霧島家日誌

もう何が何だかわからないよろず日誌だ。

寒いゲーム

2009年12月27日 22時26分48秒 | アニメ、ゲーム、映画等
ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。色々と余裕のない霧島である。この間ついに携帯電話まで壊れたという話をしたと思うが、まーたPCの挙動が怪しくなってきた。特定の作業をさせている場合頻繁にフリーズするのだ。特にdaemon toolsを使ってる時は特に酷く、ことによっては十分でフリーズする。それとROだな。露店とかチャット看板出してさぁ一息つくか、と思って一時間後ぐらいに画面を見ると止まってる。お陰で情報募集しても読めない。涙目である。

取り敢えずこのままだとガンスリ祭の銃弓祭動画を作る作らないどころか、そもそも祭に参加できない訳だが、部品の調達とかの関係上、まだOS再インストールもできてない状態である。そしてまぁ年末年始だから横浜を去らねばならないし、学士論文は勿論、会社のPCの修理点検もせねばならん。もう終わったんだよオカラッシュ状態である。絵で表すと





こんな感じだ。一秒もかからず殺られる。

そんな訳で死亡してるんだが、年始のガンスリ祭どうしたもんかな。まぁ別のPC使えばいいから参加しようと思えばまぁできんことはないんだが…うーん。普通に二日開催すべきか?また銃弓祭なり銃賢祭なり企画祭をやるってのも一つの手だが…ともあれ、主催と参加者が連絡取れなければどうもならんな。何とかログインしよう。



さて、じゃあガンスリ祭の話はこの辺にして本題に入ろうか。

知っての通り、私は重度のゲーム依存症患者である。ゲームがないと生きていけないぐらいにゲームが大好きである。しかしまぁ、当たり前だが何から何まで全部好きな訳ではない。そんな中で私が一番嫌いなのは寒いゲームである。これはそのゲームそのゲーム固有の問題と言うよりはプレイヤーの問題だな。

寒いゲームってのは対人戦においてよく発生しやすい。例えば対戦格闘だな、スト2とか。私は昔サムスピ勢だった訳だが、月華もちょろちょろとやっておった。まぁ今となってはサムライスピリッツ以上にどういうゲームだったか覚えてないが、鮮明なのは技あかりである。

月華の剣士は、キャラ一人一人を選んだ上で『剣質』というのが選べた。二種類あって、力と技。力は攻撃力が高く、技は一撃一撃の威力こそ低いもののコンボが繋がりやすかった。まぁ判りにくいから例を挙げて言えば、技だと空中弱斬り→着地直後立ち弱斬りというコンボは大体どんなキャラでも繋がる。しかし力だと、空中弱斬りが当たっても立ち弱斬りがつながらないのだな。

で、あかりってキャラがいたんだが、こいつで技を使うと、マズいことに問答無用でハメ殺されるのである。月華はコンボゲーのはしり故にまだ練りこみの甘いところが結構あって、技あかりの攻撃が一発でも刺さったら死ぬまでハメられるのである。まぁ逆に言えば、技あかりを使わなきゃそれで良ゲーだったんだが、ともかく。

ゲーセンに行ったとしよう。で、月華の台に座って百円入れて、刹那(持ちキャラの一人)あたり使ってCPU戦してたら誰かが乱入してきたとしよう。


刹那 力 vs あかり 技


台パンである。

極端な話、私も技あかり使えばいいっちゅう話であると言えばそれはそうだ。しかしだ、そんなことして楽しいか?何の為にゲームをしておるのかという話である。勝つのはあくまで楽しむ為の手段であり、ゲームを遊び楽しむという目的さえ達成されるなら、ぶっちゃけた話負けたって何の問題もない訳だな。

また、大会であるとかそういったガチ対決の場合、むしろ一番強いキャラを使って当然、それが本気で勝ちにいくことであって、弱いキャラを使うなぞ挑発に等しいという考え方もあるであろう。まぁこれは一定の説得力を持っておる。大会は勝つのが目的であるからな。

だが。だがな。

本戦出場者の過半数が同じキャラってのはマズいだろう、それはそれで。闘劇07北斗の拳の本戦は本当に酷かった。あのゲームはトキが異常なまでに強く、特にいわゆる弱キャラと呼ばれる連中はレバーを後ろに倒すぐらいしかすることがないほど終わってる。もしある程度戦えても、ブッパッコーという糞技が刺さればそれで死ぬからな。結局、ひたすらトキとトキがぶっ壊れ性能を発揮し続けるだけの大会になってしまった。

決勝戦では、何とか勝ち上がってきたユダ(最近のキャラランクでは最強だが当時はそうでもなかった)が奮闘し、観客は大盛り上がり。そして「これはいけるか!いけるか!?」みたいな状況な状態になって、トキ一番の厨技ブッパッコーが炸裂。哀れユダは天に召され、全力で白ける会場と正反対に大喜びする優勝者紅の豚という滑稽な状況が現出した訳である。豚死ねとか普通に言われてたらしいな、当時。

ACfAなんかでも寒いってのはあるな。いくらでもある。レギュ1.4だと以前解説したマシンガン+スラッグガンのコンボとか、これは全作そうだが引き撃ちとか。引き撃ちの説明をするとややこしくなるから言わんが、簡単に言えば逃げながら撃つという立ち回りだ。

以前ランカー(全プレイヤーの内上位三十以内の人)とメッセージで話してたんだが、向こうも「引き撃ちすりゃ誰でも勝てる」って言ってたな。故に、AP(HP)高めの機体にして、後進用ブースターを最上級品にして、後はひたすら逃げ回ればいい訳である。追えば追うほど不利になるから、APの高い機体が全力で引き撃ちすれば絶対勝てるからな。

まぁそこを何とかする機体構成ってのもあるんだが、そういう機体は大抵普通の機体と当たったら絶対勝てないという感じに仕上がる為、結局限られた機体でしかゲームにならなくなってしまう。だから、あのゲームをやって楽しみたかったら、お互いある程度割り切ってやらないと駄目なのだ。我々は作業をする為にコントローラを握っているのではないのだからな。AC北斗の作業はアレはまた違うが。


ま、そんな訳で、私は寒いゲームが大っ嫌いである。間違えてほしくないのは、手を抜けとか舐めプレイしろとか言ってる訳ではない事だ。ゲームのプレイヤーは一人一人それなりのポリシーと言うか、ルールを持っておろう。それをおろそかにしちゃならん、互いの誠意を尽くしてこその真剣勝負ということだ。それがどんな厨プレイであろうともな。

もしくはこう言い換えても良い。ゲームは勝つ為にあるのではない、楽しむ為にあるものである、とな。手段と目的が入れ替わってる奴が最近多くて萎えるばかりである。

同じ厨キャラでガチプレイするのでも、真剣にやってるのと、ただ勝ちたくてただ優越感を得たくて強いキャラとか立ち回りに甘えてるってんのでは全く違う。



…なんかこんな事書いてたら殺意が湧いてきて大変なことになりそうであるからこの辺で終わる。どっちかと言うとACfAのネット対戦的な意味で。ちなみにこの法則は一人用RPGとかにも適用される。その辺は今度の記事にしよう。

