霧島家日誌

もう何が何だかわからないよろず日誌だ。

アーカード哲学にみるロシア文学の一考察

2009年06月12日 19時12分53秒 | 社会、歴史
ごきげんよう諸君。いかがお過ごしかな。気絶したりしなかったりしている霧島である。やっぱり金曜日は更新ができる日だな。


さて。最近、ヘルシングにどっぷりである。ヘルシングにと言うか、ヘルシングに流れる哲学にどっぷりと言った方が正しいな。あの人間賛歌には惹かれて惹かれてしょうがない。以前、完成と未完成を使って記事にしたが、本日の文学の授業にて行われた話がまたヘルシングの哲学に近いものがあったので記事にしようと思う。

私は文学という授業を取っておる。ロシア文学限定のだがな。この授業、名前は言わんが日本人なら絶対知ってるぐらいの大変偉い先生がやっており、感動することしきりである。…まぁそれはいいんだが、この授業、いわゆるレトリックという奴を梃子にして授業をやっておる。歴史的現在とか反復とか、名前だけ言うと小難しそうだが、意外と簡単な話である。こいつらは理解するのは楽でもこれを使おうとすると途端に難しくなるというものだ。

んで、今回は回想であった。反復も含んではいたがな。授業では回想と恋愛小説がやたらと相性がいいというんで何で相性がいいのか、という話をしておった。私は恋愛小説には疎いから、と言うか、どんな小説でも大抵恋愛はある訳でどこまでが恋愛小説がどこからが恋愛小説なのか判らん。何とも難しい話である。まぁ、過去の恋話を普通に喋るより、じっくりと過去を懐かしむ方がまぁいいだろうとは思うが。


んでは以下私見。

回想ってものが生み出す効果というものは、以前話した『完成と未完成』そして『人間と狗』の二つの要素を導入することによっても理解されるものではないかと考えるものである。

普通、小説は現在進行的なものである。主人公達の眼前には峻険な山があり絶壁の谷底がある。敵を打ち倒しその後方へその後方へ進む。ヘルシングも同じだな。アンデルセン、バレンタイン兄弟、南米の兵士諸君任務御苦労、トバルカイン、リップヴァーンと次々に出てくる敵をアーカードが打ち倒し、物語は進んでいく。

まぁ、ヘルシングと言うかアーカードの場合、倒すと言うより虐殺してる訳だが。アンデルセン最終戦と吸血鬼化ウォルター戦だけじゃないか、真面目に戦ったのって。OVAのルーク戦とかやる気ないだろうあいつ。銃撃つにしても前向いて撃ってやれ。

話が逸れた。一方、ヘルシングではかなり少ないが、回想の場面も確かに存在している。アーカードで言えば、100年前のヘルシング教授との戦い、500年前のトルコとの戦い、50年前の美少年ヤングウォルターと共に戦った44年のワルシャワ、といった感じで小出しではあるが回想は存在している。

と言うか幼女アーカード可愛いよロリータアーカードあとウォルターは私の婿あ波ばばっばばばっばっばばばばばっばあっばばばばばばばばっばばばばb

OK落ち着け私。んまぁ、回想シーンが入った時、アーカードは何を思って回想していたのか。以前の記事で、アーカードは未完成な人間である事を放棄し吸血鬼という完成された『弱い』生命体であると述べた。その『弱い』アーカードという化物が回想するのは『強い』生物である人間との対比である。

二度と戻れぬ、人間という眩しいまでの憧憬の対象である存在。あんなにも美しかった、あんなにも素晴らしかった、未来に向け進み続ける人間という存在。その未来を、過去と今日の為に捨ててしまった化物。どんな事をしても決して到達できない、完成に限りなく近い未完成という存在。

美しい。だから羨ましい。
素晴らしい。だから憧れる。

つまるところ、回想というのは何かしらの羨ましさ、憧れという条件を含むのである。憧憬、羨望。そしてこの語の関連語として、『慕う』があり、その類語には例えば『偲ぶ』がある。これは大辞林様によれば『過ぎ去った物事や遠く離れている人・所などを懐かしい気持ちで思い出す。懐しむ』とある。

