nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

池田城

2013年09月07日 | 大阪府の城郭・環濠

 池田城は、大阪府池田市の城山町周辺の標高50mの高台に、室町時代から戦国時代にかけて、旧豊島郡(現在の池田市、豊中市、箕面市周辺)を治めていた摂津の有力国人池田氏によって築かれた平山城で池田氏の居城です。築城当初は、主郭(本丸)と小さな曲輪の小規模の城であった。その後、池田城は、多くの落城の憂き目にあい、その都度堀を広げ、周りに土塁や連郭式の曲輪を設け防衛効果を高めていった。永禄11年(1568年)の織田信長の上洛後の摂津制圧に際して三好三人衆方の国人として、池田勝正は、憶することなくこれに立ち向かい抵抗したが、織田軍の攻撃を受け降伏する。その後、池田勝正は織田信長に登用され織田信長の家臣(6万石の池田城主)となった。その後、池田氏内紛に乗じて旧家臣の荒木村重が主君の池田氏を下剋上で倒し、池田城を支配し、果ては戦国大名まで成りあがった荒木村重が、伊丹城(有岡城)を居城としたため池田城は、廃城となった。現在は、池田城跡公園としてきれいに整備され,園内には、木造伝統工法の模擬櫓および模擬大手門等が復元されています。

[所在地:大阪府池田市城山町]

アクセス>阪急電鉄宝塚線池田駅下車徒歩15分

池田城の概要

模擬大手門(東門)

池田城址碑   ▼東門

 

模擬櫓(木造伝統工法造り)

模擬櫓からの眺め()   ▼模擬櫓からの眺め(城内)

 

模擬櫓からの眺め(城内)   ▼模擬櫓からの眺め(城外)

 

空堀                                  ▼空堀

 

             虎口門

 

             西門

 

 2013/09/06 訪城

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池田貞正、池田城に自刀  永正5年(1508年)      

 細川高国と細川澄元の家督争いに巻き込まれ、池田貞正は、細川澄元に加担する。結果、細川高国の軍勢に攻められ、池田城落城して当主池田貞正以下数十名が切腹、その後、池田貞正の嫡子池田久宗が池田城を奪回し、以後落城再建を繰り返す。  

摂津の国人と配置図

荒木村重 (1535年~1586年) 

 荒木村重は、丹波の波多野氏の一族です。摂津の池田知正の臣であったが、織田信長が足利義昭と対立した時、織田信長の下に馳せつけ、以後これに従う。その後、池田氏内紛に乗じて旧主君の池田氏を下剋上で倒し、池田城を支配し、更に天正2年(1574年)11月,織田信長の命により伊丹城を攻めて伊丹氏一族を滅ぼしました。織田信長から伊丹城を与えられ、入城後、有岡城と改名し、有岡城主で摂津一国を任せられた。以後織田信長の臣下として、毛利軍や石山本願寺攻めを担当。しかし、天正6年(1578年)11月、毛利氏に通じて謀叛を起こす。その後、有岡城は、約1ケ年織田信長の攻囲をうけ、翌年11月に落城した。その間、荒木村重は単身で尼崎へ逃れて、織田信長の誘降に応ぜず、ために有岡城落城。一族・家臣・小者に至るまでことごとく処刑された。後、豊臣秀吉のお伽衆として仕えます。茶道にもすぐれ堺に移り住み、天正14年(1586年)病死した。


難波宮跡(645年~793年)

2013年09月07日 | 王宮・宮殿・行宮・御所

 難波宮跡は、飛鳥時代・奈良時代の難波(なにわ)にあった宮殿の跡です。乙巳(いつし)の変で蘇我氏が滅亡したのち,孝徳天皇が、大化元年(645年)に難波に遷都し、652年に完成させた前期難波宮と、奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が、藤原宇合に命じて難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした後期難波宮が、ほぼ同じ場所で営まれていた。784年,桓武天皇により、長岡京に遷都された際、大極殿等の建物が長岡京に移築された。793年に難波宮が廃止される。現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり園内には、復元された前期難波宮の八角殿跡や後期難波宮の大極殿基壇などが復元されています。

[所在地:大阪市中央区法円坂1] 

アクセス>地下鉄(谷町線)谷町四丁目駅下車東へ徒歩約5分

前期難波宮

 前期難波宮は、全ての建物が、掘立柱構造で、屋根瓦を葺かない建物であった。

    

後期難波宮 

 後期難波宮では、天皇が祭りごとをする中心の建物として「大極殿」が建てられました。建物は、基石造りとなり、屋根には瓦が使用された。

         儀式

 

史跡難波宮跡の全景

史跡難波宮跡入口付近  ▼回廊跡

 

大極殿基壇       ▼八角殿跡

大極殿は、天皇が祭りごとする中心の建物

 

2013/09/06 訪問

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乙巳(いつし)の変  大化元年(645年)

 新興豪族の蘇我氏が、渡来人の東漢人のバックアップを受けて、587年最大豪族の物部氏を倒し、豪族たちを主導して飛鳥朝廷を確立していきました。蘇我氏の勢いに危機感を持った中大兄皇子は、飛鳥寺の蹴鞠の席で、中堅豪族の中臣鎌足と知り合い、大化の改新の盟約をする。中大兄皇子の命により巨勢臣徳陀(こせのおみとこだ)が蘇我氏の最大の軍事氏族である東漢氏(やまとのあやうじ)を説得して中大兄皇子の味方に付けてから、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が宮中で蘇我入鹿を暗殺した。入鹿一族は、屋敷に火を放って自殺した。ここに蘇我氏総本家は、滅亡した。

大化の改新  大化元年(645年)

 乙巳(いつし)の変のあと、外国にも対抗できる「天皇を中心とした新しい国づくり」をはじめようとした。

 1. 蘇我氏やこれに味方した豪族の影響を避け

 2. 新しい宮殿で、国内や外国に天皇の力を示し

 3. 海と川の水運のかなめの地で、人の往来や全国各地から品物を運んでくれる便利な所を求めて、都を『飛鳥』から『難波』に移しました。

 このようにして、新しい政治の仕組みを作り、古代における近代的な『国作り』を『難波宮』から始めました。これを『大化の改新』と呼ばれています。

◆大化の改新のポイント◆

①天皇や豪族が支配していた「人と土地」を天皇(国)が直接支配する。[公地公民の制]

②都と地方制度を定める。日本を国と郡に分割して統治する制度[国・郡制度]

③戸籍を作成し人口調査を行う。公地を公民に貸し与える制度[班田収授の法]

④税制を定める。公民に税や労役を負担させる制度[租庸調制]

⑤役人の仕事をする時間帯(日の出から正午まで)を定める。

⑥孝徳天皇が仏教を熱心に信仰した。