ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。先日、当初はそこそこは楽しみにしてた還暦祝い家族旅行に行ってきた霧島である。理由は温泉でゆっくりって趣旨の旅行だったからってのもあるが、それ以上に姉一家がついてこないからというのが大きかった。姉はまぁいいんだが、甥姪が邪魔もいいとこなのでな。ところが、何処から情報が漏れたのか姪がついてくる事になって私の行く気はゼロになり、そしてその姪がインフルエンザを旅行先で発症して旅行を台無しにし、ついでにそのインフルエンザをうつされた訳である。
腹を切って死ね。
ちなみに、行ってきたのは愛知なのだが、鳳来寺にも行ってきた。んでこれが又物凄い荒れ具合なのである。元はと言えば西暦702年に開山され、文武天皇快癒祈祷の功で伽藍を与えられた由緒ある寺だ。徳川家康の母がかつて参籠したという事で江戸時代には1350石もの領地を持つ寺院となり、東照宮もあったのである。それが今や、酷い荒れようだ。
(クリックで拡大)
一応念のために言っておくが廃寺ではない。今も営業(?)中のれっきとした寺院である。それがKONOZAMAだ。一部の屋根は落ちてしまっておるし、この写真では判らないが屋根から松の木が生えてる始末。右端の戸も崩壊してしまっておるな。これはもうはっきり言って手遅れに近く、直す場合は解体修理になる。まぁ修理と言っても三分の二は新品の部材になるだろうがな。こんなもんまともに直せってのが無理である。
それにしても愛知県は一体何をやっておるのかと思って見ておった。この鳳来寺など愛知の宝と言っていい寺だ。この建物以外にいくつかお堂とかあったが、本堂以外でまともに建ってる建物など2つか3つぐらいだ。それもどう見ても中に鉄筋入ってるだろコレっての含めての話である。酷いものになるとプレハブなのに老朽化してるという意味不明な建物まであった。プレハブって、手軽に建てられる代わりにすぐダメになる臨時の建物の筈なんだけどな。
この寺に金が無いのはしょうがない。イニD的レースができそうな峠越えないと行けない場所にあるし、どこぞの宗派みたいに上納金がある訳でもなし、檀家もある訳じゃない。儲かる要素皆無だ。だからこそ国とかが支援して、こういう文化財を守っていかねばならんのである。現在重要文化財に指定されてる(指定されてると修理とかの工事に補助金が出る)のは仁王門という門だけで、自力の資金捻出も難しい以上、県とか市とかが金を出すべきなのだ。それか豊田王国が。
さて、今回(と言っても前後編で後編は明日以降だが)でいよいよマスケット運用の歴史シリーズも完結である。このシリーズの元になった西欧における射撃兵器の歴史及び火縄銃は何故主力兵器となったかを投稿したのが去年の12月27日だから、約二ヵ月半かかってようやく完結するのだ。長かったな…
んでは本題。
オーストリア、プロイセン、フランス、イギリス、ロシアといった欧州列強のほぼ全てを巻き込んだ七年戦争は、銀英伝のヤンの信念を覆す結果に終わった。要するに、戦略的に死ぬほど不利だったプロイセンが戦術的勝利を積み重ね、ついには勝利を手にしたのである。勿論運の要素も大きかったし、フリードリヒ大王自身が指揮した大会戦でも、必ずしも常勝不敗だった訳ではない。彼は何度も敗戦を経験しているし、プロイセンは極限まで追い詰められた。酷い時は、絶望した大王が「私は生きてプロイセンの滅びる姿を見る気は無い。永遠にさようなら」なんて手紙出したぐらいだ。しかしそれでも粘り強く戦い抜き、ついに勝利を勝ち取ったのだ。
