ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。最近また不眠に悩んでいる霧島である。しかも明日は思い出しただけで殺意が湧く例のオナニー概論である。夏休み明け初の授業だ…いい加減あのカス死なないかな。
死ぬと言えば、最近1stガンダムのホワイトベース隊でどうやれば終戦後も罪にとらわれることなくブライトを殺せるかという命題をよく考えておる。嫌いなのだ、ブライト。まぁアムロも好きではないが、民間人にガンダムという兵器を乗り回させて自分の身の安全を確保しておきながら、いけしゃあしゃあと修正してやるだの俺ができるなら俺がガンダム乗るわだのすき放題言いまくりである為、見てて殺意が湧く。その点についてはSEEDはきちんとしておったな。
まぁ監督がキチガイだからしょうがない訳だが。
で、本題は前回の続きである。本当は後編をやるつもりだったのだが、色々書き足してる内に二記事分ぐらいに増えた為、中篇である。アフターにならんよう願っておいてくれ。
さて、青島陥落後、第二帝国の青島守備隊は捕虜となる。俘虜ともいうが。んで、現地にそのままほっとく訳にもいかんから内地へ連れてきて収容所に入れることになる。予想してなかった(戦争捕虜の発生を予想できるのもどうかって話だが)事態であるから当初はかなり狭い空間にぎゅうぎゅう詰めだったのが、習志野とかに大型の収容所が出来るにしたがってその点は改善された。
さて。
収容所である。習志野なら習志野俘虜収容所。
凄い嫌な語感である。
収容所というと、アウシュヴィッツであるとかなんかよくわからん支那人を適当に放り込んでおく豚箱みたいなのとかを連想しがちだ。また、収容所=牢屋みたいなイメージがあって、収容所入りの連中は禁固刑もしくは懲役刑の服役囚と同じに思いがちでもある。
が、収容所というのは読んで字のごとく誰かを受け入れる施設、という程度の意味合いしかない。ドイツ人捕虜受け入れ施設、とでも言い換えれば大分おとなしい印象になるだろう。まぁオーストリア=ハンガリー二重帝国人とかもいたんだが、さておき。
一般に、現代の日本人は軍隊について驚くほど無知だから、収容所と言えばとにかく強制労働で居住環境は粗悪で~、というイメージがある。しかし既に収容所はあくまで収容する場所に過ぎないと述べたとおり、実際はかなり違うものである。
まず給料が出る。
え? 何でって? 金がなかったら食べ物も買えないではないか。ちなみに、職業軍人じゃなくて徴兵で出征してきた奴は会社では休職扱いになっている為、第二帝国本国の本社から休職給が送られてきたりもする。さっきも言ったろう。捕虜は犯罪者ではないのだ。本来なら彼らは兵隊として第二帝国から給料貰ってそれで生活してる筈なのである。捕虜である以上、好きな場所に住む権利については我慢してもらって収容所で集団生活という話になるが、だからと言ってそれ以上の権利を奪う理由にはならん。
何度目か判らんが、彼らは犯罪者ではないのだ。禁固刑でも懲役刑でもない。ただ、ニートと化していた訳でもない。日本は収容所作ったりそこの管理したりしてる訳である。更には捕虜に給料まで払ってるのだ。税金で。ちょっとぐらいは働いてくれないと割に合わんのだな。戦時国際法(と言うかハーグ陸戦規定)でも、過度でなければ役務はOKということになっておる。
それが滅茶苦茶過酷な労働というのが定番イメージだが、実はそうでもない。むしろ元俘虜の回想では最大の敵は暇というのが定番になっておる。とにかく暇で暇で仕方なかったらしい。為に、その暇潰しは想像を絶するものがある。第二帝国軍捕虜の日本での活動、そして日本へ与えた影響、その多くは暇潰しの産物である。それほどに暇だったらしい。
いくつか話そうと思うが、まずはボトルシップである。元々ボトルシップというのは海軍の兵隊さんが暇潰しの為にやりはじめたもので特に目新しいものではないのだが、どれだけ暇だったかよく判るから取り上げる。
