霧島家日誌

もう何が何だかわからないよろず日誌だ。

フン族と西ローマ帝国の滅亡 4:最後のローマ人アエティウス、表舞台へ

2011年08月20日 00時45分13秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。昨日ツイッターのフォロワーが一人増えて、その人のツイートを見てたら「霧島家の人と仲良くなりたい、面白い」とか書いてあるから話しかけてみたら、AC関連記事では痛い人を観察する目で見てますと言われてリアルポルナレフになった霧島である。いやまぁ私が聞いたから向こうもそう言ってきたんだが、割と脳が空白になった。ちなみに、AC以外の記事は普通に面白いらしい。

その後、その人がごちゃごちゃ言ってきたので「お前も他人の話ちゃんと読んでおらんのか」みたいに言ったら飛ばし飛ばしに読んでたらしい。そりゃーなー、長いから叩く為に読むんだったら飛ばし飛ばしになる気持ちも判るが…仲良くなりたいとか言っててなぁ。例の記事の、霧島家非推奨んとこはまたぞろ追記しておいたが…まぁ、なんだ。

取り敢えずブロックしておいた。

いや、だって怖いじゃん。仲良くなりたいって言いながら同じ口で「痛い人を観察する目で見てる」とか言える人って。ヤンデレっぽいよ…スカトロマニアでもないのに「あなたの汚物も大好き」って言えてるって感じがする……


ま、本当にあった怖い話は置いておいて、今回はついに最後のローマ人アエティウスである。フン族は単一の王の下に統率された民族ではなかったと前から何度も述べているが、そんなフン族を一つに纏め上げたのは、アッティラの父の兄ルーア(と共同統治者の弟オクタル。アッティラの父はムンズクって人でオクタルとは別)であると言われている。

何せフン族側の文字資料が残っておらんので、本当にルーアの時代にフン族が一つにまとまったのか、とか、ルーアだけの功績なのか、とかは全然判らんのだが、ルーア王の時代に大分フン族がまとまったのは事実の様だ。それまでは、ローマの人間がフン族は王ではなく貴族が率いていると言っている通りの状況だったらしいからな。

ルーア王がアッティラに残した最大の財産は、この王権と具体的な領地だと言える。王権については説明した(説明の仕様がないともいう)が、領地についてはアエティウスを交えて説明する必要がある。彼はフン族を含む蛮族を撃退し続けた英雄であり、そうでありながら蛮族の理解者でもあり、又、アッティラの好敵手であり友であった。アッティラの時代において、否、アッティラ登場に至るまでの時代の流れにおいて彼を無視する事はできぬので、今回はアエティウスを取り扱う。

尚、今回は年表を用意してみた。第二回、第三回、今回と時代の区切りごとに改行してある。これで前回と前々回のおさらいをした上で、今回の年表、前回の地図そして本文と三つのウィンドウを展開する事で大変理解しやすくなる筈である。読みやすくなるかは知らんが。

370年 この頃、ゲルマニア最東部、黒海北方ウクライナ近辺にフン族到達
378年 東ローマ帝国で、西ゴート族による暴動が発生。
     ハドリアノポリスの戦いが生起し東ローマ帝国大敗。東皇帝ウァレンス戦死
379年 テオドシウス大帝が東ローマ皇帝に即位。軍制改革に乗り出す
     ゲルマン民族の雇用と騎兵戦力の充実が主
386年 西ゴート族、テオドシウス大帝に降伏。
     給金と引き換えに軍隊の提供を約束する。一部はパンノニアに定住
387年 西の簒奪者、マグヌス・マクシムス率いるローマ式重装歩兵軍団を
     テオドシウス大帝の率いるゲルマン民族の騎兵戦力主力軍が討伐
     東西ローマ帝国でローマ式重装歩兵の時代が終わりを告げる
394年 西の傀儡帝エウゲニスと実権を握るアルボガステスを簒奪者とみなし、
     テオドシウス大帝が討伐軍を発する。二人を敗死させ、東西ローマを統一
395年 冬営中、テオドシウス大帝が崩御。
     西を長男アルカディウス、東を次男ホノリウスに託す
     給金を停止された西ゴート族の王、アラリック一世征服王は西進を開始
     又、フン族が東ローマ帝国に最初の大攻勢を仕掛ける

396年 西ローマ帝国軍総司令官スティリコ、アラリック征服王を撃退
397年 スティリコ、アラリック征服王をマケドニアで再び撃退。
     その後北アフリカへ転進、ギルドーの反乱を鎮圧
398年 東ローマ帝国がフン族を撃退
400年 この年から翌年にかけて、スティリコがヴァンダル族を撃退
401年 スティリコ、アラリック一世征服王を三度撃退
     この頃、"最後のローマ人"アエティウス誕生
403年 スティリコ、アラリック一世征服王と四度目の戦い。撃退に成功
402年 西ローマ帝国皇帝ホノリウス、ラヴェンナへ遷都
405年 アエティウス、西ゴート族の所へ人質として送られる
406年 この頃、"神の鞭"アッティラ誕生
407年 ブリタニア軍の兵卒がコンスタンティヌス三世を僭称。軍を率いガリアに上陸
408年 スティリコ、西ローマ屈指の愚帝ホノリウスによって謀殺さる
     アエティウス、西ローマ帝国へ帰還。すぐにフン族へ人質として送られる
410年 西ローマ皇帝ホノリウス、ブリタニアを事実上放棄
     アラリック一世征服王、イタリアに侵入。ローマ陥落。
     この時ホノリウスの異母妹ガッラ・プラキディアが西ゴート族に連れ去られる。
     その後アフリカへの進軍中アラリック一世征服王病死

414年 ガッラ・プラキディア、西ゴート王と挙式
415年 西ゴート王国、南ガリアに事実上建国
416年 西ゴート王国からガッラ・プラキディアが返還される
417年 ガッラ・プラキディア、コンスタンティヌス(三世)と結婚
418年 西ゴート族と西ローマ帝国が正式に和解。
     西ローマ帝国が西ゴート王国建国を正式に承認する。
     又、国王にテオドリック一世が即位
421年 コンスタンティヌス三世、ホノリウス共同統治者として皇帝に即位。
     同年崩御
423年 西ローマ皇帝ホノリウス崩御。後継者争い開始
425年 西ローマ帝国の後継者争い収束。六歳のウァレンティニアヌス三世が即位
     摂政は母ガッラ・プラキディア。アエティウスはガリア軍司令官に就任。
     当時のローマ軍司令長官はフェリックス。
     以降、アエティウスはフェリックス揮下の二人の有力武将の一人として働く。
     尚、もう一人はアフリカ軍司令官ボニファティウス。
     以降はアエティウスとボニファティウスの権力闘争でもある


では本編だ。フラウィウス・アエティウスは西暦391年ごろ、今のブルガリア(地図でいうトルコの北西、ギリシャの北東、ドナウ川の南の国)あたりに生まれた西ローマ帝国の人間である。フン族が東ローマ帝国に最初の大攻勢をかけたのが395年つまり生まれてすぐ、死んだのが好敵手アッティラの死の直後であるからよくよくフンに縁のある男である。

どうでもいいが、私は「よくよく」→エンター→「ふん」→無変換→「にえんのあるおとこ」→スペース、という手順で打ち込んでるからいいが、全文打ち込んでからスペース押してよくよく糞に縁のある男とか出てきたらアエティウスは死んでも死に切れぬな。

まぁそれは置いといて、彼は軍人だった父を見習ってか宮廷に仕えた後近衛隊に入る。405年、つまり彼が391年に生まれていれば14歳の時、西ゴート族の所へ人質として送られる。三年後、戻ってきたと思ったら今度はフン族のところへ送られる事になる。一般に人質生活と言うと牢屋に入れられて生活するのを想像しがちだが、それは人質生活ではなく罪人生活である。

実際のところ、現地で教育を受けたり、交流があってそこに人脈ができたりもする。基本的に人質ってのは同盟とかを結んだ時、それを一方的に破棄されない様保険として要求するものである。例えばアエティウスの場合、西ローマ帝国と西ゴート族の戦争後、西ローマ帝国が西ゴート族に「ウチの軍隊に来ねェ?」と言った時に人質として行っている。

この同盟(?)を破られない為に、アエティウスは西ゴート族のところに行った訳である。当時はスティリコが存命中であり、西ゴート族との融和が模索されていた時期であった。もし西ローマ帝国が約束を破って西ゴート族を攻撃したりしたら、アエティウスは見せしめに殺されてしまう。ところで、もしこのアエティウスが、ローマ市内のそこらをほっつき歩いてた一般市民だったらどーぞどーぞ殺してくださいってんで同盟破りが手軽である。無論それでは人質の意味がない。

そう、人質というのは送り出す国の王子とか重要人物でなければならんのである。アエティウスも又、有力者の子弟であり将来は西ローマ帝国の指導者層となるであろうと考えられていた少年であった。まぁ近衛隊あがりってぐらいだからな。

人質とはそういうものなのである。当然、人質は手厚くもてなされる。相手は王子とかなんだからな、粗末に扱ったら国際問題である。そういう意味では、人質というより外交使節と呼んだ方がいいかもしれん。才気闊達な若者である事も多いから、人質として送られた先で気に入られ、そこの王が手放そうとしなかったりそこの家を継いでしまう場合もある。家督こそ継がなかったが、北条氏規とか一時期今川義元の次男だったしな。

特に古代ローマ帝国は人質外交上手と言われている。周辺国家(部族)から送られてきた人質を厚遇し、教育を施しローマ色に染める。で、その人質が成長し本国に帰還して指導者になった時、その人物はローマ大好きになってるから親ローマ政策を採り、結果ローマの地位は磐石になるという次第で、手八丁口八丁で地中海をまとめあげたローマらしい人質政策である。

さて、そんな訳でアエティウスは少年期を西ゴート族とフン族の間で過ごし、文化文明が爛熟し柔弱だった西ローマ帝国の人々と違い軍事的才覚に優れた人間に育ったという。才気闊達であったらしく、西ゴート族のところから返されて今度はフン族の所に行くという時、アラリック一世征服王が「かえして!アエティウスかえして!11!!」とか言ってたぐらいだから、ゲルマンやフンの軍事技術をよく吸収したのだろう。又、フン族の所に送られていた間、まだ若い「神の鞭」アッティラと親交を結んでおり、二人は親友であったとも言われておる。


一方、アエティウスの愛する西ローマ帝国はスティリコ死後ホノリウス的な意味で平常運転を続け、どんどん弱っていった。西ゴート王国(415年ガリアの南、今でいうフランス南西部アキテーヌ地方に実質的に建国)と和解して建国を承認、その代わりにガリア・イベリア半島防衛を任せる等の政策も行われていた。が、その西ゴート王国とて面従腹背なところがあり、基本的にはローマ帝国との協調政策を採っていたが、そうでない時もあった。

つまり焼け石に水だったという事である。

例えば、前回説明したブリタニアの反乱。年表だと407年に書いてある、コンスタンティヌス三世を僭称した男がブリタニアの軍隊を率いてガリアに上陸したアレだな。実は、ホノリウスの治世の間皇帝を僭称したのは彼だけではなく、合計七人にも及ぶ皇帝僭称者がいたのである。それほどまでに、西ローマ帝国は混乱の極みにあったのだ。

ただそれでも、何とかイタリア半島は守る事が出来ていた。何故それが可能だったかについては諸説あるが、その一つとして北アフリカをガッチリ握っていたからというものがある。アフリカというと、今でこそカダフィ大佐とか、砂漠と石油以外何もないとか、エイズとか、ジンバブエドルとか、ヨハネスブルクのガイドラインとか、YOUはSHOCKとか、そういう荒廃したイメージが強い。

しかし、実を言うと、いわゆるホワイトアフリカ、かつて白人が住んでいた北アフリカ一帯は当時の地中海世界で最も豊かな地域である。地図で言うとモロッコ、アルジェリア北部、チュニジア、リビア北部、エジプト北部。更に、イスラエルやレバノンといった地中海沿岸の中東一帯、アナトリア半島(トルコ)、加えてシチリア島(地図でマルタ島と書いてある所の上の島)も大変豊かな穀倉地帯であった。東ローマ帝国は、中東とアナトリア半島をゲルマン人から守れたが故に民族大移動時代を乗り切れたという説があるぐらいである。

我々は結構勘違いしがちだが、欧州、特に西欧は水は悪いわ土地は悪いわであり、当然の帰結として作物が全然育たない。場所にもよるが、一年間耕作した土地は一発で枯れてしまい、二年か三年寝かさないとダメという事も多い。そんなんだから、欧州は現代でもメシがマズい国が結構あるのである。ドイツなんかジャガイモと肉しかないぞ。

ローマ帝国、特にイタリア半島が豊かで繁栄していたのは、欧州が元々豊かだったというよりは地中海の富をイタリア半島に集めたから豊かになったと表現した方が正しいのだ。この時代は、何はともあれ穀倉地帯がなけりゃお話にならんからな。そういう穀倉地帯を、何とか確保できていたからこそ、お馬鹿が皇帝でも何とか生き残れたという話だ。アフリカに行くには海を渡らなきゃならないから、ゲルマン民族もなかなか手が出せなかったのである。


まぁ結局、愚帝ホノリウスがくたばった崩御した423年も、相変わらず西ローマ帝国内はぐちゃぐちゃであった。ガリア、イベリア半島はほぼ丸ごと失い、ブリタニアも事実上放棄。一部のゲルマン王国と同盟を結び、北アフリカと地中海の島、イタリア半島でなんとか生き延びている状態だ。しかも、ホノリウスは子を残さなかった。皇帝に子供がいなくて国内が不安定、となれば次に来るのは後継者争いである。

ホノリウスがくたばると崩御すると、当時の西ローマ帝国において最も有力であったといわれる人物(カスティノス。すぐ死ぬから覚えなくていい)が、当時第一書記であったヨハンネスという人物を指名する。これで話が収まれば良かったのだが、そうはいかなかった。

話は少し遡るが、お馬鹿皇帝として名高いホノリウスには、ガッラ・プラキディアという比較的頭の残念な異母妹、もしくは死神がいた。まぁ少なくともスティリコ暗殺に加担してる時点で頭は駄目と言える。彼女はアラリック一世征服王のローマ略奪の際ローマに住んでいた為、人質として連れて行かれている。その後西ゴート王アタウルフと結婚するも挙式から一年で旦那が死亡。

これがガッラ・プラキディアの死神伝説の始まりであると言える。私が勝手に言ってるだけだが。彼女は旦那が死んだ事もあり、416年、西ゴート王国と西ローマ帝国の和平条約交渉の際、両国友好を示す目的で西ローマに返還される。翌年、兄帝ホノリウス帝の命令でコンスタンティヌスという将軍と結婚する。

諸君は、先程「スティリコ死後の西ローマはホノリウス的な意味で平常運転」だったが、「西ゴートと和解したり」といった政策をやったと言った時、ホノリウスにんな事できるんかいなと思ったかもしれぬ。まぁ、なんだ。実際、できなかった。

こういった政策をやったり、戦争して西ローマ帝国を守ったりという役目は、このコンスタンティヌスが主導していた。いわばスティリコの代わりになり得る逸材である。スティリコと違ってローマ人であり、又、ホノリウスの信任もあったので、彼は思う存分腕を振るう事が出来た。その上、431年にはアウグストゥス、つまりホノリウスの共同統治者として西ローマ皇帝に即位したのである。コンスタンティヌス三世だ。

ちなみに、スティリコ存命中にブリタニアで反乱を起こし、皇帝を名乗った人物もコンスタンティヌスという名であり、コンスタンティヌス三世を自称している。が、あくまで皇帝僭称者という事でカウントされていない。僭称者が天下を取っていれば、ガッラ・プラキディアと結婚したこの人物はコンスタンティヌス四世になっただろう。

まぁともあれ、死神と結婚したのが運の尽きであったらしい。彼は皇帝に即位したその年に崩御してしまうのである。だが彼女の死神伝説はまだまだ終わらない。彼女の次の標的は、男ではなく西ローマ帝国という国である。まず、コンスタンティヌス三世の死後、彼女は東ローマ帝国に亡命する。これにはちゃんとした理由があって、色ボケしたホノリウスが妹に求婚したからである。

死神ガッラ・プラキディアは、コンスタンティヌス三世との短い結婚生活で男子を一人もうけていた。名をウァレンティニアヌスという。彼女は幼子を育てながら、コンスタンティノープルで時を待った。そして時は来た。そう、423年の⑨崩御である。ホノリウス死後皇帝となったヨハンネスは、いかに有力者に指名されたとは言え、テオドシウス大帝の血統でもなければむかーしの皇帝の血を継いでる訳でもない。

そこで、ガッラ・プラキディアは当時の東ローマ帝国皇帝、テオドシウス二世能書帝(例のテオドシウス大帝のバカ息子の一人、東のアルカディウスの息子)に軍隊の派遣を要請。我が子を西ローマ帝位につけるべく、西の帝都ラヴェンナに向けて進軍するのである。西ローマの有力者に支持されたヨハンネスvs東ローマに承認され母ガッラ・プラキディアに支持されたウァレンティニアヌスという図式である。

この後継者争いにおいて、アエティウスはヨハンネスについていた。まぁ西ローマの人間だしな。死神ガッラ・プラキディアが東ローマ皇帝を動かしたと聞いたヨハンネス陣営は、アエティウスに軍隊の出動を依頼。とは言え、正直言って西ローマの軍隊じゃどうにもならん。そこで、アエティウスは援軍要請の為、帝都ラヴェンナを旅立つ。

え?

誰に援軍出してもらうかって?

フン族に決まってるじゃないですか。

何せ彼はフン族との繋がりが深い。「神の鞭」アッティラは元より、その前王ルーアとも親交を結んでいるのである。ただ、この時期のフン族の内情は不明である。さっきも言ったが、ルーア王がフン族を一つに纏め上げたという説を採るとして、ルーアが「王」と呼べる存在になったのは432年説、410年説複数説があり、弟オクタルについても、共同統治していた説、していなかった説の二つがあったりもする。

なので、この時アエティウスがどういう援軍を連れて来たのかというのはよく判らん。ルーア王だって、初めて歴史に名が出てくるのが432年だからな。ただ判っている事は、アエティウスがフン族を引き連れて戻ってきた時、既にヨハンネスの籠もる首都ラヴェンナは陥落し、ヨハンネス以下重臣、有力者は皆して処刑されていた事。

そして、アエティウスが死神ガッラ・プラキディアが本気でビビるレベルの大軍を統率していた事、この二つである。アエティウスは帝位簒奪者の重臣であり、本来ならその場で処刑されねばならない。が、何せアエティウスの連れて来た軍隊、誇張もあろうが、その数六万である。とても東ローマ帝国の援軍だけでどうにかできるものではない。

しかしアエティウスにしても、仰いでいた主君が死んでしまっている以上どうしようもない。代わって自分が皇帝になれる国でもないからな。そこで、アエティウスは降伏の条件として一定の地位を要求。具体的にはガリア軍司令官を求めた。これは要するにガリア方面軍司令官という事で、かなりの高官である事は説明せずとも判るだろう。

で、ガッラ・プラキディアはこれを了承。まぁせざるを得んわな。んでフン族には、わざわざ軍隊つれてくるなんて真似させた事への賠償金を払い(勿論アエティウス側ではなくガッラ・プラキディア側が払った)、お帰り願った訳である。


こうして、死神の子「ウァレンティニアヌス」は正式に即位して「ウァレンティニアヌス三世」に。又、アエティウスはガリア軍司令官に就任する。以降、アエティウスは外に出てはガリアの蛮族を抑える為の戦いと外交に明け暮れ、一方ラヴェンナの宮廷では権力争いに集中するという二面作戦を強いられる事となった。

彼はガリア方面軍司令官となったが、当然ながら上官として西ローマ帝国全軍の司令官、つまり総司令官とか司令長官と呼べる人物がいた。それがフェリックスである。そのフェリックス揮下の有力武将の一人がアエティウスであり、もう一人がボニファティウスであった。更に、幼帝ウァレンティニアヌス三世(即位の時点で六歳)を従えた死神ガッラ・プラキディアがいた。

彼らとの権力闘争と、蛮族との戦い。次回はこれが主な話になるであろう。




いつになったらアッティラ出てくるんだオイ。




尚、ガッラ・プラキディアの死神ネタは当霧島家限定である事を申し添えておく。でも実際、こいつと結婚するとすぐ死ぬしこいつの子供が西ローマ帝国滅茶苦茶してるから、死神ってのもあながち外れてない筈なんだよな。

フン族と西ローマ帝国の滅亡 3:ゲルマン民族の侵入と西ローマ帝国の衰退

2011年08月16日 23時05分01秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。DQN達に荒らされたお陰でやる気がブレイクしてた霧島である。あまりのブレイクっぷりにより、記事を書く気どころかACfAやる気すら起きなくなって今はAC3Pをやっておる。やっぱりブレード強いと楽しい。まぁ3系は対人戦がクソな仕様だが、レイヴン時代にガチ対戦やりたかったらAAやってろと思っておるので何も問題ない。ぶっちゃけ、4までは「基本一人用だけど友達と対戦も出来るよ!」っていう程度のゲームと捉えてるからな。まぁ4系はオンライン対戦以外が酷いとも言うが。

取り敢えず2ch本スレから涌いてきた人について何か言うとしたら私がミサイラとかに勝てないっていう電波を何処で受信したのかという事ぐらいである。コメントでも述べたが、連ザのデュエルASとか連ザ2のストライクノワールとか、勝てても嫌いって奴だっていくらでもいるだろうに。強アセンとかについては見解の相違もあろうが、ぶっちゃけあんな書き方してる時点でただの煽りである。こんな芸風の人間が煽りに対してまともに相手する訳なかろうが。

ただまぁ、私がミサイラとか相手に勝率悪いのは事実だけどな。相手がミサイラーとかだと判った途端さっさと殺せよとばかりにやる気のない動きになるから。場合によっては動かなくなったり領域離脱するしな、そりゃ勝てない。勝てなくて悔しいです><ってなもんだ、勝つ気もないし。正直言って対重量機戦、特にガチタン戦の方が余程苦手である。対戦経験が少ないから、本当に苦手だ。

まぁ2chの厨房相手すんのは痛いからやめとけと某ぶぶり深い森1900の人に言われたので、以降、ロボゲ板本スレとかから突撃してきた阿呆がいても、基本全削除する、とだけ宣言しておく。まぁ氷って人みたいに長文書いたとかなら相手する事もあるが、あれもちゃんと文章読んでないしなぁ…まぁ煽り書いてくる連中に期待はしとらんと言えばそうだが。


さて、前回でフン族が出現した時点でのローマ帝国の状況については説明したな。

前々回、フン族が欧州に出現した当初は、フン族は一人の王の下に統率された単一の存在ではなかったと述べた。これは、西暦398年に東ローマ帝国によって撃退された時もそうだったし、それからしばらくの間、フン族内の統一は成されなかった。しかも、以前話した通りフン族というのは書物とかそういうものを全くと言っていいほど残さず消えてしまった民族である。

と言うのも、そもそも文字を使っていなかったらしいのだな。最後まで定住型の国家を作らなかったガチの遊牧民族だから、書物を持って移動するのも面倒だったろう。ローマ帝国の資料では、男は馬の上、女は馬車の中で育つとまで言われておる。そんなんだから、彼らは本当によく判らない。

例えば、395年の東ローマ帝国襲撃から398年に撃退されるまでの対ローマ戦最初期、この時期のフン族は名前がわかってる奴が一人もいないのである。いくら当時のフン族に単一の王がいなくとも、有力者なり勇将なり何なりがいた筈である。しかし名前は一切判っておらん。

基本的に、連中が文字を使わなかった以上彼らについて述べられている歴史資料(記録)というのはフン族に襲われた奴の記録であり、そういうので残っていると言えばやはりローマ帝国の記録である。当時あの辺に存在してた国で、歴史資料を後々まで残せる国と言えば、しばらくして西が滅んだとはいえ東西ローマ帝国ぐらいしかないからな。

つまり、奴らはローマ帝国と関わっていない時何をしていたのかというのがよくわからん民族なのだが、ローマ帝国と関わっててもよく判らない事多々なのである。

んで、こういう話をしたという事は、フン族は398年の敗戦後しばらく何をしておったのかよく判っておらんという事である。しかも一人の王の下に統率されていた訳ではないから、尚の事よく判らんのである。一応、どうやら西方に移動していたらしいという事、又、各部族ごとにゲルマン人や東西ローマ帝国の傭兵をやっていたらしいという事は判っている。

この時期に限らず、フン族は結構傭兵をやる。のちにアッティラの宿敵となるアエティウスも、フン族の傭兵を使って戦争した経験があるぐらいだ。又、フン族は強力な傭兵としてかなり広汎に使われた様で、西ゴート王国がフン族の傭兵を使って西ローマ帝国を攻めようとしたら西ローマ帝国もフン族を雇ってたという事もあった。

これは、それだけフン族が強力な戦闘民族だったという事であろう。又、彼らは傭兵稼業の合間にもゲルマン人国家や東西ローマ帝国を襲撃、略奪して稼いでおり、別に傭兵やらないと死んじゃう、という訳ではなかった様だ。全くの想像だが、傭兵は小遣い稼ぎぐらいに思っていたのかもしれん。何にせよ、単一の王を持たないフン族は、その戦闘力を武器に、略奪から傭兵まで幅広く稼いでいた様である。欧州がその舞台だった。

その略奪相手は、無論ローマだけではなくゲルマニアに広く住んでいたゲルマン人達も対象であった。まぁゲルマニアにはゲルマンだけじゃなくスラブ系、ケルト系の連中も多数住んでたんだが、めんどくさいのでゲルマンでひとくくりにする。一昨日頑張って地図を作ったので、まずはそちらを表示しよう。



いつもどおりクリックで拡大。そしていつもどおり、ウィンドウを切り替えながら本文と照らし合わせて読む事を推奨する。まず北のスカンジナビア半島…スウェーデン、ノルウェー、フィンランドを構成する半島の事だが、この辺が赤で囲ってあるな。この囲ったところがゲルマンの原住地であると言われている。スカンジナビア半島と、欧州大陸のバルト海沿岸部だな。

その後、寒冷化か何かでゲルマン人が南下を始める。それが赤茶色で示した、ゴートやらブルグントやらフランクやらジュートやらである。フン族が入り込んでくる前はこういう場所に住んでいたのだ。一方移動しなかった連中もいて、それがノルマン人でありバイキングである。

