霧島家日誌

もう何が何だかわからないよろず日誌だ。

マスケット運用の歴史シリーズ6-1 戦術の完成:オーダーミックスの歩兵

2011年03月09日 23時49分39秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。先日、当初はそこそこは楽しみにしてた還暦祝い家族旅行に行ってきた霧島である。理由は温泉でゆっくりって趣旨の旅行だったからってのもあるが、それ以上に姉一家がついてこないからというのが大きかった。姉はまぁいいんだが、甥姪が邪魔もいいとこなのでな。ところが、何処から情報が漏れたのか姪がついてくる事になって私の行く気はゼロになり、そしてその姪がインフルエンザを旅行先で発症して旅行を台無しにし、ついでにそのインフルエンザをうつされた訳である。

腹を切って死ね。

ちなみに、行ってきたのは愛知なのだが、鳳来寺にも行ってきた。んでこれが又物凄い荒れ具合なのである。元はと言えば西暦702年に開山され、文武天皇快癒祈祷の功で伽藍を与えられた由緒ある寺だ。徳川家康の母がかつて参籠したという事で江戸時代には1350石もの領地を持つ寺院となり、東照宮もあったのである。それが今や、酷い荒れようだ。

(クリックで拡大)

一応念のために言っておくが廃寺ではない。今も営業(?)中のれっきとした寺院である。それがKONOZAMAだ。一部の屋根は落ちてしまっておるし、この写真では判らないが屋根から松の木が生えてる始末。右端の戸も崩壊してしまっておるな。これはもうはっきり言って手遅れに近く、直す場合は解体修理になる。まぁ修理と言っても三分の二は新品の部材になるだろうがな。こんなもんまともに直せってのが無理である。

それにしても愛知県は一体何をやっておるのかと思って見ておった。この鳳来寺など愛知の宝と言っていい寺だ。この建物以外にいくつかお堂とかあったが、本堂以外でまともに建ってる建物など2つか3つぐらいだ。それもどう見ても中に鉄筋入ってるだろコレっての含めての話である。酷いものになるとプレハブなのに老朽化してるという意味不明な建物まであった。プレハブって、手軽に建てられる代わりにすぐダメになる臨時の建物の筈なんだけどな。

この寺に金が無いのはしょうがない。イニD的レースができそうな峠越えないと行けない場所にあるし、どこぞの宗派みたいに上納金がある訳でもなし、檀家もある訳じゃない。儲かる要素皆無だ。だからこそ国とかが支援して、こういう文化財を守っていかねばならんのである。現在重要文化財に指定されてる(指定されてると修理とかの工事に補助金が出る)のは仁王門という門だけで、自力の資金捻出も難しい以上、県とか市とかが金を出すべきなのだ。それか豊田王国が。


さて、今回(と言っても前後編で後編は明日以降だが)でいよいよマスケット運用の歴史シリーズも完結である。このシリーズの元になった西欧における射撃兵器の歴史及び火縄銃は何故主力兵器となったかを投稿したのが去年の12月27日だから、約二ヵ月半かかってようやく完結するのだ。長かったな…

んでは本題。

オーストリア、プロイセン、フランス、イギリス、ロシアといった欧州列強のほぼ全てを巻き込んだ七年戦争は、銀英伝のヤンの信念を覆す結果に終わった。要するに、戦略的に死ぬほど不利だったプロイセンが戦術的勝利を積み重ね、ついには勝利を手にしたのである。勿論運の要素も大きかったし、フリードリヒ大王自身が指揮した大会戦でも、必ずしも常勝不敗だった訳ではない。彼は何度も敗戦を経験しているし、プロイセンは極限まで追い詰められた。酷い時は、絶望した大王が「私は生きてプロイセンの滅びる姿を見る気は無い。永遠にさようなら」なんて手紙出したぐらいだ。しかしそれでも粘り強く戦い抜き、ついに勝利を勝ち取ったのだ。

何にせよ、七年戦争でフリードリヒ大王率いるプロイセン王国軍が、その精強さを各国軍に見せつけ続けたのは確かである。それに、彼が大敗した戦いは大抵兵力で負けている。例えばホッホキルヒの戦いでは三万対八万、クネルスドルフの戦いでは四万九千に対し七万だ。まぁ両陣営の人口比400万対8000万の戦争だから兵力負けてない戦いのが少ないんだがな。実際ロイテンだって三万五千と七万、その前のロスバッハだって二万二千と五万五千な訳だし。

まぁ、大王は延々と酷い戦争を戦ってたという事である。にもかかわらず、彼は勝って勝って勝ち続け(何度も負けてるけど)プロイセン=ブランデンブルクを勝利に導いた。特に、当時の陸軍大国フランスはプロイセン軍にほぼ完敗していた。プロイセン軍相手に善戦、あるいは会戦で打ち負かしたのは大抵オーストリアとロシアである。先のスペイン継承戦争でも軍事的な失敗を経験していた大陸軍国(笑)フランスは、軌道修正を迫られた。

当然ながら、彼らが考えたのはどうやったらフリードリヒ大王の軍隊に勝てるかである。まぁこれは七年戦争後のプロイセン以外のあらゆる軍事学者or軍人が考えた事だったが、フランスは軍事大国の威信に賭け、特に真剣に考えた。そして、その解決策…つまりプロイセンに勝つ方法を考えるにあたって一番最初にしなければならない事はフランス人にはプロイセン人の真似は無理という斜め上の諦めであった。

