nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

湯築(ゆづき)城

2015年04月08日 | 愛媛県の城郭・環濠

 中世の城郭である湯築城は、14世紀の前半、伊予国守護・河野氏によって標高71mの丘陵地に築城され、近世の城郭が持つ石垣や天守が無く、地形を利用した南北約350m,東西約300mの平山城であった。南北朝期から戦国期(14世紀前半~16世紀末)まで約250年間にわたって河野氏が居城としていました。湯築城を築いた河野氏は風早郡河野郷(旧北条市)を本拠とした一族で,源平合戦(1180年~1185年)で河野通信が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり伊予国の統率権を得ました。河野通盛の時(1335年頃)、風早郡河野郷から温泉郡湯築へと本拠を移した河野氏は以後、足利将軍家や近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を結びながら伊予を支配し続けた。天正9年(1581年)以後,四国制圧を狙う土佐国の長宗我部元親が中伊予に侵入し、城主・河野通直は、交戦した。天正13年(1585年)四国平定ををめざす豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景率いる伊予侵攻軍に敗れ、城は開城。天正15年(1587年),福島正則が城主になるが、国分山城を居城としたため廃城となった。明治21年(1888年),県立道後公園として整備され、城郭の堀や土塁などの縄張り遺構が良好に残り城郭発達史からみても貴重で稀な中世の主要な守護大名の拠点城跡であることから、平成14年(2002年),国の史跡に指定されました。

[所在地:愛媛県松山市道後公園]

アクセス>JR予讃線・松山駅から伊予鉄道市内電車「道後温泉行き」で約20分、道後公園駅下車徒歩1分。

湯築城(道後公園)の概略図

 城の縄張りは、現在でも完全な形で残っています。二重の堀と土塁で囲まれています

湯築城を遠望

 

内堀

 丘陵部の麓には内堀が現存します。幅は約12m、深さは約2.5m、断面はU字型です。

 

土塀

 

武家屋敷1

ある日の武家屋敷

武家屋敷1

 家臣が生活した家臣団居住区には武家屋敷が立体復元されています。

主室の様子

台所の様子

湯築城と河野氏の歴史

河野氏の略系図

2015/04/03 訪城

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鳥坂(とさか)峠の戦   永禄11年(1568年)  

 河野軍と援軍の毛利軍が、鳥坂峠(西伊市)付近で、侵攻してきた土佐一条氏・宇都宮軍を撃破する。

道後湯築城の戦   天正13年(1583年)

 豊臣秀吉の四国征伐の命で毛利方の小早川隆景の軍勢が中伊予に侵攻し、湯築城で龍城戦を行う。1ケ月の籠城後、小早川隆景の降伏勧告で名族・河野通直(牛福丸)が開城する。

一遍   延応元年(1239年)~正応2年(1289年)

 延応元年(1239年)伊予国(現在の愛媛県)の豪族、別府通広の次男として生まれる。鎌倉幕府の有力御家人であった本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国(岩手県北上市)に配流され没落。幕府方に着いた別府通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた時にはかっての勢いを失っていた。10歳で天台宗継教寺で出家、13歳になると法然の孫弟子に当る聖達の下で10年以上浄土宗西山義を学ぶ。その後,摂津の四天王寺、紀伊の高野山などで修業に励み、各地を念仏勧進し、時衆を率いて遊行を続け、民衆を踊念仏と賦算とで極楽浄土へ導いた。勧進帳に記名した入信者数は250万人に達したという。鎌倉時代に、時宗を興した一遍は、鎌倉新仏教の開祖の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物である。