この、ゲルマン人が住んでいた一帯をゲルマニアと呼ぶ。基本的には、ローマ(イタリア半島)から見て、ドナウ川以北かつライン川以東がゲルマニアである。このドナウ川とライン川はゲルマニアとの国境として機能していた川である。こういう、川とか山によって国境線を引くというのは歴史上多数例があり、現代でも山や川を国境線にしている国があるぐらいである。

例えばこの地図でも、ライン川はスイスとドイツ、ドイツとフランスの国境に一部重なっている。ドナウ川もが東の下流のあたりでルーマニアとブルガリアの国境として機能しているな。又、フランスとスペインの国境、アンドラって書いてあるところに山があるが、このピレネー山脈も国境として機能している。

ちなみに、カエサルの「ガリア戦記」で有名なガリアはアルプス山脈の北、ライン川の西の地域を指す。もう一枚地図を用意したからこっちを見てくれ。えーと、アルプス山脈は、地図を見るとイタリア半島の北側に山脈あるだろう、それだ。ちなみにガリアの南端はさっき言ったピレネー山脈、西端は大西洋。

まぁ共和制ローマの頃はイタリア半島北部もガリアって呼ばれてたんだけどな。ローマ帝国になった頃には、もう「イタリア」とされておりガリアとは呼ばれておらなんだ。尚、フン族が襲ってくる前のローマ帝国の領土も二枚目の地図に書き込んである。

西ローマがイタリア半島とガリア全域、イングランド、イベリア半島(スペイン+ポルトガル)、北アフリカの西側。東ローマがドナウ川以南のバルカン半島ほぼ全域(ブルガリアとかボスニアとかギリシャとかある半島)、アナトリア半島(現トルコ)、北アフリカ東側。又、シリアやレバノンといった地中海沿岸の中東も支配に収めている。鉄道も電話もない時代にこんな帝国があったというのは一つの奇跡と言えるな。まぁずっとこんな大きさだった訳じゃないが。

あああと、結構適当に線引いてるから細かいとこまで信用しない様に。

さて、一枚目の地図に戻ろう。フン族襲撃直前は、ゲルマン民族は皆ドナウ川、ライン川の向こうに住んでおった。川を越えて略奪に来る事はあったがな。しかし、こいつらがフン族に襲われ、玉突き事故の理論でドナウ川やライン川を越える事になる。その最初が東西ゴート族であり、それによって東ローマの皇帝が戦死した事は前回話したな。

さっき、フン族は398年の敗戦後傭兵と略奪をしてたらしい、と書いたな。そして、どうも、彼らはローマ帝国だけでなくゲルマニアに住む様々な部族にも攻撃、略奪をしていたらしい、とも言ったな。このブルグントやらランゴバルトやらといった部族も攻撃を受け、次々と西進、ないしは南進したのである。明るい紫色で囲ったのが、ゲルマン民族の大移動によってできたゲルマン諸王国だが、西ローマ帝国の領土とかぶりまくりである。

かぶってないのってフランク王国だけじゃないか。

まぁ、西ローマ帝国が滅ぶのが476年なので、イングランド諸王国や東ゴート王国は滅亡後にできてるんだけどな。西ローマ帝国の本拠地を東ゴートが思いっきり制圧しているのはもう既に滅亡してるからである。この地図で注目すべきは東ローマ帝国の領地にはゲルマン諸王国がまるで入り込んでいない事である。まぁ入り込んでいないからこそ東ローマ帝国は長生きした訳だが。尚、東ローマが生き残った理由は多分次回に説明する。

さて、フン族とは関係ない様に思うかもしれんが、ゲルマン民族の大移動による西ローマ帝国の弱体化についてはやはりフン族と密接な関係があるので、説明しておきたい。


まず一つ理解しておかなくてはならんのは、ゲルマン民族の移動が発生した以上ゲルマン王国ができなくてもローマには大打撃という事である。何故なら、例えばヴァンダル族がゲルマニア時代に住んでた居住地とヴァンダル王国の位置を見比べて欲しい。

彼らは元々シュレージエンに住んでいた。これはポーランド、チェコ、ドイツの国境あたり一帯の事で、フリードリヒ大王が七年戦争の前のオーストリア継承戦争で獲得した土地である。一方、ヴァンダル王国はアフリカ北部とコルス島(ヴァンダル王国の島の北の方)、サルデーニャ島(同じく南の方)。つまり、最短コースだとしても、ヴァンダル王国建国にはヴァンダル族が皆でイタリアを縦断する必要があるのである。

勿論、その経路上にある都市やらは攻撃されるし略奪される。と言うか、前回も言ったが、そもそもゲルマン人は安住の地探しとその日の食料確保が目的なので、あっちへ行ったりこっちへ行ったりウロチョロウロチョロし、行き当たった都市で略奪するというノリである。ブルグント族も、ランゴバルト族も、東西ゴート族もそうだ。建国前であってもローマ帝国領土内を放浪してるのである。

となれば、ローマ帝国が大打撃を蒙るのも至極当然という訳だな。しかしそうであればこそ、東西ローマ帝国は平等に被害を受け、東ローマ帝国領内にもゲルマン王国が建てられててもおかしくない。では、西ローマは何が問題で、東ローマは何に成功したのか。

まず、西ローマ帝国は皇帝が大変お馬鹿だったという問題があった。前回説明したテオドシウス大帝は、ゲルマン人を使った騎兵中心の軍隊を作り上げて西のローマ皇帝位を簒奪した連中を討伐、その翌年に死んだ。彼は死にあたって、次男であるホノリウスを西ローマ皇帝に指名した(東は長男のアルカディウス)。が、こいつら、本当にテオドシウスの息子かというぐらい無能だったのである。

ただ東の場合救いだったのは、アルカディウスは無能な怠け者であって無能な働き者ではなかった事である。東ローマにはやはり有能な政治家、軍人達が沢山おり、政務、軍務は彼らがやった為特に問題は起きなかった。元々東の国内は結構まとまっており、そこまで無茶苦茶じゃなかったのも大きかった。

一方、西は深刻である。テオドシウス大帝は元々東の皇帝であり、コンスタンティノープルからわざわざ東から遠征してきたのは西の簒奪者を倒す為だ。要するに、西は皇帝位が簒奪される程度には荒れていたのである。そんな時に無能が皇帝になっちゃったから大変だ。

ホノリウスは皇帝になったのが十歳でしかもバカだった。故に、初期はスティリコという将軍が政務を行っていたのである。彼はゲルマン人といわれているが、実際にはヴァンダル族とローマ人のハーフであり、父は元ヴァンダル出身でありながらローマ軍人だった。テオドシウス大帝の側近の一人として軍功をあげた、優秀な壮年軍人であった(ホノリウスが皇位を継いだ時点で30歳)。

彼は有能であり、かつ斜陽の西ローマを支えた英雄であった。まぁ自分が皇帝位を乗っ取るつもりだった可能性もあるが、彼が西ローマ帝国を内外の敵から守り続けたのは事実である。西ゴート族の王、アラリック一世征服王の攻勢を退ける事四度に及び、他のゲルマン人も悉く撃退、その一方で、アフリカでのギルドーの反乱も鎮圧している。

しかしながら、いかにスティリコといえど広い西ローマ帝国の領土全てを守る訳にはいかない。結果として、ガリア、イベリア半島、ブリタニアあたりは軍隊もいないがら空き状態となった。ゲルマン人はこのガリアへ大挙して侵入。しかも、ブリタニア駐留のローマ軍がこの混乱に乗じ皇帝を名乗ってガリアへ上陸、ガリア、イベリア半島の連中はこれに従ったのである。

これはまぁ、仕方ないと言えば仕方ない。スティリコはガリアとかの兵隊をかき集めてゲルマン人からイタリアを守ったが、その分ガリアとかはガラガラであった。略奪し放題だったのである。そこに、軍隊を引き連れた者がローマ皇帝を名乗って現れたら誰だって従うだろう。とは言え、西ローマ帝国として放っておく訳にはいかない。

スティリコは、どうやらアラリック征服王と同盟し、彼らに反乱者を撃破させ、そのままガリアの防衛を任せるつもりだったらしい。ところが、だ。ホノリウスが兄にして東の皇帝アルカディウスの様に無能な怠け者なら良かったのだが、24歳になって野心が芽生えたのか、彼は実権を握るべくスティリコ謀殺を画策(側近の讒言を信じたともいう)。釈明の為ラヴェンナに訪れたスティリコはそのまま処刑されてしまう。

無能な勤勉が味方にいると非常に怖い。

話は前後するが、ホノリウスは即位当時、ミラノ(地図でいうと、東ゴート王国の「493年建国」の9と3の間)を首都としていた。が、ゲルマン人が西ローマ帝国領内を荒らし始めると、危ないってんでラヴェンナ(同じく地図でいうと「イタリア」のリの上あたり)に遷都。まぁそれだけなら問題ないが、以降そこから出なくなる上、スティリコ死後は軍隊をラヴェンナにだけ駐留させるという暴挙に出る。

軍隊がラヴェンナにいるという事は、当然ではあるが他の西ローマ帝国領土を守れない。属州にあたるガリアやイベリア半島(スペイン+ポルトガル)、ブリタニア(イングランド)どころか、本土イタリアすらゲルマン人によるヒャッハーし放題になってしまうのである。

テオドシウス大帝が死んでホノリウスが西を継いだのが395年。ブリタニアで反乱が起こった(と言うか皇帝僭称者が出た)のが407年、スティリコ暗殺が408年。そして410年にはそのホノリウスが、ブリタニアに向かって「おめーにやる軍隊ねーから!って事で独立させてやっから自助努力すれ」という感じの手紙を書いている。

当時、ブリタニアにもサクソン族等のゲルマン民族が多数侵入しており、又、ブリテン島に元から住んでたケルト人からの攻撃も続いていたのだが、イタリアすら蹂躙されてるのにどうせいっちゅーねんという話になったのである。当地に駐留していた軍隊も、例の僭称者がガリアに連れて行ってしまっていた。以降、ブリテン島は七王国時代(もしくは暗黒時代)に突入する。

更に…先程言ったとおり、斜陽の西ローマの柱石だったスティリコは、ゲルマン人とのハーフであった。彼自身がどう思っていたかは判らないが、周囲からは「ゲルマン人」と見られており常に偏見の目があったという。しかし逆に言えば、彼は帝国内のゲルマン人の防波堤だったと言える。ゲルマン人の攻撃により日々劣勢に立たされているのだ、ローマ人達が、ローマ帝国内に住むゲルマン人達を差別、殺傷する可能性は充分にあった。

しかしスティリコ存命中は、同じゲルマン人である彼こそが西ローマ帝国を支えていた。そのスティリコが謀殺された後、ローマ帝国内でゲルマン人殺傷事件が多数発生。これによりそれまでローマ帝国に従っていたゲルマン人諸部族が大挙して離反するという緊急事態が発生する。彼らが合流した先は、かの西ゴートのアラリック一世征服王の下。

彼は宿敵スティリコがいなくなったのを好機と見て(直接の契機は帝国との賠償金支払いの関係だが)イタリア侵攻を再開。ホノリウスの命令で、西ローマ帝国の軍隊はラヴェンナだけを守っている。アラリックはラヴェンナを攻撃する愚は犯さず、迂回してローマを包囲する。慌てての和平交渉が行われたが、これのやり方が又マズかった。

元々、アラリック一世は「征服王」なんて名前がついてるが、そこまで好戦的な王ではなかった。つうか、テオドシウス大帝の治世の頃、西ゴート族は東ローマ帝国の同盟部族であり、アラリック自身も西の傀儡帝エウゲニス討伐に軍功のあった人物である。それが、テオドシウス大帝のバカ息子その1ことアルカディウスが西ゴート族に給料を支払わなくなった為、略奪の為西に向かい、結果、スティリコ率いる西ローマ帝国軍と何度も激突した…そういう話なのだ

基本的に、ゲルマン人にとってローマ帝国は憧れの地であって豊かで高度な文化を誇るローマに自分も住みたいというのが多い。そうでないのもいるがな。大体、ローマ帝国があんだけでかいのにゲルマン民族は各部族の人口がそれぞれ何十万という程度しかいないのだ、全土の占領なぞ土台無理である。ゲルマン諸部族を統括する単一の王がいれば話は別だが、そんなもん無理だ。

この為、ローマ包囲時の和平交渉でアラリック征服王が要求した内容も大したものではなかった。賠償金と、パンノニアへの移住である。パンノニアが何処かと言われると凄く説明しづらく、wikipedia先生みたいにオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各国にまたがるとでも言うしかない。地図で確認してほしい。

しかしながら、愚帝ホノリウスはこれを拒絶。対立帝の擁立にも失敗したアラリックは、最終手段に出る。

そう。

ローマの陥落と略奪である。

ローマ帝国がまだ都市国家だった時代から難攻不落を誇った、かつての首都にしてローマ帝国栄華の原点は、ホノリウスというお馬鹿のお陰でもろくも壊滅したのである。…まぁ、そうは言ってもアラリックの略奪はそこまで酷いもんではなく、後の東ゴートの略奪や中世のランツクネヒトによる略奪(サッコ・ディ・ローマ)のがよっぽどヤバかったらしいが。

その後、アラリックはアフリカを目指して進軍するも途中で病死。後を襲ったアタウルフ、更にその後を受けたワリアはローマ帝国との和解に成功し、ガリア南部への定住、及び建国の許可を得る。西ゴート王国の誕生である。



ようやくアラリックが死ぬとこまで来たか。次回からは、いよいよ神の鞭と呼ばれた西ローマ帝国末期の風雲児アッティラと、最後のローマ人と呼ばれたその宿敵アエティウスの物語が始まるぞ。

アエティウスだけで終わりそうだが。

フン族と西ローマ帝国の滅亡 2:ゲルマン人と末期ローマ帝国

2011年07月26日 17時14分19秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。最近ACfAで「おっ、ランカー様だ」(上位30位以内の人)とか「おっ、Aランクの人だ」(まぁ要するに上手い人)とか思って対戦すると、大抵テンプレ強機体なので萎え気味の霧島である。言っても判らん人には判らんだろうが判る人もいるだろうから言うと、ライール脚にモタコブR102両背ミサイルBFF分裂連動とか。

テンプレから離れようという気概はないのかと問わざるを得ない。そんな機体使い込めば私だってAランク中位には食い込めるっつーの。絶対嫌だからしないけど。

前にも言ったかもしれんが、私はトキは嫌いだし青リロエディ嫌いだしアイスエイジも大っ嫌いである。要するに「これ使えば勝てるよね」っていうのを使う事自体が嫌いなのである。勝ちにいく事自体は構わないというかそうすべきだし、その過程で強キャラを使うのも構わんと思う。しかし強キャラ通り越してる奴使うのはどうかと思う。

北斗において、トキが今でも大っ嫌いなのはそのせいである。トキは、昔は強キャラ通りこして一択キャラであり、全国大会本選の九割がトキというぐらい強かった。しかし今は、NO2かNO3であり最強ではない。それでも嫌いなのは、トキがお手軽強キャラという意味では最強であり弱キャラと呼ばれる連中に対し絶望的に強いからである。変態レベルに極めた人にとっても、前者はともかく後者はそのまんまだしな。

まぁたまたまガチ機使ってただけかもしれんし、そうでない人もたまにいるんだけどな。WマーヴにW山鹿とかいう神機体使ってるランカーが前にいて思わずGOODACって言った記憶とかもある。

ま、この間「金輪際ミサイル使わない」って宣言したのに今ミサイル搭載機使ってる私が言うこっちゃないかもしれんがな。解説記事に載せる為の、今機体構築例ってのを色々模索していてな、どー考えてもこの機体はミサイルのが合ってる、って奴が無い訳ではないのだ。作例だから私の信条より機体の完成度が優先するし。で、ここんとこの対人戦は全部それの機体テストな訳である。


と、長々と語ってしまったが、本題はフンのお話である。フンについて語ろうとすると、どうしてもそれと対戦したローマの話もせねばならず、こうなるとフンだけの記事じゃないなぁという事で題名を変えた。


さて、一大決戦でフンは敗れてしまった。これに限らず、アッティラすら決戦で敗れた事はある。

と言うのも、当時ローマ帝国の重装歩兵偏重主義が崩れつつあった。と言うのも、378年にハドリアノポリスで西ゴートに大負けしたのである。大負けも大負け、正直言って以前紹介したクレーシー(クレシー)以上の大敗だ。

ローマ帝国軍正規歩兵がボロボロにやられた戦いと言えば、ハンニバルによるトレビアの戦い、トランシメヌスの戦い、カンナエの戦いといった奴が思い浮かぶ。中でもカンナエの戦いは、投入兵力七万で死傷者六万と言われ、当時300人程度だった元老院の内80人が戦死するという大惨事であった。故に、カンナエの会戦、とかカンナエの戦い、ではなく「カンナエの殲滅戦」とすら呼ばれている。

このハドリアノポリスの戦いは、ローマ側の被害の数字だけ見ればカンナエに遠く及ばない。だが見方によってはカンナエ以上の屈辱的な敗北であった。何故なら、ハンニバルの所属するカルタゴは曲がりなりにもローマと覇権を争った暦とした都市国家。一方西ゴートはローマにとっては蛮族以外の何者でもないのだ。

その蛮族相手に、何と、皇帝が敗死したのである。ハドリアヌスの戦いは、ローマ帝国皇帝親征による決戦だったのだ。それで大敗を喫した上、皇帝も又戦死した(逃げ込んだ小屋に火を放たれたらしい)のである。しかもこの敗戦以降、ローマ式重装歩兵、即ちレギオンは二度と再建されなかった。

そして何より、この戦いは、ローマ帝国の戦争で重装歩兵が騎兵に正面切って負けた初めての戦いであった。


それまでローマが体験してきた戦争で、騎兵戦力が劣っていたが故に負けた戦いというのは確かにあった。ハンニバルとの戦争がそうである。しかしそれでも、ハンニバル戦争ではあくまで決戦兵力は重装歩兵という認識が貫かれた。どうみてもこれ騎兵のせいで負けましたよね、という戦いでも、重装歩兵あっての勝利と考えられた。

例えばハンニバル戦争最終戦、ハンニバルの命運が尽きたザマの会戦。まぁ色々途中経過をはしょると、ローマとカルタゴ(ハンニバル)の重装歩兵ががっぷり四つで組み合ってるところに背後からローマの騎兵(ローマ正規騎兵とヌミディア傭兵)が襲ってきてハンニバルが負けた。

言ってみれば、これは騎兵によるローマの勝利である。しかし、考え方としては重装歩兵同士の戦いでカルタゴがローマを圧倒していればハンニバルの勝ちだったというもので、騎兵が決戦兵力であるとは誰も考えなかったのである。しかし今回は違った。重装歩兵が主力の座から滑り落ち、代わって騎兵が台頭してくる事が誰の目にも明らかであった。

これには理由がないではない。元々、当時のローマ帝国では騎兵が増える傾向にあった。と言うのも、既に正面決戦でも重装歩兵の優位性は崩れつつあったのである。帝国の長い間の繁栄で重装歩兵の練度が下がってきていたのもあるが、それが決定的なのではない。問題は、蛮族蛮族と呼ばれていた連中が蛮族でも何でもなくなってきた事だ。

かつて、異民族、蛮族といわれる連中はロクに鎧もつけず、槍一筋、剣一振で挑んできた。まぁケルト人とかまさにそうだな。以前説明した通り、彼らは上半身にペイントを施す事で傷つかなくなるという信仰を持っていた。そういうのが相手であれば、ローマ重装歩兵は圧倒的に有利だ。何せ、胸から腹までを防御する金属製の重鎧に脛当て、更に大型の円盾と槍で武装してるんだから。

しかしこの時期、ローマ帝国に侵入してきたゲルマン人達はこういう連中とは一味違った。ちゃんとした鉄製の防具で身を固め、長剣のみならず戦斧で武装していた。有名なのがフランク族の投げ斧、フランシスカである。フンカスロウが装備してる奴だ。ロマサガとかでもお馴染みだな。

射程は10mほどで命中率も良くなかったが、斧がぐるぐる回転しながら飛んでくるのは相当な威嚇効果があり、又、盾で防御すると盾が使い物にならなくなる為、盾と槍の組み合わせが重要なローマ重装歩兵にとっては脅威だった。他にも、長柄に斧をつけたポールアックス的なものもあり、遠心力を利用して力任せに振り回せば、いかに重装備で身を固めたローマ歩兵でも一撃でもっていかれかねない

その上、ゲルマン人は騎兵も強かった。元々ゲルマン人は騎兵民族でも何でもなかったのだが、ゲルマニアには馬の産地があった。特にウクライナは、古くはスキタイ人騎兵、新しくはコサック騎兵を生み出してきた欧州騎兵の聖地の一つである。そういった馬の産地で育ったゲルマン人達によって編成された騎兵は、元々弱体だったローマ正規騎兵とは比べ物にならない強大な戦力であった。

又、正面決戦だけでなく戦略的な観点から見ても、重装歩兵は弱点を晒していた。連中は戦場でも遅いが、戦略機動、要するに本拠地から戦場への移動とかも遅いのである。この為、各所で侵入してくるゲルマン人を捕捉する事が出来なかった。こうなると、強力な重装歩兵も無用の長物である。軽快な騎兵部隊が必要だ。

そんな訳で、ローマ式重装歩兵の優位性の低下、騎兵の価値の上昇により、騎兵部隊の増強が行われているところだった。ここに来ての、ハドリアノポリスの大敗である。ローマがギリシャに代わって地中海の覇権を握った時から五百年以上に渡り必勝のドクトリンだった重装歩兵戦術が崩れ去ったのである。


379年、新たに東ローマ皇帝に就任したテオドシウス一世は軍事改革に乗り出した。そう、フン族が初めてローマ帝国を襲った年に死んだあの皇帝である。可哀想な紹介の仕方だが、基本的には彼が作り上げた軍隊がフン族を東ローマ帝国から撃退したのであり、その功績は賞賛されてしかるべきである。

彼は騎兵隊増強の路線を継続した。但しそれまでと違ったのはゲルマン人をローマ帝国軍に編入したというところである。ゲルマン人傭兵を雇ったというよりは、フランスの外人部隊みたいに、正規の部隊に外人を入れた、という感じだ。

そう、フンの脅威からローマ帝国を救ったのはゲルマン人なのである。無論ローマ人正規部隊も勇敢に戦ったが、ハドリアノポリスの敗戦以降新規の部隊を編成したりはしていないらしく、ゲルマン人兵士の力がなければ到底フン族の撃退など叶わぬ夢であったろう。ゲルマン人はローマを滅ぼしたが、ゲルマン人はローマを救ったのである。

これには、「これからは騎兵の時代だ!」という意識と「ローマ人を戦力として期待するするのはもう無理だ」という考えがあった。前者は判るな。ローマ式重装歩兵の優位性の低下、騎兵の価値の上昇、そして決定的なハドリアノポリスの敗戦。これを戦訓とし、騎兵を主力とする考えが生まれそのまま中世の騎士の時代へと繋がっていくのである。

私が以前に解説してるからこそ、諸君は「重騎兵の突撃でも堅固な重装歩兵の陣列は崩せない」と知っているが、それは当時常識ではなかった。むしろ、それこそタギネーの戦いで敗れた重騎兵大好き民族東ゴート王国の連中からしてみれば、いかな歩兵の陣列でも重騎兵の突撃で崩す事が出来るという考えこそが常識であった。

この常識が信じられた期間というのは、歴史上かなり長い。この時期から中世にかけての西欧ではこれが常識だったしな。中世の終わりにスイス傭兵隊が密集槍方陣を考え出して衰退する。つうかその後騎兵突撃自体が衰退する。しかしポーランドやスウェーデンの影響によって復活した重騎兵は、しばしば槍衾(と言うか銃剣衾)を展開する歩兵の陣列に、正面から無謀な突撃を何度も敢行している。七年戦争のミンデンの戦いでは、西欧最強の騎兵、フランス近衛騎兵がイギリス戦列歩兵に正面突撃してお亡くなりになられている。

まぁそんな訳で、当時は「騎兵こそ最強!」というのは最先端の軍事常識だった訳である。一時期あった、戦闘機の「ミサイル万能、機関銃イラネ」みたいなもんだと思えば良い。

一方、「ローマ人を戦力として期待するのはもう無理」というのは説明しなければならん。ローマがまだ帝国でも何でもなかった都市国家の頃は、ローマの重装歩兵はローマ市民(と言うか中産階級、大抵は自作農)であった。と言うのも、ローマの軍隊は徴兵制でだったのだが、徴集の際には制限(所得いくついくつ以上、みたいなの)があって、中産階級でない場合は兵役が免除されていたのだ。

金持ち(っていうほどでもないが)だけが徴兵されるのも変な話と思うかもしれんが、さもありなん。当時のローマは兵役をこなした者のみ市民権が与えられるという制度だったのである。しかもこの市民権は本人だけしかもらえず、子供が受け継ぐ事はできない。だからみんな必死に戦ったのだ。

ところが、ハンニバル戦争などを戦う頃になると外征に次ぐ外征で戦争、戦争、また戦争。んでしかも、ローマ軍団兵は大多数が農民。故郷には帰れず農地は荒れ放題。一応出征中は給料が払われるのだが、純粋な日本人への生活保護ぐらいしか出ない(朝鮮人への生活保護みたいには出ない)ので、没落してしまう自作農が続出した。

そこで、ユリウス・カエサルの義理の父親ガイウス・マリウスが改革に着手。志願制に変更した。結果、貧乏人が給料目当てに流入、一方中産階級は農耕に専念できるというので喜んだ。が、兵役をこなしたからと言って無産階級が市民権を得られる訳ではなかった。市民権は、一種の特権となったのである。これでは、以前と比べて戦意も練度も下がって当然だ。

その後、アウグストゥスが非市民に「ローマの兵隊になれば市民権あげますよ~」という制度を制定+宣伝。お陰で再び強力な軍隊が出来上がった。出来上がったが、この市民権、以前と違って世襲、つまり一回兵役をやれば孫子の代は兵隊にならなくても市民になれるというものだった。結果、元の木阿弥になる。

この頃というのは元の木阿弥になった後である。まぁ何が言いたいかは判ってもらえるだろう。

更に、ローマの人間は馬に慣れ親しんでいない。これは、これから騎兵を主力として軍隊を再建しようという時に重大な問題であった。長い時間をかけて訓練すれば、馬に乗った事もない様な人間でも立派な騎兵として育てられる。しかしこれは相当の苦労が必要である。一年中武芸の稽古だけやってりゃいいとまでは言わんが、終生そういうのが仕事の江戸時代の武士ですら、鎌槍で騎馬戦訓練やってたら馬の目を潰してしまったなんて事があったぐらいである。