性なる夜の過ごし方

2009年12月24日 23時59分59秒 | 雑学
ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。佐藤亜衣とかいう奴宛の郵便物が届いて困っておる霧島である。ちなみに私のリアルネームと比べると一字とて合ってない。しかも何が入っておるかと思えば口紅(の試作品)であった。何か新品サンプルプレゼントキャンペーンに当選しましたとか書いてあるんだが、住所は間違いなく私の家である。謎だ。佐藤亜衣とかいう奴は今すぐ申し出る様に。早晩捨てるぞ。


閑話休題。そう言えば今日は二十四日だな。性夜である。ナザレのヨシュアの記念日だ。中学ぐらいまでサンタを信じてた身としては何か贈答品がもらえる日という印象があるんだが、流石にこの歳になると無理だからな。最近はスルーしておる。

まぁ、所詮大工の小せがれの誕生日だ。聖なる夜だって、日本に来れば性なる夜である。メリケン連中は丸焼きチキンとか食べるみたいだがな。いつどこで聞いたかは忘れたが、高級ホテルでもこの日は偉い騒ぎになるそうだ。初めての共同作業的な意味で。つまり、別にそこらの若いのががっついてるだけではないということである。

元々日本人は性行為と神聖さを厳格に区別する民族ではない。これは西洋人の発想だ。基本的に西洋人の発想はイコールキリスト教の発想な訳だが、キリスト教は世界史上稀に見る女嫌い宗教だからな。本来のキリスト教はそうでないとかイエスはそんなこと言ってないとかあーだこーだ言う奴もいるだろうが、そういうものとして歴史上展開してきたのは事実なのである。

アレだ。本来ならキリスト教よりは男女同権を考慮するイスラム教が、今やブラジャー着けるだけで異端にされる状態になってるのと似たようなものだ。何度目か判らんが、一夫多妻制なのだって男が少なすぎてどうもならん状態だったから導入された制度なんだからな。

そもそも、『好き』という感情と『犯りたい』という感情は二つで一つである。そうじゃなかったら人類が滅亡する。性行為は気持ちよく、だから性行為をする、そしてその性行為によって子孫が生まれる。だから、性的な欲求を抱くというのは非常に自然なことなのである。

以前、性行為について取材した事があったんだが…ああ、もうちょっと正確に言うと出会い系サイトの取材である。もっと言えば援助交際の取材だ。今書いてる小説は時代劇風ファンタジーTRPGだが、当時は現代劇を書こうと思っててな。んでそういったダークサイドに属してるキャラを出してみたいと思って色々と聞きまわったり本読んだりした時期があったのだ。

話がそれたが、その取材を続ける内にアナルセックスが何故気持ちいいかって話を読んだ。それは勿論前立腺が刺激されるからで、その前立腺は肛門から直腸に繋がる部分にある為、ここに何かを出し入れすればそれは当然気持ちいいという仕組みだ。しかし、直腸から肛門へ移動するのは、普通は便である。

そう、排便は気持ちいいのだ。何故なら、排便が苦痛であったら生きていけないからである。まぁ気持ちいいと言ってもいまいちピンと来ないだろうが、排便前と排便後だと、出した後何となくスッキリするだろう。アレである。つうか、排便する度にイってたらそれはそれで生きていけん。

斯様に、人間が生きていく為に必要な行為というのは自然と"快"の感情を得る様になっており、逆に危険な行為に対しては"苦"を与えられる様になっている。もし痛覚がなかったら、縫合中誤って針が指を貫通したりしても「おおうミスったミスった」程度にしか思わん。これが高じると、車に轢かれても「おお、びっくりした。まぁ何ともな…ん?歩けないぞ?」とかなったりする訳だ。

そして、性行為というものは子孫を残すという至上命題を背負っているものである。ゆえに気持ちよくて当然なのだ。しかし、性行為そのものはいいとして、四六時中発情してる訳にもいかん。性行為を欲求するスイッチが必要となるだろう。ここで思い出すのが、大分前に読んだ話だ。

これはいわゆる聞いた話であり正しくない可能性も非常に高いんだが、まぁどんな話かって、脳内麻薬ってあるだろう。エンドルフィンとかドーパミンとかな。その分泌量を調べてみたところ、好きな人もしくは裸体等の美男or美女とかを前にした「ヤりたい」という状態の分泌傾向と、クスリをキめてる時の分泌傾向が極端に類似してるらしいのだ。

人間の「好き」というのは、性行為や性欲という要素を欠かす事ができんということだな。


一時期プラトニック・ラヴとかいうのが流行ったな。子供の頃の話だからよく覚えておらんが、セックスレス夫婦がTVで紹介された時期もあった。ああいうのは、こういった見地からしてみれば極めて不適切であり「私は敗北主義者です」と書いたプラカードを首からぶら下げるべきである。

判りにくいギャグだ。

ともあれ、「好き」と「性」の関係は本来こういったものである筈だ。日本もそうだな。江戸時代から明治、大正にわたって大きく変容した(と言うか江戸以前と江戸以降の日本人はほぼ別の民族)が、基本的に「恋」という概念は日本にはなかった。あるのは「色」であり、まぁ要するに性欲と愛欲がワンセットになった考え方だ。男は惚れた女を抱いて当たり前、女は惚れた男に抱かれたくて当たり前。嘘みたいな話だが、講談なんぞ見てると同居してるのに自分を一向に抱こうとしない男に、もう私は嫌いなのね的な攻撃を加える場合が結構ある。

これはこれで極端だという話もあるが、これの真逆が西洋人である。と言うかキリスト教。連中は性行為が嫌いで嫌いで仕方なく、愛と性を厳格に区別する。はっきり言ってあいつらは病気だ。何せ、夫妻が仲良く愛し合ってるところを使用人に見られ、道徳にもとるとして立件されたぐらいだからな。中世の話だが。

恋とか愛ってのはあくまで精神的なものであって、肉体的なものであってはならんのだ。だから修道女なんかは結婚しないし、神父も結婚しない。当然子作りもしない。当たり前だな、性行為は忌むべき行為なんだから。

まぁ、なんだ。

つまりこいつらの理想を実現すると一世紀ぐらいで人類が絶滅するな。

汚れた性行為を下々の連中にやらせといて、自分は宗教的貴族気取りですか。うどんで首を吊りつつ豆腐の角に頭ぶつけながら臍噛んで死ね。

…ついいつもの癖が出たな。まぁ私がキリスト教嫌いなのは周知の事実だからいいとして、要は別に聖なる夜だろうが性なる夜だろうがどっちだっていいじゃねーかって話である。世の中何でもほどほどで丁度いいんだからな。そいつらはそいつらなりに楽しめればそれでいいのだ。



…オチがないな。

仕方ない。

愛人随時募集中。

屋根の上転がします

2009年12月23日 03時08分21秒 | 日記
ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。今年二回目の救急車を体験した霧島である。ここ一週間ほど音信不通だったのはそのせいだ。怖いですね、発作。まぁ割ったガラスを弁償せねばならない訳だが、道路上で倒れてキキー!ドン!よりはいいから気にしないでおこう。