海軍というのは暇な職業で、長期航海に出ると本当に暇らしい。これは船の上からでもネットに繋げるようになった現在でも変わっておらず、海上自衛隊などはこれのせいでオタの巣窟と化したらしい。と言うのも、乗組員は各自好きな本であるとかゲームだとか暇潰し用品を持っていくのだが、どんなに好きなもんでも航海中に飽きる。んで、乗組員同士でその本とかを交換する訳だ。すると、その中に一人でもオタが混じってると艦長以下全員洗脳されて帰ってくるらしい。
萌え漫画とかエロゲとか、一般人は馬鹿にしたり気持ち悪がったりしてなかなか手を出さんのだが暇だから手を出してしまう訳だ。んでエロゲなんかそこいらの文学作品なんぞ屁のつっぱりにもならん名作が山ほどあるからな。グッバイ三次元こんにちは二次元になるらしい。
そんな暇で暇で仕方ない海軍の暇潰し法でしかも今に至るも廃れてないだけあって、ボトルシップはとにかく手間がかかる。そもそも帆船模型というもの自体が曲者で、こち亀でも言っておったが、一隻半年はかかるとみた方がいい。また、キットであっても説明書どおりやれば完成するとは限らない。これが恐ろしいところで、木の板を火で炙ったりして微調整しないと、右舷と左舷の長さが合わなくなったりするのだ。
それだけではない。気づいたら木材が足りなくなったりするのは日常茶飯事、船底の張り合わせなんかもさっき言ったとおり炙ったりなんかしないと本物だったら沈むだろコレっていう穴があくこともある。しかし実はこれでも簡単な方で、木材はなんだかんだで曲げたり伸ばしたりできるからミスってもそこそこ調整ができるのだ。鋳物なんかで作り始めたら一回ミスったが最後である。溶接業とかの経験みたいなものが必要になる。
キットでこれだ。帆船模型サンタ・マリア~とかでかでかと書いてある箱に入ってる大量生産品でこれなのだ。木材を一から削りだすとかなるとそれはもう言語を絶するものがある。帆船模型というのはこれほど大変なのだ。ところでボトルシップというのは、ビールとかのビンの中で模型を作るものだ。
当然、ビンの入口より中に入っている船の方が大きい。何がどうなって中に入ってるんだという話だが、こうやるのだ。しかもこの人のはまだやりやすい方で、本気で大変なのになると、ピンセットを使ってボトルの中で組み立てるという荒業をすることになる。当然、道具は基本的に自作。海軍の軍人さんがどれだけ暇だったか判ろうというものである。
このボトルシップだが、第二帝国の捕虜も結構積極的に作っておったらしい。青島守備隊だったから海軍組も多く、作り方を知っている人も多かったのであろう。歌田貫氏宅に今も伝わるボトルシップは、小学校の教師だった氏の母が生徒を連れて収容所に見学に行った時に貰ったものであるらしい。収容所に遊びにいくという発想も今の人にはないであろうな。
ちなみに、最初に俘虜を収容していた浅草収容所は新東京名所と化したらしい。観音様詣でついでにドイツ兵見物だそうである。
最後はちょっと話がずれたが、以上に述べたぐらい、ボトルシップというのは手間がかかる。そしてそんなボトルシップを作る奴が多数出現するぐらい、収容所暮らしは暇だったということである。彼らのした暇潰しは色々あるが、極めつけが「勉強会」である。一体何かって、あまりに暇で暇で仕方ないから、学のある捕虜が先生になって授業しようという企画だ。内容は電子工学みたいな実用モノから数学とか学校でやりそうなの、他にはフランス語とかの語学講座もあったらしい。
ちなみに捕虜達の給料はその多くが食費に割かれる訳だが、その次に多かったのが書籍代だったらしい。当時も丸善とかが洋書の輸入販売を行っていた為、捕虜達は本国から書籍を取り寄せて勉強していたそうだ。
お前らほんと暇だな。
とは言え、ただ暇潰しの為だけにやっておったのではない。これは終戦後に向けた就職活動でもあったのだ。意外かもしれんが、軍人というのは結構不安定な職業で、定年まで働くというのは殆どない。将校はともかく、特に戦時中兵隊になった奴は戦争が終わればお役御免になる。