新帝テオドシウス一世に、ローマ人に時間をかけて騎兵技術を仕込んでいく、なんて悠長な事をやってる時間的余裕は全くなかった。ゲルマン民族の脅威は、現在進行形のものとして目の前に迫っていたのである。


故に、テオドシウス一世は最初っから騎兵として優秀な連中を採用するという手っ取り早い手段に出た。即ち、ゲルマン民族の雇用である。意外に思うかもしれんが、ゲルマンとて戦争したくてローマ帝国に来たのではない。前回話したとおり、ゲルマン民族大移動の発端は、彼らの故郷ゲルマニア(現ドイツ、ポーランド、ウクライナあたり)までやってきたフン族からの避難であり、言ってみれば彼らは難民なのである。

ハドリアノポリスの戦いにしたって、西ゴート族がローマ帝国を切り取ろうと侵略してきた、なんて戦争ではない。フンによって東ゴート難民が西へ移動させられ、西ゴート族は玉突き事故の理論でローマ帝国の領土まで移動しないと話にならない状況に追い込まれた。そこで西ゴート族が、

1:ローマ帝国内への移住
2:代償として一部の男子をローマ帝国兵にする

という事を提案したのである。例の戦死した皇帝ウァレンスはこれに同意。過疎地に送れば農業生産力が上がるし、先述した通り当時のローマ帝国軍は弱体化が著しかったからな。しかし、いざ移住となって問題が発生した。当初10万人が移住すると申告されていたのだが、他の部族が便乗してきたので30万人移住してきたのである。

しかも悪い事に、移住してから最低一年は経たないと自分達で食べ物を作れない。当たり前だな、米の二期作でもしない限り作物を植えてから育つのに一年はかかる。なので、その一年間はローマ帝国がこの30万人を食わせなければならなかったのだがどうみても物資が足りる訳がありません本当に(ryとなって、結果西ゴート+αの皆さんが暴徒化。総勢30万人が、しかも戦争できる武装を持ったまま暴徒化したのである。

で、皇帝親征になった訳だ。この展開から判るとおり、ゲルマン民族は戦争したくて来た訳ではないし侵略者でもなんでもないので、住むところと食べるものを確保できればOKなのである。勿論そうでないゲルマン民族もいたし、ウァレンスと西ゴートの様に提携が結ばれなかった場合は、これはもう略奪したり攻撃して占領し、そのまま居座ったりするしかないがな。

ゲルマンは、基本的に元が農耕民族である。肥料を使わず、三圃制もなし、ついでに言えば欧州ってのは基本的に土地が痩せてると農耕民族としては結構アレなのだが、それでも農耕が基本であった。故に農耕できるなら定住さえできれば良い。そんな訳で、ローマ帝国は、ゲルマン人を臨時のパートタイマーではなく正社員としてゲルマン人を軍隊へ迎え入れたのである。

この成果はすぐに現れた。後に大帝とも称されるテオドシウス一世は、当初ローマ帝国の東を治めていた。この当時、まだローマ帝国は、「東ローマ帝国」「西ローマ帝国」という形では分裂していない。しかし事実上分裂していた。デカすぎるから。テオドシウス一世の前任者、つまりハドリアノポリスで戦死したウァレンスは東側担当の皇帝で、ウァレンスが崩御した頃、西側はグラティアヌス帝が担当していた。

そのグラティアヌスが、テオドシウス一世を次期東側担当皇帝に指名したのだな。この東側担当、西側担当というのは上下関係はなく、どちらも皇帝である。担当地域が違うだけの共同統治者だ。その共同統治者グラティアヌスの皇位を、マグヌス・マクシムスなる者が簒奪。彼は息子を皇帝につけ、西ローマ帝国の正規軍団をもってイタリアに侵攻する。

皇帝就任までは黙認していたテオドシウス一世も、流石にこれは看過できず、出陣。西ローマ帝国はまだローマ式重装歩兵軍団だったので、西の簒奪者のローマ式重装歩兵vs東の正統後継者のゲルマン人騎兵隊という大変熱いカードとなった。まぁ西は西でちゃんと騎兵隊も持っていたし、東も東でちゃんと歩兵隊を持っていたが、それぞれ主力は重装歩兵と騎兵であった。

結果は、大帝テオドシウス一世の圧勝。ハドリアノポリスで崩壊していたローマ伝統の必勝戦術は、ローマ帝国の名の下に完全に粉砕された。これ以降、西ローマ帝国(本当はテオドシウスが死んでから正式に分裂するが、もう事実上分裂してるしめんどくさいのでこう書く)も、軍事力はゲルマン人に頼る様になる。

しかし、これこそが西ローマ帝国の終わりの始まりであった。確かに、ゲルマン人を雇用する事により、東西ローマ帝国の軍事力は飛躍的に強化された。まぁ蛮族相手に苦戦してた訳で、その蛮族を戦力に使ったんだから当たり前だが。しかし、彼らゲルマン人はローマに同化しなかった

例えば軍隊なら、かつてのローマ市民は自分達の市民権の為に戦っていた。しかし、軍隊には忠誠ってもんが必要である。じゃあ彼らは誰に忠誠を誓っていたかと言えば、それはローマという国であった。彼らは、ローマという国の為に戦っていたのだ。愛国心って奴だな。しかしゲルマンはちょっと違う。

彼らが忠誠を誓というのは、国家に対してではない。各部族の首長に対してである。又、ローマというものに対する考え方も違う。高い文化文明を誇るローマに対し憧れとかもあったろうが、ローマ市民が生まれも育ちもローマで「俺が、俺たちがローマだ!」だったのに対し、ゲルマンは余所者である。

まぁ、アレだ。

このローマって国乗っ取れりゃ美味しいだろーなー程度のノリだった訳である。無論そこまで大胆な事を考えていた奴も少なかったろうが、「俺はローマ出身じゃないんだから、ローマの言葉も歴史も文化も勉強して、ローマ人よりローマ人らしい人間になろう」なんて殊勝な奴は、まぁいなかった訳じゃなかろうが大多数ではなかった。彼らの忠誠は、昔と変わらず自分達の部族の族長に向いておった。

そして西ローマ帝国は、そういうゲルマン人達に軍事力を完全に依存してしまった。その悪影響はすぐに現れた。先程、ローマ帝国の西部担当皇帝グラティアヌスが簒奪者マクシムスによって殺害されたと述べたが…あー…えーと、だな。実は、西側はグラティアヌスが生きていた頃から、弟ウァレンティアヌス二世も一緒に統治していた。つまり、テオドシウス一世就任直後で言えば

ローマ帝国全体:グラティアヌスとウァレンティアヌス二世、テオドシウス一世の三人が共同統治
ローマ帝国西側:グラティアヌスとウァレンティアヌス二世が担当
ローマ帝国東側:テオドシウス一世が担当

という状態だった訳である。んでグラティアヌスが死亡。簒奪者マクシムスをテオドシウス大帝が打倒した後、ウァレンティアヌス二世が単独で西側担当皇帝になった。が、彼の治世の後半からして、ゲルマン人の後見を受けてのものだった。

西ローマの軍隊はマクシムスの反乱時に壊滅的な打撃を受けた事もあって、東ローマと同様ゲルマン人主体の軍隊になった。しかし何も考えず取り込んだのがいけなかった。ここにA、B、C、Dという四つのゲルマン人部族がいたとして、こいつらが西ローマの軍隊の主力を構成しているとする。で、Aの兵力が一万五千、B、C、Dの兵力が五千。しかも、B、C、Dの部族の首長はAの首長を支持しているとする。

こういう場合、Aの首長こそ事実上の皇帝。最早西ローマ帝国は、そこまで来てしまっていたのだ。以前イェニチェリとオスマン・トルコの記事(前編後編)で述べた通り、軍隊を動かせる者こそ本当の実力者である。法律上は皇帝にその権力があるが、↑の様な状態だと、実質的な兵権はAの首長にある。つまり、皇帝が皇帝として振舞いたければAの首長の支持が不可欠なのだ。

これは、最早国として末期症状と言える。ウァレンティアヌス二世(例の、簒奪者マクシムス打倒後単独西側担当になった人)が急死した後、当時の西ローマ帝国で「A」にあたる男、フランク族出身のアルボガステスは傀儡皇帝を立て、事実上西ローマを支配した。これを簒奪であるとしてテオドシウス一世が征伐軍を発し、394年、アルボガステスと傀儡帝エウゲニスは敗死する。

そしてこの戦役後の帰還前の冬営中(当時の軍隊は、冬は動けない。彼の本拠はコンスタンティノープルで、戦いが行われたのは九月、場所はイタリアとスロヴェニアの国境あたり。なのでミラノで冬を越そうとしていた)、テオドシウス一世は崩御。それが395年1月。

フン族が東ローマに攻撃を仕掛けてきたのは、こういう状況でであった。

フン族と西ローマ帝国の滅亡 1:フン族出現

2011年07月23日 22時30分00秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君。予想通りコメントがつかなかった霧島である。まぁそんな気はしてたんだ、うん。幸い、mixiの方でネタをくれと言ったらそっちでは二つほどコメントがついてな。一つは鯖氏からで「困ったら平成ガンダム1個づつ書いていけば良いじゃない!」、もう一つはりっかさんからで「あれだ、AOCフンの歴史を(ry」であった。

で、考えたのだが、実際のところちゃんと語れるほど私は平成ガンダムに詳しくない事に気付いた。いやまぁダブルオーとか種とか延々と語ってきたが、Wは二週しかしてないし、X、G、ターンエーはもう殆ど覚えてない。ジャミル・NEETとかそれぐらいしか覚えてない。ユニコーンも、原作一応読んだんだがもう殆ど覚えてないしな。なので、これについては再検討する為一旦置いておく。

代わりに、今日はフンの歴史について語る事にしよう。久々の歴史ネタである。AOCネタもちょこちょこ混ざるだろうがな。


フンは、諸君も知っての通りアッティラを大王として東西両ローマ帝国を荒らしまわり、ただでさえゲルマン民族の侵入やら内紛やらで酷い状態だったローマ帝国に大打撃を与えた遊牧民族である。世界史の授業だと忘れられがちだが、アッティラの死後、アッティラの腹心が自分の子供を西ローマ皇帝に即位させている上、その西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位された時を一般的に西ローマ帝国滅亡とするので、西ローマ帝国滅亡の最後の引き金を引いた民族とも言える。

そんなフン族だが、以前AOC攻略のトルコで語った通り、一般的に古いテュルク系遊牧民であると言われている。実際、トルコ人は自分達をフン族の後継者だと思っておる。ただ、これ、実はよくわかってなかったりする。と言うのも、フン族というのは歴史に残る書物、例えば歴史書であるとかそこまでいかなくても日記だとかそういうものを殆ど残さず消えていってしまった民族なのだ。

実際、フン族について語った史料というのはそのほぼ全てがローマ帝国とかの人間によって書かれたものである。よって、どんな言葉を話していたのか、何処から来た何系の民族なのかというのは極端な話証拠となるものが何もないので判らん、というのが正直なところである。

まぁ、証拠、とか言うとアレだが。歴史家が「●●という事実はあった」と証明するのに使う史料って、時代にもよるが大抵「●●って言ってる人がいた」という「個人の日記」だったりするソースは2chレベルの存在なんだけどな。まぁ逆に言うと、そんなんを使わないといけない程度には、歴史の研究は難しいという話ではあるんだが。

それは置いておいて、そんな訳で、実際フン族というのがどういう出自だったのかよく判ってはいない。以前は、匈奴と同じ民族ではないかと言われておった。匈奴と言ってピンと来る人は、歴史オタ、三国志オタ、三国志大戦オタのどれかであろう。



おふらさん。三国志大戦3では大人気の強カードらしい。ちょっとぐぐってそう書いてあっただけなので、verupで弱くなってるかもしれん。出世したもんだな、2時代はアミバ様だったのに。まぁそれは置いといて、この人、三国志時代の匈奴の王(単于)の一人だ。匈奴は古くから中華王朝の北部に存在した異民族であり、戦国時代(つまり秦の始皇帝登場前だな)から中原(歴史的中国の事とでも思ってくれ)への侵入を繰り返しておった。

三国志の時代になると匈奴は弱体化しており、南北分裂後北匈奴は滅亡。南匈奴も後漢に服属しておった。しかし後漢がボロボロになって戦乱の時代に突入、その際、匈奴でも内紛があっておふらさんは追放され、流れ流れて曹操の下で働いたのである。この南匈奴は、その後五胡十六国時代を生き抜き、北朝から隋唐にかけての名門劉家、独孤家の祖先となった。

フン族は、この南匈奴ではなく、滅亡した北匈奴の子孫と言われている。後漢成立直後(三国志でいう漢。漢は一回滅んでおり、それを再興したのが三国志時代まで生き残ってた漢であり、後漢と呼ぶ。劉備の作った蜀漢は後漢を更に復興しようとしたものなので後々漢みたいなもん)は元気元気、元気な子供は股間がてっぽう百合状態だったのだが、西暦46年ごろ破局が襲ってきた。

蝗の群れの襲撃と日照のダブルパンチにより、国民の三分の二が餓死したとまで言われる大打撃を蒙ったのである。この時、匈奴の南部が独立して南匈奴として本国と決別、後漢に服属する。こういう関係があったので、のちの黄巾の乱では匈奴の兵も鎮圧に出陣している。又、南部独立後、本来の匈奴は北匈奴と呼ばれる様になった。

独立された状況が状況だったので、北匈奴はその後も後漢へ侵入を繰り返すがその度に後漢と南匈奴の連合軍に破砕される。その上、むかーしむかしに滅ぼした東胡の生き残りである鮮卑(ちなみにもう一つの生き残りが三国志にも出てくる烏丸。公孫瓉が袁紹と戦った時袁紹に味方した異民族である)に攻撃されて大打撃。ついでにまたしても蝗の襲撃を受けて大打撃。最後は南匈奴と後漢連合軍に攻撃され、ついに滅ぶのである。

この北匈奴が西に逃れ、やがてフン族になった、というのが一般的な説である。但し、基本的にはよう判らんというのが現状だ。例えば、フンの言語はテュルク系、つまりアジア遊牧民が話すタタール語とかカザフ語とかトルコ語とかそういう系統の言語ではなく、フィン・ウゴル語であるとする学者もいる。これはウラル山脈あたりから発生した言語で、ハンガリー語やフィンランド語がこれに近いとされる。

もしそうだとするなら、匈奴=フンは成り立たない事になる。中原の北から来たのではなく、ウラル山脈のあたりから来た事になる訳だ。又、それ以外に、匈奴というのは基本的に中原の北、モンゴルやロシア最東部(シベリアよりかは西、ぐらい)のあたりに住んでいた民族である。こいつらが西の果てである欧州まで移動する間、血統的にも言語的にも完全に匈奴のままだったのかという問題も提起されている。

東アジアの北から、草原を越えて欧州に到達するには相当な時間がかかったろう。事実として、北匈奴が滅んだのは西暦91年。黒海北方(ウクライナ。オデッサとかキエフとかあるとこ)にようやく到達したのが370年ごろとされている。すると250年以上経ってる訳で、その間にアジア諸民族と混血したり、言語も変質して別のものになったりしてしまう可能性もある。

まぁ、そんな訳で結局よーわからんというのが現代の研究における結論である。フンとはまるで関係ない遊牧民が箔をつける為にフン族を名乗った事も予想されるし、フンについて多くの書物を残した欧州人達も、どうもフン=蛮族の総称ぐらいの勢いで書いたんじゃないかコレってものを多数残してくれているので余計にわからん訳である。


そんな訳で、フン族というのは実はどういう連中かようわからんのである。アッティラの死後すぐに分散しちゃった上、数が少なかった(かなり多く見積もってると言われるローマ側の史料でも人口60万程度)から集団として残らなかったしな。ただどうも、フン人は欧州の人間とはかなり異なる外見だったらしい。特にアッティラは、胴長の低身長で毛深くない、かつ色の黒い人物とされており、これが事実なら東方から来た連中の末裔だろう。

ま、それは置いてこう。彼らの軍事技術は主に騎乗したまま繰り出す、複合弓による射撃。つまり騎射である。ただそれだけではなく、ちゃんとした歩兵や弓兵隊も持っておった。軽騎兵だけだと思われがちなモンゴル騎兵も、実際には重装騎兵がちゃんといたというのと同じである。ただどうも、重装騎兵がいたかどうかがわからない。

と言うのも、昨日の今日で書き始めてるので調べが足りんのである。ただどうやら、フンは軽騎兵中心であった様である。尚、欧州に入ってすぐにフンが駆逐したアラン族というのがいるのだが、こいつらはフンと同じ遊牧民族でありながら重騎兵中心だったらしい。フンは逆だったという訳だ。

まぁ、フン族の有利だった点は有力な騎兵戦力を持っていたというのもあるが、本拠地なしでフリーダムに移動するというのが多分一番の利点だったろう。大体、遊牧民とか異民族というものは、農耕民族の帝国に侵入し都市を攻略したりしていく内に王侯貴族としてその土地に定住するのが普通である。これはモンゴルですらそうだった。元という中華王朝を作った。

しかしフンはそうでなかった。彼らは最後まで定住しない遊牧民族であった。まぁ、後半、特にアッティラ登場以後は遊牧しないで主に略奪で稼いでた可能性があるらしいんで、そういう意味では根無し草のヴァイキングみたいなもんかもしれん。それはともかくとして、居住地なしで常に移動してるとなると攻める必要はあっても守る必要はない。

つまりだな、例えば東西ローマ帝国がフン族と戦う場合、討伐の大軍を召集して攻撃に向かう事が必要だ。しかし、東西ローマ帝国は遊牧ではなく農耕で生きており、巨大な領土を持つ。彼らはこれを守る必要があり、極端な話、その長大な国境線全部に兵隊を置かないとフンを防げないし、現実問題としてそんなもん無理である。

しかしフンはその必要がなく、ひたすら攻めて略奪すれば良いのだ。普通、盗賊ですらアジトを持っているものだが、そのアジトが存在しないというから厄介な話なのである。


さて、まぁそんな訳で、軍事的観点から見ればフンが負ける要素は無い、とまでは言わないが、勝てる要素はいっぱいある。。ただ、欧州侵入当時のフン族は、どうも単独の王の下に統率された集団ではなかったらしい。ゲルマン民族の移動みたいなもんだろう。アレも、ゲルマン民族全体が一人の王の指揮の下移動してきた訳ではない。

ゴート人とか、ブルグント人とか、ノルマン人とか、アングル人とか、そういうのが個別に移動したのである。それら個別の●●人ですら、一つの集団として移動した訳ではないんだしな。例えばノルマン人は、デンマークに移動してデンマーク人の祖先になった者、同じくスウェーデン人の祖先になった者と色々いる。

そのゲルマン人だが、実はフン族に圧迫されて大移動を開始したとされておる。元々ゲルマン人はスカンジナビア半島とバルト海沿岸、つまりスウェーデン、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、それとポーランド北部のあたりに住んでおった。それが段々南下して、ドイツの北部やポーランド、ウクライナといったいわゆるゲルマニアと呼ばれる地域に住む様になった。

ここへ、フン族が侵入してきたのである。現代地図の方でいうウクライナから侵入してきたのだな。ゲルマニアで最も東にいた東ゴートはフンに服従、一方西ゴートはドナウ川を越えてローマ帝国に侵入するのである。ちなみに西ゴート族はそのまま移動し続け、何とフランス南西部まで突っ走って建国する。東ゴート族ものちにローマ帝国のお膝元、イタリアへ移動して東ゴート王国を作るし、他の部族もローマ帝国内を通過して各地に王国を立てた。

そりゃローマだって弱まろうという話である。

ゲルマン人をある程度駆逐したフン族は、そのまま東ローマ帝国に雪崩れ込む。395年の事である。これは初めてのフン族によるローマ帝国攻撃であった。トラキアに始まってカッパドキア、アンティオキアと大暴れである。しかも間が悪い事に、この頃皇帝テオドシウス一世は軍を率いてイタリアに出征中であった上、そのまま陣没するのである。

結果、局地戦の連続となる。そうなれば、強力な軽騎兵を持つフン族が圧倒的に有利だ。フン族は3年間に渡って東ローマ帝国内でヒャッハーし続けた暴れ続けた。結局、398年にようやく態勢を立て直した東ローマ帝国はフン族に決戦を挑み、撃退に成功する。




以下、次回(と言うか次々回)に続く。時間が足りないのもあるが、既に草稿が一万字を超えておるでな。

尚、フンについてあんまり語ってない気がするかもしれないが、気のせいに間違いないので私と一緒に精神科にかかるべきである。

何故ルター訳ドイツ語版聖書は標準ドイツ語の祖となったか 後編

2011年04月30日 05時35分08秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。霧島である。

最近、ついったーをはじめようかどうか悩んでおる。まぁこれは始めても特に何か変わる訳ではないからいいんだが、もう一つ悩んでるのが深刻で、まぁいわゆるアフィ厨になるかどうかである。これは前々から思ってた事で、と言うのも以前から友人にこんだけ書いてんだから何かしら儲ける方法考えてもいいんじゃないと言われていたのである。それに加え、最近通っているカウンセラーにこの日誌を紹介したところこんだけやってるんだからやらないと損だよ的な事まで言われてしまったのだ。

しかしなぁ。ブログで儲けるといったらアフィリエイトだろうとは思うんだが、そもそも儲かるだけクリックしてくれる人がいるのかという話がある。それに何より、アフィ厨は嫌われると聞いた事があり、アフィリエイトを始めるとそれまでブログを読んでくれていた読者が離れていってしまうというのである。正直、アフィリエイトでちょっとぐらい小銭が貰えるよりも読者が離れる方が私にとっては辛い。

まぁこんな話をした時点でアウトだとは思うが、実際のところどうなんだろうと思ってな。意見求む。


さて、昨日の続きである。昨日は、中世ドイツの村というの必ず一個は教会がある、というぐらい民衆支配機構として浸透していた、というところまで述べたな。

その支配は非常に強力であった。やはり、教会が民衆の生活と密接に結びついていたというのが非常に大きい。それは例えば秘蹟、即ちサクラメントが象徴している。これはカトリックの儀式みたいなもので、洗礼とかがそうだ。まず人は生まれれば洗礼を受けた(ついでに教会に登録される)、と言うか受けさせられたし、教会の許しがなければ結婚もできなかった。と言うのも、婚姻もカトリック教会の秘蹟の一つだったのだな。

更に死ぬ時には終油というのがあり、死の直前に許しを得る。これは要するに、今まで生きてきた中での罪を告白して司祭からこれを許してもらい、油を塗って聖別し、死んでからは天国に生ける様にする、といった感じのものだ。つまり中世のドイツ人は教会が許さなきゃ結婚もできないし天国にも行かせて貰えないという、教会に生死を握られてるどころか死後まで握られてる状態だった訳である。あ、ちなみに終油については歴史的変遷が色々あるのでかなりはしょってるぞ。

まぁそれは置いといて、こんな状況なら平民が教会に掌握されてるのも大体判るというものだろう。その支配構造の中に、聖書と文字もあった。実は聖書を読めるのは一部の特権階級だけだったのである。聖書を読める権利自体が一種の特権だったと言ってもいいな。何せ聖書はラテン語で書かれており、当然ながらラテン語が読めないといけない。ドイツ語すら書けない一般ドイツ人に読める訳がないのである。

だからこそ、だ。聖書に何が書いてあったとしてもそれをどう解釈するかはローマ・カトリック教会の一存で決まったし、明らかな嘘で民衆を統治する事も可能だった。何となればだな、どうせ聖書なんか読めないんだから、「神の前では人は皆平等、ではありません」なんて言っても聖職者連中が口裏合わせときゃそうそうの事じゃバレない訳である。貴族連中にはバレそうだが。

この様に、民衆を無知な状態に置いてその死後の世界までをも強力に拘束する、というやり方は中世ドイツにおいて有効に機能した。本当に非常に有効に。当然と言えば当然だがな。そしてこれを打ち破る(と言うとアレだが)契機になったのが宗教改革でありその一環のルターによる聖書訳なのである。宗教改革についてはまぁ学校でも習っているだろうからざっと流すが…

元々、ルターは宗教改革なんぞやろうとも思っておらなんだ。誠実な人柄の彼は、修道院で酷く怯えていたという。と言うのも、キリスト教というのは落とし穴が多いと言うか、どんなに戒律をよく守って善行を行ったとしても生涯に一回ぐらいは戒律破りぐらいする訳であり、仮にしなかったとしても「私は一度も戒律破りをしなかった。どやっ」とか思った瞬間傲慢の大罪で地獄へボッシュートの可能性がある訳である。

そう考えると、どんな人でも天国に生けるとは限らんしましてや自分は、となったのだ。それが長い間色々考えた結果、信仰義認という見解に達した。それまでのカトリック教会は、まぁはしょって言えば善行による点数制であり、善行を重ねると何ポイントプラス、悪行をやっちゃうと何ポイントマイナス、それで死ぬまでに点数を決めて合格点なら天国。足りない奴は終油とかで下駄を履かせるという感じだったのである。

しかし、これはともすればどやっに繋がる。俺は○○という善行をした、これなら天国へ行ける!(キリッ→傲慢乙みたいな。そこで、善行を重ねる事によって神は人を義の人とするという旧来の考え方をやめ、信仰によって神は人を義の人とすると考えたのだ。神を信じて神に全てを委ねる事によって、神はその人を義とするのである。点数制は損得勘定が混じるから傲慢の罪とか入る余地がある。

そもそも善行をする事自体が天国に行きたいという欲望から発生してるという可能性はある訳だ。その点、信仰義認はただひたすら神を信仰する、神にすがるというものだからそういう罪が入り込まないという理屈だな。もし天国に行きたいから神を信仰するというのなら、神に全てを委ねてないから信仰にならない、という理屈でもある。

こんな事を考えてる奴であるから、当時物凄い勢いで売られていた贖宥状(いわゆる免罪符)は許せなかった訳である。さっき点数制のカトリック教会においては、点数の足りない奴は終油で下駄を履かせると言ったが、中世カトリックでは教会が神にとりなす事で人の罪を軽減できると考えられておった。終油もこの考え方を汲んでいる訳だが、告白という秘蹟も同じだ。これはまぁ知ってる人も多いだろうが、ほら、教会で神父様に「私は○○という悪い事をしました」と告白し、神父がそれを聞いて許す、という奴である。