しかし、なんだ。私はドコモ(ツナガラナイ)の携帯を使っておるのだが、これ、iコンシェルというサービスがある。電話帳やメールのバックアップを自動的にとってくれたり、それ以外にも天気予報なんかもしてくれる機能である。便利で重宝しておる。と言うか、冒頭で言い忘れたが、携帯が壊れた。もうね、本気でお祓いしてもらおうかな。

閑話休題。そんなiコンシェルだが、その中に鉄道運行情報というのもある。自分の住んでる場所を登録しておけば、その近くにある鉄道が運行見合わせになったりすると教えてくれるのである。まぁ、私が主に使うのは台風が来ても止まらないと有名な東横線だがな。慶應義塾高等学校などは天災による休校の基準が東横線で、東横線が運休になれば休校だが東横線は絶対に止まらないから急行にならないそうだ。

んでこの運行情報なのだが、ここ最近やたらと鉄道が止まる。何なんだろうと思ってたら、こんなニュースがあった。


首都圏の鉄道の運休や遅れの本数が昨年度、4万600本に達し、その半数以上が自殺に起因することが、国土交通省の調査で明らかになった。
(中略)
全国の輸送障害は2008年度、07年度から1000本ほど減ったものの、首都圏だけで見ると4400本も増加。首都圏での原因トップは「自殺」で、07年度から2900本増えて2万1100本に上った。自殺に次いで多かった「信号設備などの故障」によるものは7200本だった。




ああ、そういやもう年末だったな。

まぁそんな訳で次々と飛び降り自殺が発生しておる様である。当たり前だがな。麻生が政治生命を捨ててまで経済対策したのにその補正予算止めたし、事業仕分けというショーをやって余計に予算作成が遅れとる。前にも言ったが、この間の衆院選挙が始まった時点で、既に補正予算に基づいて経済界は動いておったのである。補正予算を前提にした入札だってあったんだからな。

それがこのざまだ、自殺者が出ない方がおかしい。もっと死ぬだろう。特に建築関連は真面目にヤバい。この間も某マンションの最大手の建築会社が潰れたしな。あの会社、そこらの1部上場会社より余程デカかったにも関わらず頭がバーンになったんだから、零細企業なんか次々とあぼーんだろう。


そんな未来のない建築業界だが、もっと未来がないのはその建築業界が作った家である。特に建て売り。そもそも、建築業界が戦後ずっと右肩上がりだったのは戦争で悉く家が焼けたからである。家がないんじゃ作るしかないって訳で、需要はいくらでもあったのだ。

しかし、時代は変わった。今は少子化どころか人口減り始める時期に差し掛かりつつある。そうなると、家の需要はどうしたって減る。すると、それまで大量需要に応えてた建築会社も、当然減るしかない。しかし会社を潰したくはない。そんな訳で、安値をウリにして生き残りを図ったのである。では、どうやって安くするか。

手抜き工事である。

基本的に、耐震性だの何だのの対策機能とかは、追加すれば追加するほど金がかかる。当たり前だがな。そんな金のかかったまともな家は、供給過剰な建築業界では商品価値が低いのである。要は売れないってことだ。しかし、儲けが出来なければ倒産だから、どうにかして売らなければならない。

何でもそうだが、とにかく売りたい売らないと死ぬという状態になると価格競争になる。牛丼なんかそうだな。一昔前は安くてそれなりの吉野家が強かったが、最近はすき屋が290円(だったか?)に値下げしたりして戦争しておる。しかし、値下げすると単純な収入は減る。当たり前だな。安い値段で売る訳だから。

いくら大量に売れても、売れば売るほど赤字とかだと早晩潰れる。民主党も似たよーなことしとるな。まぁともかく、値を下げつつ、利益を維持もしくは増やさねばならん。じゃあどうするかってところで出てくるのが、手抜きだ。

牛丼に例えれば、アレは牛丼として客に出される前に色々な工程を経ている。米を購入して炊き、牛肉を入手してバラバラに分解した後調理して、それからようやく牛丼になる。勿論、牛丼のタレとかだって金がかかる。安売りする場合、これら原材料費を低くせねばならない。じゃないと収益が維持できないからな。

んで、手抜き工事に戻ってくる訳だ。家だって、安売りするなら家そのものを安く作らねばならん。コストダウンだ。安く作ったものを安く売るのである。そして、言うまでもないことだが、安くする=手抜きするということである。ニアリーイコールでもいいかもしれんがな。

この辺については以前話した訳だが、先日やんごとない事情で光回線工事の現場に行く事になった。eo光だ。まぁ工事とは言っても家を視察してこうこうこういう感じで工事しますよ、っていう設計段階だったんだが、私はやることがない。しょうがないから変な真似しないように監視だけしてた。

で、色々見て回って設計図が完成。話を聞くに、光回線を引っ張ってくる元の位置とモデムの位置がまるっきり逆であるらしく、そこは光ケーブル這わせるしかないねぇ、と。んで私も、その話聞いて(縁の下通せば問題ないだろ)と思って聞いてた。実際縁の下を何度もガン見してたからな。


そして設計を組み終えて説明の段になり、光ケーブルをどう這わすかという話に至った。

家主「で、光ケーブルどう這わせんの?」



























eo光「屋根の上転がします」












三秒ほどザ・ワールドが発動した。

その後、二重に保護するだの何だの言ってたんだが、こっちはもう死ねよお前の一点張りである。しかも「私が工事するならできますが実際には違うとこがやるんで」と言い逃れまでする始末。結局工事は近所の電気屋に委託したんだが、しかしなぁ。

縁の下ぐらい入れよ。

PS3とXBox360の違い

2009年12月16日 22時56分33秒 | アニメ、ゲーム、映画等
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。街中で発作起こしてコンビニの扉ガラスに倒れこんだの頭突きになってガラス割った霧島である。と言うか明後日の準備何もしてないじゃないか…どうしよう。


さて、前回の記事にコメントが色々とついておった故、最近の次世代ゲーム機のPS3、箱、そしてwiiについてである。

PS3と箱○は仕様上どう違うのかと言われると、まず一つ目はROMの規格である。ブルーレイだHDだと以前ソニーと東芝が争っていたが、勝ち残ったブルーレイをPS3は読むことができる。一方箱○は読めない。まず第一に痛いのはここだ。DVDとブルーレイディスクとの違いはまぁ容量の違いなんだが、ブルーレイは50GBぐらい入る。普通のDVDは4.7GBしか入らない。二層でも9.4GBだな。

まぁ10GB以上使うゲームなんてよっぽどの超大作ぐらいしかないし、だからこそ箱もそこそこ売れておった訳だ。PS3と箱○どちらでも発売というのも多いしな。しかし、箱はDVDしか読めない故、超大作がPS3でしか発売できないことになりうるのである。メタルギアソリッド4はブルーレイ二層を完全に使い切ってるんだが、だからこそ箱○では出せないのである。

逆を言えば、箱○のソフトはPS3に夜逃げできるということにもなる。箱○のキラーソフトであったテイルズオブヴェスペリアと忍者外伝は夜逃げしたしな。将来のゲームの容量がどれぐらいになるかは判らんが、その点において危ないのは間違いない。

