nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

大津宮(667年~672年)

2013年09月14日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 大津宮は、667年に天智天皇が飛鳥から近江へ宮を遷して造営したものです。近江大津宮ともいわれている。660年、百済が新羅と唐の連合軍に攻められて亡んだ。百済は,倭国(日本)にとって同盟国であり、国外にある防波堤であったため、時の倭国(日本)の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。しかし、663年の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は新羅・唐連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。百済復興戦争の敗北は、対外関係上の猛威を抱えることとなり、九州北部から近畿にかけて多数の山城や防衛施設を設けた。そして、国外の猛威に対抗する政治体制を新たに構築するために、中大兄皇子は、667年3月19日、宮を抵抗勢力の多い大和の飛鳥岡本宮から近江大津宮へ遷した。671年に天智天皇が没すると、天皇の子の大友皇子(弘文天皇)が大津宮を嗣いだが、壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)に敗れ、勝った大海人皇子は皇位継承し天武天皇となり飛鳥に飛鳥浄御原宮を造営したため、大津宮はわずか5年余りしかつかわれなかった。現在は、国指定の遺跡として整備されている。

[所在地:滋賀県大津市錦織]

アクセス>JR湖西線大津京駅下車徒歩10分

 

内裏正殿建物復元図

 

2013/09/12 訪問

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 疑問 Rの最寄りの駅名大津宮ではなく大津京でしたなぜ? 

 理由  大規模な条坊制をともなったものを「京」と言うが、大津宮は、「京」といえる程の規模ではない。

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 壬申の乱・瀬田川の戦い 弘文元年(672年)

 天智天皇後の皇位争いで、近江朝、大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟)が、近江国の瀬田川で戦い、大津宮陥落。大友皇子自害。翌年、大海人皇子は飛鳥浄御原(あすかきょみがはら)宮で即位し天武天皇となる。              

 近江神宮・・・大津宮の北側にあります。

  創建は、意外と新しく、昭和15年(1940年)で、第38代天智天皇を祀っている神社。


長岡宮跡 (784年~794年)

2013年09月14日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 長岡京は、平安時代の初期、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市)に置かれた都城。桓武天皇は、延歴3年(784年)11月11日に平城京から長岡京に遷都し、延歴13年(794年)10月22日に平安京に遷るまで都にした。長岡京遷都の理由として、①既存の仏教勢力や貴族勢力に距離を置く,②新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係,③父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻ったことによる人身一新等が理由と歴史学者は言っているが、平城京が廃都になった最大の理由は、人口が20万人と増えすぎ、物質の輸送に有利な水運の便を欠いたのと水不足による衛生上の問題が最大の原因であった。これに対し、長岡京の山崎津や淀津には、当時大洋や瀬戸内海を航行する船がそのまま遡航(そこう)してくることができた。また天皇の信任の厚い藤原種継の母や藤原小麻呂の妻の実家は、山城の葛野(かどの)郡や乙訓郡に居住する裕福な渡来系氏族秦氏で、この一族が遷都に協力を申し出て、誘致に努力した。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移転するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は、朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。しかし、785年9月には遷都の首唱者の藤原種継が暗殺され、これに関係したとされる桓武天皇の皇太弟早良親王の廃太子事件が起きた。ところが、完成近かった都も洪水や政争が続き、早良親王の怨霊に悩まされた桓武天皇によって,遷都わずか10年後の延歴13年(794年)に平安京へ都を遷すこととなったのである。現在、長岡宮跡は、国指定史跡となっています。

[所在地:京都府向日市鶏冠井(かいで)町]

アクセス>阪急電鉄京都線西向日駅下車徒歩5分

  

長岡宮朝堂院跡

 朝堂院は、宮の中心にある国家の政務・儀式を行う場所です。唐の長安城がモデルと言われ、東西に4つずつ、計8つの堂がありました。平成4年(1992年)、国の史跡に指定され、現在は、朝堂院公園となっています。

 

長岡宮概略図

長岡宮大極殿復元図・・・回廊に囲まれた殿舎が大極殿。

 大極殿は、朝堂院で行われる政治・儀式の際、桓武天皇が座る場所でした。昭和39年(1964年)国の史跡に指定されました。

長岡宮宝幢跡

宝幢(ほうどう)

 元旦や即位式にのぼり旗を立てる「宝幢」の赤い柱が大極殿の正面(南側)に復元されています。

 

  

2013/09/12 訪問