さっき勤めてた会社とかによっては休職給が出ると言ったが、戦時中に兵隊になるのは、大抵元々どっかの会社に勤めてたりしてた社会人だ。しかも比較的若い連中が多い。だから、戦争が終わって兵役を解かれても復職せず、退職金貰って心機一転転職しようという奴もまた多いのである。
これは自衛隊でも同じだ。自衛隊の普通の兵隊は二年契約で、二年で退職、そうでなければ四年で、そうでなければ六年で…という人は結構多い。自衛隊は給料がいい(月給自体もそこそこある上食費、光熱費、水道代、服飾費、家賃などなど全て無料)とは言え定年も早い。軍隊じゃないことになっておるがまぁ軍隊だから、身体が元気でないと務まらないのだな。将校にしたって将軍までなれるのはごく一握りだ。幹部の数が余ってるもんでな。
その為、自衛隊では大型とか危険物取扱とかいった各種免許を取らせる為の教室みたいなものがあったり、援護室という自衛隊による自衛隊の自衛隊の為のハローワークがあったりする。自衛隊で何をやってたか次第で就職先が決まる事も多いようだ。名古屋鉄道は車両整備系の元自衛官が多いことで有名だしな。IT関連会社にも元自衛官は結構いる。警察、消防、海上保安庁は元自衛官特別枠があったりもする。
そういった、再就職先を考えるというのは人生設計で大事なのだな。だからこそ暇で暇で仕方ない捕虜生活中こそ就職活動(もしくはその準備)は大事なのである。暇潰しは暇潰しでも、将来を見据えた人生設計なのだ。収容所のハローワークである。
まだまだある。青島まで私物のカメラを持ち込んで写真撮ってた暇人もいるが、趣味のものをやってたという意味では収容所オーケストラをやってた連中もいる。戦前で唯一メジャーに行けた男沢村が硫黄島で戦ったように、青島にも色々な職業を持つ奴がおった。その中に音楽関連の人もいたのだが、その先が凄い。
こやつら、他の捕虜を教育してオーケストラ楽団を作ったのである。各所の収容所でオーケストラ楽団や男声合唱団が誕生し演奏会を開いてたが、特に板東収容所のオーケストラは著名である。この楽団は大正七年の六月一日、日本で初めて第九を演奏したのだ。ドイツ捕虜こそ日本に第九をもたらした男達なのだ。
ベートーベンの交響曲第九番を年末に聞くという風習は近年廃れつつあるが、一昔前までは日本の風物詩であった。その始まりがこの楽団なのである。六月一日の初演奏は第二帝国捕虜らだけの視聴であったらしいが、最終章では皆感極まって楽団と一緒に大合唱となったらしい。これはこれでいい話だな。
この板東収容所オーケストラについては、収容所の所長松江豊寿少将の話がよく美談として伝えられておる。あの会津出身で、捕虜については彼らもお国のために戦ったんだからが口癖だったという男だが、彼が"武士の情け"で演奏会を許可したというのである。この辺の話は、映画の「BANDO」とか、小説の「二つの大河」に詳しい。私はどっちも見てないがな。特に後者、直木賞(笑)受賞だからな。果てしなく地雷の香りがする。
しかし、これらについては評価のされすぎでもある。維新~敗戦の間の日本について褒める時は、「○○氏による指導により例外的に」だとか「海外列強に日本人が文化人であると示さねばならなかった」とかいった条件付けをするのが基本である。とにかく戦前の日本及び日本人を貶めないと気がすまないのだ。
そんなに日本嫌いなら出て行けや。
まぁそんな連中にとってはまことに残念ながら、他の収容所でもオーケストラなどの楽団による演奏会は普通に行われている。習志野では大正四年のクリスマスコンサート以降活発化し、確認されただけでも、大正八年ともなると年に八回もやってる。別に板東だけの特異な現象だったのではなく、板東は一例に過ぎんということだな。第九を持ってきたという意味で特筆されるべきであるのは変わらんが。
また、音楽ではなく演劇をやっておった連中もいた。特に習志野にはなかなか面白いものが残っている。入場券である。見ると、NARASHINO-THEATERと書いてある。習志野劇場入場券といったところだな。続いて12,April,1919とあり、その後にあるのを訳せば右側、座席番号三十二番、入場料七十五銭である。
指定席かよ。