そう言えばFF13って容量いくらぐらいなんだろうな。綺麗な3Dモデル見る限りではDVDじゃ容量足りなさそうだが。


まぁしかし、ソフトの品揃えで箱○が有利な点もある。アレはマイクロソフトが作ったハードだから、洋物という事である。その為、外国のソフトが多く揃うのだ。

だがこれ、ちょっと問題なのは洋ゲーはPCでも出来るというところである。その上洋ゲーは箱○版よりPC版のが発売が早い場合が多々ある。であるから、この点も微妙と言えば微妙である。勿論要求スペックはそこそこ高いからPCがショボければ選択肢に入りうるが、ゲーム向けPC7万!とか言ってる店多いしな。

洋ゲーのもう一つの問題は、ジャンルが非常に限定される点もある。殆どがFPSやそれの生まれ代わりみたいなのだから、そういうのは基本やらないって人には嬉しい要素が全くない。

しかし、箱が強いのは洋ゲーだけではない。では何が得意か。




エロゲーである。


エロゲーといってもガチのエロゲではなく、DOAであるとかランブルローズあたりのことである。又、アイドルマスターやドリームクラブといったギャルゲ系のゲームも多い。この辺はPS3には全くと言っていいほどないジャンルだから、おっぱい!おっぱい!したい人はゲイツ箱を買うべきである。


他に重要な要素として言えるのは値段かな。ゲイツ箱は色々なバージョンがあるが、大きく分けて三種類ある。即ち、エリート、アーケード、無印だ。んで無印はもう生産終了してしまった様だから事実上エリートとアーケードの二種類だ。この二つがどう違うかは、まぁ簡単に言えばエリートが高級品でアーケードが安物という名前の通りの違いである。

具体的に何処が違うかと言えば、一番違うのはハードディスク内蔵だ。アーケードにはハードディスクが入っておらず、インストール必須ゲームが遊べないのである。勿論ハードディスクを別売りで買って自分で入れてもいいんだが、だったら最初からエリートでいいがなって話になる訳だ。

ハードディスク以外でも、エリートは内臓パーツがいい奴入ってるからな。何せXBox360は頻繁に壊れるからな、エリートのが安牌だ。それでも壊れる時は壊れるし、開発者が箱はぶっ壊れるものって言ってるのである。まぁPS3も壊れる時は壊れるんだが、頻度はかなり違う。で、この間出た薄型PS3とエリートは値段が一緒であり、だったらPS3でいいって話になる訳だな。


まぁこの日誌にGK乙とか書いてくる馬鹿が出るのが予想されるが、薄型PS3が出る前からPS3の売り上げは箱の三倍だったからな。あああと、PS3排撃の為に必死になって叩いてるゲーム(MGS4とか)もこの世の中に存在するから、気をつけるように。その辺の評判だけでゲームを判断すると良くないということだ。FPS厨がバイオ叩いてるみたいなもんである。



以下米返信

>バロス氏

ゆとりゲーとやってる連中っていうのは、現実世界のストレスをゲームの世界に持ち込んでますからね。ボタンを連打するという死ぬほど低いゲームストレスを乗り越える事で快感を得てる訳です。つまり死ねってことですね^^

wiiは私も全然やってないからなぁ。ゲームキューブのゲームですが、リメイクバイオとバイオゼロは名作です。仲間同士で盛り上がったりするならスターフォックスアサルトとか。wiiは普通のゲームの定義にはいらないゲームが多い…マウスは今度マウス狂いに聞いてみます。

ってドイツをやっちゃったのか…何もないですからね、アレ。


>2の十八乗氏

いあ、DMCは初見だとそんな感じになりますw 元がバイオハザード4として開発されてた名残で謎解きが多いし、アイテムを使う前提で難易度調整されてますからね。3はそういうのないんでお勧め。


>ししおうそ氏

(´・ω・`)

書き直してる奴今度送ってみるかな…

ゲームとストレス

2009年12月14日 15時14分17秒 | 雑学
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。卒論本気モードの霧島である。三分の一だか半分だかは書き終わったんだが、ここから先は参考文献をまだ読んでない段階だからちと時間がかかるな。まぁあと一ヶ月を切ってしまったから、更新に穴があくのは許してくれ。

さて、ここのところ政権が法律違反どころか憲法違反までやりまくっておるからニュースを見るのが苦痛なんだが、まぁ偉い人の話はもう終わってるからいい。ところで私信になるが、ししおうそ氏と黒楓氏から感想貰ってないんだが仕様かな?つまらなかったらつまらなかったでいいんだが。挫折したでも。


最近、と言っても半年ぐらい前の話だが、理解したことがある。特に最近ゲームをやってて強く思うようになった。即ち、ゲームにストレスは絶対不可欠ということである。

そもそも、ゲームというのは何故楽しいのか。少なくとも諸君は楽しいと思う人々であろうが、諸君の親、祖父母はそう思っていない人かもしれぬ。そういう人にとっては、ゲームしてて何が楽しいのかと思っていると筈だ。実際、自分がゲームやってて思う「楽しい」の基準はよう判らん。

例えば、私は最近ロマサガ2をやっておる。んで、普通ではなくやりこみとして4000年プレイをやっておる。4000年プレイとは、あのゲームは1000年からン始まるのだが、普通にやると2000年ぐらいで終わる。んで、何年経ったという基準は何かと言うと、戦闘回数だ。即ち、50回戦闘をやれば50年経つのである。つまり、普通にやれば戦闘回数1000ぐらいでクリアできる訳だが、3000回以上戦闘しようというプレイである。色々条件があって、4000年ちょいがギリギリなのだ。

すると、ひたすら私は戦闘せねばならんのである。皇帝を選んでパーティを組んで、ただ黙々と戦い続けるのだ。今は大体2700年ぐらいだから、1700回ぐらい戦闘したことになるな。落ち着いて考えよう。変態だ。

何が楽しくて黙々と戦闘しておるのか。一応あのゲームは技の会得とか武器防具開発とかあるから戦闘してるだけではないが、それがどうしたと言われたらそれまでである。実際、大体の技能がカウンターストップし始めた上にイベントが殆ど終わったから、後は黙々と戦うだけだな。最終的にはクリア時の年代に「4007年、七英雄との戦いにピリオドを打つ!」とか書かれるのを目指してるんだがそれの何が楽しいのか。

大体だな、極端な話を言ってしまうと、その4000年という年代表示は解析してしまえばボタン一つで出来る訳である。存在するセーブデータの該当部分をちょこちょこ弄るだけで、4000年と表示させることができるのだ。にも関わらず、何故わざわざ戦闘を繰り返して1年ずつ経過させているのか?

