nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

上田城

2015年04月20日 | 長野県の城郭・環濠

 小県郡の一土豪であった真田氏は、真田昌幸の代に勢力を拡大し、上田へ進出した。そして、東海道の保福寺峠道と北国街道が合流する交通の要衝で、街道を押さえる目的で千曲川の分流である尼ケ淵に面した要害の地に、天正11年(1583年)に上田城を完成させた。天正13年(1585年),上田城を攻略に来た徳川軍7000騎を撃退している(第1次上田城の戦)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦の時、西軍についた真田昌幸は上田城に籠城して、徳川秀忠率いる38,000騎の大軍の西上を阻止(第2次上田城の戦)。徳川秀忠は関ヶ原に間に合わなかった。しかし、関ヶ原で西軍が敗北したために、真田昌幸・幸村父子は、高野山に謹慎となり、城は、徳川方の手によって、徹底的に破壊された。東軍についた真田昌幸の長男・真田信之も、元和8年(1622年)松代藩へ転封。かわって入封した仙石忠政によって、城は、現在の姿に復興された。仙石氏3代の後は松平(藤井)忠周が入封し、幕末まで7代続いた。明治維新の廃城令で建物や土地は民間に払い下げられ、本丸に7基あった櫓は、一つを城内に残して売却された。しかし、復元をめざす市民によって昭和24年(1949年),現在の北櫓と南櫓として移築復元された。現在、本丸に3基の櫓が残る上田城址は、国史跡である。

[所在地:長野県上田市二の丸]

アクセス>JR上田駅から徒歩約12分

本丸南西隅にある、城内唯一創建当時から建ち続ける西櫓。

上田城略図

二の丸橋

堀跡

 

上田城三櫓の概要

復元された本丸東虎口櫓門(中央の建物)

 昭和24年(1949年)に移築復元された北櫓(左の建物)と南櫓(右の建物)。

 平成6年(1994年)に木造復元された櫓門(中央の建物)。櫓門と南櫓・北櫓を接続する土塀も復元整備されています。

南櫓

櫓門

北櫓

土塀           ▼石落とし

 

真田神社の概要

真田神社

 

西櫓

真田井戸

 

2015/04/16 訪城

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第1次上田城の戦   天正13年(1585年)8月~11月

 天正10年(1582年)9月から、真田昌幸は徳川家康に属し、上野で北条氏と戦っていた。ところが、徳川家康が天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦に際し、豊臣秀吉との対抗上,北条氏との連携を強化することになり、講和条件として、徳川 家康から「上州沼田領を北条氏へ引き渡せ」の命令があった。真田昌幸は「上州沼田領は、徳川家康からもらったものではない」と突っぱね、徳川家康を離れ徳川家康と敵対関係にある越後の上杉景勝についたのである。真田昌幸の離反で徳川家康は怒り、家臣に真田昌幸討伐を命じたのである。徳川軍約7000騎が、領民を含めて2000騎弱で籠城する上田城を攻めたが、真田軍の智略と領民の総力戦で徳川軍1300騎余りの死者を出し敗北。真田の死者は雑兵を含め41名であった。11月に入り、徳川家康の家臣の石川数正が豊臣秀吉に引き抜かれ,出奔してしまったので上田城にかまっていられないので、徳川家康から鳥居元忠に撤退命令が出て,全軍浜松城に引き揚げたのである。

第2次上田城の戦   慶長5年(1600年)9月5日~8日

 石田三成の挙兵をうけ徳川家康は、慶長5年(1600年)7月25日,下野小山で小山評定を開いた。その結果、会津の上杉攻めを中止し、徳川家康は東海道経由で畿内へ向かうことになり、徳川秀忠は中山道経由で畿内へ向かうことになった。この時徳川秀忠に従ったのは徳川本隊の38,000騎である。小山評定のあと、徳川秀忠は、上杉軍の出方をうかがっていたが、上杉軍が攻撃を仕掛けてくる気配がないと見届け、結城秀康の兵を上杉の押さえに残し、8月24日宇都宮の陣を引き払ったのである。そのころ、上田城の真田昌幸・幸村父子が西軍の石田三成方についたとの情報が入り、徳川秀忠は、寄り道を承知で、領民含め僅か1500騎で守る上田城を攻めたのである。しかし真田軍の智略と謀略で城を何回も攻めたが攻め落とすことはできず、最後は、遠くから城を包囲するだけであった。9月8日、仙石秀久等の兵を上田城の押さえとして残し、徳川秀忠軍は、畿内へ向かったのである。しかし関ヶ原での戦には間に合わなかったのである。