何にせよ、七年戦争でフリードリヒ大王率いるプロイセン王国軍が、その精強さを各国軍に見せつけ続けたのは確かである。それに、彼が大敗した戦いは大抵兵力で負けている。例えばホッホキルヒの戦いでは三万対八万、クネルスドルフの戦いでは四万九千に対し七万だ。まぁ両陣営の人口比400万対8000万の戦争だから兵力負けてない戦いのが少ないんだがな。実際ロイテンだって三万五千と七万、その前のロスバッハだって二万二千と五万五千な訳だし。
まぁ、大王は延々と酷い戦争を戦ってたという事である。にもかかわらず、彼は勝って勝って勝ち続け(何度も負けてるけど)プロイセン=ブランデンブルクを勝利に導いた。特に、当時の陸軍大国フランスはプロイセン軍にほぼ完敗していた。プロイセン軍相手に善戦、あるいは会戦で打ち負かしたのは大抵オーストリアとロシアである。先のスペイン継承戦争でも軍事的な失敗を経験していた大陸軍国(笑)フランスは、軌道修正を迫られた。
当然ながら、彼らが考えたのはどうやったらフリードリヒ大王の軍隊に勝てるかである。まぁこれは七年戦争後のプロイセン以外のあらゆる軍事学者or軍人が考えた事だったが、フランスは軍事大国の威信に賭け、特に真剣に考えた。そして、その解決策…つまりプロイセンに勝つ方法を考えるにあたって一番最初にしなければならない事はフランス人にはプロイセン人の真似は無理という斜め上の諦めであった。
プロイセンが同調行進をはじめとした革新的な戦術を採用して勝利を重ねた以上、それを模倣するのが普通であり順当である。しかし、プロイセン軍のは非人間的なまでに冷徹且つ厳格に積み重ねられた訓練、そして規律によるものである。斜行陣ひとつとってもそうだ。あんなもん同調行進ができれば即できるなんて代物じゃない。同調行進を取り入れるだけでも相当な訓練が必要なのに、その上から更に物凄い勢いで訓練を積み重ね、人形の様に整然と動ける様にならないといけないのである。勿論、整然と動くのは基本的に兵隊(傭兵)だが、それを指揮する士官は脳味噌を更に整然と動かさねばならん。
彼らフランス人は、こういうのはフランス人の気質的に真似できないし真似するべきでもないとした。やがてナポレオン戦術として結実するフランスの軍事的探求は、まず、プロイセン式横隊戦術の否定から始まったのだ。では、彼らはどうしたか。それは第一にオーダーミックスであり第二に師団制軍隊であった。この内第一は、割とよく聞く言葉である。これは要するに諸兵科連合の事だ。
七年戦争までの軍隊というのは、究極、重歩兵と重騎兵だけの軍隊であった。いやまぁ砲兵もいるんだがそれは置いておいてだな。確かに、七年戦争でも軽騎兵や軽歩兵はいるにはいた。ハプスブルク君主国(オーストリアな)の軽歩兵は七年戦争で勇名を馳せたし、プロイセンにも猟兵がいた。プロイセン軽騎兵隊は、青年貴族に大変人気のある部隊であった。
しかし、七年戦争の軽歩兵は正式な部隊ではなかった…と言うと語弊があるな。要するに、当時の軽歩兵隊は特殊部隊だったのである。だから、正規の歩兵連隊(つまり普通の部隊)とかにはいない場合が殆どだったのだ。軽騎兵も、特にプロイセンがそうだったんだが、やってる事は重騎兵と変わらない場合が大変多かったのである。
七年戦争以降、プロイセンでは特に軽騎兵が流行った。そしてプロイセンでは「軽騎兵の流儀で行く」という言葉が「のるかそるか、いちかばちかに賭ける」という意味で使われる様になった。これ自体、重騎兵の仕事を軽騎兵がやってる事の証拠である。何故なら軽騎兵ってのは斥候であり、追撃、偵察、奇襲、迂回といったのが任務だからだ。それが、のるかそるか勝負するのこそ軽騎兵だって言ってるって事は、当時の軽騎兵は軽装な重騎兵に過ぎなかったという事の証左である。
ジャック・アントワーヌ・ギベールが理論を体系化し、ナポレオン・ボナパルトが実際に作り上げたオーダーミックスの軍隊は、この点で旧来と一線を画する。この軍隊は、重歩兵、軽歩兵、重騎兵、軽騎兵の全てを揃えた軍隊なのだ。勿論砲兵も揃えてるぞ。当時のフランスの砲兵隊は革命軍は地上最強ォー!!状態である。