そこで出てくるのがストレスである。人間という生物は、快感というか「楽しい」というものが必要不可欠であるらしい。そんなことを理系の偉い人が言ってた。バイオ三上とかデビルメイクライ4の宣伝もそんな事言ってたな。人が楽しいと思う為には、まず何かしらのストレスを与え、それを乗り越える必要があるそうだ。


例えば友達付き合いを考えてみよう。友達と一緒に遊ぶのは楽しい。楽しいが、友達付き合いは楽しい事ばかりではない。友達ゆえに喧嘩することもあろうし、表面では笑っててもイラッと来てる場合もある訳である。遅刻した癖に謝りもしやがらねぇとかな。

又、話題を合わせるのも重要である。男は趣味が一緒な奴が集まる場合も多い様だが、女の場合は友達と話題を合わせる為にドラマ見て勉強しておくという挙に出なければならない場合も多い。このドラマつまらんな~と思っておっても、後で笑い話をする為に勉強せねばならん。

もっと簡単な事で言えば、待ち合わせである。友達と一緒に遊ぶ為に、日曜9時に横浜駅集合だとしてみよう。はっきり言って、休日の朝早くから起きて身支度して出かけるというのは結構なストレスである。電車の中では携帯ぐらいしかやることもなく、本当なら寝てていい時間を浪費したりさせられる訳だ。

しかし、そういうストレスを乗り越えるからこそ友人に会った時嬉しいのである。

ゲームもこれと同じである。さっき言ったロマサガ2の4000年プレイなら、黙々と戦闘し続けるストレスを乗り越えるのが楽しいのである。逆に言うと、ストレスがなければ、どんなゲームでもつまらん訳だ。

ここで問題になってくるのがプレイヤーである。実際そのゲームを遊ぶ連中だ。例えば、三国or戦国無双シリーズってのがあるな。三國無双2が爆発的に売れた訳だが、アレはゲーマー向けの難しいゲームである。武将ごとの挙動の特徴を理解し、体力ゲージ無双ゲージをしっかり管理して、全体の戦況を確認し苦戦してる連中を助け、そして自軍を勝利させるゲームである。何も考えずボタン連打してるだけでは永遠にクリアできない。

しかし、三國無双2は一人で大量の兵隊を弾き飛ばすということが出来た。ここにヌルゲーマーもしくは一般人が注目し、おらーって殴ってばしこーんって吹っ飛ばして楽しんだのだな。しかし、彼らはゲームにストレスを求めてはいなかった。

ここが重要である。ゲーマーは、高難易度に挑戦して何度も何度も死にながらどうにかクリアしようとする。そしてクリアできた時、それは極上の「楽しさ」なのだが、クリアするまではストレスが溜まり続けるのである。これが、ゲーム以外の生活と関係してくる。

と言うのは、極端な話、リアル生活のストレス(会社の仕事によるものであれ学校の人付き合いであれ)をゲームで発散したい場合、それが高難易度のゲームだとクリアできなくてストレスしか溜まらないという事態に陥る場合があるのである。私はこれを何度か体験しておる。私がガチで鬱ってた去年や一昨年、鬱病なのだから当然、ストレスが溜まっているこれを発散する為に無双をやったりしてクリアできなかったりして、ストレスのあまりコントローラ投げて壊したのである。

だから、ゲームというのはゲームとしての出来不出来のみならずどういう人が遊ぶかというのも重要になってくるのである。三国無双シリーズは、2まではゲーマー向けの難しいゲームであった。しかし、購買層がヌルゲーマーに占められるようになれば、何も考えずボタン連打でクリアできるゆとりゲームになって当然、否、それが正しいのである。


いつ読んだか覚えてないが、バイオ5のamazonのレビューに頭の弱い人物の書いたものがあった。三上が公式で「楽しいと感じるにはストレスが必要になる」と言っていたのを差して、「こいつは馬鹿である。ゲームでストレスを感じたい人などいない。ゲームは楽しいものであるべきだ」みたいなことを書いておった。

よく恥ずかしくないな。

まぁつまり、こいつの言いたいことを変換すれば適当に銃撃ってりゃゾンビの頭がバーンになるゲームにしろということである。そもそもストレスの塊であるホラーゲームに無双的な爽快感を求めてる時点で頭が悪いのは間違いないが、こいつは自分のやるべきゲームは判っておらん訳だ。

今のハード状況で言えば、ゲーマーはPS3を買うべきだ。そして一般人はwiiを買うべきである。それぞれ、ゲーム自体の設計思想が全く違うからである。


まぁ結局何が言いたいってゲハ廚FPS廚腐女子その他諸々全部死ねということである。

まる。

ロマンシングスタイル

2009年12月09日 17時31分50秒 | アニメ、ゲーム、映画等
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。卒論提出まであと一ヶ月を切ったというのにまだ史料を読んでおらんばかりか、家の中がケイオスタイト化してて身動きの取れない霧島である。ちなみに、ここんところの更新が少ないことから判るように学校にはあんま行っておらん。どうにも身体の調子が良くなくてな…



しかし、その、なんだ。本気で日本終わりそうだな。鳩山の迷走っぷりが酷いの何の。お陰さまでジャスコ岡田の顔が酷いことになってるしな。しかし皆忘れておるかもしれんが、鳩山はあくまで飾りであって実権を握ってるのは小沢ということだろう。産経の記事にあったが(私は新聞ってのは信用しないんだが、MSNニュースが産経なもんで産経だけたまに読んでる)、日本が岩手県になっていくというコラムの題名に吹いた。

小沢は岩手県が地盤なのだ。で、優秀そうで将来ライバルになりそうな奴は徹底的に潰すし、自ら積極的に介入しなくても業者がご機嫌伺いに来るように仕向けておる。皆鳩山が何だと騒いでるが、そこんんところ忘れないでくれ。陳情だって全部小沢に届く仕組みになってるんだからな。

ま、マスゴミが一番悪いってのは変わらん訳だが。


さて、前回のおまけを今回書こうと思っていたのだが、同じような話ばかりだと飽きるかもしれんから別の話でもする。

最近、ゲームはロマサガ2をやっておる。歴代帝国の皇帝になって世界制覇するゲームだな。ACfAとか無双をやりたくない訳ではないのだが、いかんせんあの辺は一回やり始めると一時間はかかるゲームである為、サッと始めてサッと終われるゲームに切り替えたのだな。時間ない訳だし。

で、以前も話したかと思うが、あのゲームはいい人ぶって平和にクリアするか気に入らんもんは全てブチ殺して押し通るゲームである。特に後者のロマンシングスタイルは2で確立されたと言ってよい。いやまぁ初代にもそういう要素があったが、2はこれをやると結構つらい。

例えば、南バレンヌの龍の穴イベントである。ここにはニーベルという街があり、龍の穴という格闘家集団がニーベルを守っている。この為、立看板には「この街荒らすべからず 龍の穴」とか書いてあるし、街娘に話しかけると龍の穴の格闘家は無敵よ!とか言ってくる。

しかし、ニーベル近辺のダンジョンにいるモンスターの一部は格闘攻撃を全く受け付けない為、龍の穴の格闘家も手を焼いておる。それでそれで龍の穴に行くと、「あの格闘攻撃効かない敵だけ倒してくれ、ボスは俺が殺る」と言ってきて、協力するとボスだけ倒して「これで面子が守れた」と言って仲間入りする。

プレイヤーがこの話をどう思うかが問題である。一部の敵に攻撃が全く通じない龍の穴は、言ってみれば張子の虎に過ぎない。ニーベルの住人が実情を知ったらアナトリアのネクストは置物か!?とか言って帝国に助けを求めること請け合いである。実際、事情を知ってるらしい住人は皇帝に助けてくれと言ってくる。

考えてみよう。極端に言えば、龍の穴の格闘家は役に立たないクズであり、しかも、帝国に協力を求めたばかりかボスを倒すという最後のいいとこだけ取っていくのだ。だから帝国領になった後も、ニーベル住民は「龍の穴の格闘家は無敵よ!」とか言ってくるのである。

