長岡京は、平安時代の初期、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市)に置かれた都城。桓武天皇は、延歴3年(784年)11月11日に平城京から長岡京に遷都し、延歴13年(794年)10月22日に平安京に遷るまで都にした。長岡京遷都の理由として、①既存の仏教勢力や貴族勢力に距離を置く,②新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係,③父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻ったことによる人身一新等が理由と歴史学者は言っているが、平城京が廃都になった最大の理由は、人口が20万人と増えすぎ、物質の輸送に有利な水運の便を欠いたのと水不足による衛生上の問題が最大の原因であった。これに対し、長岡京の山崎津や淀津には、当時大洋や瀬戸内海を航行する船がそのまま遡航(そこう)してくることができた。また天皇の信任の厚い藤原種継の母や藤原小麻呂の妻の実家は、山城の葛野(かどの)郡や乙訓郡に居住する裕福な渡来系氏族秦氏で、この一族が遷都に協力を申し出て、誘致に努力した。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移転するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は、朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。しかし、785年9月には遷都の首唱者の藤原種継が暗殺され、これに関係したとされる桓武天皇の皇太弟早良親王の廃太子事件が起きた。ところが、完成近かった都も洪水や政争が続き、早良親王の怨霊に悩まされた桓武天皇によって,遷都わずか10年後の延歴13年(794年)に平安京へ都を遷すこととなったのである。現在、長岡宮跡は、国指定史跡となっています。
[所在地:京都府向日市鶏冠井(かいで)町]
<アクセス>阪急電鉄京都線西向日駅下車徒歩5分
▼長岡宮朝堂院跡
朝堂院は、宮の中心にある国家の政務・儀式を行う場所です。唐の長安城がモデルと言われ、東西に4つずつ、計8つの堂がありました。平成4年(1992年)、国の史跡に指定され、現在は、朝堂院公園となっています。
▼長岡宮概略図
▼長岡宮大極殿復元図・・・回廊に囲まれた殿舎が大極殿。
大極殿は、朝堂院で行われる政治・儀式の際、桓武天皇が座る場所でした。昭和39年(1964年)国の史跡に指定されました。
▼長岡宮宝幢跡
▼宝幢(ほうどう)
元旦や即位式にのぼり旗を立てる「宝幢」の赤い柱が大極殿の正面(南側)に復元されています。
2013/09/12 訪問