この軽歩兵と軽騎兵を揃えられた理由についてよく言われるのが、フランス革命軍は国民軍だったからというものである。これについてはマスケット運用の歴史シリーズ5-1 ナポレオンへの道:アメリカ独立戦争と軽歩兵である程度説明したが…まぁ要するにだな。この記事で説明したとおり、猟兵とか軽歩兵とか散兵と呼ばれる兵隊は、少人数(場合によっては一人一人)に分散し、物陰に隠れたりして戦闘を行う兵種だ。そして、七年戦争までの軍隊の兵隊ってのは傭兵である。
そう、シリーズ5-1で言ったとおり、傭兵主体の軍隊で軽歩兵戦術を本格的にやるとこぞって脱走するのである。横隊戦術の利点の一つが脱走者が判りやすいってぐらいに、傭兵ってのは逃げる。最早逃げるのは傭兵の習性というレベルである。又、同記事で述べた通り、あの鉄の規律を持ったプロイセン軍ですら脱走は日常茶飯事だったのだ。脱走は即死刑、なんてだけでは勿論足りず、例えば森の近くで野営するのは絶対に避けねばならないとされていた。
夜陰and森の茂みに紛れて逃げるから。
そんな状態の軍隊で、軽歩兵なんて大々的に取り入れるのは不可能だったのだ。故に、ナポレオンが軍事革命を起こすまで、軽歩兵は特殊部隊以上ではなかったのである。勿論一部の例外はあるがな、ハプスブルクのクロアチア軽歩兵とか。又、軽騎兵はある意味歩兵より深刻で、偵察や追撃はまだしも、迂回、奇襲などは単独で敵中に突出する場合が多い。つまり集団逃亡の大チャンスが主任務の内なのだ。これでは軽騎兵も重騎兵として運用するしかなかった訳だ。
しかしながら、フランス革命を経てナポレオンの手で編成されたフランス大陸軍は違う。アメリカ独立戦争と同じだ。フランスにとってのナポレオン戦争は、特に初期は民主主義派を殺しにかかってくる絶対王制派との生き残り競争なのだ。プロイセン、イギリス、オーストリア、ロシアと、あらゆる欧州の列強国がフランスを潰すべく襲い掛かってきた。その目的は七年戦争までの戦争でよくあった「領土の奪取」ではない。革命フランスの死滅である。
そして革命フランス軍の主力となる兵隊は、フランスのごく平凡な市民や農民達だ。脱走なんかする筈もなく、祖国防衛の意思に燃え、むしろ勇敢に戦う訳だな。負けてしまえば、折角革命に成功して手に入れた民主主義や平民の権利が全部吹っ飛ぶのだから。さて、このシリーズはあくまで「マスケット運用の歴史」シリーズであるから、ここで歩兵隊の基本隊形を見てみよう。
これは、歩兵三個大隊(八個中隊で一個大隊を形成。一個中隊は120人、つまり一個大隊960人)の隊形である。フランス大陸軍では、三個大隊を基本の戦闘単位としていた。これを見て判るのは、重歩兵と軽歩兵の協同というオーダーミックス(諸兵科連合)。そしてもう一つ、横隊と縦隊の協同という意味でのオーダーミックスである。
テルシオの誕生以降、欧州の軍隊は全て横隊だったと言ってよい。それは、以前説明した通り横隊の方が火力が高いからである。隊列の組み方にもよるが、一般に横隊は縦隊の二倍以上の火力がある。理由は単純だ。三列目ぐらいまでなら、前の味方を避けて敵を狙えるが、四列目五列目六列目となれば、無理に射撃しようとするとどうしたって味方の背中を撃ってしまう。となると、四、五列目以降は戦闘に参加せず遊んでいるしかなくなる。だったら、いっその事縦三列で横隊を組んで全員が鉄砲を撃てる様にしよう…こういう訳だ。