イラッと来るよね^^

そこで、龍の穴の格闘家を無視して、ニーベル付近のダンジョンのボスを倒してみる。すると、龍の穴の面子は丸潰れである。で、これでは面子が守れんとか言って、皇帝に一騎討ちを挑んでくるのだ。んで、ただでさえクズの癖にプライドが無駄に高いこと甚だしいとか言いながらブチ倒す。

すると、ニーベルの立看板には帝国領ニーベルと書かれ、街娘は「これからは帝国の時代ね!」とか言い始め、他の住人も「帝国万歳!」とか言ってくるのである。

大変気持ちがいい。

しかし、これ、やるのはなかなか難しい。と言うのは、ダンジョンのボスがかなり強いのだ。普通に育ててきた皇帝にとっては、ボスを倒すことがかなり難しいのである。んでそれだけならいいんだが、格闘家も結構強いのだ。この戦いは一騎討ちで、接近戦を挑むと全てカウンターで返してくる。普通のプレイヤーは剣術とかを育てているから、全ての技をカウンターされなすすべなく負けるという事態になる。

しかも、一騎討ちであるからか、敗北=崩御になってしまう。ダンジョンの一部のモンスターが倒せないような役立たずのクズをあざ笑う為に自分でボスを倒したのに、一騎討ちに負けて恥を晒しながら崩御して世界の笑い者になる訳だ。つまり帝国(笑)皇帝陛下(笑)

しょぼんだな。格闘家のカウンターを防ぐには、弓か術といった遠距離攻撃が必要になる。普通、このイベントをやる時期のプレイヤーは殆どこれらを育ててない為、かなりきつい。


斯様に、自分の意志を押し通す為にはそれなりの覚悟が必要になるのである。これが一番出るのが運河要塞だ。かつて帝国領だったヴィクトール運河に要塞が建築されており、これを制圧して運河を奪還しようというイベントだ。

要塞というだけあって、正面の門はかなり堅く守られている。じゃあどうするかというと、普通の人はキャットという泥棒を使う。運河要塞が攻略可能になると、家臣が「アバロンに泥棒が増えたようです」と言ってくるんだが、皇帝自らその泥棒をとっ捕まえるのである。

で、途中で逃げられて追うと、モンスターに捕まって身動きできなくなっている。普通はこれを助けてやる訳だが、キャットはもう一度逃走。しかし去り際にシーフギルド(泥棒にギルドがあるってのもどうなんだろう)への連絡方法を教えてくれる。んでシーフギルドに行って「運河要塞の内情を調べてくれんか」と皇帝が依頼する訳だ。で、キャットが隠し通路を調べてくれる訳だな。

問題は、キャットを助けなかった場合である。助けないと、哀れキャットは皇帝の目の前で八つ裂きにされた上に、それを見た皇帝が一言「これでアバロンのダニが一匹減ったな」という神発言をするというハイパーロマンシングタイムになる。

ダニをゴキブリが掃除してくれたみたいな状態だな。それで運河要塞を自力で制圧すれば、アバロンのダニは死んだしヴィクトール運河も奪還したし今年は朕もよく働いたのうウハハハハみたいな感じになる訳だ。

但し、運河要塞を自力突破するのはかなり大変である。まず正門が堅い。門自体が攻撃してこないボスみたいな位置づけで、四匹のモンスターが護衛しており、倒しても1ターンに二匹追加されるという鬼仕様である。四匹以上には増えないのだが、倒しても倒しても門を破壊しない限り湧き続けるのだ。

んで、何とか中に入れたと思ったら要塞内部が物凄いダンジョンになっている。どれぐらいすごいかと言えば、ラストダンジョンより明らかに難しい。まぁロマサガ2のラスダンはそこまで難しくないと言えばそうだが、ゲーム中最難関といわれる浮遊城や沈んだ塔よりも難しいのは間違いない。

しかもこのイベント、実は最初期のイベントだったりする。このゲームは自由度が高い分詰みやすい為、武器防具を本拠地で開発できたりする。この開発によって作れる武器は伝説の武具より高性能だったりする(伝説の武具なしでラスボス倒せないってのは場合によっちゃ詰むからな)んだが、初期に作れる奴は大したものではない。と言うか作れたらゲームバランスがマズい。

技だって大したものを覚えられん。術に至っては、この時点じゃ多くて使える魔法は五種類。内、攻撃術3種類、実戦で使える攻撃術2種類。かなーりきつい。

しかも、運河要塞を攻略しないと、序盤PT向けの簡単なイベントが発生しないのである。運河要塞が無理な場合、南方から東に行って砂漠に出るしかないんだがこの砂漠が滅茶苦茶辛い。出てくるモンスターが固定でこの時点だとかなり強い上、砂漠ではHPが二分の一であり、本当にきつい。砂漠で発生するイベント自体は簡単だが、これに連動する次のイベントがこれまた最難関だしな。


斯様に、気に入らないものをすべてブチ殺して通るロマンシングスタイルは、ことによっては大変な被害をもたらす場合がある。諸君も、ロマサガシリーズをやる場合は注意するといい。特にPS2のミンストレルソング。あれ下手なことやると酷い目にあうからな…

天皇、皇帝、教皇は何故偉いか - 後編

2009年12月04日 15時15分48秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。ようやく横浜に落ち着いて、さぁ掃除して電子レンジも変えて、もう史料は揃ってるから読んで卒論書いて、同時進行で院の受験申し込みだな~と思ってたらまたしてもデスクトップPCがおかしくなった霧島である。

お祓いしてもらおうか、ほんとに。



だて、前回の続きである。

で、第三に、これが本題だが、組織になってしまった場合である。人間は平等であるとして、その論点のみを重視するのであれば、政治体制で言えば直接民主制がとられるような社会が理想になるだろう。しかし、実際にはそうはいかん。

初期のキリスト教会でも、使徒であるとか教父と呼ばれる偉い人がいたのだ。まぁ、この教父とか自体はキリスト教の教義と甚だしく矛盾する訳じゃなかったりするのだが、実際にキリスト教徒が増えてくると、神父様がいないで教会が立ち行けるか?という話だ。大体、祈るだけで食べていければ苦労しないのであって、普通の人間は農作業とか仕事があるのである。そこで、カトリックでは身分制みたいなもんを採用した。

まず信者がいる。その信者は祈るには祈るが、その祈りを神父に託す。祈りを託された神父は、それを教区の偉い司祭に託す。その司祭は更に司教座とかの偉い人(司教とか大司教とか)に託す。そうして巡り巡って、教皇に託された祈りを教皇が神に届ける。

これ、人間は神の前で平等するっていうキリスト教の根本原理と思いっきり反対の体制ではないかという突っ込みも出てくるだろう。それを言い出したのがルターとか…なんだっけ、殺されちゃった人。まぁその辺なのだが、カトリックではそういう体制になっておる。

そしてこの教皇を頂点とした宗教的世界は、皇帝とか王を中心とした世界とは全く別の、一つの世界と位置づけられるのである。

ここが判りにくいところだ。極端な話、皇帝陛下よりそこらの神父様の方が偉いのである。勿論、皇帝陛下と一般市民に過ぎぬ神父様では身分の格差は物凄いものがある。しかし、にも関わらず、宗教的世界観においては皇帝も一般信者に過ぎないのだ。

