人の罪を軽減できると考えられておった。終油もこの考え方を汲んでいる訳だが、告白という秘蹟も同じだ。これはまぁ知ってる人も多いだろうが、ほら、教会で神父様に「私は○○という悪い事をしました」と告白し、神父がそれを聞いて許す、という奴である。
ただこれ、告白すれば許される訳ではない。後悔した上で告白する必要があるのと、告白した神父に「じゃああなたは償いとしてこうこうこういう事をしなさい」と言われ、償いとしてそれをせねばならんのである。で、信者が償いをしてる間、神父は教会を通して神に信者の許しを請う、つまりとりなすのである。昔はこの償いが厳しかったのだが、その中には「今教会作ってるんで寄付を」なんてのもあった。罰金である。贖宥状というのは「あなたはこれを買う事で教会に寄付するという償いをしました」って書いた紙みたいなもので、駐禁の罰金をあなたは払いましたっていう領収書に近いものである。
まぁ、ルターなんかにしてみれば最早冒涜に近いレベルである。神を信仰し、神に全てを委ねる事によってのみ人は救われる、なんて考えてる奴だからな。なのでこれに反対したのだが、最初は「これはどうなんですかね」みたいな質問状を出しただけである。しかし満足できる答えが返ってこなかった上、修道院で戒律も犯さず禁欲生活してても天国行けないかもとか考えるぐらいの小心者、言い換えれば潔癖主義者だった為、突き詰めた議論をしていく内に教会とかいらないんじゃねぇ?という話になって結局宗教改革に行き着くのだ。
この宗教改革の中で、聖書の翻訳作業も行われる。元々聖書というのはヘブライ語で書かれており、当時流通していたラテン語訳というのはギリシャ語訳版からの重訳であり、誤訳が多いとされていた(実際に多かったらしい)。その為学問的にもヘブライ語版からの直訳版が求められており、又、ルターのいう信仰義認を達成するには民衆が手に取れる聖書、つまりドイツ語版が不可欠だった。
何故なら、今までは教会が信仰のやり方を教えてくれていたがルターは教会の権威で神に許されるなんて思ってないのであり、個人個人が神に全てを委ねる、言い換えれば神と直接向き合わなければならないとしている。そして個人が神と向き合うには、過去の聖人達が神の言葉(もしくはそれに近いもの)をまとめた聖書を読むしかない。ならば万人に読める聖書が必要である、という理屈だ。それこそイエスなんかは神の子であって彼の言葉は神の言葉に限りなく近い訳だからな。まぁ新約にしか出てこないけど。
そして彼はこうも言った。「聖書に書かれていない事は、私には認める事ができない」と。例えば教会に従えなんてどこにも書いてない。だからこそ彼は最終的に「教会イラネ」となったのだ。であれば、だ。民衆は王侯貴族に統治されなければならないなんてのも聖書に書いてない。重税にあえぎ、宗教改革以前から反乱を相次いで起こしていたドイツ農民に、彼の言葉は大変な勇気を与えた。更に言えば、この当時、領主にとっても教会は邪魔っけであった。
何故なら、既に全国的な統治機構は彼らのものが完成している為教会は必要なく、むしろ教会は領土は持ってく税金は持ってく政治に口は出すと非常に邪魔な存在だったのだ。故に、「聖書に教会は必要なんて書いてねーぞ」と言ったルターを、のちのプロテスタント諸侯と呼ばれる人々は受け入れ、教会領を没収したりしてウマーしたのである。まぁ、こういう連中は「カトリックもプロテスタントもどうでもいい、儲かるからプロテスタントだ」という奴も多かったんだが、領主様公認の宗教ともなればプロテスタントは大いに盛り上がる。
そこに来ての、一般民衆の為の聖書、ドイツ語版聖書の出版である。売れない方がおかしい。