しかしながら、横隊には弱点がいくつかある。まず第一に、機動性が低い事。これはプロイセン軍の同調行進などで大分改善されたが、それでも限界があった。前後左右に90度ずつ動くのはともかく、右や左に旋回するのは大変な困難を伴う。それこそ斜行陣の複雑な機動が必要だ。そしてこれが為に両翼が極端に弱い。横隊というのは正面の敵に向かって縦三列の兵隊が全員で射撃する隊形だ。しかしながら、例えば自軍横隊の90度左に敵が横隊を敷いた場合、こちらはただの横三列の縦隊になってしまうのであり、火力負けして乙る。左に旋回しようにも、横隊は動きが鈍重だからその間に蜂の巣にされて乙る訳だ。
また第三に衝撃力が少ない。確かに横隊に火力はあるし、その火力を発揮しながらジリジリ敵陣を圧迫していく事もできる。しかしながら、特に七年戦争前後の横隊というのは縦が三列しかない。機を見て銃剣突撃しても大した戦果が挙げられないのである。だって、先頭の一人を処理して、二人目も倒して、三人目を何とかいなせばそれで突撃は防ぎきれるのだ。これが縦隊なら、四人目、五人目、六人目といつになったら終わるのこれという状態になって、相手の陣に強烈な衝撃を与える事ができる。まぁ要するに歩兵にとっての重騎兵の要素だな。
縦隊の最大の長所は、その機動性と今言った高い衝撃力である。機動性については、以前言った通り、軍隊が横隊一本槍だった時代でさえ行軍は縦隊だったのである。その縦隊を戦場で大々的に導入したのがオーダーミックスだ。散兵によって敵を霍乱、横隊によって最大の火力を発揮。そして横隊の両翼が包囲されそうになったり、横隊が突き崩されそうになったらその機動性を生かして救援に赴く。逆に横隊の火力等で敵陣が崩れたら、縦隊が突っ込んでその衝撃力で敵陣を破砕する…
この縦隊の役割は、従来も予備隊とか騎兵隊が果たしていた。やられそうな味方の救援は予備隊の仕事だったし、崩れかかった敵陣に突っ込んで陣形を破砕するのは重騎兵の仕事だった。しかしながらそれらは全て戦場全体レベルでの話であって細かいレベルでの戦闘、大隊とか中隊とか小さい部隊には手が回らなかった。しかしながら、戦場全体レベルで陣形が崩れ始めたりするのは、こういった大隊や中隊といった小さい部隊がいくつもいくつも崩れていった結果なのである。
いわば、オーダーミックスにおける歩兵隊のこの基本陣形は歩兵隊の戦闘能力を大幅に底上げするものであったと言えよう。
時間が時間だし、何より長くなりすぎて入りきらないので次回に続く。
腹を切って死ね。
ちなみに、行ってきたのは愛知なのだが、鳳来寺にも行ってきた。んでこれが又物凄い荒れ具合なのである。元はと言えば西暦702年に開山され、文武天皇快癒祈祷の功で伽藍を与えられた由緒ある寺だ。徳川家康の母がかつて参籠したという事で江戸時代には1350石もの領地を持つ寺院となり、東照宮もあったのである。それが今や、酷い荒れようだ。
(クリックで拡大)
一応念のために言っておくが廃寺ではない。今も営業(?)中のれっきとした寺院である。それがKONOZAMAだ。一部の屋根は落ちてしまっておるし、この写真では判らないが屋根から松の木が生えてる始末。右端の戸も崩壊してしまっておるな。これはもうはっきり言って手遅れに近く、直す場合は解体修理になる。まぁ修理と言っても三分の二は新品の部材になるだろうがな。こんなもんまともに直せってのが無理である。
それにしても愛知県は一体何をやっておるのかと思って見ておった。この鳳来寺など愛知の宝と言っていい寺だ。この建物以外にいくつかお堂とかあったが、本堂以外でまともに建ってる建物など2つか3つぐらいだ。それもどう見ても中に鉄筋入ってるだろコレっての含めての話である。酷いものになるとプレハブなのに老朽化してるという意味不明な建物まであった。プレハブって、手軽に建てられる代わりにすぐダメになる臨時の建物の筈なんだけどな。