ただこれ、告白すれば許される訳ではない。後悔した上で告白する必要があるのと、告白した神父に「じゃああなたは償いとしてこうこうこういう事をしなさい」と言われ、償いとしてそれをせねばならんのである。で、信者が償いをしてる間、神父は教会を通して神に信者の許しを請う、つまりとりなすのである。昔はこの償いが厳しかったのだが、その中には「今教会作ってるんで寄付を」なんてのもあった。罰金である。贖宥状というのは「あなたはこれを買う事で教会に寄付するという償いをしました」って書いた紙みたいなもので、駐禁の罰金をあなたは払いましたっていう領収書に近いものである。

まぁ、ルターなんかにしてみれば最早冒涜に近いレベルである。神を信仰し、神に全てを委ねる事によってのみ人は救われる、なんて考えてる奴だからな。なのでこれに反対したのだが、最初は「これはどうなんですかね」みたいな質問状を出しただけである。しかし満足できる答えが返ってこなかった上、修道院で戒律も犯さず禁欲生活してても天国行けないかもとか考えるぐらいの小心者、言い換えれば潔癖主義者だった為、突き詰めた議論をしていく内に教会とかいらないんじゃねぇ?という話になって結局宗教改革に行き着くのだ。

この宗教改革の中で、聖書の翻訳作業も行われる。元々聖書というのはヘブライ語で書かれており、当時流通していたラテン語訳というのはギリシャ語訳版からの重訳であり、誤訳が多いとされていた(実際に多かったらしい)。その為学問的にもヘブライ語版からの直訳版が求められており、又、ルターのいう信仰義認を達成するには民衆が手に取れる聖書、つまりドイツ語版が不可欠だった。

何故なら、今までは教会が信仰のやり方を教えてくれていたがルターは教会の権威で神に許されるなんて思ってないのであり、個人個人が神に全てを委ねる、言い換えれば神と直接向き合わなければならないとしている。そして個人が神と向き合うには、過去の聖人達が神の言葉(もしくはそれに近いもの)をまとめた聖書を読むしかない。ならば万人に読める聖書が必要である、という理屈だ。それこそイエスなんかは神の子であって彼の言葉は神の言葉に限りなく近い訳だからな。まぁ新約にしか出てこないけど。

そして彼はこうも言った。「聖書に書かれていない事は、私には認める事ができない」と。例えば教会に従えなんてどこにも書いてない。だからこそ彼は最終的に「教会イラネ」となったのだ。であれば、だ。民衆は王侯貴族に統治されなければならないなんてのも聖書に書いてない。重税にあえぎ、宗教改革以前から反乱を相次いで起こしていたドイツ農民に、彼の言葉は大変な勇気を与えた。更に言えば、この当時、領主にとっても教会は邪魔っけであった。

何故なら、既に全国的な統治機構は彼らのものが完成している為教会は必要なく、むしろ教会は領土は持ってく税金は持ってく政治に口は出すと非常に邪魔な存在だったのだ。故に、「聖書に教会は必要なんて書いてねーぞ」と言ったルターを、のちのプロテスタント諸侯と呼ばれる人々は受け入れ、教会領を没収したりしてウマーしたのである。まぁ、こういう連中は「カトリックもプロテスタントもどうでもいい、儲かるからプロテスタントだ」という奴も多かったんだが、領主様公認の宗教ともなればプロテスタントは大いに盛り上がる。

そこに来ての、一般民衆の為の聖書、ドイツ語版聖書の出版である。売れない方がおかしい。


長い間、ドイツ語に標準語ができなかったのにはいくつか理由がある。しかし書き言葉に関して言えば、一番の問題はドイツ人に共通の読み物がなかったというものが挙げられるだろう。ドイツ人なら(少なくとも文字を読めるドイツ人なら)誰でも知っている、絶対に読んでいる、という本がなかったのである。例えば我々現代日本人は、小学校で使う教科書を(種類がいくつかあるとは言え)必ず読む。その教科書に使われている日本語が統一されていれば、それが人々の使う標準日本語の土台となる。当時はそういうのがなかったのだ。

一応標準ドイツ語を作ろうという動きは早くからあり、特に吟遊詩人達は自分らの書いた詩が万人に読まれる様、誰でも読める様なドイツ語で詩を書いたという事もあった。中高ドイツ語って奴だな。しかしながら、そんな吟遊詩人の詩をあらゆるドイツ人が読むかと言えばんなこたーないのである。大体にして、吟遊詩人(トゥルバドゥールとかジョングルール)なんてのは暇をもてあます王侯貴族を楽しませるのが目的だ。

貴族なんてのは普通、何もしなくても一生遊べるだけの資産があって暇で暇でしょうがないのが一般的なのだ。動乱の時代とか、国の中枢にいる場合を除いてな。そんな奴ら向けの詩が、一般ドイツ人に読まれる訳がない訳である。ファンタジーRPGとかによく登場する吟遊詩人(バード)は、むしろケルトの吟遊詩人がモデルである。彼らはドルイドの一種で、神話、歴史、時には法律を暗記し歌にして人々に伝える役割を負った専門職であった。

話が逸れたな。そんな訳で、ドイツ人なら誰でも知ってる、読んでるという書物は長らく存在しなかった。しかしながら、聖書なら誰でも読むし、それがドイツ語で書かれているとなれば、読み書きのできるドイツ人なら誰でも読める。しかも宗教改革の社会情勢なら、読む率は飛躍的に上がる。こうして、ルターによるドイツ語版聖書はドイツ人なら誰でも知ってるand読んでる初の書物になったのである。

こうなれば、当然、ルターの書いたドイツ語が標準ドイツ語の祖形として定着する事になる。ドイツ語を読み書きできるなら誰でも読んでる訳だから、自分の出身地の方言で文章書いて見せても理解してもらえなかった場合ルター風ドイツ語っぽく書けば確実に理解してもらえるのである。これは非常に大きい。

それに、当時は識字率が低かった。これは逆を言えばある程度教養のある連中に定着しさえすればそれが標準ドイツ語となるという事である。あくまでルター版聖書は書き言葉だからな。知的好奇心と仕事、そして当時の社会情勢と習慣の関係から、読み書きできる連中がルター版聖書を読む確率は高い。そして読まなかったとしても、ルター風ドイツ語なら相手に通じると判れば、読み書きする連中は読まざるを得ない。特に読み書きで収入を得てる奴はな。


斯様な歴史的背景を経て、はじめてルター版ドイツ語聖書は標準ドイツ語の祖形となったのである。まぁ実際に標準ドイツ語と呼べるものが形成されるのは、三十年戦争を経てドイツ民族という意識が高まる必要があったんだけどな。グリム童話の作者として有名なグリム兄弟はこの流れを受け、かの有名なドイツ語辞書を作った。又、ウムラウトとかは長兄ヤーコプ・ルートヴィヒ・カールの造語である。彼らの書いた童話が各家庭に普及するなど、ルター版聖書以外にもそれに似た役割を果たした本はある。

しかしながら、ルター版聖書は何せ初めての存在であり、それ故に祖形と呼ぶに相応しいのである。こういった流れを理解した上で考えないと、何故聖書という神学的な物体が現代まで続く標準ドイツ語の祖となったのかは理解できないのである。まぁ、件の福嶋とかいう人の発言はおそらくツイッター上のものであり、所詮はつぶやきに過ぎないのであって目くじら立てるものでもないとは思うが、ネタになりそうだったので一つの記事に仕立てさせてもらった次第である。

何故ルター訳ドイツ語版聖書は標準ドイツ語の祖となったか 前編

2011年04月29日 16時48分04秒 | 社会、歴史
※この話に出てくる福嶋亮太というのは、実際には福嶋亮大であるらしい。紛らわしい名前をと言いたいのは山々だが他人の名前にケチをつける訳にもいかんのでここに訂正し謝罪するものである。


ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。連日の徹夜作業(社長のPC弄るのは社長が絶対に仕事しない夜と決めており、長引いて徹夜になる事多々)、PS3死亡や私のメインPC死亡による心労がたたって頭痛が痛い霧島である。…頭痛が痛い? どこもおかしいところはないな。まぁ冗談言ってるが、本当に痛いのである。あまりに痛くて寝られないぐらいだ。頭痛にナロンエースのみまくってなんとか生き残っておる。

それもあってか、ここんところ更新が滞りがちだな。まぁ、先日からよっぽど書きだめしてた筈なのに更新に穴が開いてるのはだいたいメインPC故障のせいな訳だが。後まんぶるにいても反応しないのは、むしろ寝てるか頭痛くて布団の中。まぁ、結局OSごと一からインストールし直したんだが、今度はドライバが上手く入らずこの作業だけでも一日かかった。もう自作とかしたくないでござる。絶対にしたくないでござる。次は絶対BTO買うと心に決めておる。

つうか、社長PC含むPC関係のトラブルさえなければ、今頃は書きだめも十分あって優雅に更新しながらROのクルセイダー光らせたり、AOCに復帰したりできている筈だったのだ。どうしてこうなったと言いたいが、それは自明と言わざるを得ないので言わない事にする。

ちなみに、脱ニートに向けて家庭教師をする事になった。強化は算数である。不安でしょうがないが、わざわざ家庭教師呼んでまで国語とか歴史教えてほしいって家もないのであり、仕方ないと言えば仕方ない。とは言え、なぁ。この間一次方程式が解けなくて真剣に悩んでた重症患者としては不安が一杯である。

まぁ、なるようになるだろう。


さて、今日は録画環境も揃った事だしジルオールのレビューでもしようと思ったのだが、mixiでごてぃ氏と福嶋亮太とかいう人の発言について話が極僅かに盛り上がったので、その話をちょっと膨らませてみたい。ちなみに福嶋亮太というのはこの話題で初めて知った人物だが、はてなダイアリーによれば基本的には支那文学者らしい。ただ、同郷の京都出身であり批評家でもあるというただそれだけの理由で私の中では評価が駄々下がりである。まぁ、とは言ってもこの人の事なんざこれっぽっちも知らないので下がろうが何だろうがどうでもいい話なのだが。

さて、その盛り上がった話というのが以下である。mixiにはつぶやきというついったーみたいな機能があるのだが、ごてぃ氏がそれで福嶋の話を転載しておったのだな。


一部転載:福嶋亮大 日本語のスタイル(和漢混淆文)のモデルは、平家物語や太平記によって提供されてる。で、ふと考えたら、中国語のスタイル(白話文)のモデルも『水滸伝』みたいな、まぁ一種の「戦記物」によって構築されてるんですね。東アジアの国語は、どうも戦記物を媒介にして広がってる。戦争(闘争)で言葉をリニューアルする。なんでかなーと思ってたわけだけど、やっぱり宗教がないからってことは大きいんでしょうね。ドイツ語はルターの聖書訳。イタリア語はダンテの神曲。って具合に神学的な世界がベースになってる。それがない東アジアは戦争が超越的だったってことかも。





まぁ多分冗談じゃないのであろうし、だからこそ問題な訳だが、これについてごてぃ氏は中国の場合、天って概念は宗教と同じようなもんですから、天命がどうのとか言ってる三国志も水滸伝も宗教文芸としての一面があるんですよね。(中略)そうするとそもそも宗教って何なのさ?どこまで宗教の範疇として扱えば良いの?という考えに普通行きつくもんですが、そういう発想が出ない辺りが(中略)底が浅いと言われる所以ですと述べておる。

これについては私も同意である。それに痛恨事として、神曲を神学的作品とするなら(まぁ実際神学的作品だけども)封神演義は道教的な意味で神学的作品だからな。封神演義のせいで、これにしか出てこない架空の神様の廟ができて信仰されてるなんて事すらある訳だし。そして、そもそも前提として間違っておる事として、神曲やルターの聖書は超越的存在を扱ってるから広まった訳ではない。いやまぁ超越的存在を扱ってるから広まったという面も多分にあるんだが、それだけが理由ではない。

神曲についてはあまり私は詳しくないので、最早日本史放り出して専門になりつつあるドイツ史によく関連しているルターの聖書訳とドイツ語の関係について述べよう。


元々ドイツ語というのは、統一された言語ではなかった。そもそもがまず高地ドイツ語と低地ドイツ語に大別される上、特に古い時代は同じ高地ドイツ語であっても方言によって非常に大きい違いがあり、高地ドイツ語という区分けすら大量に存在するドイツ語諸派の総称に過ぎないと言われている。今回はルターの聖書訳についてだから書き言葉についてな訳だが、ドイツ語の書き言葉は長らく統一はされなかった。

と言うのも、まず第一に昔の書き言葉の標準語はラテン語だったというのがある。これは現在の英語にあたる言葉がラテン語だったというのもあるが、それ以上に大事なのは中世までは学問を教会が占拠しており、教会の公用語はラテン語だったという事実だ。と言うか、カトリック教会の公用語は今でもラテン語であり、例えばバチカン市国の公用語はラテン語である。まぁ日常生活にはイタリア語を使っている様だが、それでも公式な場ではラテン語だしカトリック教会の正式公用語はラテン語なので、バチカン市国民になるならラテン語は必須と言える。

まぁバチカンは置いておくとして、教会の公用語はラテン語だ。そして学問を支配しているのは教会だったので、ラテン語が非常に強かった訳である。しかしながら、一般的な読者はこう思うであろう。「学者様はそれでいいかもしれないが、一般人はドイツ語を書いたり読んだりする必要があるだろう」と。

しかし実はそうでなかった。と言うか中世の人間ってのは大半が文盲だったのである。例えば、読みは同じなのに綴りは違う、という名前が結構あるが、これは自分の名前すらまともに書けない奴が間違って記帳したのが延々と続いてきたせいである、ともいわれている。それぐらい中世の識字率というものは低く…と言うか、正直に言えば近代に至ってもそんなに高くなかった。

何せ、代書人がいたぐらいである。これは本来なら司法書士なんだが、別に公文書の代筆に限らず何でも(それこそ恋文に至るまで何でも)代筆していた職業で、非常に儲かる職業であった。司法書士としてでなく、ラブレターでも何でも代筆しますよ、という意味での代書人は20世紀になってもまだいたとされており、又、これをやっている人間は高収入であったというから当時の識字率が判る。字の読み書きができる、ただそれだけで生きていけるという恐ろしい時代である。

そしてこの識字率の低さは、中世の場合、意図的に維持されていたと言ってよい。これには当然、当時学問を支配していた教会が大きく関与している。…しているのだが、この問題は学問の支配とかそんな小さい話ではなく、もっと一般平民と密接に関わった…まぁ、要は中世支配の構造と深く関わっている。

そもそもキリスト教というものが中世において圧倒的な力を持つ様になった原因はカール大帝、即ちカール・マルテル、いわゆるシャルルマーニュの治世(まぁこれ以外にも色々あるが)に求められる。この当時というのは、西ローマ帝国の崩壊で西欧自体がえらい騒ぎになってた時期である。一番問題だったのは、西欧全域に張り巡らされたローマの行政機構が悉く破壊されていた事であった。

というのも、だ。諸君は日本という国に所属している訳だが、その支配は日本国政府によって行われている。だが、民衆の支配ってのは中央政府だけでできるもんじゃない。日本という国を県(もしくは都道府)に分割し、その県が又市、町、村に細分化され、それぞれ村役場やら市庁が、○○という名前の人間が××という所に住んでいて生年月日は△△で■■の税金を納めてて、という感じで管理しておる。最後のは国税庁が絡むとかそういうのは置いておく。

国税庁はともかくとして、この様に日本という国を細分化して、一人一人の国民を管理している訳だ。逆に言えば、今仮に大漢中人民共和国が日本に攻め寄せて勝利し、日本を支配しようとした場合はこれら市町村の管理機構を掌握すれば良い。それで、日本人一人一人を管理できる訳である。ところが、西ローマ帝国が崩壊した後の西欧ではこういう管理機構が見事に消滅しており、カール大帝が新たにローマ帝国の中央政府を作ったところで帝国臣民一人一人を管理できないという状況だったのだ。

そこで出番となったのがローマ・カトリック教会である。カール大帝がキリスト教と組んだのは、教皇、そして彼に付き従うカトリック教会によって自らの権力に権威を付加するのが目的だったと語られる事が多いが、それ以外にも理由があった。西ローマ帝国の行政機構が崩壊して久しい当時、欧州を全国的に組織していたものと言えばカトリック教会以外になかったのである。故に、カール大帝はこの力を利用した。

例えば、大帝の出した詔勅は(それが平民にまで及ぶものだった場合)教会を介して全国の住民に伝えられた。既にカトリック教会は西欧全域をその支配下に収めており、西欧の住民と言えばそれはカトリック教徒に他ならなかった。数式で表せば西欧の住民→カトリック教徒だった訳である。特にカール大帝が十分の一税(聖書のすべての農作物の十分の一は神のものであるという記述に基づき、収入とかの10%を教会に納税するもの)を制度化して全帝国民に義務付けてからは徴税権を行使する為の住民台帳確保は必須となった。実利的にもな。

まぁそれ以前からも住民票みたいなものはあったみたいだが、ともかく。中世の西欧では、カール大帝が住民支配と言うか臣民一人一人の掌握に教会を使った為教会が確固たる支配基盤の一つに食い込んだのである。よく○○司教領なんてのを持ってる連中の事を聖界諸侯なんていうが、領地を持った、まるで普通の領主の様な連中が西欧カトリックに登場するのはこれも一つの理由である。普通の市町村の庁みたいな機能を持っておるから、政治に口出しする事もまた充分に可能なのだ。

神聖ローマ帝国では皇帝は選挙で選ばれたが、その選挙権を持っているのは七人。ブランデンブルク辺境伯、ザクセン公爵、ライン宮中伯、ベーメン王、そしてケルン大司教、マインツ大司教、トリーア大司教。そう、七人中三人までもが聖職者なのだ。まぁこの選帝侯ってのは増えたり減ったりするのだが、特にマインツ大司教はその筆頭であった。

又、ドイツ語で首相はカンツラーというが、中世の場合この単語は書記官長という意味であり帝国の宮廷文書を管理していた聖職者、と言うか司教を指した。マインツ大司教はそれでドイツ大書記官長(Erzkanzler durch Germanien)と呼ばれていたのだが、選帝侯筆頭になるに及んでこの言葉は神聖ローマ帝国宰相の意になり、時代が下って首相になる訳である。首相の語源が、教会の人間を指す言葉なのだ。ちなみに現在の首相は正確にはbundeskanzlerで連邦首相の意で、それ以前はReichiskanzlerで帝国(or国家)首相と呼ばれておった。

話は少しずれたが、カトリック教会というのは司教を指す言葉が今では首相という意味になってしまったぐらい、深く民衆支配に関係しておったのである。少なくともドイツではな。日本と違い、ドイツでは領主が教会を介して民衆を支配するのが普通であった。そして中世ともなれば村には必ず一個は教会が存在するという状態になり、民衆支配の原動力はまさしくローマ・カトリック教会にあるという状態になった。



はいはい一万字一万字
もう書き終わっておるので、明日には確実に後編をうpすると確約しよう。

マスケット運用の歴史シリーズ6-1 戦術の完成:オーダーミックスの歩兵

2011年03月09日 23時49分39秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。先日、当初はそこそこは楽しみにしてた還暦祝い家族旅行に行ってきた霧島である。理由は温泉でゆっくりって趣旨の旅行だったからってのもあるが、それ以上に姉一家がついてこないからというのが大きかった。姉はまぁいいんだが、甥姪が邪魔もいいとこなのでな。ところが、何処から情報が漏れたのか姪がついてくる事になって私の行く気はゼロになり、そしてその姪がインフルエンザを旅行先で発症して旅行を台無しにし、ついでにそのインフルエンザをうつされた訳である。

腹を切って死ね。

ちなみに、行ってきたのは愛知なのだが、鳳来寺にも行ってきた。んでこれが又物凄い荒れ具合なのである。元はと言えば西暦702年に開山され、文武天皇快癒祈祷の功で伽藍を与えられた由緒ある寺だ。徳川家康の母がかつて参籠したという事で江戸時代には1350石もの領地を持つ寺院となり、東照宮もあったのである。それが今や、酷い荒れようだ。

(クリックで拡大)

一応念のために言っておくが廃寺ではない。今も営業(?)中のれっきとした寺院である。それがKONOZAMAだ。一部の屋根は落ちてしまっておるし、この写真では判らないが屋根から松の木が生えてる始末。右端の戸も崩壊してしまっておるな。これはもうはっきり言って手遅れに近く、直す場合は解体修理になる。まぁ修理と言っても三分の二は新品の部材になるだろうがな。こんなもんまともに直せってのが無理である。

それにしても愛知県は一体何をやっておるのかと思って見ておった。この鳳来寺など愛知の宝と言っていい寺だ。この建物以外にいくつかお堂とかあったが、本堂以外でまともに建ってる建物など2つか3つぐらいだ。それもどう見ても中に鉄筋入ってるだろコレっての含めての話である。酷いものになるとプレハブなのに老朽化してるという意味不明な建物まであった。プレハブって、手軽に建てられる代わりにすぐダメになる臨時の建物の筈なんだけどな。

この寺に金が無いのはしょうがない。イニD的レースができそうな峠越えないと行けない場所にあるし、どこぞの宗派みたいに上納金がある訳でもなし、檀家もある訳じゃない。儲かる要素皆無だ。だからこそ国とかが支援して、こういう文化財を守っていかねばならんのである。現在重要文化財に指定されてる(指定されてると修理とかの工事に補助金が出る)のは仁王門という門だけで、自力の資金捻出も難しい以上、県とか市とかが金を出すべきなのだ。それか豊田王国が。


さて、今回(と言っても前後編で後編は明日以降だが)でいよいよマスケット運用の歴史シリーズも完結である。このシリーズの元になった西欧における射撃兵器の歴史及び火縄銃は何故主力兵器となったかを投稿したのが去年の12月27日だから、約二ヵ月半かかってようやく完結するのだ。長かったな…

んでは本題。

オーストリア、プロイセン、フランス、イギリス、ロシアといった欧州列強のほぼ全てを巻き込んだ七年戦争は、銀英伝のヤンの信念を覆す結果に終わった。要するに、戦略的に死ぬほど不利だったプロイセンが戦術的勝利を積み重ね、ついには勝利を手にしたのである。勿論運の要素も大きかったし、フリードリヒ大王自身が指揮した大会戦でも、必ずしも常勝不敗だった訳ではない。彼は何度も敗戦を経験しているし、プロイセンは極限まで追い詰められた。酷い時は、絶望した大王が「私は生きてプロイセンの滅びる姿を見る気は無い。永遠にさようなら」なんて手紙出したぐらいだ。しかしそれでも粘り強く戦い抜き、ついに勝利を勝ち取ったのだ。

何にせよ、七年戦争でフリードリヒ大王率いるプロイセン王国軍が、その精強さを各国軍に見せつけ続けたのは確かである。それに、彼が大敗した戦いは大抵兵力で負けている。例えばホッホキルヒの戦いでは三万対八万、クネルスドルフの戦いでは四万九千に対し七万だ。まぁ両陣営の人口比400万対8000万の戦争だから兵力負けてない戦いのが少ないんだがな。実際ロイテンだって三万五千と七万、その前のロスバッハだって二万二千と五万五千な訳だし。

まぁ、大王は延々と酷い戦争を戦ってたという事である。にもかかわらず、彼は勝って勝って勝ち続け(何度も負けてるけど)プロイセン=ブランデンブルクを勝利に導いた。特に、当時の陸軍大国フランスはプロイセン軍にほぼ完敗していた。プロイセン軍相手に善戦、あるいは会戦で打ち負かしたのは大抵オーストリアとロシアである。先のスペイン継承戦争でも軍事的な失敗を経験していた大陸軍国(笑)フランスは、軌道修正を迫られた。

当然ながら、彼らが考えたのはどうやったらフリードリヒ大王の軍隊に勝てるかである。まぁこれは七年戦争後のプロイセン以外のあらゆる軍事学者or軍人が考えた事だったが、フランスは軍事大国の威信に賭け、特に真剣に考えた。そして、その解決策…つまりプロイセンに勝つ方法を考えるにあたって一番最初にしなければならない事はフランス人にはプロイセン人の真似は無理という斜め上の諦めであった。

プロイセンが同調行進をはじめとした革新的な戦術を採用して勝利を重ねた以上、それを模倣するのが普通であり順当である。しかし、プロイセン軍のは非人間的なまでに冷徹且つ厳格に積み重ねられた訓練、そして規律によるものである。斜行陣ひとつとってもそうだ。あんなもん同調行進ができれば即できるなんて代物じゃない。同調行進を取り入れるだけでも相当な訓練が必要なのに、その上から更に物凄い勢いで訓練を積み重ね、人形の様に整然と動ける様にならないといけないのである。勿論、整然と動くのは基本的に兵隊(傭兵)だが、それを指揮する士官は脳味噌を更に整然と動かさねばならん。

彼らフランス人は、こういうのはフランス人の気質的に真似できないし真似するべきでもないとした。やがてナポレオン戦術として結実するフランスの軍事的探求は、まず、プロイセン式横隊戦術の否定から始まったのだ。では、彼らはどうしたか。それは第一にオーダーミックスであり第二に師団制軍隊であった。この内第一は、割とよく聞く言葉である。これは要するに諸兵科連合の事だ。


七年戦争までの軍隊というのは、究極、重歩兵と重騎兵だけの軍隊であった。いやまぁ砲兵もいるんだがそれは置いておいてだな。確かに、七年戦争でも軽騎兵や軽歩兵はいるにはいた。ハプスブルク君主国(オーストリアな)の軽歩兵は七年戦争で勇名を馳せたし、プロイセンにも猟兵がいた。プロイセン軽騎兵隊は、青年貴族に大変人気のある部隊であった。

しかし、七年戦争の軽歩兵は正式な部隊ではなかった…と言うと語弊があるな。要するに、当時の軽歩兵隊は特殊部隊だったのである。だから、正規の歩兵連隊(つまり普通の部隊)とかにはいない場合が殆どだったのだ。軽騎兵も、特にプロイセンがそうだったんだが、やってる事は重騎兵と変わらない場合が大変多かったのである。

七年戦争以降、プロイセンでは特に軽騎兵が流行った。そしてプロイセンでは「軽騎兵の流儀で行く」という言葉が「のるかそるか、いちかばちかに賭ける」という意味で使われる様になった。これ自体、重騎兵の仕事を軽騎兵がやってる事の証拠である。何故なら軽騎兵ってのは斥候であり、追撃、偵察、奇襲、迂回といったのが任務だからだ。それが、のるかそるか勝負するのこそ軽騎兵だって言ってるって事は、当時の軽騎兵は軽装な重騎兵に過ぎなかったという事の証左である。

