霧島家日誌

もう何が何だかわからないよろず日誌だ。

デスレース~地獄のロード~(仮題)原案

2011年08月31日 18時42分59秒 | これら以外の何か
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。ここんとこ色々あったりなかったりして全然更新してなかった霧島である。読者諸君にはほんと申し訳ない。又なんとかちょろちょろ書いていきたいと思う。

前回AC3Pをやってると言ったが、3Pの全ミッションSランク隠しパーツ全取得が終わり、この間SLPの全ミッションSランク隠しパーツ全取得も完了。で、気付いたんだが…私は3系で殆どOBを使わない。苦手なのもあるがあんま好きじゃないのだ。別ゲー風味になるから。んで私は旧作だと基本ブレード使いなんだが、OB使わない場合剣豪機はLRよりSLのが辛いと気付いたのである。

LRは強化人間で誤魔化してるだけのCPU機が多い上に通常ブーストが異様に速いから、簡単に近付けてしかも避けやすい。LRの武器自体が補正も弾速もヘタレなのもあるが。四脚+LUTONG+ミラダガ+ブレ威力増加OPなら大バズ+突き二回で雷雲爆散する威力だしな。一方SLはAIの出来が良く、押しては引き引いては押しを上手い事やってくる上に自機も速くないから斬りにいけないという…

あ、CPU戦の話だぞ。

3系の対人があんまり好きじゃないのは、OBでビュンビュン飛び回るゲームだからってのも大きいからな、私の場合。CPU機も普通にOBで飛び回るゲームだったら特に何とも思わなかったが…私はそういう別ゲー感って結構嫌うのだ、格ゲーみたいにCPU戦はおまけってゲームならともかく、旧作ACみたいに一人用ありきで対人が別ゲーは嫌なのである。

まぁ、なので、ポータブル版でアドホック対戦が実装されてるにも関わらず私は一人用ばっかりやってる訳である。一人プレイでも充分楽しめるのがPS~PS2ACのいいところだとつくづく思う。まぁLRはミッションが単調だし、そもそも3系だけじゃなくてACの対人自体好きじゃないけども。つくづくACに向いてないAC愛好家である。

んで、AC3PもSLPも大体やる事やってしまったので、最近はACFFをやっておる。ARMORED CORE FORMULA FRONTである。直訳すると装甲核公式前。尚、略称を間違ってFFACにするとFINAL FANTASY ADVENT CHILDRENになるから気をつけてほしい。こっちのFFだと「ムービーゲーwwwwww」としか言えないキチガイ達が飛んでくるぞ。

んで、最近(と言ってもここんとこ更新中断してたが)歴史ものが連続だったので、久々にゲームネタを入れてみたいと思ったのだ。AC攻略記事じゃなくて買ったゲームのレビュー風味の記事。ところが、全然筆が進まない。書けば書くほど、あの下衆の書き込みが頭に浮かんで記事にならんのだ。なんだかんだ言って執筆活動というのは割と繊細な行動なのでしょうがないんだろうが、もうAC関連記事書けないかもしれないな…

とまぁ、そんな感じでちょっとへこんだりして又書かなくなり、更に更新しない期間が延びた訳である。が、世の中何がきっかけになるか判らん。本日、この間twitterでフォローしたLEO氏が

ライセンスをEAが独占一括管理してたとは知らなんだ今後NfSだけとか誰得 RT @autoblogjapan: 人気レーシングゲームにポルシェが登場できないワケとはhttp://aol.it/pBSrzU

というのを書いていたのだ。これは要するに、EAという会社がポルシェの車のゲーム化権を持っており、ゲームにポルシェ出すんだったらEAに話を通さないといけないという事である。んで、私はこれを読んで、だったらポルシェティーガーもEAに言わないと駄目なのかなとか意味のわからん事を思ってしまったのが全ての始まりである。


40秒ぐらいから最初の大写し

ここから私の妄想が始まり、戦車を使ったゲームの原案が完成するにいたった。以下、原案を記そう。



デスレース~地獄のロード~(仮題)原案



このゲームは、第二次世界大戦時の戦車、装甲車、自走砲でレースを行うという大変画期的なゲームです。プレイヤーは世界各国から参戦した先頭車輌を選択し、様々な障害を乗り越えながらあらゆる地形を走破してゴールを目指します。

プレイヤーは、レース開始前に使用車輌を三輌選択します。これらの車輌は、レース中いつでも切り替える事が出来ます。例えばキューベルワーゲン、Ⅲ号突撃砲、ティーガーⅠの三輌を選びスタート時にキューベルワーゲンを使っていたとして、レース中随時Ⅲ突やティーガーに乗り換える事ができるのです。走行していない車輌は時間経過で「部品磨耗ゲージ」「装甲ゲージ」(後述)が回復します。又、「擱座」「撃破」(後述)状態の車輌を選んで走行する事はできません。


各車輌のパラメータ

各車輌には、「整地最高速度」「不整地最高速度」「装甲耐久度」「部品耐久度」「主砲」「機銃」「対空射撃」「搭乗歩兵」「支援砲撃」「水陸両用機能」「密林直進」というパラメータが設定されます。

二種の最高速度は、それぞれ舗装道路での最高速度と、不整地(非舗装道路、泥濘、山道等)での最高速度を表します。舗装道路では、常にパラメータ通りの最高速度を発揮する事が可能です。尚、砲爆撃で道路が瓦礫になっている場合はその限りではありません。不整地では、その地形の荒れ具合によっては、パラメータの値よりも低い速度でしか走れません。

装甲耐久度は、先述の「装甲ゲージ」の最大値です。本作では戦場でレースを行う為、地形以外にも様々な障害が待ち受けています。詳細は後述しますが、対戦車地雷、肉弾攻撃、遠距離砲撃、空襲、艦砲射撃、対戦車防御陣地です。これらの障害に邪魔をされると、装甲ゲージが減ります。装甲ゲージがゼロになると「撃破」状態になり、一定時間その車輌は走行不能となります(その間は他の車輌のみでレース継続)。「撃破」状態は時間経過で治ります。

部品耐久度は、「部品磨耗ゲージ」の最大値です。戦車が長距離を自走すると無限軌道(キャタピラ)が切れたりするのを再現するパラメータで、全ての車輌は走行していると時間経過で部品磨耗ゲージが減っていきます。ゲージがゼロになると「擱座」状態になり、「撃破」と同様一定時間走行不能となります。回復の方法も「撃破」と同じです。大抵、装甲耐久度と部品耐久度は反比例します。

主砲は、戦車や自走砲についてる大砲です。「支援砲撃」もしくは「対空射撃」が可能な車輌以外にとってはただのダミーパラメータです。レースで大砲ぶっぱなすなんて邪道なのです。尚、装甲車には大抵ついていませんがどうせダミーなので問題ありません。

機銃は、車載のマシンガンの事で、吸着地雷とか収束手榴弾を抱えて肉弾攻撃を仕掛けてくる敵歩兵を追い払うのに必要な装備です。「7.92mm MG34」といった形で表記されますが内部処理的には「有」「無」のどっちかで、「有」だと一部の障害に当たった時、装甲ゲージが減らなくなる確率が高くなります。