つまり、懐古や追憶といった『思い出す』という言葉には何かしらの羨ましさ、何かしらの憧れが伴うのである。そして、人間道も化物道も究めてしまったアーカードにしてみれば、過去の人間だった時代が懐かしく、だからこそ、アンデルセン戦で言ってみせた、「化物を倒すのは人間だ。人間でなくてはいけないのだ!」という言葉の意味が判る。

んが、しかし我々はアーカードみたいな凄い人生を生きてきた訳ではないし、先日言った通り、普通の人間はやっぱり完成された存在に憧れる訳である。私も吸血鬼化したいと思う事しきりである。半永久的に勉強できるからな。

閑話休題。ここからがちょっとややこしいのだが、アーカードにしてみれば、彼の過去とは人間だった頃の話だから、完成に限りなく近い未完成の存在だったという話である。だから憧れる。同様に、普通の人間が回想する過去というのも憧れる風景である。しかし、アーカードの回想する過去と普通の人間が回想する過去というのは全く違う。

普通の人間は完成した存在に憧れる。そして、過去の出来事というのは、『ある意味において』完成されている。即ち、もう過ぎてしまった事だから絶対に変化しないという意味で完成しているのである。故に、普通の人間も過去を懐かしむ。何故なら、それが学生時代にせよ小学生の話だったにせよ、そこから動く事はなく、明日どうする来月どうする来年どうする老後どうする、などという事は考えなくていい。絶対に変化しない以上、何にも悩まずただその時を楽しめるのだ。


後は、今回やった小説を読んでて思ったのは、狗と人間だったな。

アーカードが初めて「化物を倒すのはいつだって人間だ」と語ったのは三巻の後半である。敵情調査としてアーカード(+セラスとベルナドット)が南米に派遣され、夜も明けない内に警察特殊部隊に包囲されるという素敵な話になる。んで、突撃してきたそいつらに「私の棺桶に触るな」と言ったらただそれだけの理由で蜂の巣にされる訳だが、当然アーカードには効かぬ。で、かの台詞が出てくる。

「なるほど、大した威力だ。だが狗に化物は倒せない。化物を倒すのはいつだって人間だ」

他の場面でも狗という表現は出てくる。9巻でウォルターと対峙した時、「立って戦え」との言葉を受け、アーカードは「お前も俺も今や狗だ。狗は自ら吼えぬ」とし、あるじであるインテグラに命令を求めるのである。殺す事は狗が実行する、しかし殺すのはあるじの殺意だ、と。

今回の授業で使った小説は恋愛小説で、短編である。イワン・アレクセーヴィチ・ブーニンという人の『ルーシャ』という奴で、原卓也って人が訳した『暗い並木道』という短編集の一つである。あらすじは~…そうだな。

ある老夫婦が鉄道に乗って旅行している。んで事故による時間調整でしばらく停車するのだが、すると夫が、ここは昔来た事があるという事を思い出す。まだ彼が若かった頃、この辺の若い女の子の家庭教師をしていていたのである。ここから回想が始まって、まぁ、例の如く恋人となる。んでこうなるには勿論両思いであっても親が許さないというのが相場な訳で、実際そうなる。夜毎の逢引がバレると、母親が「結婚なんて絶対認めん!もしするなら私は自殺する!」とわめき散らす。

私だったら包丁持ってきてどーぞどーぞというところだが、親か恋人かと迫られた女は親を選ぶ。この話なーんだか前に似たよーなのあったなぁとか思って読んでおった。頭の中では無印MGSん時のスネークが「どんな境遇に生まれようと、そこから先はその人自身が選び取ったものの積み重ねだ。それを運命というのは、どうだろう」って言いながらぐーるぐーる回っておったのである。