また、映画もやっていたらしい。同じく入場券が残っているが、日にちが書いてない。おかしいと思ってよく見ると定期券であった。
どんな暇なんだお前らは。
死ぬと言えば、最近1stガンダムのホワイトベース隊でどうやれば終戦後も罪にとらわれることなくブライトを殺せるかという命題をよく考えておる。嫌いなのだ、ブライト。まぁアムロも好きではないが、民間人にガンダムという兵器を乗り回させて自分の身の安全を確保しておきながら、いけしゃあしゃあと修正してやるだの俺ができるなら俺がガンダム乗るわだのすき放題言いまくりである為、見てて殺意が湧く。その点についてはSEEDはきちんとしておったな。
まぁ監督がキチガイだからしょうがない訳だが。
で、本題は前回の続きである。本当は後編をやるつもりだったのだが、色々書き足してる内に二記事分ぐらいに増えた為、中篇である。アフターにならんよう願っておいてくれ。
さて、青島陥落後、第二帝国の青島守備隊は捕虜となる。俘虜ともいうが。んで、現地にそのままほっとく訳にもいかんから内地へ連れてきて収容所に入れることになる。予想してなかった(戦争捕虜の発生を予想できるのもどうかって話だが)事態であるから当初はかなり狭い空間にぎゅうぎゅう詰めだったのが、習志野とかに大型の収容所が出来るにしたがってその点は改善された。
さて。
収容所である。習志野なら習志野俘虜収容所。
凄い嫌な語感である。
収容所というと、アウシュヴィッツであるとかなんかよくわからん支那人を適当に放り込んでおく豚箱みたいなのとかを連想しがちだ。また、収容所=牢屋みたいなイメージがあって、収容所入りの連中は禁固刑もしくは懲役刑の服役囚と同じに思いがちでもある。
が、収容所というのは読んで字のごとく誰かを受け入れる施設、という程度の意味合いしかない。ドイツ人捕虜受け入れ施設、とでも言い換えれば大分おとなしい印象になるだろう。まぁオーストリア=ハンガリー二重帝国人とかもいたんだが、さておき。
一般に、現代の日本人は軍隊について驚くほど無知だから、収容所と言えばとにかく強制労働で居住環境は粗悪で~、というイメージがある。しかし既に収容所はあくまで収容する場所に過ぎないと述べたとおり、実際はかなり違うものである。
まず給料が出る。
え? 何でって? 金がなかったら食べ物も買えないではないか。ちなみに、職業軍人じゃなくて徴兵で出征してきた奴は会社では休職扱いになっている為、第二帝国本国の本社から休職給が送られてきたりもする。さっきも言ったろう。捕虜は犯罪者ではないのだ。本来なら彼らは兵隊として第二帝国から給料貰ってそれで生活してる筈なのである。捕虜である以上、好きな場所に住む権利については我慢してもらって収容所で集団生活という話になるが、だからと言ってそれ以上の権利を奪う理由にはならん。
何度目か判らんが、彼らは犯罪者ではないのだ。禁固刑でも懲役刑でもない。ただ、ニートと化していた訳でもない。日本は収容所作ったりそこの管理したりしてる訳である。更には捕虜に給料まで払ってるのだ。税金で。ちょっとぐらいは働いてくれないと割に合わんのだな。戦時国際法(と言うかハーグ陸戦規定)でも、過度でなければ役務はOKということになっておる。
それが滅茶苦茶過酷な労働というのが定番イメージだが、実はそうでもない。むしろ元俘虜の回想では最大の敵は暇というのが定番になっておる。とにかく暇で暇で仕方なかったらしい。為に、その暇潰しは想像を絶するものがある。第二帝国軍捕虜の日本での活動、そして日本へ与えた影響、その多くは暇潰しの産物である。それほどに暇だったらしい。
いくつか話そうと思うが、まずはボトルシップである。元々ボトルシップというのは海軍の兵隊さんが暇潰しの為にやりはじめたもので特に目新しいものではないのだが、どれだけ暇だったかよく判るから取り上げる。