対空射撃も似た様なもので、「対空射撃可能」「対空射撃不可」で表されます。対空射撃が可能な車輌の場合、空襲を受けても装甲ゲージが減らない場合があります。

搭乗歩兵は、その車輌に載せる事のできる歩兵の数で、実質装甲車専用のパラメータです。この歩兵を消費する事によって、対戦車地雷、肉弾攻撃を確実に防ぐ事が出来ます。尚、歩兵は使い捨てで、使用したらゴールするまで補充できません。名もない歩兵が死んだところで西部戦線異状なしなのです。

支援砲撃は、対空射撃と同様「支援砲撃可能」「支援砲撃不可」で表されます。一部の自走砲だけが持っている特殊技能みたいなもので、対戦車防御陣地で使用する事により、その防御陣地を一定時間無効化できます。無効化時間は主砲の攻撃力と防御陣地の耐久力に依存します。

水陸両用機能は、「航行不能」「浮上航行」「水中航行」の三つで表されます。後者二つだと、河川や湖に出くわした時、渡河が可能です。「浮上航行」ならボートの様に浮いて移動し、「水中航行」なら水底を走ります。「航行不能」の車輌しか手元に無い場合、橋のある場所まで迂回せねばならず不利となります。但し、水陸両用機能付車輌はそういう装備を積んでいる分、陸上の速度性能が少し劣ります。

密林直進は、「密林直進可能」「密林直進不可」で表されます。可能だと、目の前に障害物として木が立っていたとしても轢いてそのまま前進する事が可能です。この機能は、殆どの戦車と一部の自走砲に装備されています。不可な車輌は、木々を避けながら進まなければなりません。


障害について

このゲームでは戦場でレースを行うので、途中様々な障害が襲ってきます。プレイヤーはこれらの障害に対し、主砲をぶっぱなしたりして対抗する事は原則としてできません。障害が発生した場合は基本的にダメージを受けます。但し、「機銃」や「搭乗歩兵」によって回避可能な障害が一部存在します。それ以外はプレイヤーの華麗なドライビングテクニックで頑張るしかありません。戦いとは無情なのです。

前述の通り、障害には「対戦車地雷、肉弾攻撃、遠距離砲撃、空襲、艦砲射撃、対戦車防御陣地」があります。

対戦車地雷は、コース上に仕掛けられている地雷です。踏むと爆発し、ダメージを受けます。この障害のみ、装甲ゲージではなく部品磨耗ゲージが減ります。なので、大抵の障害には動じない戦車にとってもこの障害は脅威です。機銃を装備している車輌だと、低確率で自動的に銃撃を加え、事前に爆破してくれます。又、歩兵を搭乗させている装甲車で地雷原に到達すると歩兵を使うかどうか選択肢が出て、使うと一人出撃して地雷を処理してくれます。但し歩兵は例外なく爆死します。

肉弾攻撃は、歩兵が対戦車地雷を抱えて走ってきたり、吸着地雷をくっつけにきたり、収束手榴弾を投げに来たりと、戦車とかに兵隊が生身で突撃してくる障害です。機銃を装備した車輌なら、自動銃撃によって高確率で防ぐ事が出来ます。但し機銃が外れる事もあり、又、敵の数が多いと防ぎきれません。装甲車が歩兵を使えば、100%防げます。但しやっぱり歩兵は死にます。頑張ってドラテクで回避する事もできる障害です。

遠距離砲撃は、敵の野砲とかが画面外からバカスカ大砲を撃ってきてそれがコース上に着弾する障害です。見てから回避するのはほぼ不可能なので装甲勝負になり、その為遠距離砲撃が飛んでくる場所では戦車や戦車型の自走砲が非常に有利です。逆にこんなとこを装甲車で走ってたら直撃しなくても破片で死ねます。

空襲は、敵の航空機が襲ってきて、銃撃や爆撃を加えてくる障害です。銃撃も爆撃もある程度は軌道が読めるのでドラテクで回避するのも不可能ではありませんが、至難です。直撃すると戦車でも大ダメージを受ける危険な障害です。装甲頼りで耐える以外に、整地なら装甲車の速度を生かして一気に走り抜けてもいいでしょう。やっぱり破片で一撃死します装甲車が一撃死するのはいつもの事です。又、対空戦車等一部の「対空射撃可能」車種は、自動で対空射撃し、航空機を撃墜してくれる事があります。

艦砲射撃は、海岸近くのコースを走っている時に発生する障害で、戦艦が陸上に向けて主砲を撃ち込んで来ます。その威力は強烈で、着弾すると巨大なクレーターが発生し、直撃しようものなら戦車でも空高く打ち上げられてバラバラになって一撃死します。非常に危険な障害と言えます。一度着弾したら同じ場所に落ちる可能性はほぼ無いので、クレーターに逃げ込んで砲撃が収まるまで待つのも良いでしょう。

対戦車防御陣地(パックフロント)は、艦砲射撃と並んで非常に危険な障害です。対戦車防御陣地地帯に入ると、ひっきりなしに対戦車砲が飛んできて装甲がゴリゴリ削られます。新品の戦車でも、撃破されずに脱出するのは至難の業です。幸い「支援砲撃可能」な車輌で支援砲撃する事で一定時間対戦車砲が飛んでこなくなるので、その間に脱出しましょう。この事から、支援砲撃ができる車輌を一輌は編成しておきたいものです。


各車種の特徴

このゲームに登場する車輌は大きく「戦車」「自走砲」「装甲車」の三つに分ける事が出来ます。

戦車は、圧倒的な装甲と高い不整地最高速度を持つ車輌です。搭乗歩兵と支援砲撃は持っていませんが、機銃はほぼ確実に持っており、又、装甲が厚いので障害に攻撃されてもなかなか撃破されない安心な車輌になっています。ただ、整地での速度が遅く部品耐久度が最低クラスなので、戦車ばかり走らせる訳にはいかないでしょう。又、障害の一つ、対戦車地雷だけは部品損耗ゲージにダメージを与えるものなので苦手です。

自走砲は、大きく「戦車型」「大砲型」の二種類に分けられます。戦車型は、戦車の車体を流用したり対戦車砲を積んだりして対戦車戦闘に特化した、ドイツで駆逐戦車とか突撃砲とか呼ばれていたタイプです。性能としては、大体戦車に近いものがあります。

一方大砲型は、榴弾砲を積んだりしている、文字通り"自分で走る大砲"です。このタイプは大抵装甲がそんなに高くなく、機銃も積んでいない場合が多いので非常に撃破されやすくなっています。しかしこのタイプだけが、対戦車防御陣地を潰せる支援砲撃が可能となっています。

装甲車は、大きく分けて「装輪式」「半装軌式」の二つがあります。装輪式は普通の車と同じくタイヤで走行するタイプで、トラックみたいなものです。全車種中最も整地最高速度に優れており、又部品耐久度も高く、壊れる心配をあまり心配せず走る事が出来ます。但しその分不整地での性能は悪く、特に酷い泥濘地帯では後ろを向いてバックで前進しないと動けない程です。