プロイセンが同調行進をはじめとした革新的な戦術を採用して勝利を重ねた以上、それを模倣するのが普通であり順当である。しかし、プロイセン軍のは非人間的なまでに冷徹且つ厳格に積み重ねられた訓練、そして規律によるものである。斜行陣ひとつとってもそうだ。あんなもん同調行進ができれば即できるなんて代物じゃない。同調行進を取り入れるだけでも相当な訓練が必要なのに、その上から更に物凄い勢いで訓練を積み重ね、人形の様に整然と動ける様にならないといけないのである。勿論、整然と動くのは基本的に兵隊(傭兵)だが、それを指揮する士官は脳味噌を更に整然と動かさねばならん。

彼らフランス人は、こういうのはフランス人の気質的に真似できないし真似するべきでもないとした。やがてナポレオン戦術として結実するフランスの軍事的探求は、まず、プロイセン式横隊戦術の否定から始まったのだ。では、彼らはどうしたか。それは第一にオーダーミックスであり第二に師団制軍隊であった。この内第一は、割とよく聞く言葉である。これは要するに諸兵科連合の事だ。


七年戦争までの軍隊というのは、究極、重歩兵と重騎兵だけの軍隊であった。いやまぁ砲兵もいるんだがそれは置いておいてだな。確かに、七年戦争でも軽騎兵や軽歩兵はいるにはいた。ハプスブルク君主国(オーストリアな)の軽歩兵は七年戦争で勇名を馳せたし、プロイセンにも猟兵がいた。プロイセン軽騎兵隊は、青年貴族に大変人気のある部隊であった。

しかし、七年戦争の軽歩兵は正式な部隊ではなかった…と言うと語弊があるな。要するに、当時の軽歩兵隊は特殊部隊だったのである。だから、正規の歩兵連隊(つまり普通の部隊)とかにはいない場合が殆どだったのだ。軽騎兵も、特にプロイセンがそうだったんだが、やってる事は重騎兵と変わらない場合が大変多かったのである。

七年戦争以降、プロイセンでは特に軽騎兵が流行った。そしてプロイセンでは「軽騎兵の流儀で行く」という言葉が「のるかそるか、いちかばちかに賭ける」という意味で使われる様になった。これ自体、重騎兵の仕事を軽騎兵がやってる事の証拠である。何故なら軽騎兵ってのは斥候であり、追撃、偵察、奇襲、迂回といったのが任務だからだ。それが、のるかそるか勝負するのこそ軽騎兵だって言ってるって事は、当時の軽騎兵は軽装な重騎兵に過ぎなかったという事の証左である。

ジャック・アントワーヌ・ギベールが理論を体系化し、ナポレオン・ボナパルトが実際に作り上げたオーダーミックスの軍隊は、この点で旧来と一線を画する。この軍隊は、重歩兵、軽歩兵、重騎兵、軽騎兵の全てを揃えた軍隊なのだ。勿論砲兵も揃えてるぞ。当時のフランスの砲兵隊は革命軍は地上最強ォー!!状態である。

この軽歩兵と軽騎兵を揃えられた理由についてよく言われるのが、フランス革命軍は国民軍だったからというものである。これについてはマスケット運用の歴史シリーズ5-1 ナポレオンへの道:アメリカ独立戦争と軽歩兵である程度説明したが…まぁ要するにだな。この記事で説明したとおり、猟兵とか軽歩兵とか散兵と呼ばれる兵隊は、少人数(場合によっては一人一人)に分散し、物陰に隠れたりして戦闘を行う兵種だ。そして、七年戦争までの軍隊の兵隊ってのは傭兵である。

そう、シリーズ5-1で言ったとおり、傭兵主体の軍隊で軽歩兵戦術を本格的にやるとこぞって脱走するのである。横隊戦術の利点の一つが脱走者が判りやすいってぐらいに、傭兵ってのは逃げる。最早逃げるのは傭兵の習性というレベルである。又、同記事で述べた通り、あの鉄の規律を持ったプロイセン軍ですら脱走は日常茶飯事だったのだ。脱走は即死刑、なんてだけでは勿論足りず、例えば森の近くで野営するのは絶対に避けねばならないとされていた。

夜陰and森の茂みに紛れて逃げるから。

そんな状態の軍隊で、軽歩兵なんて大々的に取り入れるのは不可能だったのだ。故に、ナポレオンが軍事革命を起こすまで、軽歩兵は特殊部隊以上ではなかったのである。勿論一部の例外はあるがな、ハプスブルクのクロアチア軽歩兵とか。又、軽騎兵はある意味歩兵より深刻で、偵察や追撃はまだしも、迂回、奇襲などは単独で敵中に突出する場合が多い。つまり集団逃亡の大チャンスが主任務の内なのだ。これでは軽騎兵も重騎兵として運用するしかなかった訳だ。

しかしながら、フランス革命を経てナポレオンの手で編成されたフランス大陸軍は違う。アメリカ独立戦争と同じだ。フランスにとってのナポレオン戦争は、特に初期は民主主義派を殺しにかかってくる絶対王制派との生き残り競争なのだ。プロイセン、イギリス、オーストリア、ロシアと、あらゆる欧州の列強国がフランスを潰すべく襲い掛かってきた。その目的は七年戦争までの戦争でよくあった「領土の奪取」ではない。革命フランスの死滅である。

そして革命フランス軍の主力となる兵隊は、フランスのごく平凡な市民や農民達だ。脱走なんかする筈もなく、祖国防衛の意思に燃え、むしろ勇敢に戦う訳だな。負けてしまえば、折角革命に成功して手に入れた民主主義や平民の権利が全部吹っ飛ぶのだから。さて、このシリーズはあくまで「マスケット運用の歴史」シリーズであるから、ここで歩兵隊の基本隊形を見てみよう。



