建武の新政で楠正成の領地となり、建武年間(1334年~1336年)に楠正成によって築かれたとも言われているが、定かではない。南北朝の争乱が終り、室町時代になると地侍、土豪といわれる小領主たちが、領土支配のための城館を築き、地域の有力者と呼ばれる国人に成長する。15世紀前半には、摂津の国人として茨木氏の名が出てくる。永禄11年(1568年)城主茨木佐渡守は、摂津に侵攻した織田信長に降り領土を安堵された。しかし、茨木氏は、元亀2年(1571年)池田氏との戦に敗れ滅んだ。その後、天正5年(1577年)には荒木村重の家臣の中川清秀が7万石の城主で入城した。荒木村重の謀叛に際しては中川清秀は、はじめ荒木村重方に付いて城の防備を固めたが、織田信長方の説得により織田信長方に降りた。天正11年(1583年),賤ケ岳合戦では、柴田勝家方の佐久間盛政の猛攻を受けて奮闘の末に自決して果てた。中川清秀の後、茨木城は、嫡男中川秀政(5万石)が継いだ。天正13年(1585年),播磨三木城(6万5千石)に移る。中川氏転出後の茨木城は、豊臣秀吉の直轄となり、代官預かりとなる。関ヶ原の合戦の翌年の慶長6年(1601年),茨木城の新領主として片桐且元、貞隆兄弟が1万2千石で入城した。片桐且元は、元和元年(1615年)の大坂の陣の後、茨木と大和龍田4万石を領して茨木城を居城とするが同年没する。後継いだ片桐孝利は大和龍田へ、片桐且元の弟片桐貞隆は大和小泉に移り、茨木城は廃城となった。
[所在地:大阪府茨木市片桐町(茨木小学校)]
<アクセス>JR東海道線茨木駅下車徒歩20分。又は阪急電鉄京都線茨木駅下車徒歩15分。
▼茨木城復元櫓門(茨木小学校の正門)
大和小泉の慈光院に移築された櫓門を瓦葺きで復元したのである。
▼茨木城搦手門(茨木神社の東門)
茨木神社の東門が、茨木城の『搦手門』を移築したものである。
▼茨木城櫓門(慈光院の山門)
茨木城より移築して、屋根を書院に合わせて茅葺きに葺き替えて当院の山門にした。
▼茨木城址図(明治初年)
2013/09/12 訪城
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▼摂津の国人と配置図
◆茨木氏
茨木(現在の茨木市片桐町・上和泉町他)。居館跡は、片桐且元の茨木城と同じ。細川氏被官。文明14年(1482年)に細川政元の攻撃を受け、庶流が家督を継ぐ。天文年間(1532年~1555年),茨木長隆は、細川晴元の代官として活躍。元亀2年(1571年)、池田氏との戦で敗れ滅亡した。
◆中川 清秀 (1542~1583)
摂津の人。荒木村重に属し茨木城主。天正6年(1578年)荒木村重の謀叛に従ったが、間もなく織田信長に降参。本能寺の変後、羽柴秀吉に合流して山崎の戦に参加。その後も豊臣秀吉に属し、賤ケ岳の戦に従事。佐久間盛政の攻撃を受けて討ち死にした。