半装軌式は、いわゆるハーフトラックとか呼ばれるもので、車体下部の前部がタイヤ、後部が無限軌道(キャタピラ)になっています。装輪式よりも整地での速度、部品耐久度では劣りますが戦車に比べれば充分高性能で、不整地での速度性能も幾分か改善されています。これを万能と見るか中途半端と見るかはプレイヤー次第です。

どちらの形式も装甲は紙で、障害の攻撃が当たった瞬間即死するレベルの車種も多いです。機銃がほぼ確実に装備されており、搭乗歩兵の存在もあるので意外と長生きする事もありますが、歩兵を使い切ったら死兆星が見える感じです。


地形

舗装道路、舗装道路(破壊)、非舗装道路、砂漠、泥濘、氷結道路、雪道、山岳、河川、森林等様々なバリエーションがあります。


実現にあたっての懸念事項

・原則レースゲームなので、この当時の戦闘車輌だとハイスピードによる爽快感が微塵も無いのが問題となる。むしろ、戦闘地帯を駆け抜ける緊張感を前面に押し出したゲームデザインにする必要がある。この為、榴弾や艦載砲のひゅるひゅるという音、航空機のレシプロエンジンの爆音、泥臭い戦場の雰囲気をよく描いた背景、といった感じのルック&フィールが非常に大事。

・購買層がミリオタのみと予想されるので、彼らに媚びるべくマイナーな車輌を多数出す。又、当時の記録フィルム等を用い、できる限り実写に近い駆動音を演出すると喜ばれると思われる。パンツァーフロントという前例もあるし、車輌の絵(3Dモデル)も造形は多少荒くていいからどうでもいいところを細かくするのが重要である。

・とにかくどれだけミリオタに受けるかが鍵。

・多分レースゲーム板で叩かれる。

これは売れない。






久しぶりの記事がこれか。

ちなみに、判っている人は判っているだろうが、記事の書き方とかオチの元ネタは某東方千年帝国協会である。いないと思うが、もしこの原案を使ってゲームを作ろうというキチガイナイスガイは私に連絡する様に。なに、一枚噛みたいだけだ。べっ、べつにロイヤリティが欲しい訳じゃないんだからねっ!!


フン族と西ローマ帝国の滅亡 4:最後のローマ人アエティウス、表舞台へ

2011年08月20日 00時45分13秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。昨日ツイッターのフォロワーが一人増えて、その人のツイートを見てたら「霧島家の人と仲良くなりたい、面白い」とか書いてあるから話しかけてみたら、AC関連記事では痛い人を観察する目で見てますと言われてリアルポルナレフになった霧島である。いやまぁ私が聞いたから向こうもそう言ってきたんだが、割と脳が空白になった。ちなみに、AC以外の記事は普通に面白いらしい。

その後、その人がごちゃごちゃ言ってきたので「お前も他人の話ちゃんと読んでおらんのか」みたいに言ったら飛ばし飛ばしに読んでたらしい。そりゃーなー、長いから叩く為に読むんだったら飛ばし飛ばしになる気持ちも判るが…仲良くなりたいとか言っててなぁ。例の記事の、霧島家非推奨んとこはまたぞろ追記しておいたが…まぁ、なんだ。

取り敢えずブロックしておいた。

いや、だって怖いじゃん。仲良くなりたいって言いながら同じ口で「痛い人を観察する目で見てる」とか言える人って。ヤンデレっぽいよ…スカトロマニアでもないのに「あなたの汚物も大好き」って言えてるって感じがする……


ま、本当にあった怖い話は置いておいて、今回はついに最後のローマ人アエティウスである。フン族は単一の王の下に統率された民族ではなかったと前から何度も述べているが、そんなフン族を一つに纏め上げたのは、アッティラの父の兄ルーア(と共同統治者の弟オクタル。アッティラの父はムンズクって人でオクタルとは別)であると言われている。

何せフン族側の文字資料が残っておらんので、本当にルーアの時代にフン族が一つにまとまったのか、とか、ルーアだけの功績なのか、とかは全然判らんのだが、ルーア王の時代に大分フン族がまとまったのは事実の様だ。それまでは、ローマの人間がフン族は王ではなく貴族が率いていると言っている通りの状況だったらしいからな。

ルーア王がアッティラに残した最大の財産は、この王権と具体的な領地だと言える。王権については説明した(説明の仕様がないともいう)が、領地についてはアエティウスを交えて説明する必要がある。彼はフン族を含む蛮族を撃退し続けた英雄であり、そうでありながら蛮族の理解者でもあり、又、アッティラの好敵手であり友であった。アッティラの時代において、否、アッティラ登場に至るまでの時代の流れにおいて彼を無視する事はできぬので、今回はアエティウスを取り扱う。

尚、今回は年表を用意してみた。第二回、第三回、今回と時代の区切りごとに改行してある。これで前回と前々回のおさらいをした上で、今回の年表、前回の地図そして本文と三つのウィンドウを展開する事で大変理解しやすくなる筈である。読みやすくなるかは知らんが。

370年 この頃、ゲルマニア最東部、黒海北方ウクライナ近辺にフン族到達
378年 東ローマ帝国で、西ゴート族による暴動が発生。
     ハドリアノポリスの戦いが生起し東ローマ帝国大敗。東皇帝ウァレンス戦死
379年 テオドシウス大帝が東ローマ皇帝に即位。軍制改革に乗り出す
     ゲルマン民族の雇用と騎兵戦力の充実が主
386年 西ゴート族、テオドシウス大帝に降伏。
     給金と引き換えに軍隊の提供を約束する。一部はパンノニアに定住
387年 西の簒奪者、マグヌス・マクシムス率いるローマ式重装歩兵軍団を
     テオドシウス大帝の率いるゲルマン民族の騎兵戦力主力軍が討伐
     東西ローマ帝国でローマ式重装歩兵の時代が終わりを告げる
394年 西の傀儡帝エウゲニスと実権を握るアルボガステスを簒奪者とみなし、
     テオドシウス大帝が討伐軍を発する。二人を敗死させ、東西ローマを統一
395年 冬営中、テオドシウス大帝が崩御。
     西を長男アルカディウス、東を次男ホノリウスに託す
     給金を停止された西ゴート族の王、アラリック一世征服王は西進を開始
     又、フン族が東ローマ帝国に最初の大攻勢を仕掛ける

396年 西ローマ帝国軍総司令官スティリコ、アラリック征服王を撃退
397年 スティリコ、アラリック征服王をマケドニアで再び撃退。
     その後北アフリカへ転進、ギルドーの反乱を鎮圧
398年 東ローマ帝国がフン族を撃退
400年 この年から翌年にかけて、スティリコがヴァンダル族を撃退
401年 スティリコ、アラリック一世征服王を三度撃退
     この頃、"最後のローマ人"アエティウス誕生
403年 スティリコ、アラリック一世征服王と四度目の戦い。撃退に成功
402年 西ローマ帝国皇帝ホノリウス、ラヴェンナへ遷都
405年 アエティウス、西ゴート族の所へ人質として送られる
406年 この頃、"神の鞭"アッティラ誕生
407年 ブリタニア軍の兵卒がコンスタンティヌス三世を僭称。軍を率いガリアに上陸
408年 スティリコ、西ローマ屈指の愚帝ホノリウスによって謀殺さる
     アエティウス、西ローマ帝国へ帰還。すぐにフン族へ人質として送られる
410年 西ローマ皇帝ホノリウス、ブリタニアを事実上放棄
     アラリック一世征服王、イタリアに侵入。ローマ陥落。
     この時ホノリウスの異母妹ガッラ・プラキディアが西ゴート族に連れ去られる。
     その後アフリカへの進軍中アラリック一世征服王病死