これは、歩兵三個大隊(八個中隊で一個大隊を形成。一個中隊は120人、つまり一個大隊960人)の隊形である。フランス大陸軍では、三個大隊を基本の戦闘単位としていた。これを見て判るのは、重歩兵と軽歩兵の協同というオーダーミックス(諸兵科連合)。そしてもう一つ、横隊と縦隊の協同という意味でのオーダーミックスである。

テルシオの誕生以降、欧州の軍隊は全て横隊だったと言ってよい。それは、以前説明した通り横隊の方が火力が高いからである。隊列の組み方にもよるが、一般に横隊は縦隊の二倍以上の火力がある。理由は単純だ。三列目ぐらいまでなら、前の味方を避けて敵を狙えるが、四列目五列目六列目となれば、無理に射撃しようとするとどうしたって味方の背中を撃ってしまう。となると、四、五列目以降は戦闘に参加せず遊んでいるしかなくなる。だったら、いっその事縦三列で横隊を組んで全員が鉄砲を撃てる様にしよう…こういう訳だ。

しかしながら、横隊には弱点がいくつかある。まず第一に、機動性が低い事。これはプロイセン軍の同調行進などで大分改善されたが、それでも限界があった。前後左右に90度ずつ動くのはともかく、右や左に旋回するのは大変な困難を伴う。それこそ斜行陣の複雑な機動が必要だ。そしてこれが為に両翼が極端に弱い。横隊というのは正面の敵に向かって縦三列の兵隊が全員で射撃する隊形だ。しかしながら、例えば自軍横隊の90度左に敵が横隊を敷いた場合、こちらはただの横三列の縦隊になってしまうのであり、火力負けして乙る。左に旋回しようにも、横隊は動きが鈍重だからその間に蜂の巣にされて乙る訳だ。

また第三に衝撃力が少ない。確かに横隊に火力はあるし、その火力を発揮しながらジリジリ敵陣を圧迫していく事もできる。しかしながら、特に七年戦争前後の横隊というのは縦が三列しかない。機を見て銃剣突撃しても大した戦果が挙げられないのである。だって、先頭の一人を処理して、二人目も倒して、三人目を何とかいなせばそれで突撃は防ぎきれるのだ。これが縦隊なら、四人目、五人目、六人目といつになったら終わるのこれという状態になって、相手の陣に強烈な衝撃を与える事ができる。まぁ要するに歩兵にとっての重騎兵の要素だな。

縦隊の最大の長所は、その機動性と今言った高い衝撃力である。機動性については、以前言った通り、軍隊が横隊一本槍だった時代でさえ行軍は縦隊だったのである。その縦隊を戦場で大々的に導入したのがオーダーミックスだ。散兵によって敵を霍乱、横隊によって最大の火力を発揮。そして横隊の両翼が包囲されそうになったり、横隊が突き崩されそうになったらその機動性を生かして救援に赴く。逆に横隊の火力等で敵陣が崩れたら、縦隊が突っ込んでその衝撃力で敵陣を破砕する…

この縦隊の役割は、従来も予備隊とか騎兵隊が果たしていた。やられそうな味方の救援は予備隊の仕事だったし、崩れかかった敵陣に突っ込んで陣形を破砕するのは重騎兵の仕事だった。しかしながらそれらは全て戦場全体レベルでの話であって細かいレベルでの戦闘、大隊とか中隊とか小さい部隊には手が回らなかった。しかしながら、戦場全体レベルで陣形が崩れ始めたりするのは、こういった大隊や中隊といった小さい部隊がいくつもいくつも崩れていった結果なのである。

いわば、オーダーミックスにおける歩兵隊のこの基本陣形は歩兵隊の戦闘能力を大幅に底上げするものであったと言えよう。



時間が時間だし、何より長くなりすぎて入りきらないので次回に続く。

AOC攻略記事その15 文明攻略編10

2011年03月03日 23時59分59秒 | AOC
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。15時間以上寝る事によって体調を無理矢理元に戻すという豪快な技に挑戦している霧島である。実際体調も戻ってきておる。後はどうやってこれを持続させるかだな。


●南米文明

アステカ

文明ボーナス
・町の人の持てる資源の量+5
・軍事ユニットの生産速度+15%
・神殿のテクノロジーを研究する度、聖職者のHP+5
・機織の研究自動

チームボーナス
・聖なる箱が生み出す金+33%

ユニークユニット
・ジャガーウォーリア→エリートジャガーウォーリア

ユニークテクノロジー
・栄誉戦:歩兵の攻撃力+4

南米文明は、その名の通り南米に存在し、高度な文明を築き繁栄したマヤ、アステカの両文明を指す。ただ、アステカはメキシコ盆地に、マヤは現メキシコ南東部やグアテマラに存在した文明なので、本来なら北米、もしくは中米の文明と呼ばれるべき文明である。それが南米と呼ばれてはばかられないあたり白人様のアメリカ以北が北米、それ以外は南米という意識が見れて大変興味深い。

伝説によれば、アステカ人は元々メキシコ盆地に定住していた民族ではなく、アストランと呼ばれる場所に昔住んでいたらしい。そこから出発し、やがてメキシコ盆地にたどり着いてテスココ湖の島にテノチティトランを建設したのだという。ここメキシコ盆地には元から多数の都市国家が存在しており、最初はアステカも弱小国家であり王国ですらなかった。

しかしながら、そこは軍事国家とまで呼ばれたアステカである。建国から二百年と経たずに現メキシコ中央部をほぼ制圧してしまう。この辺の経過は、AOCのコンクエストキャンペーン「モクテスマ」にも描かれておる。まぁ元々、メソアメリカ文明と呼ばれるこの辺一帯の文明は全部軍国主義といわれておるからアステカだけがそうだった訳ではないが、アステカは特に強力だったという訳である。

