池田城は、大阪府池田市の城山町周辺の標高50mの高台に、室町時代から戦国時代にかけて、旧豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市周辺)を治めていた摂津の有力国人池田氏によって築かれた平山城で池田氏の居城です。築城当初は、主郭(本丸)と小さな曲輪の小規模の城であった。その後、池田城は、多くの落城の憂き目にあい、その都度堀を広げ、周りに土塁や連郭式の曲輪を設け防衛効果を高めていった。永禄11年(1568年)の織田信長の上洛後の摂津制圧に際して三好三人衆方の国人として、池田勝正は、憶することなくこれに立ち向かい抵抗したが、織田軍の攻撃を受け降伏する。その後、池田勝正は織田信長に登用され織田信長の家臣(6万石の池田城主)となった。その後、池田氏内紛に乗じて旧家臣の荒木村重が主君の池田氏を下剋上で倒し、池田城を支配し、果ては戦国大名まで成りあがった荒木村重が、伊丹城(有岡城)を居城としたため池田城は、廃城となった。現在は、池田城跡公園としてきれいに整備され,園内には、木造伝統工法の模擬櫓および模擬大手門等が復元されています。
[所在地:大阪府池田市城山町]
<アクセス>阪急電鉄宝塚線池田駅下車徒歩15分
▼池田城の概要
▼模擬大手門(東門)
▼池田城址碑 ▼東門
▼模擬櫓(木造伝統工法造り)
▼模擬櫓からの眺め(城内) ▼模擬櫓からの眺め(城内)
▼模擬櫓からの眺め(城内) ▼模擬櫓からの眺め(城外)
▼空堀 ▼空堀
▼虎口門
▼西門
2013/09/06 訪城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
池田貞正、池田城に自刀 永正5年(1508年)
細川高国と細川澄元の家督争いに巻き込まれ、池田貞正は、細川澄元に加担する。結果、細川高国の軍勢に攻められ、池田城落城して当主池田貞正以下数十名が切腹、その後、池田貞正の嫡子池田久宗が池田城を奪回し、以後落城再建を繰り返す。
▼摂津の国人と配置図
◆荒木村重 (1535年~1586年)
荒木村重は、丹波の波多野氏の一族です。摂津の池田知正の臣であったが、織田信長が足利義昭と対立した時、織田信長の下に馳せつけ、以後これに従う。その後、池田氏内紛に乗じて旧主君の池田氏を下剋上で倒し、池田城を支配し、更に天正2年(1574年)11月,織田信長の命により伊丹城を攻めて伊丹氏一族を滅ぼしました。織田信長から伊丹城を与えられ、入城後、有岡城と改名し、有岡城主で摂津一国を任せられた。以後織田信長の臣下として、毛利軍や石山本願寺攻めを担当。しかし、天正6年(1578年)11月、毛利氏に通じて謀叛を起こす。その後、有岡城は、約1ケ年織田信長の攻囲をうけ、翌年11月に落城した。その間、荒木村重は単身で尼崎へ逃れて、織田信長の誘降に応ぜず、ために有岡城落城。一族・家臣・小者に至るまでことごとく処刑された。後、豊臣秀吉のお伽衆として仕えます。茶道にもすぐれ堺に移り住み、天正14年(1586年)病死した。