414年 ガッラ・プラキディア、西ゴート王と挙式
415年 西ゴート王国、南ガリアに事実上建国
416年 西ゴート王国からガッラ・プラキディアが返還される
417年 ガッラ・プラキディア、コンスタンティヌス(三世)と結婚
418年 西ゴート族と西ローマ帝国が正式に和解。
     西ローマ帝国が西ゴート王国建国を正式に承認する。
     又、国王にテオドリック一世が即位
421年 コンスタンティヌス三世、ホノリウス共同統治者として皇帝に即位。
     同年崩御
423年 西ローマ皇帝ホノリウス崩御。後継者争い開始
425年 西ローマ帝国の後継者争い収束。六歳のウァレンティニアヌス三世が即位
     摂政は母ガッラ・プラキディア。アエティウスはガリア軍司令官に就任。
     当時のローマ軍司令長官はフェリックス。
     以降、アエティウスはフェリックス揮下の二人の有力武将の一人として働く。
     尚、もう一人はアフリカ軍司令官ボニファティウス。
     以降はアエティウスとボニファティウスの権力闘争でもある


では本編だ。フラウィウス・アエティウスは西暦391年ごろ、今のブルガリア(地図でいうトルコの北西、ギリシャの北東、ドナウ川の南の国)あたりに生まれた西ローマ帝国の人間である。フン族が東ローマ帝国に最初の大攻勢をかけたのが395年つまり生まれてすぐ、死んだのが好敵手アッティラの死の直後であるからよくよくフンに縁のある男である。

どうでもいいが、私は「よくよく」→エンター→「ふん」→無変換→「にえんのあるおとこ」→スペース、という手順で打ち込んでるからいいが、全文打ち込んでからスペース押してよくよく糞に縁のある男とか出てきたらアエティウスは死んでも死に切れぬな。

まぁそれは置いといて、彼は軍人だった父を見習ってか宮廷に仕えた後近衛隊に入る。405年、つまり彼が391年に生まれていれば14歳の時、西ゴート族の所へ人質として送られる。三年後、戻ってきたと思ったら今度はフン族のところへ送られる事になる。一般に人質生活と言うと牢屋に入れられて生活するのを想像しがちだが、それは人質生活ではなく罪人生活である。

実際のところ、現地で教育を受けたり、交流があってそこに人脈ができたりもする。基本的に人質ってのは同盟とかを結んだ時、それを一方的に破棄されない様保険として要求するものである。例えばアエティウスの場合、西ローマ帝国と西ゴート族の戦争後、西ローマ帝国が西ゴート族に「ウチの軍隊に来ねェ?」と言った時に人質として行っている。

この同盟(?)を破られない為に、アエティウスは西ゴート族のところに行った訳である。当時はスティリコが存命中であり、西ゴート族との融和が模索されていた時期であった。もし西ローマ帝国が約束を破って西ゴート族を攻撃したりしたら、アエティウスは見せしめに殺されてしまう。ところで、もしこのアエティウスが、ローマ市内のそこらをほっつき歩いてた一般市民だったらどーぞどーぞ殺してくださいってんで同盟破りが手軽である。無論それでは人質の意味がない。

そう、人質というのは送り出す国の王子とか重要人物でなければならんのである。アエティウスも又、有力者の子弟であり将来は西ローマ帝国の指導者層となるであろうと考えられていた少年であった。まぁ近衛隊あがりってぐらいだからな。

人質とはそういうものなのである。当然、人質は手厚くもてなされる。相手は王子とかなんだからな、粗末に扱ったら国際問題である。そういう意味では、人質というより外交使節と呼んだ方がいいかもしれん。才気闊達な若者である事も多いから、人質として送られた先で気に入られ、そこの王が手放そうとしなかったりそこの家を継いでしまう場合もある。家督こそ継がなかったが、北条氏規とか一時期今川義元の次男だったしな。

特に古代ローマ帝国は人質外交上手と言われている。周辺国家(部族)から送られてきた人質を厚遇し、教育を施しローマ色に染める。で、その人質が成長し本国に帰還して指導者になった時、その人物はローマ大好きになってるから親ローマ政策を採り、結果ローマの地位は磐石になるという次第で、手八丁口八丁で地中海をまとめあげたローマらしい人質政策である。

さて、そんな訳でアエティウスは少年期を西ゴート族とフン族の間で過ごし、文化文明が爛熟し柔弱だった西ローマ帝国の人々と違い軍事的才覚に優れた人間に育ったという。才気闊達であったらしく、西ゴート族のところから返されて今度はフン族の所に行くという時、アラリック一世征服王が「かえして!アエティウスかえして!11!!」とか言ってたぐらいだから、ゲルマンやフンの軍事技術をよく吸収したのだろう。又、フン族の所に送られていた間、まだ若い「神の鞭」アッティラと親交を結んでおり、二人は親友であったとも言われておる。


一方、アエティウスの愛する西ローマ帝国はスティリコ死後ホノリウス的な意味で平常運転を続け、どんどん弱っていった。西ゴート王国(415年ガリアの南、今でいうフランス南西部アキテーヌ地方に実質的に建国)と和解して建国を承認、その代わりにガリア・イベリア半島防衛を任せる等の政策も行われていた。が、その西ゴート王国とて面従腹背なところがあり、基本的にはローマ帝国との協調政策を採っていたが、そうでない時もあった。

つまり焼け石に水だったという事である。

例えば、前回説明したブリタニアの反乱。年表だと407年に書いてある、コンスタンティヌス三世を僭称した男がブリタニアの軍隊を率いてガリアに上陸したアレだな。実は、ホノリウスの治世の間皇帝を僭称したのは彼だけではなく、合計七人にも及ぶ皇帝僭称者がいたのである。それほどまでに、西ローマ帝国は混乱の極みにあったのだ。

ただそれでも、何とかイタリア半島は守る事が出来ていた。何故それが可能だったかについては諸説あるが、その一つとして北アフリカをガッチリ握っていたからというものがある。アフリカというと、今でこそカダフィ大佐とか、砂漠と石油以外何もないとか、エイズとか、ジンバブエドルとか、ヨハネスブルクのガイドラインとか、YOUはSHOCKとか、そういう荒廃したイメージが強い。

しかし、実を言うと、いわゆるホワイトアフリカ、かつて白人が住んでいた北アフリカ一帯は当時の地中海世界で最も豊かな地域である。地図で言うとモロッコ、アルジェリア北部、チュニジア、リビア北部、エジプト北部。更に、イスラエルやレバノンといった地中海沿岸の中東一帯、アナトリア半島(トルコ)、加えてシチリア島(地図でマルタ島と書いてある所の上の島)も大変豊かな穀倉地帯であった。東ローマ帝国は、中東とアナトリア半島をゲルマン人から守れたが故に民族大移動時代を乗り切れたという説があるぐらいである。