海軍というのは暇な職業で、長期航海に出ると本当に暇らしい。これは船の上からでもネットに繋げるようになった現在でも変わっておらず、海上自衛隊などはこれのせいでオタの巣窟と化したらしい。と言うのも、乗組員は各自好きな本であるとかゲームだとか暇潰し用品を持っていくのだが、どんなに好きなもんでも航海中に飽きる。んで、乗組員同士でその本とかを交換する訳だ。すると、その中に一人でもオタが混じってると艦長以下全員洗脳されて帰ってくるらしい。
萌え漫画とかエロゲとか、一般人は馬鹿にしたり気持ち悪がったりしてなかなか手を出さんのだが暇だから手を出してしまう訳だ。んでエロゲなんかそこいらの文学作品なんぞ屁のつっぱりにもならん名作が山ほどあるからな。グッバイ三次元こんにちは二次元になるらしい。
そんな暇で暇で仕方ない海軍の暇潰し法でしかも今に至るも廃れてないだけあって、ボトルシップはとにかく手間がかかる。そもそも帆船模型というもの自体が曲者で、こち亀でも言っておったが、一隻半年はかかるとみた方がいい。また、キットであっても説明書どおりやれば完成するとは限らない。これが恐ろしいところで、木の板を火で炙ったりして微調整しないと、右舷と左舷の長さが合わなくなったりするのだ。
それだけではない。気づいたら木材が足りなくなったりするのは日常茶飯事、船底の張り合わせなんかもさっき言ったとおり炙ったりなんかしないと本物だったら沈むだろコレっていう穴があくこともある。しかし実はこれでも簡単な方で、木材はなんだかんだで曲げたり伸ばしたりできるからミスってもそこそこ調整ができるのだ。鋳物なんかで作り始めたら一回ミスったが最後である。溶接業とかの経験みたいなものが必要になる。
キットでこれだ。帆船模型サンタ・マリア~とかでかでかと書いてある箱に入ってる大量生産品でこれなのだ。木材を一から削りだすとかなるとそれはもう言語を絶するものがある。帆船模型というのはこれほど大変なのだ。ところでボトルシップというのは、ビールとかのビンの中で模型を作るものだ。
当然、ビンの入口より中に入っている船の方が大きい。何がどうなって中に入ってるんだという話だが、こうやるのだ。しかもこの人のはまだやりやすい方で、本気で大変なのになると、ピンセットを使ってボトルの中で組み立てるという荒業をすることになる。当然、道具は基本的に自作。海軍の軍人さんがどれだけ暇だったか判ろうというものである。
このボトルシップだが、第二帝国の捕虜も結構積極的に作っておったらしい。青島守備隊だったから海軍組も多く、作り方を知っている人も多かったのであろう。歌田貫氏宅に今も伝わるボトルシップは、小学校の教師だった氏の母が生徒を連れて収容所に見学に行った時に貰ったものであるらしい。収容所に遊びにいくという発想も今の人にはないであろうな。
ちなみに、最初に俘虜を収容していた浅草収容所は新東京名所と化したらしい。観音様詣でついでにドイツ兵見物だそうである。
最後はちょっと話がずれたが、以上に述べたぐらい、ボトルシップというのは手間がかかる。そしてそんなボトルシップを作る奴が多数出現するぐらい、収容所暮らしは暇だったということである。彼らのした暇潰しは色々あるが、極めつけが「勉強会」である。一体何かって、あまりに暇で暇で仕方ないから、学のある捕虜が先生になって授業しようという企画だ。内容は電子工学みたいな実用モノから数学とか学校でやりそうなの、他にはフランス語とかの語学講座もあったらしい。
ちなみに捕虜達の給料はその多くが食費に割かれる訳だが、その次に多かったのが書籍代だったらしい。当時も丸善とかが洋書の輸入販売を行っていた為、捕虜達は本国から書籍を取り寄せて勉強していたそうだ。
お前らほんと暇だな。
とは言え、ただ暇潰しの為だけにやっておったのではない。これは終戦後に向けた就職活動でもあったのだ。意外かもしれんが、軍人というのは結構不安定な職業で、定年まで働くというのは殆どない。将校はともかく、特に戦時中兵隊になった奴は戦争が終わればお役御免になる。
さっき勤めてた会社とかによっては休職給が出ると言ったが、戦時中に兵隊になるのは、大抵元々どっかの会社に勤めてたりしてた社会人だ。しかも比較的若い連中が多い。だから、戦争が終わって兵役を解かれても復職せず、退職金貰って心機一転転職しようという奴もまた多いのである。