諸君も頭が混乱しておるかもしれんな。一般的な、貴族が偉くて農民が卑しいという発想を、西洋史では一般に世俗的と呼ぶ。王様が偉いというのは、世俗的な価値観なのだ。一方、宗教的な価値観においては、キリスト教(と言うかカトリック)で一番偉い教皇こそ世界で一番偉く、王様なんてのは教皇の気分ひとつでペッてできる程度の存在に過ぎないのだ。

だからカノッサの屈辱なんてのも起こったのである。あれは要するに神聖ローマ帝国の皇帝が教皇に破門されたから、許してくれ破門を撤回してくれってひたすら謝り続けた事件だ。

変な話である。

日本の場合なら、まぁ寺とかも兵隊を持っておる。信長の野望なんかやったら本願寺の偉い人が大名になってるからな。しかし、キリスト教ってのは基本的に軍隊をもっておらん。少なくともこの時、教皇は手持ちの兵隊がいなかった。だったら、破門解かなかったら殺すぞってやりゃあいい話なのである。実際、カノッサの屈辱ん時、教皇は「やべぇ皇帝攻めて来たぞどうしよう」ってガクガクしていたらしい。しかしそれはしなかったし、できなかった。

何故か。教皇が偉いからだ。

そんな偉い教皇を脅したり殺したりなんかしたら、大顰蹙を買う訳だ。けしからんと言って家臣(と言うか諸侯、大名)が反乱起こせば、いくら皇帝でもどうもならん。だから教皇に"お願い"したのである。

ただこの事件について、世界史なんかで、実際には政治問題だったと習った人もいるかもしれん。そしてそれは一面正しい。実際、教皇もただのカトリックの偉い人なんかじゃなくて、事実上諸侯の一人であり政治家の一人であった。じゃあ今までの話と違うじゃないかと思うだろうが、これについては、前回触れた通り価値観の不徹底も原因だ。

教義ですら、何回も公会議開いてるのである。教皇が政治しちゃいけないなんて気付かない事だって当然ありえるのだ。それに加えて、キリスト教はカトリックという組織になったのだ。組織には上下関係がある。その上下関係が、宗教的なものと世俗的なものと混同してしまう場合だってある。

だから、いかに世俗的だとか宗教的だとか言っても、例外がないってことはない。むしろ例外だらけだ。しかし、世俗的身分と宗教的身分は別というのが原則であることは変わらない。


さて、これでようやく皇帝が何で偉いかって話に戻ってくる。今まで世俗的価値観と宗教的価値観の違いを説明してきたが、こういった価値観の並存はこの二つに留まらない。それが例えば、王と皇帝だ。

以前述べたが、何がどうであれば帝国、何がどうなら王国、という厳密な定義は存在しない。しかし、多数の国を統べているとか、ローマ帝国の後継者であるとか、そういう国の一番偉い人は皇帝だ。逆に、王国は王国なんだけどすっごいちっさい国、とかににると公国になったりもする。更にちっさければ、公爵が治めてるという意味での公国もある。今でもリヒテンシュタインは、リヒテンシュタイン公爵が治めてる。この公爵は、勿論王様や皇帝よりも身分が低いとみなされる。

しかし、だからと言って、リヒテンシュタインよりイギリスが偉い国ということにはならない。

国と国は平等なのである。大きい国も小さい国も主権を持つ国家なのだ。しかし、公と王だったら、王の方が偉い。ここは明確に区別されている。公と王に身分差はあっても、公国と王国に身分差はない。新しい、もう一つの価値観なのだ。王公的価値観とでも呼ぶべきか、教皇と皇帝の偉さの意味が違うように、大統領と王の偉さの意味も違うのである。

だからこそ、オバマは天皇陛下に頭を下げたのだ。他の国の王にも頭を下げたそうだが、それも正しい。皇帝や王は大統領より偉いのだ。日本がアメリカより偉いのではない。皇帝が大統領より偉いだけなのだ。

で、現在世の中で一番偉い人に戻る。現在、皇帝が生き残ってるのは日本だけである。天皇=皇帝だからな。それ以外は皆消えた。特に第一次世界大戦で、ドイツ第二帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国、全部潰れたからな。んでイギリス国王のみ、皇帝扱いされている。王公的な価値観では、天皇陛下とイギリス国王が一番偉い訳だ。一方、宗教的な価値観では教皇が偉い。

しかし、天皇陛下は神道という宗教の価値観で一番偉い訳である。つまり、二重の意味で一番偉いのだ。そうなると、天皇陛下がこの世の中で一番偉いということになる訳だ。



ま、所詮イエローモンキーの宗教だがな。

天皇、皇帝、教皇は何故偉いか - 前編

2009年12月02日 22時45分46秒 | 社会、ニュース
ごきげんよう諸君。久しぶりだな。前回の記事を書いてから更に色々あって、本日、ようやく我が霧島家に復帰した薫である。…そう言えば、最近清十郎の奴めが影薄いから霧島としか名乗ってなかったな。別に消えてしまった訳ではないぞ。まぁ、いなくなったからどうしたと言われればそれまでだがな。

あと、預金通帳がどっか行った。

そういや、全力で日本をつぶしにきてる友愛鳩山だが、あれって逮捕できないんだな。なんか東京地検特捜部が本人の事情聴取を断念したらしい。解釈にもよるが法律的にもきついし、その上圧力がかかったみたいだな。法務相も裁判所の判決完全無視して特例出したし、終わりだな、この国。イギリスみたいな衰亡の仕方を願うばかりだ。ドイツの東側的なのは勘弁してほしい。


さて、前々回に偉い人がどーのこーのって話をしたが、続きを所望されたってんで続きである。

現代日本において、一般に階級ってのは存在しない。国民一人一人が平等に扱われるように憲法に記載されておる通り、我々は自由であり身分に縛られない存在である。いやまぁ在日とかはアレは特権階級だが、まぁイレギュラーということにしておく。大きすぎて修正が必要なんだが置いておく。

しかしながら、読者諸君は学校に通っていたり会社に勤めていたりする筈である。個人商店とかそういう人もいるかもしれんが、九割方は生徒、学生、会社員のいずれかである筈だ。そして、仕事の場には上下の階級がある筈である。生徒なら先生の方が上だし、会社員なら平社員にとって課長は偉い人だ。派遣社員と正社員なら後者のが給料的にも厚生的にも圧倒的にいい扱いをされる。

これは、一見、憲法に記載された国民の平等に反しているようにも見える。上下関係があるんだからな。しかし、これらは国民の平等に反しない上下関係なのである。つまり国民は平等だが同時に身分差が存在するという奇妙な状態になっておる訳である。これはどういうことであろうか。

まぁ、一言で表してしまえば身分関係がないと世の中回んないからである。国民一人一人が平等であるからと言って、平社員が好きなことくっちゃべってたら社長すらどうにもこうにも動けなくなる。教員もそうだ。生徒とか学生なんてのは勉強したくないのが九割以上なのだから、平等だからと言って権利を無闇に認めると学級崩壊起こす。