我々は結構勘違いしがちだが、欧州、特に西欧は水は悪いわ土地は悪いわであり、当然の帰結として作物が全然育たない。場所にもよるが、一年間耕作した土地は一発で枯れてしまい、二年か三年寝かさないとダメという事も多い。そんなんだから、欧州は現代でもメシがマズい国が結構あるのである。ドイツなんかジャガイモと肉しかないぞ。

ローマ帝国、特にイタリア半島が豊かで繁栄していたのは、欧州が元々豊かだったというよりは地中海の富をイタリア半島に集めたから豊かになったと表現した方が正しいのだ。この時代は、何はともあれ穀倉地帯がなけりゃお話にならんからな。そういう穀倉地帯を、何とか確保できていたからこそ、お馬鹿が皇帝でも何とか生き残れたという話だ。アフリカに行くには海を渡らなきゃならないから、ゲルマン民族もなかなか手が出せなかったのである。


まぁ結局、愚帝ホノリウスがくたばった崩御した423年も、相変わらず西ローマ帝国内はぐちゃぐちゃであった。ガリア、イベリア半島はほぼ丸ごと失い、ブリタニアも事実上放棄。一部のゲルマン王国と同盟を結び、北アフリカと地中海の島、イタリア半島でなんとか生き延びている状態だ。しかも、ホノリウスは子を残さなかった。皇帝に子供がいなくて国内が不安定、となれば次に来るのは後継者争いである。

ホノリウスがくたばると崩御すると、当時の西ローマ帝国において最も有力であったといわれる人物(カスティノス。すぐ死ぬから覚えなくていい)が、当時第一書記であったヨハンネスという人物を指名する。これで話が収まれば良かったのだが、そうはいかなかった。

話は少し遡るが、お馬鹿皇帝として名高いホノリウスには、ガッラ・プラキディアという比較的頭の残念な異母妹、もしくは死神がいた。まぁ少なくともスティリコ暗殺に加担してる時点で頭は駄目と言える。彼女はアラリック一世征服王のローマ略奪の際ローマに住んでいた為、人質として連れて行かれている。その後西ゴート王アタウルフと結婚するも挙式から一年で旦那が死亡。

これがガッラ・プラキディアの死神伝説の始まりであると言える。私が勝手に言ってるだけだが。彼女は旦那が死んだ事もあり、416年、西ゴート王国と西ローマ帝国の和平条約交渉の際、両国友好を示す目的で西ローマに返還される。翌年、兄帝ホノリウス帝の命令でコンスタンティヌスという将軍と結婚する。

諸君は、先程「スティリコ死後の西ローマはホノリウス的な意味で平常運転」だったが、「西ゴートと和解したり」といった政策をやったと言った時、ホノリウスにんな事できるんかいなと思ったかもしれぬ。まぁ、なんだ。実際、できなかった。

こういった政策をやったり、戦争して西ローマ帝国を守ったりという役目は、このコンスタンティヌスが主導していた。いわばスティリコの代わりになり得る逸材である。スティリコと違ってローマ人であり、又、ホノリウスの信任もあったので、彼は思う存分腕を振るう事が出来た。その上、431年にはアウグストゥス、つまりホノリウスの共同統治者として西ローマ皇帝に即位したのである。コンスタンティヌス三世だ。

ちなみに、スティリコ存命中にブリタニアで反乱を起こし、皇帝を名乗った人物もコンスタンティヌスという名であり、コンスタンティヌス三世を自称している。が、あくまで皇帝僭称者という事でカウントされていない。僭称者が天下を取っていれば、ガッラ・プラキディアと結婚したこの人物はコンスタンティヌス四世になっただろう。

まぁともあれ、死神と結婚したのが運の尽きであったらしい。彼は皇帝に即位したその年に崩御してしまうのである。だが彼女の死神伝説はまだまだ終わらない。彼女の次の標的は、男ではなく西ローマ帝国という国である。まず、コンスタンティヌス三世の死後、彼女は東ローマ帝国に亡命する。これにはちゃんとした理由があって、色ボケしたホノリウスが妹に求婚したからである。

死神ガッラ・プラキディアは、コンスタンティヌス三世との短い結婚生活で男子を一人もうけていた。名をウァレンティニアヌスという。彼女は幼子を育てながら、コンスタンティノープルで時を待った。そして時は来た。そう、423年の⑨崩御である。ホノリウス死後皇帝となったヨハンネスは、いかに有力者に指名されたとは言え、テオドシウス大帝の血統でもなければむかーしの皇帝の血を継いでる訳でもない。

そこで、ガッラ・プラキディアは当時の東ローマ帝国皇帝、テオドシウス二世能書帝(例のテオドシウス大帝のバカ息子の一人、東のアルカディウスの息子)に軍隊の派遣を要請。我が子を西ローマ帝位につけるべく、西の帝都ラヴェンナに向けて進軍するのである。西ローマの有力者に支持されたヨハンネスvs東ローマに承認され母ガッラ・プラキディアに支持されたウァレンティニアヌスという図式である。

この後継者争いにおいて、アエティウスはヨハンネスについていた。まぁ西ローマの人間だしな。死神ガッラ・プラキディアが東ローマ皇帝を動かしたと聞いたヨハンネス陣営は、アエティウスに軍隊の出動を依頼。とは言え、正直言って西ローマの軍隊じゃどうにもならん。そこで、アエティウスは援軍要請の為、帝都ラヴェンナを旅立つ。

え?

誰に援軍出してもらうかって?

フン族に決まってるじゃないですか。

何せ彼はフン族との繋がりが深い。「神の鞭」アッティラは元より、その前王ルーアとも親交を結んでいるのである。ただ、この時期のフン族の内情は不明である。さっきも言ったが、ルーア王がフン族を一つに纏め上げたという説を採るとして、ルーアが「王」と呼べる存在になったのは432年説、410年説複数説があり、弟オクタルについても、共同統治していた説、していなかった説の二つがあったりもする。

なので、この時アエティウスがどういう援軍を連れて来たのかというのはよく判らん。ルーア王だって、初めて歴史に名が出てくるのが432年だからな。ただ判っている事は、アエティウスがフン族を引き連れて戻ってきた時、既にヨハンネスの籠もる首都ラヴェンナは陥落し、ヨハンネス以下重臣、有力者は皆して処刑されていた事。

そして、アエティウスが死神ガッラ・プラキディアが本気でビビるレベルの大軍を統率していた事、この二つである。アエティウスは帝位簒奪者の重臣であり、本来ならその場で処刑されねばならない。が、何せアエティウスの連れて来た軍隊、誇張もあろうが、その数六万である。とても東ローマ帝国の援軍だけでどうにかできるものではない。

しかしアエティウスにしても、仰いでいた主君が死んでしまっている以上どうしようもない。代わって自分が皇帝になれる国でもないからな。そこで、アエティウスは降伏の条件として一定の地位を要求。具体的にはガリア軍司令官を求めた。これは要するにガリア方面軍司令官という事で、かなりの高官である事は説明せずとも判るだろう。

