高遠城は、三峰(みぶ)川と藤沢川に削られた河岸段丘上の突端に位置する平山城です。天文16年(1547年),信濃に侵攻した武田信玄が伊那谷における拠点とすべく築城し、縄張は山本勘助によったとの伝承が残っています。天正10年(1582年),織田信長の甲州せめでは、織田信忠率いる軍勢が高遠城に殺到した。城主の仁科盛信(武田信玄の五男)は、譜代の重臣や一族までもが武田家を見限る中、兄・武田勝頼に尽くすため、降伏勧告を無視し、城を枕にして壮烈な討ち死にを遂げた。江戸時代には、保科氏・鳥居氏を経て元禄4年(1691年),内藤氏が、3.3万石で入封し、内藤氏が、明治維新まで続いた。明治の廃城令で城内の建物は、民間に払い下げられましたが、旧藩士らの手によって「桜の馬場」から桜が約1500本移植され、明治8年に公園となりました。現在、古城は、桜の時期を過ぎても初夏の新緑、秋の紅葉等四季折々楽しむことができます。
[所在地:長野県伊那市高遠町東高遠]
<アクセス>JR飯田線・伊那市駅からバスで(約25分)高遠駅下車,徒歩で城跡まで約15分。
▼高遠城址案内図
▼二の丸の概要
▼二の丸跡
▼問屋門の概要
▼問屋門
本丸御門は、枡形で、一の門が冠木門、二の門が櫓門でした。現在ある門は、城下町の本町にあった問屋役所の門を昭和23年(1948年)に移築したものです。
▼本丸の概要
▼本丸
▼太鼓櫓概要
▼太鼓櫓
江戸時代には搦手門の傍らにあったが、明治10年(1877年)に本丸南隅櫓の跡に移されました。現在の太鼓櫓は、大正2年(1913年)に再建された建物です。
▼新城・藤原神社の概要
▼藤原・新城神社
内藤家の祖神・藤原鎌足の社と高遠城の戦で壮烈な最後を遂げた仁科盛信を祀った社を明治12年(1879年)に合祀した神社。
▼法幢院曲輪の概要
▼法幢院曲輪
▼高遠閣の概要
▼高遠閣
▼空堀
▼進徳館の概要
最後の高遠城主であった内藤頼直が万延元年(1860年)に三の丸に創設した藩校。撤去を免れた東西の2棟と玄関が現存しています。
▼進徳館
▼進徳館
2015/04/15 訪城
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高遠城の戦 天正10年(1582年)2月23日~3月2日
武田信玄の娘を妻とし、武田一族の扱いをうけていた信濃の木曽義昌が離反し、織田信長方となった。織田信長は、武田勝頼討伐の好機到来とみて、嫡男・織田信忠に50,000騎で武田信玄の五男・仁科盛信が3,000騎で籠城する高遠城を攻めさせた。武田勝頼は、15,000騎を率いて新府城を出て、諏訪の上原まで出陣してきたが、そこから進まなかったのである。つまり、仁科盛信は、兄・武田勝頼に見捨てられた形で、展望のない籠城を続け、3月2日,城内にいた女も子も全員殺害された。そして、その日のうちに城は落ちた。武田勝頼は、3月3日、新府城に火を放って岩殿城をめざしたが、3月11日、天目山麓の田野で自刃し、武田氏は滅亡した。