その戦士団は、特にエリート貴族戦士団が中核であったといわれる。AOCにも登場する鷲の戦士、ジャガーの戦士(つまりイーグルウォーリアと、ジャガーウォーリア)といった動物をモチーフとした戦士団や髑髏の戦士等も存在した。特にイーグルウォーリアとジャガーウォーリアは取り上げられやすい。

イーグルウォーリアはその名の通り、頭に鷲の剥製(と言うとちょっと違うが)を被り、鷲の羽根から作った飾りをつけた軽装の戦士団である。又、鷲の戦士団は上級エリート戦士への登龍門であり、経験が浅かったり身分の低い者が多かった。彼らはイーグルウォーリアとして手柄を立て、より上位の戦士団に昇進していくのである。実際、他の戦士団は主力として敵の軍団に真正面からぶつかっていくが、彼らの仕事は機動力を生かした偵察や奇襲が主な仕事であった。まぁつまり軽歩兵だった訳だな。

又、登龍門だったというだけあって、元はここに所属していたという者も多い。AOCコンクエストキャンペーン「モクテスマ」の主人公も元イーグルウォーリア(途中で昇進してジャガーウォーリアになる)だ。ちなみにこの人、キャンペーンを最後までやるとスペインに最後まで抵抗した英雄皇帝だという事がわかる。その名もクアウテモック。第十一代にしてアステカ帝国最後の皇帝であった。

一方、そのクアウテモックも所属していたジャガーの戦士団は、鷲の戦士団と違って軍の主力部隊の一つである。ライオンも虎もいないこの地域ではジャガーが一番凶暴な動物なので、そのジャガーをモチーフにした戦士団ともなればそれはもうエリートでなければ何なのかという話だな。ちなみに、イーグルウォーリアもそうだが、ジャガーウォーリアの主な装備は"マカナ"と呼ばれる剣っぽいが全然そうでない武器である。

これは、一言で表すと木の板に鋭い黒曜石を挟んだ棍棒である。何でこんなもんを使ってたかと言うと、アステカというかこのメソアメリカ地域には金属の精錬技術がなかったのだ。金とか錫はできたんだがな。よく、アステカを滅ぼしたスペインについて「石器時代の相手を馬と鉄砲で攻撃したんだから当然の結果」と言われるが、石器時代という言葉の論拠はここから来ておる。ちなみに、そういう理由から、歴史に厳密にやるとアステカもマヤも鉄工所の研究が全くできない文明になる。まぁそれはともかくとして、アステカは黒曜石が豊富に産出する場所を抑えていた為、他の国に対し優位に立つ事が出来たといわれておるな。

さて、アステカを語る上で欠かせないのが生贄文化である。アステカの創世神話とかでは頻繁に世界が滅んでいるのだが、アステカに限らずこの地域では太陽は消滅するものであった。で、人間の心臓を捧げる事によってこの消滅を先送りできると信じられていたのである。

アステカの民族の象徴は、一番上によく見ると石のテーブルがあるが、これは生贄を殺す為の祭場である。こういう信仰があれば当然、神官の地位は高いものとなる。アステカの聖職者がAOCで強いのもこの為であろう。モクテスマキャンペーンでも、クアウテモックが神官どもが生贄生贄マジうるせぇ死ねってよく言ってるな。

又、この終末信仰はスペインの侵攻と大いに関係がある。この地域の神話というのは色々種類があるのだが、中でも特に信じられていた奴でケツァルコアトルという神が一の葦の年に戻ってくるというのがあった。うーんと…そうだなぁ。例えば有名な五つの太陽の神話は、ケツァルコアトルとテスカトリポカ(こいつはジャガーの神で、ジャガーウォーリアの軍神でもある)とかが喧嘩して太陽の支配者が変わる度に世界が滅ぶという内容である。そして滅ぶ度に、生き残りの人間は鳥にされたり魚にされたりする。

ケツァルコアトルは、これと同じ様に、一の葦の年に戻ってきて太陽を制して世界を滅ぼすという訳だ。で、この一の葦の年が1519年で、しかも天災が続いた為アステカには社会不安が広がっていた。何を迷信を、と思うかもしれんが、ほれ。考えてもみたまえ。ヨハネの黙示録に1999年にハルマゲドン起きますとか書いてあって、1999年に天災が起こりまくったら社会不安が広がるだろう。

主にアメリカで。

そして、この1519年、何か思い当たる事は無いだろうか。鋭い人なら気付いておるかもしれん。そう、1519年こそアステカを滅ぼした悪名高いコンキスタドール、エルナン・コルテスがアステカに現れた年なのである。しかもこのコルテスの軍勢が、見た事もない動物である馬に乗り、しかも鉄砲や大砲を持っていた訳だ。さっきも言ったが、アステカは高度な文明を誇っていたとは言え、製鉄技術とかは未熟だった。こいつらをケツァコアトルの再来と思っても不思議ではない。実際、当時の皇帝モクテスマ二世はコルテスを丁重に迎え国をお返ししますとまで言ったのである。

そろそろ長くなってきたので、コルテスが来た後の話については各自調べてくれ。こことか、探せば出てくる。後、これはコルテスの話じゃないがこういうのも結構出てくる筈だ。基本的に予想できる事は大体やっておる。ま、その、なんだ。1600万人いたとか、2500万人いたとか言われるアステカの人口が100万人にまで減り、純血のアステカ人は確実に絶滅したとまで言われているところからして大体の状況は判るだろう。コルテスらは又、飢えた豚の様に黄金を欲したとも言われている。実際豚だわな。