で、ガッラ・プラキディアはこれを了承。まぁせざるを得んわな。んでフン族には、わざわざ軍隊つれてくるなんて真似させた事への賠償金を払い(勿論アエティウス側ではなくガッラ・プラキディア側が払った)、お帰り願った訳である。


こうして、死神の子「ウァレンティニアヌス」は正式に即位して「ウァレンティニアヌス三世」に。又、アエティウスはガリア軍司令官に就任する。以降、アエティウスは外に出てはガリアの蛮族を抑える為の戦いと外交に明け暮れ、一方ラヴェンナの宮廷では権力争いに集中するという二面作戦を強いられる事となった。

彼はガリア方面軍司令官となったが、当然ながら上官として西ローマ帝国全軍の司令官、つまり総司令官とか司令長官と呼べる人物がいた。それがフェリックスである。そのフェリックス揮下の有力武将の一人がアエティウスであり、もう一人がボニファティウスであった。更に、幼帝ウァレンティニアヌス三世(即位の時点で六歳)を従えた死神ガッラ・プラキディアがいた。

彼らとの権力闘争と、蛮族との戦い。次回はこれが主な話になるであろう。




いつになったらアッティラ出てくるんだオイ。




尚、ガッラ・プラキディアの死神ネタは当霧島家限定である事を申し添えておく。でも実際、こいつと結婚するとすぐ死ぬしこいつの子供が西ローマ帝国滅茶苦茶してるから、死神ってのもあながち外れてない筈なんだよな。

フン族と西ローマ帝国の滅亡 3:ゲルマン民族の侵入と西ローマ帝国の衰退

2011年08月16日 23時05分01秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。DQN達に荒らされたお陰でやる気がブレイクしてた霧島である。あまりのブレイクっぷりにより、記事を書く気どころかACfAやる気すら起きなくなって今はAC3Pをやっておる。やっぱりブレード強いと楽しい。まぁ3系は対人戦がクソな仕様だが、レイヴン時代にガチ対戦やりたかったらAAやってろと思っておるので何も問題ない。ぶっちゃけ、4までは「基本一人用だけど友達と対戦も出来るよ!」っていう程度のゲームと捉えてるからな。まぁ4系はオンライン対戦以外が酷いとも言うが。

取り敢えず2ch本スレから涌いてきた人について何か言うとしたら私がミサイラとかに勝てないっていう電波を何処で受信したのかという事ぐらいである。コメントでも述べたが、連ザのデュエルASとか連ザ2のストライクノワールとか、勝てても嫌いって奴だっていくらでもいるだろうに。強アセンとかについては見解の相違もあろうが、ぶっちゃけあんな書き方してる時点でただの煽りである。こんな芸風の人間が煽りに対してまともに相手する訳なかろうが。

ただまぁ、私がミサイラとか相手に勝率悪いのは事実だけどな。相手がミサイラーとかだと判った途端さっさと殺せよとばかりにやる気のない動きになるから。場合によっては動かなくなったり領域離脱するしな、そりゃ勝てない。勝てなくて悔しいです><ってなもんだ、勝つ気もないし。正直言って対重量機戦、特にガチタン戦の方が余程苦手である。対戦経験が少ないから、本当に苦手だ。

まぁ2chの厨房相手すんのは痛いからやめとけと某ぶぶり深い森1900の人に言われたので、以降、ロボゲ板本スレとかから突撃してきた阿呆がいても、基本全削除する、とだけ宣言しておく。まぁ氷って人みたいに長文書いたとかなら相手する事もあるが、あれもちゃんと文章読んでないしなぁ…まぁ煽り書いてくる連中に期待はしとらんと言えばそうだが。


さて、前回でフン族が出現した時点でのローマ帝国の状況については説明したな。

前々回、フン族が欧州に出現した当初は、フン族は一人の王の下に統率された単一の存在ではなかったと述べた。これは、西暦398年に東ローマ帝国によって撃退された時もそうだったし、それからしばらくの間、フン族内の統一は成されなかった。しかも、以前話した通りフン族というのは書物とかそういうものを全くと言っていいほど残さず消えてしまった民族である。

と言うのも、そもそも文字を使っていなかったらしいのだな。最後まで定住型の国家を作らなかったガチの遊牧民族だから、書物を持って移動するのも面倒だったろう。ローマ帝国の資料では、男は馬の上、女は馬車の中で育つとまで言われておる。そんなんだから、彼らは本当によく判らない。

例えば、395年の東ローマ帝国襲撃から398年に撃退されるまでの対ローマ戦最初期、この時期のフン族は名前がわかってる奴が一人もいないのである。いくら当時のフン族に単一の王がいなくとも、有力者なり勇将なり何なりがいた筈である。しかし名前は一切判っておらん。

基本的に、連中が文字を使わなかった以上彼らについて述べられている歴史資料(記録)というのはフン族に襲われた奴の記録であり、そういうので残っていると言えばやはりローマ帝国の記録である。当時あの辺に存在してた国で、歴史資料を後々まで残せる国と言えば、しばらくして西が滅んだとはいえ東西ローマ帝国ぐらいしかないからな。

つまり、奴らはローマ帝国と関わっていない時何をしていたのかというのがよくわからん民族なのだが、ローマ帝国と関わっててもよく判らない事多々なのである。

んで、こういう話をしたという事は、フン族は398年の敗戦後しばらく何をしておったのかよく判っておらんという事である。しかも一人の王の下に統率されていた訳ではないから、尚の事よく判らんのである。一応、どうやら西方に移動していたらしいという事、又、各部族ごとにゲルマン人や東西ローマ帝国の傭兵をやっていたらしいという事は判っている。

この時期に限らず、フン族は結構傭兵をやる。のちにアッティラの宿敵となるアエティウスも、フン族の傭兵を使って戦争した経験があるぐらいだ。又、フン族は強力な傭兵としてかなり広汎に使われた様で、西ゴート王国がフン族の傭兵を使って西ローマ帝国を攻めようとしたら西ローマ帝国もフン族を雇ってたという事もあった。

これは、それだけフン族が強力な戦闘民族だったという事であろう。又、彼らは傭兵稼業の合間にもゲルマン人国家や東西ローマ帝国を襲撃、略奪して稼いでおり、別に傭兵やらないと死んじゃう、という訳ではなかった様だ。全くの想像だが、傭兵は小遣い稼ぎぐらいに思っていたのかもしれん。何にせよ、単一の王を持たないフン族は、その戦闘力を武器に、略奪から傭兵まで幅広く稼いでいた様である。欧州がその舞台だった。

その略奪相手は、無論ローマだけではなくゲルマニアに広く住んでいたゲルマン人達も対象であった。まぁゲルマニアにはゲルマンだけじゃなくスラブ系、ケルト系の連中も多数住んでたんだが、めんどくさいのでゲルマンでひとくくりにする。一昨日頑張って地図を作ったので、まずはそちらを表示しよう。



いつもどおりクリックで拡大。そしていつもどおり、ウィンドウを切り替えながら本文と照らし合わせて読む事を推奨する。まず北のスカンジナビア半島…スウェーデン、ノルウェー、フィンランドを構成する半島の事だが、この辺が赤で囲ってあるな。この囲ったところがゲルマンの原住地であると言われている。スカンジナビア半島と、欧州大陸のバルト海沿岸部だな。