長い間、ドイツ語に標準語ができなかったのにはいくつか理由がある。しかし書き言葉に関して言えば、一番の問題はドイツ人に共通の読み物がなかったというものが挙げられるだろう。ドイツ人なら(少なくとも文字を読めるドイツ人なら)誰でも知っている、絶対に読んでいる、という本がなかったのである。例えば我々現代日本人は、小学校で使う教科書を(種類がいくつかあるとは言え)必ず読む。その教科書に使われている日本語が統一されていれば、それが人々の使う標準日本語の土台となる。当時はそういうのがなかったのだ。
一応標準ドイツ語を作ろうという動きは早くからあり、特に吟遊詩人達は自分らの書いた詩が万人に読まれる様、誰でも読める様なドイツ語で詩を書いたという事もあった。中高ドイツ語って奴だな。しかしながら、そんな吟遊詩人の詩をあらゆるドイツ人が読むかと言えばんなこたーないのである。大体にして、吟遊詩人(トゥルバドゥールとかジョングルール)なんてのは暇をもてあます王侯貴族を楽しませるのが目的だ。
貴族なんてのは普通、何もしなくても一生遊べるだけの資産があって暇で暇でしょうがないのが一般的なのだ。動乱の時代とか、国の中枢にいる場合を除いてな。そんな奴ら向けの詩が、一般ドイツ人に読まれる訳がない訳である。ファンタジーRPGとかによく登場する吟遊詩人(バード)は、むしろケルトの吟遊詩人がモデルである。彼らはドルイドの一種で、神話、歴史、時には法律を暗記し歌にして人々に伝える役割を負った専門職であった。
話が逸れたな。そんな訳で、ドイツ人なら誰でも知ってる、読んでるという書物は長らく存在しなかった。しかしながら、聖書なら誰でも読むし、それがドイツ語で書かれているとなれば、読み書きのできるドイツ人なら誰でも読める。しかも宗教改革の社会情勢なら、読む率は飛躍的に上がる。こうして、ルターによるドイツ語版聖書はドイツ人なら誰でも知ってるand読んでる初の書物になったのである。
こうなれば、当然、ルターの書いたドイツ語が標準ドイツ語の祖形として定着する事になる。ドイツ語を読み書きできるなら誰でも読んでる訳だから、自分の出身地の方言で文章書いて見せても理解してもらえなかった場合ルター風ドイツ語っぽく書けば確実に理解してもらえるのである。これは非常に大きい。
それに、当時は識字率が低かった。これは逆を言えばある程度教養のある連中に定着しさえすればそれが標準ドイツ語となるという事である。あくまでルター版聖書は書き言葉だからな。知的好奇心と仕事、そして当時の社会情勢と習慣の関係から、読み書きできる連中がルター版聖書を読む確率は高い。そして読まなかったとしても、ルター風ドイツ語なら相手に通じると判れば、読み書きする連中は読まざるを得ない。特に読み書きで収入を得てる奴はな。
斯様な歴史的背景を経て、はじめてルター版ドイツ語聖書は標準ドイツ語の祖形となったのである。まぁ実際に標準ドイツ語と呼べるものが形成されるのは、三十年戦争を経てドイツ民族という意識が高まる必要があったんだけどな。グリム童話の作者として有名なグリム兄弟はこの流れを受け、かの有名なドイツ語辞書を作った。又、ウムラウトとかは長兄ヤーコプ・ルートヴィヒ・カールの造語である。彼らの書いた童話が各家庭に普及するなど、ルター版聖書以外にもそれに似た役割を果たした本はある。
しかしながら、ルター版聖書は何せ初めての存在であり、それ故に祖形と呼ぶに相応しいのである。こういった流れを理解した上で考えないと、何故聖書という神学的な物体が現代まで続く標準ドイツ語の祖となったのかは理解できないのである。まぁ、件の福嶋とかいう人の発言はおそらくツイッター上のものであり、所詮はつぶやきに過ぎないのであって目くじら立てるものでもないとは思うが、ネタになりそうだったので一つの記事に仕立てさせてもらった次第である。