さて、そんなアステカだが、南米最大の特徴として騎士が作れないと言うかそもそも騎兵育成所が作れないという弱点を抱えている。何せ最初にいるのが農民と斥候じゃなくて農民とイーグルウォーリアだからな。ちなみにこの時点のイーグルウォーリアは斥候なみに弱いから注意。斥候と同じ使い方でいい。

んでそのイーグルウォーリアは、一般的には騎士の代わりと思われている。歩兵なのだが騎士なみに移動速度が速く(研究なしだと一番速い)、間接防御が高い為弓にも強いと騎士っぽい要素が詰まっているからだ。しかしながらだからと言って騎士みたいに使うと酷い事になる。何でって滅茶苦茶弱いのである。

イーグルウォーリア
HP50  攻撃力7  直接防御0 間接防御2

騎士
HP100 攻撃力10 直接防御2 間接防御2

勝てるか。

ちなみに長剣剣士はHP55、攻撃力9、直接防御0間接防御1なのでどうみても長剣剣士未満です 本当にありがとうございましたという面白い事態になっている。城主の時代の戦争で騎士に対抗するには、長槍兵を量産するしか手が無い。城主では栄誉戦(歩兵の攻撃力+4)は研究できないし研究できたところでどうだという話である。体力が半分しかないからな。防御力もまるで無いし。

しかも南米共通の要素として火薬が全く使えない。一応化学の研究は出来るのだが、大砲、砲撃手、砲台、全てダメだ。その上馬が作れないから騎士も無理。歩兵文明なのに矛槍も作れない。弓は重弓までいくが弓懸がない…と、じゃあ帝王で通用する兵種は何があるのよと言われると近衛剣士とエリートイーグルウォーリアだけである。

一応、改良強化破城槌と破城投石は作れるから、まぁ槍投石ならできなくはないか。騎士で乙だが。あとヘビスコが作れないのでそこは注意。ちなみにユニークのジャガーウォーリアは歩兵に強い歩兵。砲撃手が作れないアステカの対ゴート最終兵器である。チュートンナイトにも有効だ。まぁ、その、なんだ。向こうの砲撃手で乙だが。

さて、こうして文明テクノロジーを見ただけだと悲惨なイメージしか出てこないアステカ(実際後衛でアステカ引くと悲鳴が聞こえる場合がある)だが、実はタイマン最強であり、使い方次第ではチーム戦でも頑張れる文明である。

まず第一に、これは南米共通だが最初から農民の作業効率が高い。アステカの場合、農民が運べる資源が5多いな。以前、バイキングを城主最強文明と呼び、その理由を手押し車と荷車自動としたのは覚えてると思う。例えばその手押し車の効果は農民の速度+10%、運べる資源量+25%である。そして、農民が最初から運べる資源の量は10だ。まぁ後は言わなくても判るな?という状態な訳である。アステカのボーナスに農民の速度上昇は無いが、運べる資源量の増加量は手押しよりも多いのである。

しかもアステカの場合、機織が自動だ。最初から機織が終わっておる。機織の研究には25秒かかる為、他の文明より25秒は早く進化できるのである。暗黒→領主における25秒というのは、諸君の想像以上に大きい。しかもアステカなら最初から資源回収量が多いから、相乗効果で更に早く進化できる。この為、領主の時代における戦争では槍散から軍兵即、暗黒ラッシュまで思いのままであり、タイマン最強の第一歩をも記すことになるのだ。

しかも、この内政ボーナスを利用して進化過程を限界まで切り詰めれば相手が領主の時代なのにこっちは城主という進化も可能である。いわゆる即イーグルという奴だ。14、5分で城主入りし、イーグルウォーリアをガンガン生産するのである。こうすれば、いかにイーグルウォーリアが弱いと言っても相手は素槍とか素弓である。一方的に蹂躙できる。

た だ し 。

実はこのイーグルウォーリア、そもそもの殴り合いが強くない以外に剣士系に弱いという弱点を持っている。軍兵や長剣剣士はイーグルウォーリアに対する攻撃力ボーナスを持っておるのだ。この為、即イーグルに成功したからと言って調子に乗って軍兵相手にもぶつけてると乙る。又、イーグルばかり出して他のを出してないと、相手後衛の騎士が来て乙とか、攻め切れなくて結局敵が城主INして乙となる。なので、槍、破城槌なども途中から出して、本気城主で抜くとか騎士対策をするとかそういうのを意識していく事が必要になる。

又、イーグルウォーリアは使い捨て気味に使う兵種でありながら高価(肉は20でいいが金は50だ)な事、建物に対する攻撃力ボーナスが無い事にも注意が必要だ。歩兵の癖に建物を壊すのが下手な為、攻城兵器なしで抜くのはほぼ不可能。又、タワーラッシュに対してイーグル出してどうにかなるもんではない。勿論、イーグルで軍隊を駆逐しながら破城槌で塔を壊すとかならいいが…

基本的には、領主~城主の間に優位に立ち、そのまま本気城主で抜くか、優位を保ったまま先に帝王に入って栄誉戦近衛剣士+破城槌で一気に抜くという文明である。純速攻型という事だ。

一方後衛を引いた場合だが、これは辛い。と言うのも騎士が出ないからどうにもならんのだ。さっきも言ったとおり、イーグルでは騎士の代わりにならんしな。いくら即イーグルが早いと言っても、20分を過ぎれば結構な数の騎士が出回り始める。本陣から敵後衛に一直線に攻撃に向かっても到底間に合わん。18分には大体敵後衛も城主に入るし、即イーグルでも軍隊が本格的な数になるのは17分を過ぎるからな。