ジャック・アントワーヌ・ギベールが理論を体系化し、ナポレオン・ボナパルトが実際に作り上げたオーダーミックスの軍隊は、この点で旧来と一線を画する。この軍隊は、重歩兵、軽歩兵、重騎兵、軽騎兵の全てを揃えた軍隊なのだ。勿論砲兵も揃えてるぞ。当時のフランスの砲兵隊は革命軍は地上最強ォー!!状態である。

この軽歩兵と軽騎兵を揃えられた理由についてよく言われるのが、フランス革命軍は国民軍だったからというものである。これについてはマスケット運用の歴史シリーズ5-1 ナポレオンへの道:アメリカ独立戦争と軽歩兵である程度説明したが…まぁ要するにだな。この記事で説明したとおり、猟兵とか軽歩兵とか散兵と呼ばれる兵隊は、少人数(場合によっては一人一人)に分散し、物陰に隠れたりして戦闘を行う兵種だ。そして、七年戦争までの軍隊の兵隊ってのは傭兵である。

そう、シリーズ5-1で言ったとおり、傭兵主体の軍隊で軽歩兵戦術を本格的にやるとこぞって脱走するのである。横隊戦術の利点の一つが脱走者が判りやすいってぐらいに、傭兵ってのは逃げる。最早逃げるのは傭兵の習性というレベルである。又、同記事で述べた通り、あの鉄の規律を持ったプロイセン軍ですら脱走は日常茶飯事だったのだ。脱走は即死刑、なんてだけでは勿論足りず、例えば森の近くで野営するのは絶対に避けねばならないとされていた。

夜陰and森の茂みに紛れて逃げるから。

そんな状態の軍隊で、軽歩兵なんて大々的に取り入れるのは不可能だったのだ。故に、ナポレオンが軍事革命を起こすまで、軽歩兵は特殊部隊以上ではなかったのである。勿論一部の例外はあるがな、ハプスブルクのクロアチア軽歩兵とか。又、軽騎兵はある意味歩兵より深刻で、偵察や追撃はまだしも、迂回、奇襲などは単独で敵中に突出する場合が多い。つまり集団逃亡の大チャンスが主任務の内なのだ。これでは軽騎兵も重騎兵として運用するしかなかった訳だ。

しかしながら、フランス革命を経てナポレオンの手で編成されたフランス大陸軍は違う。アメリカ独立戦争と同じだ。フランスにとってのナポレオン戦争は、特に初期は民主主義派を殺しにかかってくる絶対王制派との生き残り競争なのだ。プロイセン、イギリス、オーストリア、ロシアと、あらゆる欧州の列強国がフランスを潰すべく襲い掛かってきた。その目的は七年戦争までの戦争でよくあった「領土の奪取」ではない。革命フランスの死滅である。

そして革命フランス軍の主力となる兵隊は、フランスのごく平凡な市民や農民達だ。脱走なんかする筈もなく、祖国防衛の意思に燃え、むしろ勇敢に戦う訳だな。負けてしまえば、折角革命に成功して手に入れた民主主義や平民の権利が全部吹っ飛ぶのだから。さて、このシリーズはあくまで「マスケット運用の歴史」シリーズであるから、ここで歩兵隊の基本隊形を見てみよう。



これは、歩兵三個大隊(八個中隊で一個大隊を形成。一個中隊は120人、つまり一個大隊960人)の隊形である。フランス大陸軍では、三個大隊を基本の戦闘単位としていた。これを見て判るのは、重歩兵と軽歩兵の協同というオーダーミックス(諸兵科連合)。そしてもう一つ、横隊と縦隊の協同という意味でのオーダーミックスである。

テルシオの誕生以降、欧州の軍隊は全て横隊だったと言ってよい。それは、以前説明した通り横隊の方が火力が高いからである。隊列の組み方にもよるが、一般に横隊は縦隊の二倍以上の火力がある。理由は単純だ。三列目ぐらいまでなら、前の味方を避けて敵を狙えるが、四列目五列目六列目となれば、無理に射撃しようとするとどうしたって味方の背中を撃ってしまう。となると、四、五列目以降は戦闘に参加せず遊んでいるしかなくなる。だったら、いっその事縦三列で横隊を組んで全員が鉄砲を撃てる様にしよう…こういう訳だ。

しかしながら、横隊には弱点がいくつかある。まず第一に、機動性が低い事。これはプロイセン軍の同調行進などで大分改善されたが、それでも限界があった。前後左右に90度ずつ動くのはともかく、右や左に旋回するのは大変な困難を伴う。それこそ斜行陣の複雑な機動が必要だ。そしてこれが為に両翼が極端に弱い。横隊というのは正面の敵に向かって縦三列の兵隊が全員で射撃する隊形だ。しかしながら、例えば自軍横隊の90度左に敵が横隊を敷いた場合、こちらはただの横三列の縦隊になってしまうのであり、火力負けして乙る。左に旋回しようにも、横隊は動きが鈍重だからその間に蜂の巣にされて乙る訳だ。

また第三に衝撃力が少ない。確かに横隊に火力はあるし、その火力を発揮しながらジリジリ敵陣を圧迫していく事もできる。しかしながら、特に七年戦争前後の横隊というのは縦が三列しかない。機を見て銃剣突撃しても大した戦果が挙げられないのである。だって、先頭の一人を処理して、二人目も倒して、三人目を何とかいなせばそれで突撃は防ぎきれるのだ。これが縦隊なら、四人目、五人目、六人目といつになったら終わるのこれという状態になって、相手の陣に強烈な衝撃を与える事ができる。まぁ要するに歩兵にとっての重騎兵の要素だな。

縦隊の最大の長所は、その機動性と今言った高い衝撃力である。機動性については、以前言った通り、軍隊が横隊一本槍だった時代でさえ行軍は縦隊だったのである。その縦隊を戦場で大々的に導入したのがオーダーミックスだ。散兵によって敵を霍乱、横隊によって最大の火力を発揮。そして横隊の両翼が包囲されそうになったり、横隊が突き崩されそうになったらその機動性を生かして救援に赴く。逆に横隊の火力等で敵陣が崩れたら、縦隊が突っ込んでその衝撃力で敵陣を破砕する…

この縦隊の役割は、従来も予備隊とか騎兵隊が果たしていた。やられそうな味方の救援は予備隊の仕事だったし、崩れかかった敵陣に突っ込んで陣形を破砕するのは重騎兵の仕事だった。しかしながらそれらは全て戦場全体レベルでの話であって細かいレベルでの戦闘、大隊とか中隊とか小さい部隊には手が回らなかった。しかしながら、戦場全体レベルで陣形が崩れ始めたりするのは、こういった大隊や中隊といった小さい部隊がいくつもいくつも崩れていった結果なのである。

いわば、オーダーミックスにおける歩兵隊のこの基本陣形は歩兵隊の戦闘能力を大幅に底上げするものであったと言えよう。



時間が時間だし、何より長くなりすぎて入りきらないので次回に続く。

マスケット運用の歴史シリーズ5-2 ナポレオンへの道:タギネーの戦い(タギナエの戦い)と軽騎兵

2011年02月27日 18時52分18秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。なんだか寝起きが最悪な霧島である。一応八時間睡眠ぐらいでおきるのだが、頭が痛かったり気分が変だったりで、とてもではないがそのまま起きる気にはならないのだ。しかしながら、これのお陰でここんとこ十二時間睡眠余裕でしたとかそういう事態が多数発生しており、昼間の行動時間が著しく制約されておる。どうしたものかな…


さて、前回の記事で「この兵種は猟兵という単語のみでくくるべきものではなく、散兵、軽歩兵といった言葉も含めて語られねばならない」と書いたな。実際にその通りで、猟兵というのは欧州発の単語でありアメリカの兵隊に使われる事は無いといっていい。アメリカ独立戦争で活躍した彼らは、一般には散兵と呼ばれる存在だ。強いて言っても軽歩兵。ただ猟師が兵隊になったと言うと非常にイメージしやすい為、敢えて猟兵と呼んでいたのである。

で、だ。これまでのマスケット運用の歴史シリーズで、私は意識して重騎兵とか軽歩兵といった台詞を使ってこなかった。読み返してもらえば判ると思うが、重装騎兵とか書いてある筈だ。重騎兵も重装騎兵も似た様なもんじゃないかと言われるかもしれん。まぁ実際似た様なもんだ。ただ私は、重装○○とか軽装○○というのは装備によって兵隊を類別する言葉だと考えており、同時に、重○○とか軽○○は役割によって兵隊を分類する言葉だと考えているのである。

例えば、重騎兵というのは一般に重装備(つまり重い鎧とかを着けてる)で、敵戦列の綻びに突撃し、突破、蹂躙して勝敗を決める決戦兵種の事である。この場合、分類の上で重要なのは敵戦列に突撃するという役割であり、装備の別ではない。役割上どうしても敵の槍や剣による反撃に晒されやすいから重装備になりやすいだけで、突撃を旨とするなら軽装騎兵でも重騎兵になりうると私は考えておる。

実際、重装備か軽装備かってのも結構相対的なところがあるからな。ビザンツのクリバナリウス(騎手は全身装甲、軍馬も全身装甲)に比べれば大抵の重装騎兵は軽装騎兵だし、ポーランド重装騎兵に比べれば西欧各国の騎兵は軽装騎兵なんて時代もあった。又、七年戦争とかの時代になると重騎兵も鎧をつけなくなるので、果たしてどの辺で重装と軽装を分けるべきなのかというのも難しくなってくるのだ。

この辺の問題もあって、私は今まで徹頭徹尾、重○○とか軽○○という言葉を使ってこなかった。だが一番の理由は、その概念を説明しない限り使うべきでないと考えていたからだし、一番最初にこれを説明すると聞いた方は何が何やら判らず混乱すると思うからだ。だが今こそ、説明する時だ。そういう訳で説明するが、まぁ、なんだ、さっき半分ぐらい説明しちゃったな。

重騎兵は、さっき言った通り一般に重装備で、敵戦列の綻びに突撃し、突破、蹂躙して勝敗を決める決戦兵種の事である。一方重歩兵とは一般に軍隊の主力であり、やはり重装備が主で、密集隊形をとり攻撃力防御力の双方に長けている。ローマのレギオン、ギリシャのファランクス、スイス傭兵の密集槍方陣といったものが代表的だな。一般に重装備な為投射兵器では容易に傷つかないし(だから密集もできる)、密集した重歩兵の圧力は並みの事では跳ね返せない。

ちなみに投射兵器に強いから密集したのか、それとも密集してると投射兵器に弱いから重装備になったのかというのは卵が先か鶏が先かみたいな問題で、私にもわからん。両方の要素がそれぞれちょっとずつ成長し、互いに影響しながら自然と重歩兵の基本スタイルに帰結したのだろう、としか言えん。

この両者には、共通点が色々ある。例えば密集隊形という点。重歩兵が密集するのは勿論だが、実は重騎兵も密集する。各員バラバラに散発的な突撃をするよりも、密集して一点突破を図った方がする衝撃力は遥かに大きい。実際、以前話したフランス近衛騎兵は速歩で突撃する様訓練されていたのである。人間で言えば早歩き、ジョギングぐらいの速度だ。その方が密集隊形で突撃しやすい訳だな。勿論、襲歩(全速力)で突撃する騎兵もいくらでもいたぞ。ポーランド騎兵とかな。

又、主力というのも鍵である。以前の話でもしたが、結局戦争(と言うか会戦)というのは重歩兵の密集陣形をどうやって崩すかという話である。重騎兵が決戦兵種なのも重歩兵という主力部隊を突き崩せるからという理由によるものだ。そういう意味で、重歩兵の密集陣形は揺るがない。又同時に、その重騎兵も、勝負を決めてしまう兵種という意味では主力と呼んでも過言ではない存在であるといえよう。

一方、軽歩兵、軽騎兵はその逆である。軽歩兵は前回説明した猟兵(散兵)みたいな部隊だと思えば良い。軽騎兵は戦争では投射兵器(弓、投槍、拳銃)が主力だ。一応接近戦用の剣とかも装備はしている場合が多いがな。また、 装備の面で言うと、重騎兵は重装備の為に騎兵の最大の特徴である足の速さを殺してしまう場合が多いが軽騎兵にはそれが無い。即ち機動性を身上とする為装備は最低限のもののみであり、機動性を殺しかねない密集隊形も、必要にならなければ取らない。

彼らは偵察や追撃といった機動性を生かした作戦を主任務とする。戦術、戦略機動によって敵の後方に回り込み補給線を破壊する事もあるし、ロイテンの戦いの様な大会戦となれば、迂回機動による包囲だけでなく密集隊形を取って敵を強襲する場合もある。重騎兵との大きな違いはやはり必ずしも密集しない事、投射兵器も使う事、そして機動性に長けている事であろう。


これらの特徴が特長として端的に表れたのが、タギネーの戦い(タギナエの戦い)である。この会戦は、東ローマ帝国と東ゴート王国の間で行われた。AOCではゴートは歩兵文明だが、特に東ゴート王国は騎兵の国である。欧州で騎兵と言えば後年のフランスが有名だが、今でいうハンガリーやポーランドといった東欧の騎兵は当時から強力な騎兵を持つ民族として名を轟かせていた。しかしながら東ゴートの騎兵はそれすら圧倒的に上回る強力な部隊だったのである。

東ゴートの騎兵は全員が重装槍騎兵であり、典型的な重騎兵であった。東ローマ帝国軍の司令官ナルセスは、件の東欧出身の騎兵を多数雇っていた。が、東ゴートの重騎兵に重騎兵で対抗するのは不可能と判断していた。正規騎兵と傭兵騎兵、あわせても3000~4000程度であり、一方の東ゴート王国は午後に到着した援軍もあわせると6000の重騎兵を配していたのである。数の上でも劣勢であった。但し、全軍の数においては三万と一万五千と、逆に圧倒していた。



東ゴート王国軍の配置は単純である。第一陣、前衛として重騎兵のみの部隊を配置。そして後衛に歩兵のみの部隊を配置。ただそれだけだ。一方、高地に陣取った東ローマ帝国軍について注意すべきは全軍に弓を配置したというところである。AOCには弓兵兼歩兵なんていないので表現に困ったんだが、東ローマ正規歩兵も、ロンバルト人傭兵も、ハリ族傭兵も、皆弓を持っていた。又、中央の傭兵部隊前衛の槍を持った部隊は多くが下馬騎兵であり、東ローマの老将ナルセスの苦労が知れる。

東ゴート王国軍の戦術は、その配置と同様単純であった。彼らは重騎兵による突撃の力を信奉しており、前衛の重騎兵のみが綻んでもいない完璧に整った敵戦列に突撃した。普通なら、槍に刺さったり弓で撃たれたりしてすぐに蹴散らされるところである。しかしながらここが東ゴートの恐ろしいところでむしろ数度にわたる攻撃で東ローマの陣は何度も脅かされたのである。しかしそれでも、やはり東ゴート軍の損害は増える一方だった。午前いっぱい突撃を繰り返した東ゴート軍は一旦引き上げ、援軍を待つ。

そして午後に入って援軍の重騎兵2000を加えた東ゴート軍はまたしても重騎兵単独での突撃を敢行する。その重騎兵に向かって、ロンバルト人及びハリ族傭兵の後衛、東ローマ帝国正規兵からの射撃が殺到する。何せ、東ローマ帝国軍は基本的に全ての兵隊が弓を持っている。配置図を見ながら、これの中央に東ゴート騎兵が突撃し、それに十字砲火(というか矢)を浴びせる姿を想像してみれば、どんな状態だったか大体判るだろう。

しかしながら、ゴート騎兵の突撃は止まらない。以前話したクレーシーのイングランドに比べれば、東ローマ帝国軍の対騎兵準備は疎かだった。落とし穴や柵といった障害物が無い訳だからな。このままでは危険と察知したか、東ローマ帝国軍司令のナルセスは、右翼の東欧人騎兵隊を投入する。この絵では東欧人騎兵隊が弓騎兵になっているが、実際には剣も装備していた。彼らは逆襲とばかりに、全力で東ローマ帝国軍中央に突撃をかけているゴート騎兵の横腹へ突撃を開始した。

しかし、ゴートの重騎兵はそれでも崩れない。不死身の軍隊かと思うほどの剽悍さを誇るゴート騎兵は、一度は崩れかかったもののすぐに体制を立て直し今度は東欧人騎兵に向かって突撃を開始した。これにはいかな東欧人騎兵とて成すすべもない。だが、そのまま崩壊する事もなかった。彼ら東欧人騎兵は剣を納めると弓を取り出し、弓騎兵として後退しながらの射撃を開始した。

これが功を奏した。東欧の騎兵は軽騎兵であり、軽装騎兵である。装備が軽い故に機動性は高く、その上射撃兵器も持っている。一方のゴート騎兵は重騎兵であり、文字通りの重装騎兵だ。武器も槍しか持っていない。つまりゴート騎兵は東欧騎兵より遅いのに射程が短いのである。だから、東欧騎兵が逃げ始めたが最後絶対に追いつけないし、東欧騎兵は逃げながら一方的に攻撃を加えることが可能だ。

しかも悪い事に、東ゴート王国軍は前衛(騎兵)と後衛(歩兵)の距離が、今や絶望的なまでに離れていた。そもそも戦列の綻びに投入しなければならない重騎兵を正面突撃に使ったのも愚だが、前衛が騎兵、後衛が歩兵という配置も愚であった。何故なら重装騎兵が遅いと言ってもそれは軽装騎兵に比べれば遅いというだけで歩兵と騎兵なら騎兵のが圧倒的に速い。そして、前に騎兵、後ろに歩兵なんて配置にして騎兵が突撃したら歩兵と騎兵の距離は離れて当たり前なのである。

結果、ゴートの重騎兵は敵中に孤立した。しかも、東欧軽騎兵の巧みな逃走(誘導)と気付けば凹型に進出した東ローマ帝国軍歩兵により、前方と側面は敵歩兵に、後方は敵騎兵に完全に包囲されていた。相変わらず東欧騎兵は逃げ撃ちしかしない。ゴート騎兵は戻って東ローマ帝国軍中央を攻撃するが、相変わらず守りは堅く、しかも四方八方から弓が撃ち込まれる。本来なら東ゴート王国歩兵が騎兵を救援しなければならないのだが物凄い離れてる為不可能であった。

又、東ゴート王国軍司令官にして東ゴート王国の国王である"中世最初の騎士"トティラは、前衛で陣頭指揮を執っていた。ゴート族の歩兵は、ゴート族の騎兵が強い為必要以上に敵の騎兵をも恐れるという傾向があり、これも又、指揮官不在の歩兵隊が積極的な行動をとる妨げとなった。結局、ゴート騎兵は包囲を破れず戦闘力を喪失。そしてついに、虎の子の重騎兵であった東ローマ帝国軍正規騎兵が投入され、流石のゴート騎兵も敗走を開始し、東ゴート王国軍は総崩れとなった。実際に戦えば精強な戦闘員であるゴート歩兵も、肝心要の時に参戦せず、総崩れとなってから追撃してきた敵と戦っては戦闘力を発揮できる筈も無い。


この戦いでは、軽騎兵が非常に役立っている。重騎兵の攻撃をいなす部隊として大きな役割を果たしているのだ。重歩兵や重騎兵といった重部隊は、確かに主力となる重要な部隊だ。しかしその重部隊ばかりに偏重していると、軽部隊を含めた総合力に優れた軍隊に敗北する。これこそ、このタギネーの戦いから得るべき戦訓と言えるであろう。

しかしながら、軽部隊は長らく欧州の軍隊では重視されてこなかった。ただまぁ、軽騎兵の場合は技術的な問題もあった。特に西欧では、基本的には馬を使う生活とは無縁の文化圏が形成されている。なので、特に中世では、騎兵になれる技術、即ち馬に乗れる技術というのは生活に密着していない。こういう技術は、余暇が多かったり戦闘訓練を特別に受ける事になりやすい貴族ぐらいにしか身につかないのである。そして、貴族の騎兵というのはその財力が反映される為、大抵重装騎兵になる。結果、重騎兵が量産されるのである。

長らく、軽騎兵と言えば、東欧とかを出身とする馬に乗った荒くれ傭兵の事だったのだ。しかしながら、時代が下るにつれて状況は変わってくる。近代軽騎兵の発祥はハサー(一般にはユサールとか剽騎兵とか言われるな)だと言われておるが、それはともかくとして、七年戦争の時代ともなると軽騎兵隊も整備される様になった。プロイセンも、大規模な軽騎兵隊を組織している。しかしながら、軽騎兵と口では言いながらその用法は重騎兵的なものが大半であった。

次回は、この辺を踏まえながら、いよいよナポレオンの戦術に入っていきたい。まぁ次回っつっても、その前に最低一回はAOC記事挟むだろうけどな。

マスケット運用の歴史シリーズ5-1 ナポレオンへの道:アメリカ独立戦争と軽歩兵

2011年02月26日 23時42分47秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。先日から三日三晩風邪薬を飲み続けるという革新的療養によって風邪を克服したかに見えたのだが、なんか今日起きたら頭痛が酷くてナロンエース飲んだ霧島である。結局治ってないのだろうか。腹具合は悪くないんだがな…今年の風邪は長引くってのは毎年言われる事だが、本当に今年は酷い様である。

しかし、ここんとこ国外ニュースはニュージーランドとリビアでもちきりだな。リビア情勢については今度記事にしたいと思っておるが、しかしニュージーランドは酷いな。今回被害に遭った日本人は、会社の命令で行かされてたなんてのは殆どいない。外国語学校とかの、自発的に行ってた連中だ。なので真っ先に思い浮かんだのはよくもまぁ好き好んであんなレイシストの国に行くなであり、被害に遭ったのは一応同胞ながら全く同情が湧いてこなかった。

ただそれ以上に思うのは恥知らずなマスゴミと家族勢と外交官勢である。ねぇどんな気持ち!ねぇどんな気持ち!?についてはもう何も言う事はないし強いて言えば死ねというだけだが、被災地の病院にを取材しようと不法侵入して逮捕されたマスゴミはもっと酷い。「ねぇどんな気持ち」については一応身内同士での話(日本人的な意味で)だが、こっちは世界に恥を晒した訳だからな。腹を切って死ねならぬ切腹も許されぬ打ち首である。

又、被害者家族とそれを支援する外交官も何を考えておるのか全く判らん。被災地にゾロゾロ出向いていくなど正気の沙汰ではない。ただでさえ救助活動の邪魔になるというのに、まだ余震は続いておるのだ。そうでなくとも、見た感じちゃんと建ってる建物でも倒壊一歩手前で踏みとどまってるだけというのは往々にしてあるのであり、暢気に被災地見に行った家族の上に運悪く倒れてしまったらどうするのか。それこそ見殺しにされても文句は言えない愚行と言える。心配なのは判るが、家で正座して救出情報を待っておれというのである。

ま、ニュージーランド救援隊が日本人を見捨てたという情報もあるし、それに圧力を加えるという意味でやってるのであればその外交姿勢もありだとは思うがな。一応生存の可能性が見捨てたという事になってるがレイシストの国の言う事だからどこまで本当か判らんし。まぁ、ただ、現在の日本の外交関係者というと、民主党と外務省という売国奴のダブルパンチだから多分そんな深い事考えてないだろうがな。


さて、今回からはいよいよマスケット運用の歴史完結編である。マスケットの運用を完成させたのは勿論ナポレオンだが、その前にいくつか触れておかねばならない事がある。その一つがアメリカ独立戦争だ。この戦争において英軍は、七年戦争後完成の域に達した横隊戦術を可能とするよく訓練された軍隊を投入した。一方、米軍は殆どが民兵、つまり職業軍人でなく武器を取った民衆であり、横隊戦術など望むべくもなかった。しかしながら、米軍の猟兵は猛威を振るい英軍を大いに苦しめた。

このアメリカ軍の猟兵隊の能力を支えた新兵器こそライフル(施条銃)である。これは、銃身に溝を施す技術だ。絵で見た方が判りやすいのでぐぐったらウィキペディア先生のが一番判りやすかった。これをつけることにより、弾丸が回転する。一般的に、ものが飛ぶ時、回転している方が弾道が安定する。ほら、野球の投手が投げる時、ストレートなんかはちゃんと回転してる。しかし、軌道が不安定に曲がるナックルはボールが回転しないように投げる変化球である。これと同じ原理だ。

これを施した銃の命中率は飛躍的に向上し、特に狙撃に向いた武器となった。兵器ではない。武器である。というのも、銃というものはアルクビューズ発明以来、銃身はつんつるてんであった。滑腔銃だった訳だな。それが、ライフリングの発明によって施条銃になったというである。しかし、実は1500年前後には既にライフリングが発明されていた。

にも関わらず、戦場の主役になるのは早めに見積もってもアメリカ独立戦争の頃、つまり発明から350年も後である。しかもそのアメリカも、独立後はマスケットを主力とする欧州型横隊戦術主体の軍隊を編成している。即ち、本当に主流となるのはもっと後の話なのだ。

これは何故かというのを簡単に言うと、ライフルは構造が複雑でどうしても実戦には向かなかった、といったところだ。例えば、変な溝が入っている為銃口から弾を入れようとしてもなかなかと入ってくれないのである。無論時間をかければ入るのだが、とにかく早く装填して早く撃ちたい戦場には不似合いだったのだな。構造が複雑だから量産も難しい。構造が簡単なマスケットですら、規格化されたものが量産されるのはスペイン継承戦争とかそういう時代を待たねばならない。

むしろ、ライフルは狩猟銃として発達した。特にアメリカが有名だな。基本的に狩猟は一発勝負であり、特に猛獣との対決の場合外したら死亡である。装填の早いマスケットでも、一回外してしまったら次発装填などしている時間は無い。その間に距離を詰められ食い殺されてしまう訳だな。故に、装填に多少時間がかかるとしても命中率のいいライフルが好まれたのである。

そしてこのライフルは、前述の通り米軍猟兵の手によって猛威を振るった。アメリカ独立戦争は近代ゲリラ戦の元祖といわれているが、それを体言しているのが猟兵である。猟兵というのは、その名の通り元々猟師だった連中を徴用して兵士としたもの(定義によっては元猟師以外も入る)で、大抵ライフルを持っている。彼らは欧州の軍隊の様に大人数で横隊を組まず、少人数で物陰に隠れ狙撃するという戦闘スタイルをとる。

新大陸の広大な地形は、この戦術を効果的なものとした。障害物がなければ野戦陣地を構築し、保塁の陰から英将校を狙撃する。当時の欧州型軍隊というのは、依然傭兵が多かった。以前テルシオで説明した外国人傭兵を本国人将校が掌握するという形で軍隊が形成されていたのである。この方法は、傭兵というものの利点生かし欠点を補うものである。