この寺に金が無いのはしょうがない。イニD的レースができそうな峠越えないと行けない場所にあるし、どこぞの宗派みたいに上納金がある訳でもなし、檀家もある訳じゃない。儲かる要素皆無だ。だからこそ国とかが支援して、こういう文化財を守っていかねばならんのである。現在重要文化財に指定されてる(指定されてると修理とかの工事に補助金が出る)のは仁王門という門だけで、自力の資金捻出も難しい以上、県とか市とかが金を出すべきなのだ。それか豊田王国が。
さて、今回(と言っても前後編で後編は明日以降だが)でいよいよマスケット運用の歴史シリーズも完結である。このシリーズの元になった西欧における射撃兵器の歴史及び火縄銃は何故主力兵器となったかを投稿したのが去年の12月27日だから、約二ヵ月半かかってようやく完結するのだ。長かったな…
んでは本題。
オーストリア、プロイセン、フランス、イギリス、ロシアといった欧州列強のほぼ全てを巻き込んだ七年戦争は、銀英伝のヤンの信念を覆す結果に終わった。要するに、戦略的に死ぬほど不利だったプロイセンが戦術的勝利を積み重ね、ついには勝利を手にしたのである。勿論運の要素も大きかったし、フリードリヒ大王自身が指揮した大会戦でも、必ずしも常勝不敗だった訳ではない。彼は何度も敗戦を経験しているし、プロイセンは極限まで追い詰められた。酷い時は、絶望した大王が「私は生きてプロイセンの滅びる姿を見る気は無い。永遠にさようなら」なんて手紙出したぐらいだ。しかしそれでも粘り強く戦い抜き、ついに勝利を勝ち取ったのだ。
何にせよ、七年戦争でフリードリヒ大王率いるプロイセン王国軍が、その精強さを各国軍に見せつけ続けたのは確かである。それに、彼が大敗した戦いは大抵兵力で負けている。例えばホッホキルヒの戦いでは三万対八万、クネルスドルフの戦いでは四万九千に対し七万だ。まぁ両陣営の人口比400万対8000万の戦争だから兵力負けてない戦いのが少ないんだがな。実際ロイテンだって三万五千と七万、その前のロスバッハだって二万二千と五万五千な訳だし。
まぁ、大王は延々と酷い戦争を戦ってたという事である。にもかかわらず、彼は勝って勝って勝ち続け(何度も負けてるけど)プロイセン=ブランデンブルクを勝利に導いた。特に、当時の陸軍大国フランスはプロイセン軍にほぼ完敗していた。プロイセン軍相手に善戦、あるいは会戦で打ち負かしたのは大抵オーストリアとロシアである。先のスペイン継承戦争でも軍事的な失敗を経験していた大陸軍国(笑)フランスは、軌道修正を迫られた。
当然ながら、彼らが考えたのはどうやったらフリードリヒ大王の軍隊に勝てるかである。まぁこれは七年戦争後のプロイセン以外のあらゆる軍事学者or軍人が考えた事だったが、フランスは軍事大国の威信に賭け、特に真剣に考えた。そして、その解決策…つまりプロイセンに勝つ方法を考えるにあたって一番最初にしなければならない事はフランス人にはプロイセン人の真似は無理という斜め上の諦めであった。
プロイセンが同調行進をはじめとした革新的な戦術を採用して勝利を重ねた以上、それを模倣するのが普通であり順当である。しかし、プロイセン軍のは非人間的なまでに冷徹且つ厳格に積み重ねられた訓練、そして規律によるものである。斜行陣ひとつとってもそうだ。あんなもん同調行進ができれば即できるなんて代物じゃない。同調行進を取り入れるだけでも相当な訓練が必要なのに、その上から更に物凄い勢いで訓練を積み重ね、人形の様に整然と動ける様にならないといけないのである。勿論、整然と動くのは基本的に兵隊(傭兵)だが、それを指揮する士官は脳味噌を更に整然と動かさねばならん。
彼らフランス人は、こういうのはフランス人の気質的に真似できないし真似するべきでもないとした。やがてナポレオン戦術として結実するフランスの軍事的探求は、まず、プロイセン式横隊戦術の否定から始まったのだ。では、彼らはどうしたか。それは第一にオーダーミックスであり第二に師団制軍隊であった。この内第一は、割とよく聞く言葉である。これは要するに諸兵科連合の事だ。