つまり、平等だとか平等でないとかは、実際には二重関係になっておるということである。朝九時から午後六時までの間は身分関係が存在せねばどうもならんのだ。但し、それ以外、つまり仕事が終わった後とか休日とか、さもなくば選挙の時であるとか、そういう時は自由であり平等であらねばならん。その辺が、国によって保障されておる基本的人権とかそのあたりなのだ。

飲み会とかで自重しない上司が嫌がられるのは、そういった認識が甘いからとも言えるな。歳の差があるにしても、仕事が終わった後は平等であらねばならない訳だ。部下は上司の召使ではないということである。逆に言うと、その甘さを利用するのが接待と言えよう。


斯様に、現代でも身分差というものは確実に存在するのだ。一方では平等だが一方では平等でない。ここが重要である。仕事とか公共の場と私的な場は違う世界なのだ。

この二重構造社会というものの発想は、私の知る限り西洋特有のものである。むかーしむかし、まだローマ帝国があったりした頃、キリスト教が生まれたな。で、キリスト教で一番重要なのは、やはり神の前では人間は皆平等であるという発想であろう。身分制が当然である世界において、これは衝撃的な発想であった。

ただキリスト教のこの発想を理解する上で難しいのは、だからと言って誰もが平等になった訳ではないし、ましてや誰もを平等にしようとした訳でもないということだ。

大体、人類皆兄弟とか言いつつ黒人奴隷使ってたのがキリスト者なのである。二千年前に民主主義を確立していた、"りべらる"な奴が諸手をあげて賞賛しそうな古代ギリシャ(のアテネとか)だって選挙権持ってる奴は市民だけであり大量の奴隷がいたのだからな。

んで、この不平等が発生するには、私のみる限り三つのケースがあるように思う。第一に、人間として認められていない場合である。まぁ要するに黒人とか我々黄色人種であるとかだな。まぁこの日誌を読んでるような人なら判っておるだろうが、つい百年二百年前まで、西洋人にとっての黒人とかは何だったかと言えば、家畜である。

奴隷って表現をすると、現代日本人はそいつが人間であることを認識した上でこき使うと解釈しがちである。まぁ実際そんな発想もなかったことはないが、どちらかと言えば、西洋人にとっての奴隷ってのは牛とか馬のアップグレード版という認識のが強い。牛はものを運ぶ(と言うか引っ張る)ことしかできんが、黒人は畑に種をまいたりものを運んだり、他にも掃除したり複雑な作業ができたりするというハイエンド家畜である。まぁ実際高価だったしな。

んで、そんな家畜が平等の対象になるかかって、そんな訳がない。人間じゃないのだから、平等にする理由はない。ああ、ちなみに言っておくが、特にアメリカ南部などでは奴隷ってのは結構大事にされたということは忘れてはならん。奴隷同士なら結婚できたりもした。さっき言った通り、奴隷ってのは家畜の中でも最も高価であり、風邪をひいたり、甚だしくは病死したりすると主人は大変困るのである。

今の人にとって言えば、パソコンだな。あれ高いだろう。まともなの買おうとすれば10万はかかるし、その癖必要なら24時間稼動させて使い倒すこともある。しかし、だからと言ってむしゃくしゃして(ryとか言って蹴ったりはしないだろう。パソコンが故障したり壊れたら困るのと同様に、奴隷が風邪ひいたり死んだりしたら困るからな。まぁそんなところだ。


第二に、価値観の不徹底である。どんなに偉いことを言ったとしても、それが万人に正確に受け取られるとは限らん。以前ベトナム戦争の話をした時だったか、似たことを言ったがまぁもう一度例を挙げて説明する。

どこでもいいが、想像しやすいしアフリカにでもしようか。アフリカの奥地に、まだ発見されてない未開の部族が暮らす国があったとしよう。で、なんだか圧制を強いている王様がいたり、貴族が一般人を苦しめたりする身分制国家だったとする。で、それがどっかの冒険家か何かが見つけて、国連あたりが介入してこれが俺たちの勝ち取った自由! アウターヘイヴンだ!!とかそういう話になったとしよう。

国連あたりが介入した場合、ほぼ間違いなく、国民主権の民主主義国家を建国しようとするだろう。しかしだ。部族国家だった国の連中に、果たして基本的人権の保護だとか身分の平等だとかが理解できるだろうか?私は絶対にできないと考える。

と言うか、出来ないからローデシアとかあんなことになったのである。あの国はずっと白人が支配してきて、でも黒人のが多かった。ただ、まぁ白人様が支配してただけあって黒人は土人とか言われてもしゃーない状態だった。で、国際的な圧力とかがあって(さっきの例で言えばこれが国連の介入にあたる)どうしても民主的な選挙をしなければならなくなった。当然、人数が多いから黒人が大統領になる。

で、「植民地時代に強奪された白人の土地資産を黒人へと無償かつ強制的に権限を委譲せよ」という法律が成立。勿論白人は国外逃亡、と言うか移民。んで今度は外資系企業に対して「保有株式の過半数を譲渡せよ」という法案を提出。勿論外資系企業が国外逃亡。国連もアメリカも何もしてないのに経済制裁状態になった訳である。

黒人にしてみれば、長い間白人に迫害されてきた恨みは相当のものがある。故に、白人にとって不利になる法案を黒人大統領が出して当然であり、それが通って当然である。しかし、民主主義なんだからこそ守らにゃならんことだってあるのである。その辺を理解できてないからこんなことになる訳だ。まぁ結局悪いのは教育しなかった白人…でもないんだな、これが。

世界市民とか世界世論とか言ってる奴だ、一番悪いのは。まぁ白人なのは変わらん。

ともかく、このローデシアの例のように、いきなり高尚なことを言ったかって誰もがそれを理解できるとは限らないのである。この場合は民主主義だが、これを行うには一定の民度が必要であり、国民にその為の訓練が必要になる。ムスタファ・ケマルが行ったようにな。それで国民だけが阿呆ならいいが、大統領まで阿呆だったからどうにもならん。

同様に、迫害されてるそこらの農民に、何も考えず「人間は皆平等である」とか言ったら

人間は皆平等である→でも今は王様の圧制に苦しんでいる→平等なのに不平等するなんて王様は酷い奴だ→神様が人間は平等って決めたんだ、王様は神の敵だ!→革命戦争→神様の敵は許すな!→おうさま は ギロチン に かけられた!

…まぁこうなったりする可能性もある訳である。実際、歴史上でも似たよーな話は起こっておる。だから、キリスト教の偉い人が「人は皆平等です」と言ったとしても、それが正確に理解されるとは限らないのである。まぁ、なんだ。キリスト教の教義は偉い人にもよう判らんから何度も公会議やってるんだがな。

こんな調子であるから、人類平等という考え方がキリスト教の中にあったとしても、それが正確に信者へ伝わり、矛盾なく完全に実行される(もしくは実行しようとする)とは限らん。だから、口ではこういうこと言ってんのに実際はそうじゃねーじゃねぇかと感じたとしてもそれはよくあることということである。

マルクスだって、レーニンとかを指して「アレが共産主義者なら俺は共産主義者じゃねぇ」と断言してた訳だからな。


で、第三に、と言いたいところだが、すでに文量が偉い騒ぎになってるからいったんここで切って次回に続くことにする。大体卒論まだ一文字も書いてない。