傭兵というの利点は、何よりも金さえあればいくらでも数が増やせる事、そして自国民ではない為死んでも国家の損失にならない事である。勿論、訓練された兵隊は国の財産だ。訓練するのには金も時間もかかるからな。しかし、同じ訓練された軍人でも、自国民に比べればその命の価値は羽毛の様に軽い。傭兵が死んでも人口は減らないのだからな。人口が減るとどう大変かは、今の日本を見ればよく判るだろう。

だがその代わり、傭兵は忠誠心に欠けすぐ脱走する。驚くべき事に、世界最高の規律と練度を誇り斜行陣をはじめとする機械的な高速機動すら可能だったプロイセン軍ですら脱走兵なんぞいくらでもいた。元々金の切れ目が縁の切れ目な関係なんだからな、忠誠心など求める方が間違っておる。又、傭兵というのは戦闘のプロというイメージがどうしても強いが、それは基本的にまやかしである。

将校を失って傭兵単独となってしまうと、右往左往するだけの烏合の衆と成り果てる確立が圧倒的に高い。そりゃ確かに歴戦の傭兵なんてのもいるがつい昨日まで農家の三男坊だったって奴だって多いのだからな。又、歴戦の傭兵だからといって戦術を理解してるとは限らん。ちなみに、そうであるからこそアメリカ猟兵の将校狙撃戦法は有効だった。蛇の頭を潰すのと同じだ。

こういう要素を持っているのが一般的な傭兵だ。だから、一般兵という数が必要でよく死ぬ連中を傭兵で構成すれば、死んでも自国の損失にはならないし、金さえあればいくらでも補充できる訳だ。しかしそれだけだとただの烏合の衆になるし、脱走の可能性も高い。そこで、自国民の士官(将校)によって傭兵と言うか一般兵を掌握、指導するのである。「兵をして敵弾よりも将校の鞭を恐れさせよ」との言葉は、この二つの要素を持っているのだ。

故に、横隊戦術というのは傭兵を扱う場合非常に都合の良い戦術であった。特に脱走関連がそうである。横隊戦術では兵隊が整然と並ぶ事が要求され、脱走なんかしたら一発で判る。しかし、猟兵はそうはいかない。猟兵は少人数で物陰に隠れたりするので逃げようと思えばいくらでも逃げられる。傭兵は猟兵に向いていないのだ。勿論向いていない理由はそれだけではない。例えば、猟兵は少人数行動が原則である関係上多くの場合将校、士官の戦闘指導を受けられないので自己の判断が重要となる。又、武器(猟兵ならライフルとか)の扱いも相当洗練されていないければならん。

この点、アメリカ入植者達は猟兵の適性が非常に高かった。彼らは開拓農民であったとしても、彼らは異民族との戦いに手馴れていた。そういう戦いは往々にして少人数戦であり猟兵の行動原則である少人数行動に合致していた。又、猟師は勿論、農民でも害獣退治の必要性から普段から銃には慣れ親しんでいる(ちなみに、アメリカで銃所持が大らかな理由に「『自分で自分を守る権利』の伝統」がよく言われるが、対盗賊だけでなく対害獣という意味での伝統も大きい)。又、アメリカは英軍にとって敵地だが米軍にとってはホームグラウンド、彼らにとっては庭の様なものだ。この条件は自己の判断での行動というものに非常に強く貢献した。

そして、彼らは傭兵と異なり、独立のために戦っている。負けたが最後、イギリスの属国である事が永久に(とまでは言わんが)決定してしまうのだ。だから必死に戦う。傭兵の場合、雇われた国が勝とうが負けようが金さえ払われていればそれでいい。ここが大きく違う。米軍兵士の目的とアメリカという国の目的は同じなのだ。アメリカの目的は独立、即ち勝利。アメリカ人の目的も独立であり勝利。一方、傭兵の目的は金であり勝利ではない。

さて、この辺を強調したからには、判ってる人はもう判ってるだろう。

そう、猟兵は傭兵主体の軍隊では実現不可能なのだ。


まぁ、ここまで色々はしょって単純化した話をしてきたから、結構無茶な部分も多いがな。実際のところアメリカ独立戦争以前にも猟兵はいたし、事実、傭兵主体の軍隊である英軍は米軍の猟兵に対し自らも猟兵を繰り出している。又、この兵種は猟兵という単語のみでくくるべきものではなく、散兵、軽歩兵といった言葉も含めて語られねばならない。これについては、この後の部分で扱うつもりだったのであえて猟兵で通したという事を断っておかねばなるまいな。

さて、今度は重騎兵、軽騎兵、重歩兵、軽歩兵について述べたいのだが、残念だが時間が無い。あと二十分で日付変わるし。ナロンエース飲んで寝てたのが敗因だな…しょうがないので、続きは明日という事で。

マスケット運用の歴史シリーズ4-2 ロイテンの戦いと斜行陣 後編

2011年02月12日 01時32分52秒 | 社会、歴史
このロイテンの戦いは、ロスバッハの戦いと同様フリードリヒ大王の指導能力とプロイセン軍の機動力がものを言った会戦であった。敵軍の配置と地形を見て使用戦術を即断した彼の作戦指導は英断として今も称えられており、後年「大王が健在ならば私はドイツに指一本触れられなかった」と述べたナポレオンの絶賛するところでもある。

まぁ、フリードリヒ大王の軍事的天才は置いておくとして、問題はこの軍事強国プロイセンの強さの秘密である。それは勿論機動性であるのだが、その機動性はどこから来ているかと言えば、緻密に計算された移動の手順と将兵に課せられた高度な訓練であった。

まず第一に、プロイセン軍には同調行進が導入されていた。これは前回の記事でも述べた事だが、横隊がいちいち途中で止まらず動き続ける事が可能になったという点は大きな成果である。しかしそれだけに留まらず、この同調行進の導入により閉縮隊形での行進が可能となった。要するに兵の肘と肘が擦れ合う様な縦隊や横隊が組める様になったのである。であればこそ、前回説明した縦隊で戦場突入→右向け右→射撃開始も可能となったのだ。

同調行進導入前の軍隊、つまり七年戦争後半までのプロイセン軍以外の軍隊では、そういう事ができなかった。横隊は行進し始めたら頻繁に立ち止まっていたし、縦隊による行進も開列縦隊によるものだった。これは簡単に言えば、左右の兵士と兵士の間がやたら開いてる縦隊である。勿論歩幅なんか合ってないし、兵と兵の幅は事によっては三メートルもある。だから、戦場に到着してから高速で横隊に組み替えるなんてのは到底不可能なのだ。いやまぁよく訓練された兵士ならできるかもしれんがよく訓練されてればそもそも同調行進が出来るという話である。

そして、この同調行進を基盤とした、機械的で正確かつ緻密な動きこそが、ロイテンの戦いで見せた斜行陣を可能としたのである。

斜行陣は、まぁ簡単に言ってしまえば敵の側面に回りこむ戦術である。しかし、普通に横隊のまま機動して敵の側面に回りこむのは難しい。いくら同調行進の導入でプロイセンの行進速度が速いとは言え、横隊のまま敵側面に回り込むのはちょっと無理がある。相手も回り込ませない様にと邪魔をしてくるしな。そこで、斜行陣では縦隊になって敵の前面を横切って側面へ進出し、そこで横隊へと再展開して側面を取る、という無茶苦茶な荒業を行うのである。

当然、相手の目の前の横切るのだから相手は物凄い勢いで撃ってくる。故に、囮部隊を配置して敵の攻撃を逸らしたり、地形を使ってこちらの行進を隠したりといった搦め手も必要になってくる。特に、本隊の機動中囮となる翼側の部隊はその間耐えねばならず、大変重要だ。この為、耐久力を増すべくプロイセン軍では普段から翼側には重砲隊が重点的に配備されていた。又、騎兵はともかく大砲は歩兵縦隊の動きにそのままではついてこれない為、大砲を馬で牽引し大砲の操作役等全ての砲兵科兵員を乗馬兵とする乗馬砲兵部隊も編成された(戦況図二枚目でそれっぽく再現してみたのがそれ)。

だがそれ以上に注目すべきは、幾何学的とも芸術的とも呼べるその計算されつくした機動である。画像を交えて解説しよう。




まず、敵軍の目の前を縦隊で横切る。ここで注意してほしいのは軍全体は縦隊だが個々の部隊は横隊というところである。



こういう事。



そして、途中で全体が階段状になる様、徐々にずらして進軍していく。尚、軍隊の人数が明らかに減ってるただの気のせいである。



全隊が予定の位置についたら、左向け左(右向け右)で縦隊に変化して横一線に並ぶ。



そして、再展開して縦隊を横隊に組み替えれば、後は相手の側面を撃ち放題、という訳だ。途中で全体を階段状に配置したのは、もし全部隊がまっすぐなまま縦隊に変化しようとすると



こうなってしまう。外側の部隊は長い距離移動せねばならず、内側の部隊はちょっとしか移動しなくていい。内側の部隊が外側の部隊に合わせようとすれば棒立ちのまま待つしかなく(まぁ先頭の兵は撃ってもいいかもだが、縦隊なので火力はたかが知れてる)、勿論その間に物凄い撃たれる訳である。故に、階段状に部隊を配置する必要があるのだ。

ほれ、アレだ。陸上競技場と同じである。○○m走とかで、外側のレーンを走る選手はスタートラインが前に出っ張ってるだろう。あれは、内側の選手はコーナーを回るときちょっとしか走らなくていいから外側は不利だからそうなってるのだ。勿論、陸上競技と同様外側の部隊が前に出すぎてても内側が後ろ過ぎても駄目なので階段状にする時どう部隊を配置するかは数学的計算の上で決定される。

又、縦隊から横隊に変化する場合は、



この縦隊を




この横隊にする場合



こういう風に隊形を変化させる。


斯様に、この斜行陣の旋回運動は緻密な数学的計算の上に成り立っており、同時に訓練されつくした将兵の精密な機動によって達成されるのである。前からもう何度も言っておるし今も言ったが、プロイセンの軍隊は大変厳しい訓練によって鍛え上げられている。又、平時から厳しい規律を課して、そういう意味でも鍛練を積んでいる。だからこそ、こんな変態機動が可能となったのである。

そしてこの斜行陣は、七年戦争のプロイセンに栄光をもたらした。プラハでの戦いでは失敗したものの(銃剣突撃ばっかやってたから)今回のロイテンでは大成功を収めた。ただ、斜行陣は奇襲であり、何度も何度も使える戦術ではない。クレシーの戦いにおけるイングランドのロングボウガン待ち戦術と同じである。最初から相手が斜行陣を使うと判っていればそれに合わせた陣形を組めばそれで乙だからな。

事実、七年戦争の後半にもなるとフリードリヒ大王は斜行陣を使わなくなる。しかしながら、斜行陣を使わずとも斜行陣を可能にした機動力は大変な戦力であった。又、フリードリヒ大王はその機動力にのみ頼らず、砲兵の火力や騎兵の突撃力も重視しており、それらの力で勝利した会戦もある。だが、彼の軍隊の一番の力はその機動力、そしてその機動力を可能にした練度にあったのは間違いない。その練度があるからこそ、迅速な機動や陣形変換以外にもマスケットの高速連射による大火力も得られたのである。


七年戦争のプロイセン軍こそ、まさに横隊戦術の到達点であった。


しかしながら、プロイセン軍に弱点があるとすれば横隊戦術しかできないという点にあったろう。例えば横隊は縦隊に比べればどうしたって機動力が劣る、とかな。その辺については次回に持ち越しとしよう。そして次回以降こそ、いよいよナポレオンの登場する、マスケット戦術の総決算となる…筈である。ナポレオンまでいけば。

マスケット運用の歴史シリーズ4-1 ロイテンの戦いと斜行陣 前編

2011年02月11日 23時22分25秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。甥の事イライラしっぱなしの霧島である。もうキレちまったよ…久しぶりに状態である。まぁキレた相手はうちの母親だったりするあたり私の彼女への殺意は相変わらずである。

この甥、私の姉の長男なのだが、この春には小六、来年には中学になるというのに性根が卑しい。判りやすいのが食事で、一昨日、姉の家族と私の家族で焼き鳥を食べに行ったんだが、当然焼き鳥の店であるから大皿で出てきたものを皆で分けて食べる。その出てきたものを、一人で占領するかのようにガツガツ食べている、これはぶっちゃけ大の大人でもやってる馬鹿はいるので取り立てて問題ではない。

問題だが。

んでまぁ勿論見境なく食いまくってる訳だが、この際それはいいとしよう。中盤、何だったか忘れたが、とにかく大皿で何かが出てきた。で、甥は何を思ったかまるで自分のお椀を持ってご飯を食べるかの様にして食べ始めたのである。無論そのメニューはご飯ものではないのだが、傍から見てると締めに頼んだ自分のご飯食べてる様にしか見えない様な食べ方であった。

他にも、毎回大皿に一個だけついてくる美味しい野菜があるのだが皿が運ばれた瞬間それを必ず食べるだとか、その食べ方が又大口開けて上から食べ物を持っていくセルフあーんだったりするだとか、もうどうにもならん訳である。それでいて、何かと言うと(甥の名前が○○だとして)「○○は○○はかっこいい」とか歌ってるからもう手がつけられん。

それで流石に怒られるのだが、姉も姉だ。普通、親なら子供を怒るのは子供の為である。変な育ち方してどうにもならん人間になってしまわない様に、心を鬼にして怒るのだ。が、彼女の場合、一昔前は、控えめに見ても自分がイラッとしたから怒ってるという一番やっちゃいけない事をやっておった。最近もその傾向は直っておらず、ちゃんと怒ってる時もあるが、まぁ大体は自分のストレス発散で怒っておる。

そういうのに対して子供ってのは敏感である。ストレス発散で怒ってる親ってのは一通り怒鳴れば大体スッキリするので、その時だけはいはいって受け流しておけばそれでいいのだ。むしろ真面目に付き合ってたら身が持たない。まぁ、怒られる原因を頻繁に作る子供も子供だがそんな風に教育したのは親である。

そんな訳で、見るに見かねた私が代わりに怒ったのだが…なんか家に帰って姉一家が帰ってから何故か私が怒られた。お姉ちゃん気ぃ悪くしてたとか何とか。

知るか。

という訳で、取り敢えず壁蹴って遺憾の意を表明した訳である。


さて、私の人間的評価が更に下がりそうなどうでもいい話はこれぐらいにして本題に移ろう。AOC記事と普通の記事、交互に更新する事にしたから、本来なら今回はAOC記事なのだが…前回の記事はアレで一つの記事とはちょっと言えん完成度なので、今回の記事をもって一つの記事としたい。

で、今回の主題はロイテンの戦いと、ここで使われた横隊機動戦術の頂点、斜行陣である。まずロイテンの戦いについて述べる前に、少し注釈を。

前回の記事では割と無邪気にオーストリアオーストリアと書いたが、当時のドイツ(本来ならドイツとオーストリアは併合したままで然るべき国なので、ここではオーストリアもドイツとする)というのは相当に複雑な構造をしておった。当時、ドイツは(オーストリアも含めて)神聖ローマ帝国だったのだが、神聖ローマ帝国の学者をして帝国でもなければ神聖ですらない奇妙な国と言わせたぐらいだ。

と言うのも、だ。神聖ローマ帝国は一応国という事になっていたのだが、実際のところ、その領土(とされている地域)は300以上の領邦に分割されていた。領邦と言うと日本人には馴染みはないが、要するに地方領主の所領であり、しかもドイツ領邦の場合歴然とした主権を有していたのである。

封建制度は地方分権の究極とよく言うが、ドイツは領邦(地方領主)が主権まで持っており、やがて領邦国家とまで呼ばれる存在に成長していく。この領邦国家には神聖ローマ帝国の中央政府(と言うか皇帝)も簡単には介入できない。下手にやると内政干渉だと言われるレベルなのである。当然、領邦国家ごとに軍隊も持っているし、法律も違えば税制も違うのだ。

私は最近ザクセン公国とかヘッセン=カッセル方伯国とか言ってるが本来は国ではない。ザクセン公国を例に取ると神聖ローマ帝国皇帝に仕えるザクセンという地域を統治するザクセン公爵の領地、これがザクセン公国だ。なので、本当ならザクセン領とでも呼ぶべきなのである。しかしながら、そのザクセン領が主権を持ち、軍隊を持ち、皇帝が無視できない"外交力"を発揮する様になった。為に、ザクセン公領ではなくザクセン公と呼ばれる様になったのだ。

七年戦争当時、欧州各国は絶対王制の時代を迎えていた。中央集権の極み、王の言うがままに国が回るシステムである。フランスとかは普通に国家単位で絶対王制が確立していたのだが、神聖ローマ帝国の場合各領邦国家単位で絶対王制が確立していた。

言ってみれば、当時の神聖ローマ帝国はEUみたいなもんだと言う事ができよう。EUと大きく違うのは、一番上に位置する皇帝がいたところだがその皇帝とて領邦国家の王でもあった。当時の皇帝はハプスブルク家のマリア・テレジアだが、ハプスブルク家も一大領邦国家オーストリアを統べていたのだ。そう、オーストリアとはハプスブルクの領邦国家の事なのである。

なので、オーストリア軍と神聖ローマ帝国軍というのは厳密には違う。オーストリア軍というのは、神聖ローマ帝国皇帝ハプスブルク家の直轄領であるオーストリアの軍隊。神聖ローマ帝国軍は、ザクセン公国などドイツ(神聖ローマ帝国)の領邦国家の軍隊の連合軍である。この領邦国家には、勿論オーストリアも含む。ただまぁこの定義も厳密ではなくて、オーストリアと一言言うだけでハプスブルク家時代の神聖ローマ帝国自体を指してしまう場合もある。なので、ここからはオーストリアの事をハプスブルク君主国もしくは単にハプスブルクと呼ぶ。


七年戦争は、前回話した通りハプスブルクの復讐戦である。前回、この戦争ではプロイセンがほぼ単独でフランス本国軍、ロシア、オーストリア等を相手にする事になったと書いたが、このオーストリアは勿論ハノーヴァーとヘッセン=カッセル以外の全ドイツであり、事実上神聖ローマ帝国が敵に回ったという事である。まぁそのプロイセンも実は神聖ローマ帝国の一員(同君連合のブランデンブルク辺境伯国部分だけだが)だったりするあたりこの国は複雑怪奇である。

閑話休題。西暦一七五六年、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍は当初の予定通りザクセンを制圧、七年戦争における大戦略である内線作戦の要衝を得る。翌年、ボヘミアへ侵攻、プラハを包囲する。知っての通りプラハは現在のチェコの首都だが、当時はチェコそのものがハプスブルクの統治下にあったのである(後年ヒトラーがチェコの領有権はドイツにあると主張した理由の一端がこれ)。ちなみにボヘミアとはチェコの西部の地名だ。ここはハプスブルクの喉元であり、プラハを制すればハプスブルクの首都ウィーンへの進撃が可能となる。

しかしこの攻囲戦は神聖ローマ帝国軍の度重なる救援により失敗。二万八千もの損害を出した上フリードリヒ大王の盟友シュヴェリン元帥は戦死、大王自身もあと一歩のところで捕縛される所であった。しかもスウェーデン王国がハプスブルク側に立って参戦、ポンメルンに派兵。更にロシア帝国も参戦し、十万の大軍が進発したのである。まさに、プロイセンは滅亡の淵に立たされた。

しかしこういう戦略的不利を戦術の勝利で引っ繰り返すのがフリードリヒ大王である。彼は反撃の機会を伺った。取り敢えずロシア軍が到着するのは先であり、スウェーデンも積極的に動く様子は無い。ならば西のフランス、南のハプスブルクが問題である。彼は西へ進路を向け、ロスバッハでフランス王国・神聖ローマ帝国連合軍に決戦を挑む。この戦いでは連合軍がプロイセン軍の側面に回り込もうとしたのだが逆にこっちが回りこんで撃破するというプロイセン式変態機動離れ業を演じた。

結果、プロイセンの損害五百前後に対し、連合軍は一万という大損害を出して敗退した。このロスバッハでの勝利により、フリードリヒ大王は西方における当座の安全を確保。間髪を入れず南のシュレージエンへ進撃する。かつてオーストリア継承戦争で手に入れたシュレージエンだが、ロスバッハの戦いとほぼ同時期に神聖ローマ帝国軍の侵攻を受け主要部が陥落しており、ここの帝国軍撃破は急務だったのである。フリードリヒ大王は敗残の元シュレージエン守備隊と合流すると、ロイテンにて決戦を求めた。



巨大な画像なので色々注意。ここから以下の画像は全部クリックで拡大できる。ちなみに、全部の戦況図作るのに八時間かかった。

この戦況図では帝国軍に大砲が配備されていないが、使用ソフトの仕様(人口上限的な意味で)なだけでちゃんと配備されておった。と言うか、大砲をどれぐらい図示するかというのは結構難しい問題で、例えばマスケット歩兵の基本隊形は24人×3列だが4門以上の歩兵砲が配備されるのが普通であり、更に両翼に1門ずつ配置して隣の横隊の共用していた。当然それとは別に砲兵隊の重砲とか臼砲もある訳で、色々煩雑になってしまうから、プロイセン軍の方に表示した大砲もあくまでイメージ的なものに過ぎないから注意してくれ。勿論兵隊の人数もである。

ただ、両軍の全体の人数比だけはちゃんと再現してある。帝国軍はプロイセン軍の二倍いたのだ。帝国軍七万に対しプロイセン軍は僅か三万五千(ちなみに大砲は帝国軍200門以上、プロイセン軍120門)。しかもプロイセン軍の半分は先のシュレージエン防衛戦での敗残兵である。しかしながら、帝国軍も帝国軍で、広大な帝国の各領邦国家から掻き集められた連合軍であり質もまばらであった。その点、プロイセン軍は等質に高度な訓練を重ねた精鋭である。

帝国軍はその大軍を長く配置した。画像では人口上限の関係で一列だが、マスケット兵の横隊は二列に渡って配置され(○○人×2列の横隊という意味ではなく、横隊そのものを二列になる様配置した)右翼には前衛部隊を配置しており、左翼の騎兵隊は精強をもって鳴ったハンガリー人騎兵隊(当時ハンガリーはハプスブルクの統治下にあった)である。

フリードリヒ大王が正面からの力押しでは勝てない事を悟っていたのかどうかは判らないが、敵軍の情勢を見た結果、彼は帝国軍左翼を突く事を決定する。横隊は側面を突けば脆いというのは勿論だが、左翼は陣地構築が甘く脆かったのだ。又、戦場にある丘陵が障害物となりそうであった。



フリードリヒ大王は自軍左翼(帝国軍から見ると右翼)に騎兵と小規模なマスケット歩兵隊を配して囮とし、本隊は警戒隊形で帝国軍左翼への機動を開始する。そしてこの囮部隊の攻撃で戦闘は始まった。彼らは帝国軍右翼の前衛部隊を一蹴し、帝国軍はこれをプロイセン軍本隊と誤認する。プロイセン軍本隊が中央の丘陵が障害物となって見えなかったのである。



プロイセン軍囮部隊を本隊だと誤認した帝国軍は予備隊を右翼に投入する事を決定。指揮官カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲンとレオポルト・フォン・ダウンも右翼に急行する。その間に物凄い勢いで機動したプロイセン軍本隊は、たったの二時間で帝国軍本隊左翼へと展開したのである。途中、帝国軍も丘の後ろを機動するプロイセン軍の存在に気付いたのだが指揮官が右翼に出払っていた為判断がつきかね、撤退しているものと決めてかかってしまっていたのだった。

プロイセン軍本隊最右翼に配置された突撃隊は、擲弾兵大隊を含む、選び抜かれた精鋭部隊であった。彼らは帝国軍左翼に猛烈な攻撃を敢行する。又、他のプロイセン軍本隊も次々と射撃を開始し、丘に登った40門の重砲も猛然と砲撃を開始した。しかし、丘に登らせてから思ったがちょっと大砲多かったな、この画像。無駄に丘に登る重砲の数だけ忠実にしてみたのが仇になった。



さて、プロイセン軍右翼の突撃隊は激戦の末左翼を突破する。左翼を指揮していたハンガリーのフランツ・ナダスティは、その突破を止めるべく龍騎兵をも指揮下に加えて攻撃を敢行するが、プロイセン軍の予備隊であった騎兵部隊に阻止されてしまう。さらに、自軍右翼にいる敵が囮だとようやく気付いたカールとレオポルトは、帝国軍本隊の横隊を組み直してプロイセン軍本隊に対抗しようとする。

しかし、戦闘中の陣形変換などプロイセン軍ぐらいの猛訓練を積まないと無理であり、その上、既にプロイセンのマスケットと大砲の弾が雨霰と降り注いでいたのである。ロイテンは陥落、帝国軍は右翼の騎兵隊を使い今一度の騎兵突撃で状況を打開しようとしたが果たせず、ロイテンの戦いはプロイセンの大勝利に終わったのだった。

マスケット運用の歴史シリーズ3 軍事強国プロイセンの時代

2011年02月10日 00時16分30秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。ようやく復活したPCで記事を書いておる霧島である。今回から、AOC記事と普通の記事は交互に書いていく事にした。体調もようやく上向きになりつつあるのだが、気になっているのは足である。先日追ったのは右の脛だが、最近どうも左の膝の調子が悪く、昨日も寝る時痛んでなかなか寝れなかった。多分どこかで捻ったんだと思うんだが…どうしたもんかな。私の部屋は二階だから歩かない訳にもいかんし。

そう言えばAC3Pを買った。既に続編のSLPも購入済だが、現在は達成率100%と全ミッションランクSを目指してやりこみ中である。しかし、3は軽2剣豪機強いな。元々私はMOAで軽2剣豪機使いだったんだが2以降やっておらず、SLで再開。つまり軽2とブレードが死んだ瞬間に再開したので、以降酷い目に遭い続けた訳だ。しかし3は軽2もブレードも普通に強いから楽しくてしょうがない。ブレードオンリーでアリーナ制覇も結構簡単にできた。

と言うか昨日テラに重逆に唐沢って機体で挑んだら不覚にも負けた。回り込んでブレード使う事ばっかり考えてゲームしてたから、中距離での撃ち合いにおけるサイティングも回避もまったくなっておらんな…SLP以降が心配である。

以下3P愛機晒しage



頭部:MHD-RE/008
胴体:CCL-01-NER(クレスト軽OB)
腕部:MAL-33S(3P新規追加ブレード特化軽腕)
脚部:CLL-HUESO(通称骨、一番旋回の高い脚)
推進:CBT-FLEET(最速ブースタ)
管制:VREX-WS-1(一番サイトの広いFCS)
発電:CGP-ROZ
冷却:RIX-CR14
右腕:CWG-MG-500(500マシ)
左腕:MLB-MOONLIGHT
左肩:CRU-A10(初期レーダー)
OP:S-SCR、E/SCR、S/STAB、L/TRN、E-LAP

見ての通り典型的な軽2剣豪機である。頭は、コンピュータ性能が標準じゃないと私は袈裟懸けが当たらんので、その中でも軽めで性能のいい008。胴体は脚部積載の関係で軽OB、腕は剣豪機だから33S、脚は壊れ気味の性能を誇るHUESO。内装は、右腕マシンガンだしWS1をFCSに。ブレード性能もいいしな。ジェネは一択のROZ、冷却はICICLEにするか悩んだがクレスト信者なのでこっち。

武器は右腕に500マシ、左腕は剣豪機御用達の月光剣。で、こういう近接戦特化でレーダー積んでないのはゴミクズなので初期レーダーのA10を。OPには、必須OPの実弾防御UP、E防御UP、安定UP、旋回UPに加えてブレード威力上昇のLAPを装備。でも正直、これスロットに見合わなさすぎるから別のに換えてもいい気がする。

ちなみに、組んでみると判るが月光と腕と頭以外全部クレスト製(OP以外)。当然意図的である。頭をCHD-06-OVE(放熱頭)に、腕をCAL-44-EASにすればオールクレスト機の出来上がりだ。月光は、まぁユニオンがくれたものだしいいだろう。唐沢もクレストがくれるしな、このゲーム。どっちもミラージュ製の伝統武器だというのに…

ちなみに、なんだかんだで見た目が大変気に入らないので、CPU戦では頭をOVEに換装したり、冷却をSA44にして頭をMHD-RE/H10(3P新規追加角頭)にしたりしてる。いいんだよ! どうせ私はOB使いこなせないんだから!