これは自衛隊でも同じだ。自衛隊の普通の兵隊は二年契約で、二年で退職、そうでなければ四年で、そうでなければ六年で…という人は結構多い。自衛隊は給料がいい(月給自体もそこそこある上食費、光熱費、水道代、服飾費、家賃などなど全て無料)とは言え定年も早い。軍隊じゃないことになっておるがまぁ軍隊だから、身体が元気でないと務まらないのだな。将校にしたって将軍までなれるのはごく一握りだ。幹部の数が余ってるもんでな。
その為、自衛隊では大型とか危険物取扱とかいった各種免許を取らせる為の教室みたいなものがあったり、援護室という自衛隊による自衛隊の自衛隊の為のハローワークがあったりする。自衛隊で何をやってたか次第で就職先が決まる事も多いようだ。名古屋鉄道は車両整備系の元自衛官が多いことで有名だしな。IT関連会社にも元自衛官は結構いる。警察、消防、海上保安庁は元自衛官特別枠があったりもする。
そういった、再就職先を考えるというのは人生設計で大事なのだな。だからこそ暇で暇で仕方ない捕虜生活中こそ就職活動(もしくはその準備)は大事なのである。暇潰しは暇潰しでも、将来を見据えた人生設計なのだ。収容所のハローワークである。
まだまだある。青島まで私物のカメラを持ち込んで写真撮ってた暇人もいるが、趣味のものをやってたという意味では収容所オーケストラをやってた連中もいる。戦前で唯一メジャーに行けた男沢村が硫黄島で戦ったように、青島にも色々な職業を持つ奴がおった。その中に音楽関連の人もいたのだが、その先が凄い。
こやつら、他の捕虜を教育してオーケストラ楽団を作ったのである。各所の収容所でオーケストラ楽団や男声合唱団が誕生し演奏会を開いてたが、特に板東収容所のオーケストラは著名である。この楽団は大正七年の六月一日、日本で初めて第九を演奏したのだ。ドイツ捕虜こそ日本に第九をもたらした男達なのだ。
ベートーベンの交響曲第九番を年末に聞くという風習は近年廃れつつあるが、一昔前までは日本の風物詩であった。その始まりがこの楽団なのである。六月一日の初演奏は第二帝国捕虜らだけの視聴であったらしいが、最終章では皆感極まって楽団と一緒に大合唱となったらしい。これはこれでいい話だな。
この板東収容所オーケストラについては、収容所の所長松江豊寿少将の話がよく美談として伝えられておる。あの会津出身で、捕虜については彼らもお国のために戦ったんだからが口癖だったという男だが、彼が"武士の情け"で演奏会を許可したというのである。この辺の話は、映画の「BANDO」とか、小説の「二つの大河」に詳しい。私はどっちも見てないがな。特に後者、直木賞(笑)受賞だからな。果てしなく地雷の香りがする。
しかし、これらについては評価のされすぎでもある。維新~敗戦の間の日本について褒める時は、「○○氏による指導により例外的に」だとか「海外列強に日本人が文化人であると示さねばならなかった」とかいった条件付けをするのが基本である。とにかく戦前の日本及び日本人を貶めないと気がすまないのだ。
そんなに日本嫌いなら出て行けや。
まぁそんな連中にとってはまことに残念ながら、他の収容所でもオーケストラなどの楽団による演奏会は普通に行われている。習志野では大正四年のクリスマスコンサート以降活発化し、確認されただけでも、大正八年ともなると年に八回もやってる。別に板東だけの特異な現象だったのではなく、板東は一例に過ぎんということだな。第九を持ってきたという意味で特筆されるべきであるのは変わらんが。
また、音楽ではなく演劇をやっておった連中もいた。特に習志野にはなかなか面白いものが残っている。入場券である。見ると、NARASHINO-THEATERと書いてある。習志野劇場入場券といったところだな。続いて12,April,1919とあり、その後にあるのを訳せば右側、座席番号三十二番、入場料七十五銭である。
指定席かよ。
また、映画もやっていたらしい。同じく入場券が残っているが、日にちが書いてない。おかしいと思ってよく見ると定期券であった。
どんな暇なんだお前らは。