この為、後衛アステカの基本は後衛直である。そして、アステカには内政ボーナスを生かした戦略がもう一つある。それが即帝だ。これはトルコの前衛見捨て戦術とほぼ同じで、全力でぬくりきって帝王を目指すものだ。南米の場合内政ボーナスの恩恵が半端ではない為、33分で全テクノロジー研究済エリートイーグルが大量に揃うという事態になる。これは非常に強力で、前衛は確実に死ぬがその代わり決まれば敵二カ国を余裕で貫ける。

何故なら、歩兵には弓以外絶対的なアンチが存在しないからである。普通33分と言えば城主の時代だ。普通、城主の時代に剣士で攻めてこられたら弓で射殺するか騎士で殴り殺す。しかしイーグルには弓が通じないのである。まぁ素イーグルは結構射殺されるけど

又、騎士は単純な能力差で勝っているだけな上、生産速度が遅く高価でなかなか数は揃わない。一方、イーグルは(騎士に比べれば)安価でただでさえ生産速いのに文明ボーナスでえらい数が襲ってくるのである。イーグルはエリートになっても所詮HP60攻撃力9直接防御0なので少数同士の殴り合いなら素騎士でも勝算はあるが、数が流れ始めると正直重騎士でも無理である。

一応帝王になれば、砲撃手という絶対的なアンチが存在する。砲撃手の攻撃も間接攻撃なので、エリートイーグルの間接防御力4の対象だ。しかし元の攻撃力が高く対歩兵攻撃力+10を持っている為、イーグルを次々と撃ち落せるのである。しかしながら、帝王IN→研究時間100秒の化学研究→生産開始(但し一体につき生産に34秒かかる)という具合なので、とてもではないが間に合わない。大体33分に襲ってくる訳だしな。

但し、見捨てられた前衛にとってはただのクソゲーであり失敗したら特級の戦犯である事を忘れてはならない。尚、即帝について詳しくは、こちらも参照すると良い。


斯様に、アステカは、どの時代で勝負をかけるにしろ相手より先に進化して戦争を始める事が大前提の、帝王戦すら速攻が前提な超速攻型文明である。

今回のリビア騒乱に関する霧島家の公式見解

2011年03月01日 22時55分26秒 | 社会、ニュース
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。相変わらず交感神経と副交感神経の交代というかその辺の働きが明らかにおかしい霧島である。ナロンエース飲まないといけないほどの頭痛はないのだが、起きたらフラフラで動けなかった。いや、冗談でなく手すりなかったら階段から落ちてるレベルであり、本当にどうなっているのかという話である。やっぱり薬かなぁ…やめる訳にはいかんのが辛いところだ。


そういえば、ジンバブエの部隊がリビア入りしたみたいだな。これで、又悪の独裁者カダフィvs正義の民衆という図式が上塗りされた訳だが、しかしまぁどんどん度ツボにはまるなこの国。今回の騒乱は、所詮はリビア国内の部族と部族の権力闘争で民衆はそれに踊らされてるだけだっての、あの国の連中は気付いてるんだろうか。

気付いてねーんだろうな。

元々、リビアというのはベルベル人が住んでいた国である。地中海世界のホワイトアフリカの国という事で、東ローマ帝国やイスラム勢力に何度も占領された国だ。オスマン・トルコに制圧された後、トリポリの総督が独立してカラマンリー朝を打ち立てる。これがある意味、近代リビアの祖と言えるだろう。まぁそのカラマンリー朝もオスマン・トルコに再征服され、伊土戦争でトルコが負けた事により、リビアはイタリアの植民地となる。そして第二次世界大戦後、東部キレなイカキレナイカ、西部トリポリタニア、南部フェザーンの三州による連合王国が樹立される。

この時首都として選ばれたのは、現在抵抗運動が最も盛んな東部キレナイカのベンガジだ。これも当然で、かつて、植民地化後のイタリアの植民政策に対し抵抗運動が起こった。その時の英雄オマル・ムフタールを生んだのがキレナイカなのである。砂漠の獅子と呼ばれた彼は、今でもリビア紙幣の顔に採用されておる。そして、このキレナイカ一帯はサヌーシー教団という教団が根を張る地域である。サヌーシー教というのはイスラム神秘主義系の宗教で、これがキレナイカに伝わったのが1840年代の話である。

伝わったと言うか、創始者がメッカの内紛から逃れてキレナイカに移り住んだのだな。ここで支持者を増やしたサヌーシー教団はキレナイカの精神的バックボーンとなった。リビアがイタリアの植民地となった後、サヌーシー教団は抵抗し第一次大戦でも旧支配者のオスマン・トルコと共に戦っている。そして1920年に講和が成立するとイタリアはサヌーシー教団の指導者をキレナイカの支配者と認めたのである。勿論植民地のままではあったがな。

ムッソリーニが侵攻してくるとサヌーシー教信者だったかの"砂漠の獅子"オマル・ムフタールは抵抗戦争を再開したが、教団の指導者ムハンマド・イドリースはエジプトへ脱出する。そして第二次大戦が終わった後、ムハンマド・イドリースはリビアに舞い戻り、連合王国となったこの国の王となったのである。そしてリビア東部、つまりキレナイカの有力部族で政府高官職を独占したのだ。しかも政党、議会も禁止。まぁ、ついこの間まで植民地だったところにいきなり民主制を敷いても民度が足りなけりゃ行き着く先は一緒だから、これについては私は何とも思わん。