その後、寒冷化か何かでゲルマン人が南下を始める。それが赤茶色で示した、ゴートやらブルグントやらフランクやらジュートやらである。フン族が入り込んでくる前はこういう場所に住んでいたのだ。一方移動しなかった連中もいて、それがノルマン人でありバイキングである。

この、ゲルマン人が住んでいた一帯をゲルマニアと呼ぶ。基本的には、ローマ(イタリア半島)から見て、ドナウ川以北かつライン川以東がゲルマニアである。このドナウ川とライン川はゲルマニアとの国境として機能していた川である。こういう、川とか山によって国境線を引くというのは歴史上多数例があり、現代でも山や川を国境線にしている国があるぐらいである。

例えばこの地図でも、ライン川はスイスとドイツ、ドイツとフランスの国境に一部重なっている。ドナウ川もが東の下流のあたりでルーマニアとブルガリアの国境として機能しているな。又、フランスとスペインの国境、アンドラって書いてあるところに山があるが、このピレネー山脈も国境として機能している。

ちなみに、カエサルの「ガリア戦記」で有名なガリアはアルプス山脈の北、ライン川の西の地域を指す。もう一枚地図を用意したからこっちを見てくれ。えーと、アルプス山脈は、地図を見るとイタリア半島の北側に山脈あるだろう、それだ。ちなみにガリアの南端はさっき言ったピレネー山脈、西端は大西洋。

まぁ共和制ローマの頃はイタリア半島北部もガリアって呼ばれてたんだけどな。ローマ帝国になった頃には、もう「イタリア」とされておりガリアとは呼ばれておらなんだ。尚、フン族が襲ってくる前のローマ帝国の領土も二枚目の地図に書き込んである。

西ローマがイタリア半島とガリア全域、イングランド、イベリア半島(スペイン+ポルトガル)、北アフリカの西側。東ローマがドナウ川以南のバルカン半島ほぼ全域(ブルガリアとかボスニアとかギリシャとかある半島)、アナトリア半島(現トルコ)、北アフリカ東側。又、シリアやレバノンといった地中海沿岸の中東も支配に収めている。鉄道も電話もない時代にこんな帝国があったというのは一つの奇跡と言えるな。まぁずっとこんな大きさだった訳じゃないが。

あああと、結構適当に線引いてるから細かいとこまで信用しない様に。

さて、一枚目の地図に戻ろう。フン族襲撃直前は、ゲルマン民族は皆ドナウ川、ライン川の向こうに住んでおった。川を越えて略奪に来る事はあったがな。しかし、こいつらがフン族に襲われ、玉突き事故の理論でドナウ川やライン川を越える事になる。その最初が東西ゴート族であり、それによって東ローマの皇帝が戦死した事は前回話したな。

さっき、フン族は398年の敗戦後傭兵と略奪をしてたらしい、と書いたな。そして、どうも、彼らはローマ帝国だけでなくゲルマニアに住む様々な部族にも攻撃、略奪をしていたらしい、とも言ったな。このブルグントやらランゴバルトやらといった部族も攻撃を受け、次々と西進、ないしは南進したのである。明るい紫色で囲ったのが、ゲルマン民族の大移動によってできたゲルマン諸王国だが、西ローマ帝国の領土とかぶりまくりである。

かぶってないのってフランク王国だけじゃないか。

まぁ、西ローマ帝国が滅ぶのが476年なので、イングランド諸王国や東ゴート王国は滅亡後にできてるんだけどな。西ローマ帝国の本拠地を東ゴートが思いっきり制圧しているのはもう既に滅亡してるからである。この地図で注目すべきは東ローマ帝国の領地にはゲルマン諸王国がまるで入り込んでいない事である。まぁ入り込んでいないからこそ東ローマ帝国は長生きした訳だが。尚、東ローマが生き残った理由は多分次回に説明する。

さて、フン族とは関係ない様に思うかもしれんが、ゲルマン民族の大移動による西ローマ帝国の弱体化についてはやはりフン族と密接な関係があるので、説明しておきたい。


まず一つ理解しておかなくてはならんのは、ゲルマン民族の移動が発生した以上ゲルマン王国ができなくてもローマには大打撃という事である。何故なら、例えばヴァンダル族がゲルマニア時代に住んでた居住地とヴァンダル王国の位置を見比べて欲しい。

彼らは元々シュレージエンに住んでいた。これはポーランド、チェコ、ドイツの国境あたり一帯の事で、フリードリヒ大王が七年戦争の前のオーストリア継承戦争で獲得した土地である。一方、ヴァンダル王国はアフリカ北部とコルス島(ヴァンダル王国の島の北の方)、サルデーニャ島(同じく南の方)。つまり、最短コースだとしても、ヴァンダル王国建国にはヴァンダル族が皆でイタリアを縦断する必要があるのである。

勿論、その経路上にある都市やらは攻撃されるし略奪される。と言うか、前回も言ったが、そもそもゲルマン人は安住の地探しとその日の食料確保が目的なので、あっちへ行ったりこっちへ行ったりウロチョロウロチョロし、行き当たった都市で略奪するというノリである。ブルグント族も、ランゴバルト族も、東西ゴート族もそうだ。建国前であってもローマ帝国領土内を放浪してるのである。

となれば、ローマ帝国が大打撃を蒙るのも至極当然という訳だな。しかしそうであればこそ、東西ローマ帝国は平等に被害を受け、東ローマ帝国領内にもゲルマン王国が建てられててもおかしくない。では、西ローマは何が問題で、東ローマは何に成功したのか。

まず、西ローマ帝国は皇帝が大変お馬鹿だったという問題があった。前回説明したテオドシウス大帝は、ゲルマン人を使った騎兵中心の軍隊を作り上げて西のローマ皇帝位を簒奪した連中を討伐、その翌年に死んだ。彼は死にあたって、次男であるホノリウスを西ローマ皇帝に指名した(東は長男のアルカディウス)。が、こいつら、本当にテオドシウスの息子かというぐらい無能だったのである。

ただ東の場合救いだったのは、アルカディウスは無能な怠け者であって無能な働き者ではなかった事である。東ローマにはやはり有能な政治家、軍人達が沢山おり、政務、軍務は彼らがやった為特に問題は起きなかった。元々東の国内は結構まとまっており、そこまで無茶苦茶じゃなかったのも大きかった。

一方、西は深刻である。テオドシウス大帝は元々東の皇帝であり、コンスタンティノープルからわざわざ東から遠征してきたのは西の簒奪者を倒す為だ。要するに、西は皇帝位が簒奪される程度には荒れていたのである。そんな時に無能が皇帝になっちゃったから大変だ。

ホノリウスは皇帝になったのが十歳でしかもバカだった。故に、初期はスティリコという将軍が政務を行っていたのである。彼はゲルマン人といわれているが、実際にはヴァンダル族とローマ人のハーフであり、父は元ヴァンダル出身でありながらローマ軍人だった。テオドシウス大帝の側近の一人として軍功をあげた、優秀な壮年軍人であった(ホノリウスが皇位を継いだ時点で30歳)。