さて、わからん人には全くわからん話はこれぐらいにして、いい加減マスケットの運用の話を次の段階へ導かねばならんな。補足を書いたのが一月十二日だからそろそろ一ヶ月経つしな。

さて、西欧における射撃兵器の歴史及び火縄銃は何故主力兵器となったかで話した陣形は、大体16世紀と17世紀のものである。テルシオは16世紀のスペイン黄金時代を演出した陣形、オラニエ公マウリッツ・ファン・ナッサウのオランダ式大隊はオランダ独立戦争のものでマウリッツが死んだのが1625年。スウェーデン式大隊でドイツ三十年戦争を席巻したスウェーデン王グスタフ二世アドルフがリュッツェンで戦死するのが1632年だ。

グスタフ二世アドルフ死後、戦場を一変させる天才の登場は一世紀待たねばならなかった。スペイン継承戦争の英雄、マールバラ公ジョン・チャーチルとプリンツ・オイゲンの名で知られるオイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナンの行った改革は、戦略的には大変画期的なところがある。が、マスケット兵の運用とか、戦場での兵隊の使い方みたいな戦術的な面にはあまり革命的な点はない。むしろ、戦闘における彼らの軍隊の運用の仕方は、グスタフ二世アドルフ以来漸進的に進化してきた戦闘術の当然の帰結と言うべきものであった。

ここで、これから説明する時代、即ちスペイン継承戦争の後の時代の戦争の基本を見てみよう。まず、スペインのテルシオ登場以来、現れてきた戦術は全て横隊戦術である事を理解してほしい。横隊とはどういうのかというと



これである。ちなみに



こっちが縦隊。

そしてこの時代は、横隊戦術が最高の水準に達した時代である。縦隊はフランスにある程度保存されていたぐらいで、欧州各国の軍隊はほぼ全て横隊戦術のみを取っていた。これには勿論理由がある。この二つの画像を見比べればすぐ判るだろうが発揮できる瞬間火力が全然違うのである。一番前の兵隊のみが射撃を行うと仮定すると、画像の横隊は10人×4列、縦隊は4人×10列。つまり横隊は縦隊の二倍以上の火力があるのだ。

まぁ実際には、三列目ぐらいまでは、前に立っている仲間を避けて敵を狙い撃てる。実際、七年戦争後半では多くの軍隊が縦深三列の横隊で部隊を整備し、一列目は立膝、二列目三列目は立ちで一斉射撃を行っていた。しかし四列目五列目となるとそれも難しくなる。そう考えると、画像の横隊は30人が射撃できるが、縦隊は僅か12人しか射撃でききない。と言うより、縦隊は実に28人もの兵隊が遊んでいる。

三十年戦争以降、銃剣の発明と普及により槍兵は姿を消し、全ての歩兵はマスケット兵となった。そしてマスケット兵の横隊は薄く薄くなっていった。兵隊の数が同じでも、列を減らして横に広げた方が火力が上がるからである。又、以前は槍隊(銃剣普及後のマスケット隊は銃剣を装着すれば槍隊にもなる)の縦深を相当深くしないと重装騎兵の正面突撃には耐え切れなかったのだが、マスケットの性能向上により薄い横隊でも防御可能となったのである。事実、欧州最強を謳われたフランスの近衛騎兵(メゾン・デュ・ロワって奴だ)による騎兵突撃も、スペイン継承戦争中数度に渡って撃退されている。

スペイン継承戦争、ポーランド継承戦争の後。とある天才によって整備されたある国の軍隊は三列縦深の横隊による軍隊を整備し、オーストリア継承戦争とそれに続く七年戦争を戦い抜いた。この軍隊の兵は高度に訓練され、一分間に五回の射撃が可能だった。マスケットがアルクビューズと呼ばれていた時代は訓練しても一分に一、二発だったのだから、銃そのものの技術向上、射撃技術の向上、そして兵の練度の向上は目を見張るものがある。


では、その天才とは誰か。それは即ちプロイセン王フリードリヒ二世である。欧州の王とか高級貴族には欠地王とか禿頭王とか肥満王とか色々あだ名がつけられる場合が多いのだが、彼の場合はただ一言大王と呼ばれている。その偉大さが判るであろう。

その功績は、地図を一見しただけで判る。下の地図はぐぐったら出てきたwiki先生から取ってきた地図だ。しかし地図製作にかけては英字wikiはほんと凄いな。私は流石に地図製作なんかできないからこういうのはどっかから取ってくるしかないから助かる。信憑性は別にしてだが、まぁ製作者は日本人じゃないから大丈夫だろう。



フリードリヒ大王はプロイセン国王でありブランデンブルク辺境伯でもある。つまり同君連合だな。フリードリヒ大王が即位した時、父王フリードリヒ軍人王らの功績で既にブランデンブルク(BRANDENBURG)以外にもマクデブルク(Magdeburg)やポンメルン(Pomerania)を領土にしていたがこれらはブランデンブルクの領土であってプロイセンの領土ではなかった。

彼はオーストリア継承戦争でシュレージエン(Silesia)を獲得、更に第一次ポーランド分割で西プロイセン(地図だとWest PrussiaとErmeland。エルムラント自体はヴァルミア司教領のことで、あの地域には他にもエルビンクとかクルマーラントとかある)を獲得する。これにより、プロイセン王国は領土も人口も二倍になるという大拡張を遂げたのである。

さて、歴史上、少数の兵隊で大多数の軍隊に抗した天才は数多いが、大抵その天才の国は飲み込まれてしまう。大体、少数で多数に対して戦争しようって時点で戦略的に大負けしている訳だからな。戦略の失敗を戦術で挽回するのは非常に難しい。

だがフリードリヒ大王は、戦略の不利を戦術の成功で埋め合わせた男である。

オーストリア継承戦争でオーストリアからシュレージエンをもぎ取ったプロイセンだが、女帝マリア・テレジアは復讐戦を画策。宿敵である軍事大国フランスと結んででもという決意である。オーストリア・ハプスブルクとフランスが同盟したというのは、当時独ソ不可侵条約ぐらい衝撃的な事件でもあったのだが、それは置いておこう。しかもドイツ諸侯は殆どがオーストリアに味方する有様(まぁマリア・テレジア=神聖ローマ帝国皇帝→名目上とは言えドイツの支配者だから当たり前だが)だった。

更にオーストリアはロシア帝国、スウェーデン王国、スペイン王国、サルデーニャ王国とも同盟していた。一方プロイセンに協力したドイツ諸侯はハノーヴァー公国、ヘッセン=カッセル方伯国と僅か二ヶ国、そして同盟できたのはポルトガル王国とイギリスのみだった。

しかも、イギリスはプロイセンが同盟した唯一の大国でありながら軍資金を送るのみで、北米やインドといった植民地でフランスとかスペインの植民地軍と戦争していただけ(その植民地での戦争も初期はやってなかった)。そしてハノーヴァーとヘッセン=カッセルはほぼ役に立たない。結果、プロイセンはほぼ独力でフランス本国軍及びオーストリア、ロシアを相手にしなければならなくなったのである。

なので、両陣営の人口比四百万対八千万という第二次大戦なみの絶望的な戦争になった。この戦争は七年続いたので七年戦争という。この七年戦争でフリードリヒ大王の勝利を支えたのが、卓越した内線作戦と機動戦である。

あああとイギリスからの援助金。あれないと戦争続かなかったし。


さて、以前から何度も言っておる通り、戦争だろうが喧嘩だろうが正面から殴るより側面、もしくは後方から殴った方が効果的だ。これは当時の戦争ではいっそう切実な問題となる。と言うのも、以前から何度も言っている通り、テルシオとかみたいな横隊は機動が大変難しいのだ。なので、先に相手の側面に回りこんでしまえば、一方的な展開に持ち込む事ができる。

しかしながら、横隊というのは機動力が低い。つまり回り込むのが難しい訳だ。これを解決すべく導入されたのが同調行進である。これは、まぁ簡単に言えば横に並ぶ仲間と歩幅を合わせて行進するという移動方法だ。口で言うのは簡単だが、これは高度に訓練された兵隊にしかできない芸当だ。

諸君は体育の授業で行進をやった事があると思うが、難度はあれの比ではない。何せ、マスケット、弾薬帯、背嚢、水筒等の重い装備を身にまとった状態でやらなければいけない上、戦闘中に同調行進をやる場合鉛弾とか巨大な鉛弾(いやまぁ当時の大砲は鉄弾が多かったみたいだが)が降ってくる中で冷静に歩幅と歩調を同調させねばならんのだからな。又、根拠地から戦場といった長距離移動でも歩調の乱れは許されないのである。

ここで、戦闘中の機動ではなく、根拠地から戦場といった長距離の移動に目を当ててみよう。プロイセン軍は同調行進を取り入れたが、それでも遅いものは遅い。なので、いくらプロイセンの軍隊が横隊で整備されていると言ってもいつも横隊で移動している訳ではなかった。これは欧州各国の軍隊も同様である…と言うか、同調行進を取り入れていない軍隊の場合、横隊のまま機動するとある程度動いたら停止して士官が列の乱れたところを点検して回るという手順を踏まねばならんからな。以前述べた通り。

一般的に、移動には三種類ある。戦闘中の移動、戦闘になるかもしれない時の移動、戦闘に絶対にならない状況での移動の三つだ。そして非戦闘中の移動は皆縦隊である。その理由は、まぁ見てみるのが一番早いか。さっきの画像をもう一度見てみよう。





貴方の学校の体育祭のオープニングで、横隊もしくは縦隊での行進をやる事になりました。どちらが楽でしょうか? と、そんなちょっとアレな事を考えながらこの二つの画像を見比べて欲しい。ま、少し考えればすぐ判るだろう。行進は、基本的に、横に並んでいる奴と歩調を合わせなければならない。四人で歩調合わせるのと十人で歩調合わせるのどっちが楽かと問われれば、それはもう答えは一つしかない訳だ。

ただ、ちゃんと歩幅を合わせて整列して歩くのはさっき言った三つの内の真ん中、戦闘になるかもしれない時の移動である。戦闘に絶対ならない状況での移動は、あんまり歩幅が合ってない事もままある。疲れるし。まぁ、プロイセンみたいな完全に統制された軍隊だとそういう事はあまりなかった様だな。状況に合わせて無警戒行進隊形、警戒行進隊形といった形で隊形を変えてはいたようだが。

さて、ではこの行進隊形から戦闘隊形である横隊へとどうやって変えるのか? 一番早いのは↓である。尚、画像のプロイセン軍は四列横隊だが細かい事を気にしてはいけない。画像作ってから気付いたんだもの。まぁそれ言うと、プロイセンの一般的なマスケット兵横隊は3×24列なんだが。尚、全部クリックで拡大できる。







で、射撃開始。これが一番速い訳だ。無論、これの場合相手が騎兵だからいいが、相手がまともなマスケット横隊だったら移動中に物凄い勢いで撃たれるので危険である。なので、充分距離を取った場所でこんな感じの機動を行って展開する、横に90度旋回して横隊に展開するなどいくつかパターンはあるのだが…プロイセン軍の戦闘における強さの秘密は、勿論強力な大砲と有力な騎兵戦力もあったが、何よりもマスケット兵隊の機動性にあった。

プロイセン軍は同調行進を取り入れた上に非常に高度かつ過酷な訓練を兵隊に課し(何せ、兵をして敵よりも指揮官の鞭を恐れさせよとまで教範に書いた軍隊だ)、それこそまるで人形の様に整然と動くとまで言われたイェニチェリなみの高練度の軍隊を作り上げた。これにより、横隊の状態での進撃速度の向上は勿論、戦闘中いきなり縦隊に部隊を組み替えて敵の側面向かって全力で行進、側面に到着したら即横隊へと陣列を変えて射撃し敵を制圧するという離れ業すら可能になったのである。

この戦術は特に斜行陣と呼ばれるものとして世に残っている。そしてこの斜行陣が完璧に決まったのがロイテンの戦いであり、斜行陣とまではいかないにしてもプロイセンの機動性が死命を制したのが、例えばロイテンに先立って行われたロスバッハの戦いであった。 


次回は、ロイテンの戦いを解説しつつ、七年戦争においてプロイセン軍のマスケット兵が運用されたか、そして横隊戦術の問題点を展望したいと思う。思うとは言っても、明日更新する気満々だが。

ん? じゃあ何でロイテンの戦いまで書き上げてから投稿しないのかって?

いや、長々とした文章をたまーに投稿するより、少しずつでもコンスタントに投稿した方がアクセス数稼げる読者の期待に応えられるかなと。正直、更新されてないブログを毎日訪問してる読者諸君に申し訳ない気持ちでいっぱいだし、その一方で私の執筆速度に限界があるのも事実だからな。

マムルークとイェニチェリ 後編

2011年01月21日 18時57分45秒 | 社会、歴史
イェニチェリは、オスマン・トルコの奴隷軍人だ。皇帝直属の親衛隊である。親衛隊というとドイツ第三帝国の親衛隊(シュラハトシュタッフェル)が有名だが、他にも色々あるし歴史も異なる。フランス共和国親衛隊とか、日本の近衛師団とかな。ヴァチカンにだってスイス衛兵隊があるのだ。そう言えばこいつらはヘルシングの第九次空中機動十字軍に参加してたな。

大体において、親衛隊というのは二つの要素がある。まず第一に精鋭部隊である事。場合によってはこれが先鋭化し、単純に精鋭部隊を親衛隊と呼んでるだけという事もある。ソ連の親衛隊とかはこれが該当する。第一親衛狙撃師団とか、第八親衛軍なんて風に名付けられているが、基本的にただの名誉称号である。たとえば第八親衛軍は、元はと言えば第六二軍だったのがスターリングラードを最後まで守り抜いた功績を表して親衛の名を冠されたのだ。

どうでもいいが、ここの司令官ワシーリー・チュイコフはおっぱいぷる~んぷる~んで有名な某総統シリーズの元ネタ映画にも出てくる。ヴァイトリングが降伏交渉しに行った先で相手をしてるのがワシーリーだ。ニコニコで見る機会はあんまりないが総統閣下達がけいおん!の世界に移動するようですシリーズには出てたな。

もうひとつの要素は、国家元首直属の部隊である事であり、又、主な任務として国家元首の身辺警護を行う場合が多い。その為、戦争になっても国家元首が戦場に出ない限り出征しないという場合も又多い。まぁ、イェニチェリの時代には王自ら軍隊を率いて戦場に出向くから当然出征する訳だが、近代の親衛隊は本国に鎮座している場合も多い訳である。


さて、これを中世の国家であるオスマン帝国(オスマン・トルコ自体は1900年代まであったが、イェニチェリができたのは中世)にあてはめるとどうなるか。AOCのトルコの文明解説で説明した通り、トルコ人というのは元々テュルク系遊牧民が南下してアナトリア半島とかに住み着き、イスラム化した民族である。

このテュルク系遊牧民というのは、世界史でよく名前を見る匈奴、突厥、ウイグル、キルギスなどを含み、又、キプチャク・ハン国とかチンギス・ハンとかの「ハン」はテュルク系言語で皇帝を意味する言葉である。ここまで言えば判ると思うが、テュルク系遊牧民はモンゴルのマングダイの様な軽装騎兵を軍の主力としていた。勿論、重装騎兵隊もあったがな。

そしてオスマン帝国を創始したオスマン一世は、テュルク系遊牧戦士団のリーダーであった。つまるところ、初期オスマン帝国の主力である遊牧騎兵は皇帝(の祖先)の昔の同僚な訳である。故に、皇帝が頭ごなしに命令しようとすると何だあの野郎俺らがいなかったらふんぞり返ってもいられない癖にとなってしまう訳である。

又、オスマン帝国では在郷騎士団も重要な戦力であった。これは、いわゆるティマール制によって任命された地方の徴税官達である。普段は地方の徴税官として働き、いざ戦争となれば馬を持って騎士として馳せ参じるのだな。しかしながら、徴税官と言っても要するに地方領主であり、封建領主である。ぶっちゃけ戦争になんか行かないで税金取ってた方が儲かる。痛い思いもしなくていいし、戦争に行くとなると武具、食料品、馬、従者の給料と色々金がかかるからな。だからできれば戦争に行きたくない訳である。

初期オスマン帝国は、こういう連中に軍事力を依存していたのである。皇帝の意のままに動き、どんな命令でも黙って忠実に実行する軍隊は持っていなかった。なので、遊牧騎兵や在郷騎士団に不利な法律を施行しようとしたり、大規模な戦争を起こそうとしたりしようとすれば、良くて反対運動、悪いと反乱が起きる可能性があった。実際、王が強力な軍隊を持たなかった欧州中世では、貴族と王の争いが頻発している。

こんな状況の中、イェニチェリが誕生した。キリスト教徒居住区の幼少男子を徴集して奴隷軍人とし、厳しい訓練を課すのである。幼少から訓練を重ねる事により彼らは屈強な兵士となり、精鋭イェニチェリ軍団が誕生するのだ。又、訓練という鞭だけでなく、免税とか高給といった特権を与えるという飴も与え、皇帝への忠誠心を育てた。又、彼らは皇帝と会食する権利があり、一般人には雲の上の人である皇帝と触れ合うという行為は彼らのエリート意識を大いに高めただろう。尚、奴隷が皇帝と会食ってどういう世界だと思うかもしれんが奴隷軍人王朝よりはまだ現実的だ。

ともかく、結果として、皇帝の命令に絶対服従する精鋭軍団が誕生したのである。まるで人形の様に統制された動きとまで言われた精鋭部隊だ。こうなれば、遊牧騎兵や在郷騎士団と皇帝との立場は一変する。今までは彼らの権益とかに配慮して、言わば部下に遠慮する政治をやってきたのである。変な事を言ったら、彼らが反旗を翻す可能性があったのだ。しかし、今や皇帝には強力なイェニチェリ軍団がある。「俺の言う事が聞けないのか? あん?」「や る か ?」という感じで脅しをかけられるのだ。そこまでしなくとも別にいいよ、俺の言うこと聞けないなら出てっても。もう君用済みだからとも言えるのだ。

こうなっては、遊牧騎兵も在郷騎士団も皇帝に従うしかない。彼らの権益は、何だかんだ言ってオスマン帝国あってこそのものだからな。こうして、皇帝の命令は確実に実行される事になりオスマン帝国は欧州より一世紀以上早く中央集権体制(絶対王制)を確立したのである。お陰で、オスマン帝国は地上最強の国家として中世終盤の大陸に君臨する事になった。


一般的に、封建制国家よりも絶対王制国家の方が強い。当たり前である。封建制国家は、言ってみればイェニチェリ誕生前のオスマン帝国みたいな側面がある。何か新しい法律を作ろうとしたりした時に「その権益俺によこせ」「いや俺によこせ」「好きにやれよ、でも俺の権益は保障してもらうぞ」なんてどっかでよく見るような光景が繰り広げられる国と、国家元首が「やるぞ」と決めたらそれを押し通せる国ではどっちが強いかなんて考える必要もない。

まぁ勿論、絶対王制側の王が余程の間抜けではないという条件はあるがな。そうは言っても、間抜けな王ってのは権益の亡者に権力をむしりとられて体制が後戻りするってのが大多数なんだが。それはともかく、オスマン帝国はこの中央集権体制と優秀な指導者、そして優れた軍事力と経済力によって史上稀に見る大発展を遂げた。見ての通りな。

黒海を手中にし、東はカスピ海西岸やイラン西部まで。紅海も完全に手中にし、ホワイトアフリカも制覇、アナトリアは勿論ルーマニアやギリシャを含む東欧諸国が存在するバルカン半島も完全に制圧している。オーストリア、ドイツに十分手が届く距離であり、事実、神聖ローマ帝国首都ウィーンは二度にわたって包囲されている。


しかし盛者必衰は世の常。歴史上日の沈まぬ国のひとつであったオスマン・トルコの衰退の主原因(の一つ)は、皮肉にもオスマン帝国の躍進を支えたイェニチェリであった。つまりだな、オスマン・トルコのスルタン(君主)はイェニチェリという手駒があったから強権を振るえた訳である。

ではイェニチェリが皇帝に反旗を翻したらどうなるか?

答えは一つだな。元々幼少期からの訓練という鞭、そして特権階級という飴の二つがキーだった。しかしながら、イェニチェリの拡充(元は歩兵だったのが砲兵、騎兵まで持つ様になり人員もかなり増やした)に伴い、幼少期に徴集するという体制を維持できなくなっていく。更に、特権に目がくらんだ連中が制度を破壊し、妻帯したり子供をイェニチェリにしたり(つまりイェニチェリの世襲化)する様になる。これでは首都にいるだけで地方領主と変わらない。

こうして肥え太ったイェニチェリ軍団はやがて政治にも介入する様になり、イェニチェリの気に入らない政策があれば皇帝、宰相を廃位、更迭したり、最悪の場合監禁したり暗殺したりするという事態に発展する。それでもオスマン帝国が強国ならばいいが、ティマール制の崩壊によって在郷騎士団が崩壊。つまり重騎兵隊が消滅し、欧州でテルシオやスウェーデン式大隊が開発される間、イェニチェリの装備と戦術は何も進化しなかった為、オスマン帝国の軍事力は急速に弱体化した。

やがて、オスマン帝国は瀕死の重病人とまで言われる弱体帝国と化し、欧州列強に領土を蚕食されていくのである。




どうでもいいが、今回の記事は一万三千字ほどある。そして、昨日一万字書いたところでフリーズして吹っ飛んだ。泣けるな。

マムルークとイェニチェリ 前編

2011年01月20日 18時56分42秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。私は最近忙しかったり体調悪かったりフリーズしたPCが再起動中windowsを起動しています画面で再度フリーズしたりと大変困った毎日を送っておる。本当に寿命だな。そんな訳で、新発売となったsandy bridgeのCPUとマザーを注文した。他の部品が原因じゃないかと思うかもしれんが、USBポートがマイクロソフトのマウスしか受け付けないからまぁ原因はマザーだろう。

しかし何でここまで外れ引くんだ私は。

又、ノートPCもいい加減死に掛かってたんで買い換えた。新型のCF-F9も持っていたのだが個人的にvista以上の糞OSと認定したwindows7搭載であり、AOCができない。いや、できるんだが色バグを起こして16色になるのだ。

ゲーム自体はまぁ普通に動くんだが、いかんせん私がやるのは4vs4である。青色の味方が来た!と思ったら紫色の敵だったとかザラである為、大変問題である。解決法としてはexplorerを落とすしかない(つまりAOCが終わったら再起動必須)。ぶぶりじゃなければバッチファイルで事足りるんだが…

又、ROが動かない。windows7でROは動く筈なんだが、あのPCだと動かない。よって、私が京都を留守にしてデスクトップPCが使えなくなると露店が開けなくなる。そんな訳で、新しいXP搭載のノート購入を決意したのである。CF-N9JCCP。さっきのサイトにも多分載っておる筈だ。マイクロソフトと契約の関係上XP搭載PC出荷は去年で終わりらしいので、あわてて買ったという側面もある。

あと、マウスも新調した。こっちは別に壊れた訳じゃなかったんだが、AOCをやってるとボタンがいっぱい欲しくなってな。ゲーム中左手を全然使わない私としては、色んな操作を右手でやりたいのである。そこで、某インゼルって人にお勧めされた何を考えて作ったんだかわからないマウスを買った。

MMORPG向けを謳った17ボタンマウスであり、サイドボタンとして電卓状に12個ボタンがついてる大変お馬鹿なマウスである。どうでもいいが、これの宣伝ページの開発経緯に「彼らは一日中MMORPGで遊んでいるのにMMORPGにはどんなマウスがいいのか考えてこなかったのです」とか書いてあるんだが遊んでないで仕事しろよ。


さて、本来は前回に続いてようやくドイツ三十年戦争後のマスケット戦術について述べたいのだがいい加減このシリーズ飽きてきた人もいるだろうと思うので小休止といこう。先日、mixiで2の18乗氏の日記にコメントをしておったら、「AOCに出てくるユニットで世界史に出てくるユニットってあるんですか?」とか言われたんで、又元ネタでも探っていこうと思う。

ま た A O C かとか言われそうだが、今回はゲームに関係なく、単純に歴史の話であるから勘弁してくれ。

さて、AOCのユニークにはそれぞれちゃんと歴史がある。ロングボウについてはクレーシーの戦いで記事にしたし、三国志好きならば連弩についてある程度知っているであろう。しかしながら、これが世界史に出てくるかと言われると出てこない。何故なら、ロングボウとか連弩が世界史に大きな影響を与えたかと言えば…結構重要なんだけどなぁ。

いや、連弩は正直どうでもいいが、ロングボウはイングランド軍の主力であり、その編成は自由農民である。これは百年戦争とかで中小貴族層が没落して、貴族(騎士)から農民へと軍隊の主力が移った非常に象徴的な出来事なのだ。それに向こうの貴族ってのは日本の貴族と違って戦う人だからな。西欧の貴族身分は日本史でいうと武士身分に近いのである。