しかしながら、この先がいけなかった。独立後のリビアは親欧米路線を取り、基地の提供等で多額の援助を得ていた。元々リビアは産業が何も無いホワイトアフリカの最貧国みたいな国だったので、この沖縄と同じ経済戦略自体は間違ってはおらん。そして石油が出る様になると、多額のオイルマネーで経済が潤う様になる。ところが、この利益を王族や高官(東部有力部族)が独占して国民に還元しなかったのである。

ただでさえ、親欧米路線、東部キレナイカの部族による政府高官職の独占というのは、西部トリポリタニアや南部フェザーンの怒りを買いやすい。政府高官職の独占については言うまでもないが、親欧米路線も、まぁ、なんだ、反植民地化闘争を経てやっと独立したと思ったら旧宗主国様に擦り寄ってるのだから反感を買わない訳が無いな。しかも相手はキリスト教国家群だ。勿論、リビアはイスラム教国である。アラブ地域は伝統的に宗教の力が強く政教分離は困難なのだ。

東部キレナイカ、特にその首都ベンガジは繁栄を極めた。そしてそれ以外は、大変残念な状態が続いた。一例として、後でリンクをはっつける予定のツイートまとめから引用してみようか。

1962年、在リビア米国大使館からケネディ大統領宛に秘密メモが届けられています。「石油による巨額な収入が見込まれているにもかかわらず、王族たちは、行き当たりばったりの大浪費と公金横領に目がくらんで、たちまち現金不足に陥り、結局、我々のところに泣きついてくることになる」

王制時代、リビア社会は教育に見放され、独立後数年経っても住民の90%以上は文盲であり、ほんの一握りのリビア人が大学か職業訓練施設で勉学の機会を与えられたに過ぎませんでした。教育制度が真に発展するのは1960年代の石油発見後です。


後半は、石油採掘前の話だが、実際にリビアの識字率が上がるのはカダフィ政権になってからなのでそのまま載せた。まぁこんな状態では革命の一つや二つ起こっても不思議ではないな。そして実際、汎アラブ主義者でナセルに傾倒していたカダフィ大尉がクーデターを起こし、社会主義革命を達成するのである。もう今となってはナセルとか汎アラブ主義とか知らない人ばっかりになってしまったが、一時はアラブ世界を席巻した言葉である。

これは要するに、西欧に対する反植民地闘争とかを通じて俺達はアラブ人だ、俺達は誰にも屈しない一つの独立した民族なんだという意識が広がっていったものを源流とした、一種の民族主義みたいなものである。この意識に基づいて、中東のアラブ諸国は手を組んで頑張ろうというのが一時期流行ったのだな。ただ、何せ元々宗教の強い地域だ。そして、この汎アラブ主義を煽ったのは無神論を標榜するソ連だった。結果、汎アラブ主義国家は宗教的に、又、部族主義的にも対立をきたした。その上アラブ国家はイスラエルに勝てないという残念な現実にも直面する。

結果として、カダフィ大佐は汎アラブ主義に幻滅。革命以降、汎アラブ主義に従ってアメリカを攻撃しテロ支援国家指定を受けたり経済制裁を受けたりしてたんだが、こんな下らん主義につきあって割を食ってるよりはと親米路線に転換する訳だ。一方、国内政策についてだが、基本的にカダフィの革命は社会主義革命である(実際、現在のリビアの正式な国名は大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国。国名にかつてカダフィが汎アラブ主義者だったのが現れてるな)という事もあり、経済活動による利益の国民への還元には重点が置かれている。

学校等の教育施設の建設にはじまって、発電所、水道、道路などインフラの整備も行っているし、病院の整備や生活必需品の低価格供給も行っている。又、外国人墓地の建設を行ったのも彼だ。家、自動車などの国民に必需とは言わんまでも必要なものも揃えている。又、有名な話だが、リビアは失業率が高い。人口六百万の内百万までも公務員に雇っているのに高い。何故かって単純労働を外人黒人労働にやらせてるからである。多くの若者が、ホワイトカラー労働を求めるもホワイトカラーも職の口は限定されてる為なれない、といった状態だ。そしてそんな無職にもちゃんと補助金が出るという社会である。

勿論、その一方で前政権と似た様な事をしてるのも事実だ。例えば、情報部や空軍の高官は殆どがカダフィと同じカザッーファ族出身で固められている。まぁこれも故ない事ではないと言えばそうではあるがな。元々有力部族が多い東部キレナイカを打倒してできた政権であり、部族社会が伝統的に存在してきたリビアだ。弱小部族出身であるカダフィは常にクーデターの脅威があった訳で、西部トリポリタニアの有力部族の協力も得られなかった。弱小部族の男の下につけるかとな。実際、この空軍とかは何度かのクーデターの鎮圧に活躍している。

又、こんなニュースもあったが、別にこれも故なきことではない。リビアでは伝統的に個人ではなく部族に忠誠を誓う部族社会であり、又、男社会であって女は基本的に疎外されてきた(ベルベル人はともかくとして)。逆に言えば女性解放を推し進めればこれを打破できる訳である。彼女達には部族がどうこうなんてつもりは全く無い訳だからな。実際、リビアはイスラム圏で一番女性解放の進んだ国といわれておる。


こういった種種の政策によって、リビアの近代化は物理的な意味だけでなく精神的な意味でも進んでいる。フォーリン・アフェアーズ・リポート1995年5月号の『制裁継続か、それとも和解か』では

リビア社会はテクノクラート的な社会と部族的社会に二分されている。たとえば、ハモウダはテクノクラート的な社会に属している。勿論、このテクノクラート社会が支配的なわけではないが、この社会に属する人々はリビアを近代的な国家にしたいと考えている。つまり、工業的で開放性をもち、自由で繁栄する社会を目標としている。