彼は有能であり、かつ斜陽の西ローマを支えた英雄であった。まぁ自分が皇帝位を乗っ取るつもりだった可能性もあるが、彼が西ローマ帝国を内外の敵から守り続けたのは事実である。西ゴート族の王、アラリック一世征服王の攻勢を退ける事四度に及び、他のゲルマン人も悉く撃退、その一方で、アフリカでのギルドーの反乱も鎮圧している。

しかしながら、いかにスティリコといえど広い西ローマ帝国の領土全てを守る訳にはいかない。結果として、ガリア、イベリア半島、ブリタニアあたりは軍隊もいないがら空き状態となった。ゲルマン人はこのガリアへ大挙して侵入。しかも、ブリタニア駐留のローマ軍がこの混乱に乗じ皇帝を名乗ってガリアへ上陸、ガリア、イベリア半島の連中はこれに従ったのである。

これはまぁ、仕方ないと言えば仕方ない。スティリコはガリアとかの兵隊をかき集めてゲルマン人からイタリアを守ったが、その分ガリアとかはガラガラであった。略奪し放題だったのである。そこに、軍隊を引き連れた者がローマ皇帝を名乗って現れたら誰だって従うだろう。とは言え、西ローマ帝国として放っておく訳にはいかない。

スティリコは、どうやらアラリック征服王と同盟し、彼らに反乱者を撃破させ、そのままガリアの防衛を任せるつもりだったらしい。ところが、だ。ホノリウスが兄にして東の皇帝アルカディウスの様に無能な怠け者なら良かったのだが、24歳になって野心が芽生えたのか、彼は実権を握るべくスティリコ謀殺を画策(側近の讒言を信じたともいう)。釈明の為ラヴェンナに訪れたスティリコはそのまま処刑されてしまう。

無能な勤勉が味方にいると非常に怖い。

話は前後するが、ホノリウスは即位当時、ミラノ(地図でいうと、東ゴート王国の「493年建国」の9と3の間)を首都としていた。が、ゲルマン人が西ローマ帝国領内を荒らし始めると、危ないってんでラヴェンナ(同じく地図でいうと「イタリア」のリの上あたり)に遷都。まぁそれだけなら問題ないが、以降そこから出なくなる上、スティリコ死後は軍隊をラヴェンナにだけ駐留させるという暴挙に出る。

軍隊がラヴェンナにいるという事は、当然ではあるが他の西ローマ帝国領土を守れない。属州にあたるガリアやイベリア半島(スペイン+ポルトガル)、ブリタニア(イングランド)どころか、本土イタリアすらゲルマン人によるヒャッハーし放題になってしまうのである。

テオドシウス大帝が死んでホノリウスが西を継いだのが395年。ブリタニアで反乱が起こった(と言うか皇帝僭称者が出た)のが407年、スティリコ暗殺が408年。そして410年にはそのホノリウスが、ブリタニアに向かって「おめーにやる軍隊ねーから!って事で独立させてやっから自助努力すれ」という感じの手紙を書いている。

当時、ブリタニアにもサクソン族等のゲルマン民族が多数侵入しており、又、ブリテン島に元から住んでたケルト人からの攻撃も続いていたのだが、イタリアすら蹂躙されてるのにどうせいっちゅーねんという話になったのである。当地に駐留していた軍隊も、例の僭称者がガリアに連れて行ってしまっていた。以降、ブリテン島は七王国時代(もしくは暗黒時代)に突入する。

更に…先程言ったとおり、斜陽の西ローマの柱石だったスティリコは、ゲルマン人とのハーフであった。彼自身がどう思っていたかは判らないが、周囲からは「ゲルマン人」と見られており常に偏見の目があったという。しかし逆に言えば、彼は帝国内のゲルマン人の防波堤だったと言える。ゲルマン人の攻撃により日々劣勢に立たされているのだ、ローマ人達が、ローマ帝国内に住むゲルマン人達を差別、殺傷する可能性は充分にあった。

しかしスティリコ存命中は、同じゲルマン人である彼こそが西ローマ帝国を支えていた。そのスティリコが謀殺された後、ローマ帝国内でゲルマン人殺傷事件が多数発生。これによりそれまでローマ帝国に従っていたゲルマン人諸部族が大挙して離反するという緊急事態が発生する。彼らが合流した先は、かの西ゴートのアラリック一世征服王の下。

彼は宿敵スティリコがいなくなったのを好機と見て(直接の契機は帝国との賠償金支払いの関係だが)イタリア侵攻を再開。ホノリウスの命令で、西ローマ帝国の軍隊はラヴェンナだけを守っている。アラリックはラヴェンナを攻撃する愚は犯さず、迂回してローマを包囲する。慌てての和平交渉が行われたが、これのやり方が又マズかった。

元々、アラリック一世は「征服王」なんて名前がついてるが、そこまで好戦的な王ではなかった。つうか、テオドシウス大帝の治世の頃、西ゴート族は東ローマ帝国の同盟部族であり、アラリック自身も西の傀儡帝エウゲニス討伐に軍功のあった人物である。それが、テオドシウス大帝のバカ息子その1ことアルカディウスが西ゴート族に給料を支払わなくなった為、略奪の為西に向かい、結果、スティリコ率いる西ローマ帝国軍と何度も激突した…そういう話なのだ

基本的に、ゲルマン人にとってローマ帝国は憧れの地であって豊かで高度な文化を誇るローマに自分も住みたいというのが多い。そうでないのもいるがな。大体、ローマ帝国があんだけでかいのにゲルマン民族は各部族の人口がそれぞれ何十万という程度しかいないのだ、全土の占領なぞ土台無理である。ゲルマン諸部族を統括する単一の王がいれば話は別だが、そんなもん無理だ。

この為、ローマ包囲時の和平交渉でアラリック征服王が要求した内容も大したものではなかった。賠償金と、パンノニアへの移住である。パンノニアが何処かと言われると凄く説明しづらく、wikipedia先生みたいにオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各国にまたがるとでも言うしかない。地図で確認してほしい。

しかしながら、愚帝ホノリウスはこれを拒絶。対立帝の擁立にも失敗したアラリックは、最終手段に出る。

そう。

ローマの陥落と略奪である。

ローマ帝国がまだ都市国家だった時代から難攻不落を誇った、かつての首都にしてローマ帝国栄華の原点は、ホノリウスというお馬鹿のお陰でもろくも壊滅したのである。…まぁ、そうは言ってもアラリックの略奪はそこまで酷いもんではなく、後の東ゴートの略奪や中世のランツクネヒトによる略奪(サッコ・ディ・ローマ)のがよっぽどヤバかったらしいが。

その後、アラリックはアフリカを目指して進軍するも途中で病死。後を襲ったアタウルフ、更にその後を受けたワリアはローマ帝国との和解に成功し、ガリア南部への定住、及び建国の許可を得る。西ゴート王国の誕生である。



ようやくアラリックが死ぬとこまで来たか。次回からは、いよいよ神の鞭と呼ばれた西ローマ帝国末期の風雲児アッティラと、最後のローマ人と呼ばれたその宿敵アエティウスの物語が始まるぞ。

アエティウスだけで終わりそうだが。