七年戦争までの軍隊というのは、究極、重歩兵と重騎兵だけの軍隊であった。いやまぁ砲兵もいるんだがそれは置いておいてだな。確かに、七年戦争でも軽騎兵や軽歩兵はいるにはいた。ハプスブルク君主国(オーストリアな)の軽歩兵は七年戦争で勇名を馳せたし、プロイセンにも猟兵がいた。プロイセン軽騎兵隊は、青年貴族に大変人気のある部隊であった。
しかし、七年戦争の軽歩兵は正式な部隊ではなかった…と言うと語弊があるな。要するに、当時の軽歩兵隊は特殊部隊だったのである。だから、正規の歩兵連隊(つまり普通の部隊)とかにはいない場合が殆どだったのだ。軽騎兵も、特にプロイセンがそうだったんだが、やってる事は重騎兵と変わらない場合が大変多かったのである。
七年戦争以降、プロイセンでは特に軽騎兵が流行った。そしてプロイセンでは「軽騎兵の流儀で行く」という言葉が「のるかそるか、いちかばちかに賭ける」という意味で使われる様になった。これ自体、重騎兵の仕事を軽騎兵がやってる事の証拠である。何故なら軽騎兵ってのは斥候であり、追撃、偵察、奇襲、迂回といったのが任務だからだ。それが、のるかそるか勝負するのこそ軽騎兵だって言ってるって事は、当時の軽騎兵は軽装な重騎兵に過ぎなかったという事の証左である。
ジャック・アントワーヌ・ギベールが理論を体系化し、ナポレオン・ボナパルトが実際に作り上げたオーダーミックスの軍隊は、この点で旧来と一線を画する。この軍隊は、重歩兵、軽歩兵、重騎兵、軽騎兵の全てを揃えた軍隊なのだ。勿論砲兵も揃えてるぞ。当時のフランスの砲兵隊は革命軍は地上最強ォー!!状態である。
この軽歩兵と軽騎兵を揃えられた理由についてよく言われるのが、フランス革命軍は国民軍だったからというものである。これについてはマスケット運用の歴史シリーズ5-1 ナポレオンへの道:アメリカ独立戦争と軽歩兵である程度説明したが…まぁ要するにだな。この記事で説明したとおり、猟兵とか軽歩兵とか散兵と呼ばれる兵隊は、少人数(場合によっては一人一人)に分散し、物陰に隠れたりして戦闘を行う兵種だ。そして、七年戦争までの軍隊の兵隊ってのは傭兵である。
そう、シリーズ5-1で言ったとおり、傭兵主体の軍隊で軽歩兵戦術を本格的にやるとこぞって脱走するのである。横隊戦術の利点の一つが脱走者が判りやすいってぐらいに、傭兵ってのは逃げる。最早逃げるのは傭兵の習性というレベルである。又、同記事で述べた通り、あの鉄の規律を持ったプロイセン軍ですら脱走は日常茶飯事だったのだ。脱走は即死刑、なんてだけでは勿論足りず、例えば森の近くで野営するのは絶対に避けねばならないとされていた。
夜陰and森の茂みに紛れて逃げるから。
そんな状態の軍隊で、軽歩兵なんて大々的に取り入れるのは不可能だったのだ。故に、ナポレオンが軍事革命を起こすまで、軽歩兵は特殊部隊以上ではなかったのである。勿論一部の例外はあるがな、ハプスブルクのクロアチア軽歩兵とか。又、軽騎兵はある意味歩兵より深刻で、偵察や追撃はまだしも、迂回、奇襲などは単独で敵中に突出する場合が多い。つまり集団逃亡の大チャンスが主任務の内なのだ。これでは軽騎兵も重騎兵として運用するしかなかった訳だ。
しかしながら、フランス革命を経てナポレオンの手で編成されたフランス大陸軍は違う。アメリカ独立戦争と同じだ。フランスにとってのナポレオン戦争は、特に初期は民主主義派を殺しにかかってくる絶対王制派との生き残り競争なのだ。プロイセン、イギリス、オーストリア、ロシアと、あらゆる欧州の列強国がフランスを潰すべく襲い掛かってきた。その目的は七年戦争までの戦争でよくあった「領土の奪取」ではない。革命フランスの死滅である。