と述べられている。こういった動きは、間違いなくカダフィによる功績といえよう。ただ、カダフィ自身古い人間である事は間違いなく一方、カダフィは明らかに部族社会を代弁しており、リビアでの個人主義を疎ましく思っている。アウトサイダーを警戒し、慣習を大切にし、自らの権限の基盤を、神権とまでは言わなくとも、伝統に求めているとも述べられている。

要するに、時代がカダフィを追い越しつつあるのである。こういうのは往々にしてある事で、例えばチャーチルなんかは偉大な指導者だが(私はこれっぽっちも偉大だと思わんイギリス史上稀に見る災厄だと思ってるが)、本人自体はビクトリア朝時代の遺物であった。カダフィも又、部族主義時代の遺物である事に変わりは無い訳だな。先の論文でいう「テクノクラートなリビア」を代表する六人の医師と大学教授が、この論文の著者に話した内容が文中に転載されている。

「あなたはカダフィがすべての決定を下していると思っているのでしょうが、実際には、民衆が決定を下しています」と一人が言った。たしかに「われわれは、カダフィのことを革命の指導者として尊敬しています。(中略)彼は注目を集める人物ですが、サダム・フセインのような独裁者ではありません。統治を手がけているのは議会で、カダフィの考えを議会が拒絶することもしばしばです。事実、議会が政府の行動を批判するのは日常茶飯事なのです。言っているとおりに行動できていないことは認めるとしても、日毎に生活は改善されているのです」

私は、実際にどの程度リビア議会が機能しているかは全く知らん。しかしながらこの様な発言が出てくる事自体、カダフィを実際的な指導者ではなく大英帝国の国王や大日本帝国の天皇的な立場に追いやる状況が確実に進行している(していた)事の証と言える。

しかし、だ。リビアがまだ部族社会的特性を色濃く持っているのも事実なのである。今回、ベンガジで一番最初に反体制デモが起こったというのもそれとは無関係な話ではない。さっき言ったとおり、東部キレナイカは旧王制時代の有力部族が多く暮らす土地だ。そしてそのキレナイカ最大の都市こそベンガジなのである。ここには反カダフィを標榜する有力部族などいくらでもいるのだ。

そもそもの発端は、ここで反体制デモが起こった事である。これに対し現地の警察が銃撃を加え、一人が死亡。なんのかんのと言ってもアフリカでアラブだからな、まぁここまでならあるある(笑)ぐらいかもしれん。しかしその葬式の列をデモとみなして銃撃し多数死傷者を出してしまったのが問題となった。

正直マッチポンプ臭がするんだが、今のところカダフィ及びその子供は「んな事やってねぇ」的な声明を出してはおらん。恐らくは現地の警察の暴走かさもなくば見せしめ(何せベンガジだ)だったのだろう。ベンガジの有力部族は何度かクーデター未遂も起こしてるしな。しかしながらリビア国民の民度は、既にこれを見せしめとして水に流せる"程度"を既に卒業していたのである。先のツイッターの人に言わせると

地域主義と部族主義にもとづいたベンガジでの局地的な反政府運動が、なぜ首都を含めたリビア全域に広がり、政府高官や外交官の辞職・離反などに結び付いたのか?これは時間をかけて分析する必要がありますが、現時点では以下のように捉えています。

まず、反政府運動に対する武力を伴う鎮圧がきわめて苛烈なものであり、多数の死傷者が出たことに、国民がアレルギー反応を示したという点。政府の対応には当然ながらカダフィの判断が伴っており、ベンガジでの蜂起そのものとは異なる部分でカダフィ個人への批判が高まったと思われます。


つまり、今回の騒乱は、先の論文で言えば「部族主義のリビア」の反体制運動が始まりであった。この時点では、「テクノクラートのリビア」は傍観の姿勢だったのだ。しかしながら、「部族主義のリビア」に対する鎮圧が苛烈すぎた為、自由主義的な「テクノクラートのリビア」も反体制側に回ってしまった、という訳である。本来なら相反する両者だが、現在は反カダフィという共通の目的の為に協力しておるというところだろう。

しかしそれでも、残念ながら私は消極的ながら親カダフィである。傭兵を用い、ジンバブエの部隊まで招き入れるという姿勢は擁護できるものではない。しかしながら、仮にカダフィがいなくなったとして、カダフィ政権時代のレベル(国民の生活とか経済力とか)を維持できるだけの指導者が他にいるかという話なのである。今回は部族主義のリビアとテクノクラートのリビアが協力しているが、カダフィが倒れれば当然これらは分裂する。

しかも部族主義のリビアとて一枚岩ではないのだ。各部族は自分の部族が良い目を見れればそれでいいのである。どうせカダフィが倒れたらアフガニスタンの北部同盟みたいに内部分裂してそのまま内戦コース直行だろう。部族主義がいまだ蔓延るリビアでは、国内を安定させたかったら国内の部族の頭を押さえつけられる人材が必須なのだ。そういう意味で、カダフィは実績があるからな。

しかしながら、今回の騒乱でカダフィは「テクノクラートのリビア」からも恐らく信頼を失ったろうし…勝利したとしても一から出直しの可能性が高い。本人が部族主義時代の遺物だからな、難しいところだ。


まぁ結論を言うと、土人の国は大変だなという事である。


そんな訳で、掴みにするつもりがそのまま一本の記事になったリビア関連記事であった。本当ならAOC攻略記事南米編のつもりだったが、明日以降だな。尚、今回のリビア騒乱について、特に部族主義的観点から鋭い考察と情報を提供している@amnkLibyaという人のツイートをまとめたサイトは今回の騒乱を見る上で大変参考になるので、暇な人は是非一読すると良い。後、上の方で引用した論文も読むと参考になるだろう。