戦う人だからこそ、連中の城ってのはどんなに壮麗でも大変住みにくい環境にある(ベッドだってただの巨大なソファで、背もたれに寄りかかって寝るのだ。襲われた時戦える様に)し、王だろうが何だろうが戦場へ出かけていく。イングランド王リチャード一世獅子心王は中世騎士道の体現者であり十字軍の英雄として有名だが、十字軍とかにかまけてイギリスには一年も滞在しなかった王様である。アーサー王伝説だって、アーサー王は自ら軍を率いてローマ帝国を滅ぼしておる。

そんな、戦う人である貴族・王から耕す人である農民に軍隊の主力が移ったというのは、大変象徴的な出来事なのだ。そういう意味で、ドイツ人傭兵ランツクネヒトやスイス人傭兵ももっと世界史で取り上げられるべきものなのだがいい加減話がそれまくりなのでやめておく。

さて、世界史に単語として出てくるユニークといえば、まず何よりもイェニチェリ、そしてマムルークコンキスタドールであろう。あと、名前は出てこないがそれらしきものを学ぶ機会がある、という意味ではマングダイがある。尚、チュートンナイトはチュートン騎士団所属騎士って事で、ユニークと言えるユニークが思いつけないこの文明で色々無茶した結果だが、こいつのドット絵は十字軍時代の典型的な騎士の格好である。なので、絵でこういうのを見る機会はあるだろうな。今回は、マムルークとイェニチェリを扱う。



さて、まずはマムルークである。

マムルークは「所有されるもの」という意味であり、要するに「奴隷」という意味の単語である。しかしながら、実際にはイスラム世界の白人の奴隷軍人という意味で使われる場合の方が多い。ちなみに白人というのは黄色人種を含む。と言うのも、一般的にイスラム世界では黒人以外は全員白人と考えられているからだ。現代とかはともかくな。

奴隷と言うと、普通はアメリカ南部の黒人奴隷とかそういう悲惨なものを思い浮かべる。勿論一般的には悲惨である。しかしながら、イスラム世界における奴隷制というのは非常に独特だ。例えば、イスラム世界の奴隷は信仰の自由が認められている。(゜Д゜)ハァ?となるかもしれんが、認められておった。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は旧約聖書を聖典とする一神教の三兄弟な訳だが、イスラム教はその中でも独特な部分が多い。例えば、キリスト教はカトリックとプロテスタントの言葉では言い表せないぐらい残念な争いを見ての通り、他宗教に対する態度が非常に排他的だ。と言うか、カトリックとプロテスタントにいたっては同じ宗教だからな。同じ宗教なのに解釈が違うだけで殺し合いまくっておる訳である。まぁ同じ宗教だからこそ、自らの信じる神を歪める異端を許せないというのも判らんではないが…

キリスト教的世界観においては人間と認められるのはキリスト教徒のみである。平氏にあらねば人にあらず、なんてのは割と比喩的表現の気が強いがこっちはマジだ。例えば、ちょっと前の記事で「ボウガンは非人道的兵器であるとしてローマ教皇により使用が禁止された」と書いたが十字軍なんかでは普通に使っている。

非人道的兵器であろうとも異教徒相手ならOKなのである。ヘルシング外伝(?)のクロスファイアで、キリスト教徒にはヴァチカンの人道主義を適用するけど異教徒はサタンの手先だから人間じゃないし皆殺しだよみたいな事を旧式の課長が言っておったが、リアルにそんな感じである。

だからこそ、教会が非常な権力を有する事が出来たのだ。何せ、教会には破門という伝家の宝刀がある。破門すれば、そいつはもうキリスト教徒ではない。キリスト教徒でなくなった瞬間そいつは人間ではなくなり盗賊に襲われようが殺されようが誰も助けてくれない。だってサタン様の手先だもん。むしろ死んでくれた方が世の為人の為だ。欧州ではどんな小さい村にも教会はあったが、教会がまるで領主であるかの様に振舞えた理由の一端はここにある。

話が逸れ気味だが、キリスト教徒はこれぐらい排他的な訳である。イスラム教徒など、キリスト教の支配する欧州世界では生存するのも難しい。しかしながら、イスラム世界にはキリスト教徒もユダヤ教徒も普通にいた。基本的に二等国民扱いではあったが、一般的に信仰の自由も認められていた。

つうのも、キリスト教にしろユダヤ教にしろ、彼らにとって他の宗教は悪魔の手先。異端扱いである。しかしながら、イスラム教はイスラム教誕生以前の両宗教の功績を高く評価しておる。イエス・キリストはイスラム教でも聖人なのだ。しかしながら、ユダヤ教にもキリスト教にも欠点や矛盾はある。

そういった問題をすべて解決した、最高にして最後の宗教こそイスラム教であると、彼らはそう考えているのだな。

故に、他教徒の扱いにも余裕がある。彼らはまだ古い考えに縛られているが、やがては真実の教えであり最高の宗教であるイスラム教に帰結するだろう、そう考えているのだ。逆に言えば白人見ただけで殺しにかかってくる現代アフガンの方が異常なのである。この間も白人医者が10人ほど殺されたな。

これは多分、それだけイスラム世界に余裕が無いからだろう。中世はイスラム世界が先進国、欧州が後進国という今から考えるとありえない状態で、政治はともかく、経済、軍事、学問、あらゆる面でイスラム世界が圧倒的な優位にあった。であれば後進国の宗教にそう目くじらを立てる理由もない、そう言ってしまえばまぁその通りである。

実際、資本主義国家である現代の日本に社会主義者がいても生暖かい目で見られるだけである。しかしこれが一昔前であれば、社会主義者は危険思想の持ち主として特高警察に逮捕されたり赤狩りで職場から追放されたりしたのだ。資本主義の本場アメリカでも、赤狩りでは偽証、証拠捏造、自白強要、密告強要とやりたい放題やったのだからな。それぐらい社会主義が脅威だったのだ。

それと一緒だろう。今のイスラム世界はどう見たって後進国の塊だからな。


話が盛大に逸れた気がするが、取り敢えずイスラムというのは独特である。これは奴隷制も同じだ。さっきも言ったとおり信仰の自由があったし税金も取られた。奴隷制についてはマホメットがちゃんと言及しており、彼は奴隷制を肯定している。その上で奴隷に教育を施し解放して自由市民とする事を推奨していた。解放奴隷を出した者は天国で二倍の見返りを得られるといわれておる。

一般的に、イスラム教は現実的な宗教だといわれる。一夫多妻制なのも、イスラム教創始当時のあの辺は長引いた戦争で男の数が激減しており、一夫一婦では人口が減る一方だと考えられたからだそうだ。奴隷制も、その教義からして存在が認められない筈のキリスト教圏である欧州でさえ廃止されたのは十九世紀だった。それを考えれば、無理に廃止しようとするより奴隷制そのものは肯定して、解放奴隷を増やした方が現実的だろう。

そんなイスラム奴隷制だが、イスラム法によって色々と厳格に決められている。例えば新規の奴隷は戦争捕虜からしか採ってはならない(つまり欧州みたいにアフリカとか行ってそこらの黒人をとっ捕まえて奴隷にするのは駄目)し、それ以外で増やすなら購入のみ、とかな。マムルークも基本的には購入された奴隷である。

しかしだ、いくら解放奴隷即ち自由市民になったと言ってもそのまま一人で生きていくのは難しい。なんとなればだな、諸君は就職する時履歴書に学歴を書くし、採用する側はそれを参考にする。言ってみれば、解放奴隷ってのは学歴とかそういう部分が白紙みたいなもんなのである。これでは就職するのも難しい。なので、元主人が職を世話したり金銭的な援助を行ったりと解放後も関係は続くのである。

それに、考えてもみたまえ。一歩間違えれば、アメリカ南部の黒人奴隷みたいな素敵な環境に放り込まれてたのが奴隷である。それがイスラムの理想的な主人に当たった場合、教育を受けさせて貰ってその上自由市民にまでしてもらったのだ。親子の様な関係が出来て当然である。実際、一般市民はともかく、権力者の奴隷というのは労働者と言うより子飼いの軍人もしくは商人とでも言うべき存在であった。親子の様な信頼関係を持つ部下、これほど頼もしいものは無いからな。

その子飼いの軍人が強ければ、もう何も言う事は無い。そしてその強かった奴隷軍人こそマムルークだったのである。833年にアッバース朝のカリフとなったアブ・イスラク・アッ=ムウタスィム・イブン・ハルンは、テュルク系遊牧民をマムルークとして大量に雇い入れた(?)。遊牧民の常として勇敢且つ優秀な弓騎兵だった彼らは精鋭部隊として名を馳せて各地の戦場で活躍、以後、イスラム世界の軍事力はアラブ人orペルシャ人軍人からマムルークに取って代わられるのである。

その勇猛さは、十字軍の際西欧各国にも知れ渡った。サラディン(サラーフ・アッ=ディーン)と言えば、諸君も名前ぐらい知っているであろうクルド人の英雄だが、何で有名なのかってエルサレムから十字軍を追い返したのである。当時、十字軍はエルサレムを制圧して王国を築いていたのだが、そこにサラディン率いるアイユーブ朝が攻撃を仕掛けたのだ。この時勇猛をもって鳴ったテンプル騎士団すら壊滅したが、その立役者はやはりマムルークだった。

このマムルーク、最初は戦争捕虜から補充していたのだが、イスラム世界の各王朝が採用する様になった事でそれでは足りなくなった。結果、奴隷商人から買う事になったのだが、我々にとっては驚くべき事は「マムルークになる奴隷を探してるんですがお宅の息子売りませんか?」と言われると割と躊躇なく売ってるという事実である。

マムルークは確かに奴隷だが同時にエリート軍人でもある。こんな糞田舎で燻ってるよりはと喜んで差し出したらしいな。勿論別の場所に売り飛ばされた連中も多数いるだろうが、マムルークにするから売ってくれと言われると普通に自分の子供を売っていたらしい。しかも、自分をマムルークになれるようイスラム世界に連れてきてくれた奴隷商人ありがとうという意識まであったらしい。実際、何度も言っている様にイスラム世界の奴隷というのは独特で、奴隷の聖人までいる。

ビラール・ビン=ラバーフ・アル=ハバシーという人はイスラム初期の聖人で、理想のムアッジン(て職みたいなのがあります)として今でも尊敬を受けているが、こいつはマホメットの黒人奴隷だ。しかも、その直系のハバシー家は非常に格の高い家として尊敬を集めているというから、我々の常識では測れない世界だ。さっき言ったアッバース朝のカリフ、ムウタスィムの母も女奴隷である。皇帝の母は女奴隷。14世紀に入るとテュルク系遊牧民の確保が難しくなり、マムルークの供給源はカフカス人、アルメニア人、ギリシャ人、スラブ人など多岐に渡った。


さて、その14世紀より前。第七次十字軍の時、対峙したアイユーブ朝(サラディンが開いた王朝)の君主サーリフが急死する。すると奴隷出身のサーリフ夫人シャジャル・アッ=ドゥッルはマムルークの支持を受けて政治の表舞台に登場、更にクーデターを起こした。彼女はマムルークのアイバクと結婚して君主の地位を譲る。こうして奴隷軍人が君主の国マムルーク朝が誕生する。まぁ、奴隷軍人とは言ってもある程度昇進した後は自由市民扱いにはなってるがな。

マムルーク朝は軍人の王朝だけあって強い文明で、1291年、ついに最後の十字軍領土を制圧。十字軍を完全に打ち砕いた。当初、宗教的理由で来たとはまったく気づかずなんか野蛮なフランク人が襲ってきたとか思われてた第一回が1096年。それから約二百年、ついにマムルークのマムルークによるマムルークの為の王朝によって終止符が打たれたのだ。又、この王朝は軍人らしく世襲ではなかった。スルタン(君主)が死ぬと一番有力なマムルークがスルタンとなるのである。

アレキサンドロスかお前らは。

そんなマムルーク朝だが、やがてマムルーク同士の内紛が元で弱体化していく。そして、次にのべるイェニチェリを擁するオスマン・トルコに敗れ、滅亡するのである。



前々回の記事(西欧における射撃兵器の歴史)の補足(マスケット運用の歴史シリーズ2)

2011年01月12日 00時03分38秒 | 社会、歴史
最近歴史群像の欧州戦史シリーズを読み返しておる。このシリーズは後半に入るとマニアックな本が増えるが、1~10巻は第一次世界大戦終結後のヴェルサイユ体制から開戦までの流れ、ポーランド戦、フランス戦、バトル・オブ・ブリテン、バルバロッサ作戦…といった感じで第二次世界大戦の欧州戦線を判りやすく解説しておる。

それで、独軍ソ連侵攻という本を読みたくなった。従来、独ソ戦でドイツが負けたのはヒトラーのせいだというのが主流だったが、最近の研究ではドイツ軍そのものにも限界とか問題があり、理由はもっと総合的だと考えられている。そういうのを研究した本なんだが、いかんせん売れそうにない本なので絶版になっており、アマゾンにもない。しょうがないからぐぐる先生で探したら、アマゾンで引っかかった。

どういう事かと思ってクリックしたら、同じ作者の「ドイツ参謀本部」という本である。で、中古本一覧の内一番下の方にある奴の注釈にご注意:同じ作者の「独軍ソ連侵攻」ですとか書いてあった。

…いいのか?


さて、いい加減火縄銃シリーズの続きを書かんとなので書くが、その前にいい加減銃ってものそのものについて書いておかないとマズい気がするのでそっちを先にする。以前も銃についての記事は書いたが、間違ってる内容も散見されるのでな。尚、本日誌においては昔記事にした話を再度書く場合があるが内容に相違がある場合新しく書かれた方が正しい。

まず、最初に発明されたのがいわゆる火縄銃、アルクビューズである。前装式(銃口から火薬と弾を込める)であり、発火方式はその名の通り火縄式(マッチロック)だ。又、瞬発式と緩発式の二つがあり、前者は引き金を引いた瞬間に発射し、後者は引き金を引いてからしばらくして発射される。

アルクビューズの欠点は、取り扱いが難しいという点にある。銃は現在に至るも湿気が大敵(現代銃の弾でも保管方法が悪いと火薬が湿気って撃てなくなる)だが、アルクビューズの場合、銃口に入れる火薬だけでなく発火に使う火縄も濡らしてはいけない。この火縄の生産、管理が面倒(何せ火薬を練りこんだ縄)なのもあって、とにかく扱い難い兵器であった。

そこで、次に開発されるのが歯輪発火銃(ホイールロック)である(本当はこの前にもう二種類あるがマイナーすぎるので割愛)。これは発火に火打石を使う銃で、引き金を引くと現在のライターと同じ感じで歯輪が回って火打石に擦り付けられ、火花が散って発火する。これによって火縄がいらなくなり、ただ火薬と弾を入れて引き金を引けばいいだけになった。

ただ、百回に一回確実に不発になる感じだったので、大量運用しないと信頼性が低く、その上高価だった為あまり広まらなかった。が、スウェーデン王グスタフ二世アドルフの軍隊の様に大量配備し成果を挙げた例もある。

そして、ついに開発されたのが火打石式(フリントロック)である。これはその名前のまんま、火打石を打ち合わせて火花を発生させ発火するもので構造も簡単なら取り扱いも簡単という夢のアイテムであった。日本じゃまるで広まらなかったがな。

と言うのも、火打石式は命中率が低いのである。前回のコメントに書いたが、諸君がライターを発火させる時、ライターの歯車を回すとどうしたってライターが跳ねるな? 完全に同じ理屈なのは歯輪発火銃なのだが、火打石式も引き金を引くとどうしたって銃が跳ねるのである。これでは当たるものも当たらん。しかも日本の火打石は質が悪いから日本産火打石式は不発も多かったのだ。しかも高温多湿で雨が多い関係上、日本産でなくてもアルクビューズのが確実に撃てる始末。広まる要素がないな。

それ故に日本ではアルクビューズが後々まで残ったのである。まぁ、言っても火打石式発明は1610年なので残すところ大坂の陣しかないんだが。まぁともあれ、アルクビューズが当時の銃としては狙撃向きの日本人好みな武器だった事は確かだ。日本のは瞬発式だし余計だ。しかし、朝鮮水軍の記録に狙撃されたってのが出てくるんだが水上戦で狙撃ってどういう腕してるんだろうな、ほんとに。船って意外と揺れるんだぜ…


この時代になるとマスケットという単語が前装式銃の一般名詞となる。今まで敢えてマスケットという単語を一般名詞として使わなかったのは、本来マスケットというのは大型で威力の高いアルクビューズのことだったのだ。実際、テルシオの前面銃兵はマスケット、他は通常のアルクビューズ兵である。それが、時代が下って一般名詞となったのだ。ここからは、前装銃の一般名詞を火縄銃からマスケットに切り替える事にしよう。

マスケットの、次に重要な発明は銃剣である。これについては前の前の記事で詳述したが、とにかく重要な発明であった。ちなみに発明した逸話そのものは間抜けで、フランスの田舎町バヨネ(これがバヨネットの語源)で農民同士の喧嘩の時若者がマスケットを持ち出し、その火薬が尽きた為ナイフを銃口に差し込んで振り回した。

そう、この頭がいいんだか悪いんだかよくわからん若者の思いつきで槍が戦場から消えたのである。

ちなみに、さっき「銃口に差し込んだ」と言ったとおり、初期の銃剣というのは装備した状態で撃てなかった。一応、差込式は刺した後抜ける事が多いので改良されたのだが差込式→ソケット式というアレな進化だった為、結局銃剣装備では撃てなかった。銃剣装備状態で撃てる様になるのは、大体ナポレオン戦争からである。尚、マスケットは大体2メートルあり銃剣も40cmぐらいはあるので、装着すれば結構な長さの槍になる。


さて、ここまでは前々回の記事で書いた範囲内だな。んで次に行きたいのだが、その前にちょっと砲兵の話を。砲兵というか、統合作戦の話と言うべきか。統合作戦というのは、例えば歩兵と騎兵と砲兵がいたとしてそれぞれの兵科がバラバラに好き勝手に戦うんじゃ効率悪いから、それぞれが協力して機能的に戦い戦果をあげよう、という概念である。

さて、当たり前の話すぎて説明が逆に難しいが、A軍という軍隊があるとしてだな。そのA軍が実際に戦闘をはじめる時、A軍の司令官は普通一人である。A軍には歩兵、騎兵、砲兵がいるだろうが、その全兵科が司令官の命令に従う。これはどんな軍隊でも基本的に変わらない。

だが、司令官が砲兵に支援攻撃を命令した時、即これに応じる場合と部内で前向きに検討しますと言われてしばらくしてから攻撃が始まるのでは話が全然違う。この差がどうして出てくるのかという点については二つ考えられ、一つは組織の編成の問題、一つは技術的な問題が指摘できる。

特に古代はそうだが、騎兵などは傭兵が多かった。前々回の記事でも書いたが、ローマのレギオン(ローマ式密集槍方陣)の両翼には騎兵が展開している場合が多い。しかしその騎兵というのは大体雇った外人部隊だ。前回の記事で書いたクレシーの戦いにおけるフランスのクロスボウ隊も、ジェノヴァ人傭兵部隊だ。

傭兵というのはその時代によってあり方が変わるが、中世からこっち、傭兵隊長の下に集う戦争請負会社という面があった。私がある程度詳しく知ってるのはランツクネヒト(ドイツ人傭兵)ぐらいだが、隊長が戦争を請け負うとまずリクルートが始まる。

来たれ若人みたいな広告を打ち、大体3グルデン(ドイツ金貨)で一人雇う。雇い主から貰った金を使って槍とかの装備を買って彼らに与え、軽く訓練を施して編成し、後は戦場に出るのだ。

こういう部隊が戦場で自軍に加わっていると、機敏に軍隊を動かすのは難しい。傭兵隊長は司令官と契約してるから、司令官の指揮下にはある。だから一応命令も聞く。しかしこの傭兵部隊は傭兵隊長の部下であって司令官の部下ではないので色々と不安なのは避けられない。練度も違えば指揮系統も違うからな、同じ命令を発しても他の部隊と同じように反応するとは限らないという致命的な問題がある。

それこそまさに、命令によっては追加料金を頂きますという世界だ。ちなみに、こういうタイプの傭兵部隊を率いた最大最後の傭兵隊長こそヴァレンシュタイン(アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン)である。

このタイプの傭兵部隊には大きなメリットがある。戦争する時だけこういう傭兵を雇い、戦争が終わったらクビにする。そして普段(戦争してない平和な時)は軍隊を持たない。こうしておけば金がかからないのである。いや、無論金がかからないだけじゃないが。そもそもランツクネヒトの起源はスイス人傭兵の模倣にある訳だし、中世世界の特性によってランツクネヒトが要求された訳だし。まぁ細かくなるので割愛する。

しかしまぁ、当たり前だがこんな傭兵部隊、強い訳がない。基本的に戦争を請け負ってから兵隊を集めるし、訓練期間も三ヶ月がいいとこ。しかも金目当てのごろつきばっかりである。又、このタイプの傭兵は使いにくい。傭兵隊長の扱いを間違えると隊長が増長し雇い主に刃を向ける可能性すらある訳だからな。

そこで、テルシオ登場以降は傭兵をこういった形で雇わなくなっていく。テルシオでは、傭兵を雇うにしても常備軍として、普段からずっと雇い続けた。又、兵士三百人につき四人から六人の士官をつけた。つまり50~75人に1人隊長がつくという状態にし、この士官は貴族が任命された。つまり傭兵を雇っていてもそれを率いるのはスペイン正規軍なのだ。これなら、傭兵もちゃんという事を聞く。スペイン軍では以前から士官を配属していたらしいが600人に一人だったのであまり効果がなかった様だ。

全軍がいう事を聞かなければ、各兵科各部隊を機能的に運用する事はできない。砲が耕し騎兵が蹂躙し歩兵が制圧するといっても傭兵の騎兵部隊が命を惜しんで真面目に突撃しなかったらそこで躓くからな。

実際、カラコール戦術なんか酷かった。カラコールというのは、歩兵のどいつもこいつもが密集槍方陣を組むもんだから騎兵が突撃を諦めた時代に流行った戦術である。大体テルシオ登場前から三十年戦争までぐらいか。拳銃を持った騎兵が敵歩兵の陣列に近付き、至近距離で発砲して反転逃走、敵マスケットの射程外で再装填しもう一回近付いて撃って又逃げる、というAOCというゲームでよく見る光景である。

ただこれ、意図してやった場合も勿論多いのだが司令官が意図せずに発生した場合も多いのである。どういう事かって、死ぬの嫌な傭兵の騎兵が敵前で一回だけ撃ってほら、給料分働いたよ、撃ったもんって言ってさっさと逃げた結果カラコールになったのである。

使えないことこの上ないな。


第二の技術的問題だが、これは特に砲兵特有の話である。

大砲は誕生以来、重いものだった。まぁ今でも重いが、とにかく重いものだった。なので半固定で使うものであり、機動させるのは難しくてかなわない。よって、攻城戦なら相手が動かないからいいが、野戦だと運用が難しい。

決戦場まで持っていくので一苦労だし、いざ戦闘が始まっても敵が射程外に行ったが最後追いつけないからな。しかも射程だってそんなに長い訳じゃない。七年戦争の野戦砲で300mぐらいだ。マスケットの有効射程が100mなのを考えても、敵が襲ってきたら大砲を放り出さない限り兵隊全員即死である。又、自軍が敵とある程度近付いてしまうと味方を撃ちかねないので撃てなくなってしまう。

それでも、大砲は使用実績を確実に重ねていった。やはり強力な兵器だったのである。特にこの時期は密集槍方陣が主力だ。「砲が耕し」の言葉どおり、密集している槍兵に大砲を撃ちこめばヒャッホーイと言わざるを得ない状態になる。又、その密集槍方陣を強化したテルシオとの相性は意外にも抜群だった。何せ、テルシオは馬鹿デカくて動くのが難しく、攻撃よりも迎撃向きだ。なら、大砲を置いて敵を砲撃しほらほら攻撃してこないなら狙い撃ちだぜwwwwwwwとしてしまうのである。

とは言え、いくらテルシオの動きが鈍いと言っても大砲の動きはそれ以上に鈍かった。これを解決したのがグスタフ二世アドルフである。彼は連隊砲とか歩兵砲とか呼ばれる新型の軽量砲を開発、多数配備したのだ。連隊砲の配備により、大砲は歩兵の機動についていける様になった。いやまぁ完全についていける様な技術革新が達成されるのはもっと後の話なのだが、スウェーデン式大隊の密集槍方陣+マスケット隊には結構ついていけた。

というのも、テルシオほどではないにせよ当時の陣形は機動が遅いのである。横隊のまま進軍するとどうしても陣列が乱れる為、ある程度前進したら全隊止まれを命令し士官が見回って変な位置にいる兵隊を元の位置に戻すという体育教師と生徒みたいな事をしていたのだ。しかしこれをしないと陣列が乱れてしまい、密集槍方陣もマスケット隊も意味がなくなくなるのでやらない訳にはいかないというジレンマ。

まぁともかく、連隊砲の配備により砲兵は歩兵との協同作戦が可能になった。さっきも言った通り三兵戦術の基本は「砲が耕し騎兵が蹂躙し歩兵が制圧する」だが歩兵についていけなけりゃ耕そうにも耕せない。この点で、グスタフ・アドルフの軍隊は非常に画期的だったのである。これ以降、砲兵は重要な戦力として統合作戦の一角に組み入れる事が可能となったのだ。

ちなみに、彼の軍隊がもう一つ画期的だったのは騎兵改革である。この時代、騎兵は殆ど突撃せず、さっき言ったカラコールばっかりやったおった。しかし彼の軍隊の騎兵は、手にした拳銃はほぼ持ってるだけ。スウェーデン軍騎兵の仕事は抜剣しての突撃だったのである。当時、拳銃の射程は5mと言われており、カラコールでは正直歩兵を蹂躙するのは無理だった。しかし騎兵突撃が復活した事により、騎兵による蹂躙というプロセスが復活、「砲が耕し騎兵が蹂躙し」が可能になったのだ。


…ようやくここまで来たか。実は、スウェーデン式大隊以降の話は私も他人に説明できるほどには知らんので本を買って読んで調べたり、現実逃避したりしてたのである。まだ書きあがっておらんのだが、いい加減前の記事アップしてからから時間たってるしな。と言うか、今回の記事はその話の前段階なのだが、字数確認したら既に7000字以上あったのでこれで上げる。