そして革命フランス軍の主力となる兵隊は、フランスのごく平凡な市民や農民達だ。脱走なんかする筈もなく、祖国防衛の意思に燃え、むしろ勇敢に戦う訳だな。負けてしまえば、折角革命に成功して手に入れた民主主義や平民の権利が全部吹っ飛ぶのだから。さて、このシリーズはあくまで「マスケット運用の歴史」シリーズであるから、ここで歩兵隊の基本隊形を見てみよう。
これは、歩兵三個大隊(八個中隊で一個大隊を形成。一個中隊は120人、つまり一個大隊960人)の隊形である。フランス大陸軍では、三個大隊を基本の戦闘単位としていた。これを見て判るのは、重歩兵と軽歩兵の協同というオーダーミックス(諸兵科連合)。そしてもう一つ、横隊と縦隊の協同という意味でのオーダーミックスである。
テルシオの誕生以降、欧州の軍隊は全て横隊だったと言ってよい。それは、以前説明した通り横隊の方が火力が高いからである。隊列の組み方にもよるが、一般に横隊は縦隊の二倍以上の火力がある。理由は単純だ。三列目ぐらいまでなら、前の味方を避けて敵を狙えるが、四列目五列目六列目となれば、無理に射撃しようとするとどうしたって味方の背中を撃ってしまう。となると、四、五列目以降は戦闘に参加せず遊んでいるしかなくなる。だったら、いっその事縦三列で横隊を組んで全員が鉄砲を撃てる様にしよう…こういう訳だ。
しかしながら、横隊には弱点がいくつかある。まず第一に、機動性が低い事。これはプロイセン軍の同調行進などで大分改善されたが、それでも限界があった。前後左右に90度ずつ動くのはともかく、右や左に旋回するのは大変な困難を伴う。それこそ斜行陣の複雑な機動が必要だ。そしてこれが為に両翼が極端に弱い。横隊というのは正面の敵に向かって縦三列の兵隊が全員で射撃する隊形だ。しかしながら、例えば自軍横隊の90度左に敵が横隊を敷いた場合、こちらはただの横三列の縦隊になってしまうのであり、火力負けして乙る。左に旋回しようにも、横隊は動きが鈍重だからその間に蜂の巣にされて乙る訳だ。
また第三に衝撃力が少ない。確かに横隊に火力はあるし、その火力を発揮しながらジリジリ敵陣を圧迫していく事もできる。しかしながら、特に七年戦争前後の横隊というのは縦が三列しかない。機を見て銃剣突撃しても大した戦果が挙げられないのである。だって、先頭の一人を処理して、二人目も倒して、三人目を何とかいなせばそれで突撃は防ぎきれるのだ。これが縦隊なら、四人目、五人目、六人目といつになったら終わるのこれという状態になって、相手の陣に強烈な衝撃を与える事ができる。まぁ要するに歩兵にとっての重騎兵の要素だな。
縦隊の最大の長所は、その機動性と今言った高い衝撃力である。機動性については、以前言った通り、軍隊が横隊一本槍だった時代でさえ行軍は縦隊だったのである。その縦隊を戦場で大々的に導入したのがオーダーミックスだ。散兵によって敵を霍乱、横隊によって最大の火力を発揮。そして横隊の両翼が包囲されそうになったり、横隊が突き崩されそうになったらその機動性を生かして救援に赴く。逆に横隊の火力等で敵陣が崩れたら、縦隊が突っ込んでその衝撃力で敵陣を破砕する…
この縦隊の役割は、従来も予備隊とか騎兵隊が果たしていた。やられそうな味方の救援は予備隊の仕事だったし、崩れかかった敵陣に突っ込んで陣形を破砕するのは重騎兵の仕事だった。しかしながらそれらは全て戦場全体レベルでの話であって細かいレベルでの戦闘、大隊とか中隊とか小さい部隊には手が回らなかった。しかしながら、戦場全体レベルで陣形が崩れ始めたりするのは、こういった大隊や中隊といった小さい部隊がいくつもいくつも崩れていった結果なのである。
いわば、オーダーミックスにおける歩兵隊のこの基本陣形は歩兵隊の戦闘能力を大幅に底上げするものであったと言えよう。
時間が時間だし、何より長くなりすぎて入りきらないので次回に続く。