んで、ヘルシングのルーク戦と警察特殊部隊戦を思い出すに至ってわかった。異論は勿論あるだろうが、この二人は人間ではなく狗に過ぎないのである。人間として未来を選ぶ事。結局、この娘は親を選んだが、これは選択とは言えない。親の走狗となる事を選んだという方が何倍も正しい。「狗は自らは吼えぬ」のである。

アーカードはヘルシング教授に敗れ王立国教騎士団の走狗となった。ウォルターはその半生をヘルシング家の執事として過ごしたが、結局は少佐の狗となった。

未来を選び取る事。人間として生きる事。自らの意思で自らを未来へ歩ませる者。それこそが人間というものである。この娘は、当然、いつかはバレて終わる恋である事を知っていた筈である。常識的に考えて当たり前だ。にも関わらず恋に手を出した以上、何かしらの覚悟が必要になる筈だ。例えば母親の死、例えば恋人との離別。これらを覚悟した上で、彼女は恋に手を出したか。

否、断じて否である。彼女はただ何となく快楽に流されたに過ぎない。結局彼女は親の狗であり続けた。誰かの庇護下で、誰かによって養われ、誰かの命令で生きる。これこそが狗なのだ。誤解がないよう言っておくが、私は母親を殺してしまえと言っている訳ではない。家庭教師との許されぬ愛という道を選んだからには、狗としてではなく、人間として生きなければならないと言ってるのである。

とは言っても、事あるごとに人間としての選択なんぞできる訳ではない。しかし、人生の転機となるであろう事は、狗ではなく人として選ばねばならない。これが選べず、他人の言うままの操り人形的に、時代の趨勢に流される愚民として生きる者こそ、狗である。結局彼女は、狗である事を選んだのだ。

ここが重要なのだが、彼女は母親の狗として生きる事を選んだ。この選択という行為には、何も駆け落ちだけが相当するのではない。この恋が破滅に終わるであろう事は常識的に判る訳であり、であればこそ、家庭教師との恋を拒絶することだって出来た筈なのだ。彼女は結局、未来を自分で選ぶ事はできなかった。


ま、これだけなら別にここまで記事にはせぬ。この話には後日談があって…と言うと語弊があるんだが…何せ回想前に言われる台詞に入ってるもんでな。んでこの事件の後、娘は短剣で自害したというのである。その記事まで戻ってきたところで、アーカードの旦那と南米特殊部隊の人とのやり取りが私の頭に浮かんだ。









今は某教授に布教の具とされておって、手元に日本語版が無いのだ。英語版で勘弁してくれ。アーカードの旦那がドーン!→「ばっ、ばけもの!」「よく言われる。ならばそれと対峙したお前は何だ?人か?狗か?」→自殺で旦那がビキビキ来る、という感じの流れである。

なるほど、それは安易な道である。愚かな道である。『人間でいる事にいられなかった』、哀れで惨めで愚かしい事である。母親に向かって彼女は宣言した。「家庭教師とこの私(母親)どちらかを選べ」と言われ、彼女は母と答えたのである。なるほど、アーカードの旦那があんな顔する訳だ。最も愚かしい、最も楽な道を選んだのだから。自らの死によって何かを成さしめられるならば、それは当然評価されるべき死であろう。だが、彼女が自殺して何になる?せいぜい、嘆いた母親を後追い自殺に追い込み(実際後追いしたかは書いてないが)、家庭教師に後味の悪い経験をさせただけだ。


ま、そんな事を考えながら授業を受けておった訳で、その後の授業が研究会(と言う名の好き放題言いたい放題ショー)だったから、黙々とこれを打ってた訳である。しかし、精力を出す方向を間違えてる気がしないではないな。今年の大学院受験は激戦らしいからな。せめて語学ぐらいは今の内から始めておこうな、私。

2 コメント

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Unknown (バロスの中身)
2009-06-12 23:55:15
うむ、言いたい事はわかった
だが「ヒゲアーカードは俺のだ!!」


アッー!!

その前に惨殺されそうだな・・・orz
Unknown (霧島)
2009-06-15 01:34:36
髭アーカードは頭をなでてくれるから大丈夫だ