涙1
「必要性に迫られたので抱いていただけませんか。」
期限の迫っている書類にサインを求めるのと同じ声で彼はルイ・アームストロングに頼んだ。言った当人がもともとその気のある者ならまだ納得できる。しかし、彼に関してはその手の話はまったく考えられない。そして、言われたほうもその気のある男ではない。
ぐしゃ
あわれなブランデーグラスは短い命を終えた。ルイ・アームストロングの手の中でグラスは握りつぶされていた。1センチ分ほど残っていたブランデーは床にぽたぽた落ちる。
それはブロッシュ少尉が昼食後に訪ねてきたときに始まった。
「涙?」
ルイ・アームストロングは食後のお茶を飲みながら反問した。あまりにも話題の人物に似合わない単語であったからだ。
「はい、泣いていました。間違いありません」
ブラッシュは断言した。ラッセルがセントラルに来てから2年弱になる。その間一日も離れず側にいるのだ。あの意地っ張りで、プライドが高くて、うそつきで、穏やかに笑っているのに油断のならない、寝起きの悪すぎる上司坊やのことはよく分っている。
「ふーむ (ブロッシュが見たと言うからには間違いはあるまい)。ラッセルはどうしている?」
「今、会議室です。たいした会議ではないので書類整理を口実に出てきました」
「体調は?」
「良くないですね。昼食どころか、お茶も飲まなくなってます」
「今日の会議は昼食会兼用だったが?」
「また、吐くことになるでしょうね。その後、一時間ぐらいは書類のサインもできなくなるので迷惑してるんですけど」
一見、ブロッシュはひどいことを言っているようであるが、彼なりに上司の坊やを心配しているのだ。ブラッシュがいくらがんばって書類を合格、不合格(却下)に分けてやってもサインするのはラッセルである。昼の一持間の遅れはさまざまな横槍の入る午後だけでは追いつかず結局残業ということになる。結界を緩めないために浅い眠りしか許されないラッセルには十分な睡眠時間が必要である。夜の残業はなるべく避けさせたい。それでなくても上司坊やは帰宅しても文献を読み漁り、その気になると深夜でも実験室にこもるので慢性的な睡眠不足である。
「何かあったな。また一人で溜め込んでおるな」
「ブイエ将軍から個人宛メッセージが来るようになってから特に具合が良くないようです」
「巨頭の握手か、あれは聡い子だ。和解ムードに水をさせぬと知っているのだろう」
巨頭の握手、それはホモンクルス事件をきっかけに実質的に大総統の権力を握ったロイ・マスタングと、ホモンクルス事件が無ければ次の大総統と見られていたブイエ将軍の形式的な和解。軍を二分しかねない勢いで対立を強めていた両陣営であった。それを防いだのはブイエの功績となっていた。
ブイエ将軍は自分の派閥の者の声を抑えると、階級的には下であるロイの部屋を訪問した。普通、軍隊ではこういうときは下の者を呼びつけるのが当然である。そしてブイエはその席で『マスタング殿はすばらしい部下をお持ちだ。』と褒め称えた。巧妙なブイエはこのとき軍の報道官を連れていた。
『ぜひとも子飼いの錬金術師の若者を軍のために国のために役立てていただきたい』。ブイエのこの申し出は彼らがすでに国錬であるためきわめて正当な申し入れとなった。ロイとしては答えるしかなかった。
『まだ子供ですので、皆様のお邪魔になるかと遠慮申し上げておりました。将軍閣下のお口添えをいただければ当人にも大変な名誉であります』
かくして三人の十代の国錬は両者の和解と協力の象徴となった。三人の十代、年の順にエドワード・エルリック、ラッセル・トリンガム、フレッチャー・トリンガムである。
ブイエの狙いが三人の誰にあるかは微妙であった。というのもラッセルはすでにマスタング陣営の若手として、軍の仕事をこなしていた。フレッチャーは士官学生である。そしてエドは一応スカー逮捕の折負傷したことになっており、戦闘行為からは引退している建前になっていて今はロイの家(緑陰荘)で好きな研究に没頭している。
報道官が笑顔で手を取り合うロイとブイエの写真を何枚も撮った。
ロイは完全にブイエに先手を打たれた。実質的大総統として政治面軍事面に忙しくとても回りつかなかった。
「おい、ヒューズ聞いているのか。お前が付いていてくれないから、大事な子供らに手を出されたのだ。俺を一人にしやがって」
その夜、マース・ヒューズの墓に酒をかけまくり、ロイは亡き友に苦情を言った。実際マース・ヒューズさえ生きていればロイの治世はもっとトラブル無く走り出したはずであった。『人とは不都合なものだな、いなくなって初めてその人の重さが解る』とは、マスタング陣営の誰かが書き残した言葉である。
「わかった。ラッセルのことは我輩に任せておけ。キャスリンに夕食にでも誘わせて聞いてみよう。」
「それでしたら、予定の無い日を探すのは大変ですよ」
「?」
「このところ夜も仕事が入ってます。私が運転して行っただけでも先週5回今週6回です」
「毎晩ではないか!」
「軍がらみの兵器工場とか、高級将校用クラブとかいろいろですけど、彼ふだんでも胃が弱いのにあんなに飲まされていては・・・」
「なぜすぐ報告しない!」
「機密扱いになるからと口止めされました」
「中佐待遇権限か。まったく悪い事ばかり覚える子だ」
「大佐が訊いてくだされば問題にはなりませんので。それに泣いていたことは口止めされていませんから」
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「必要性に迫られたので抱いていただけませんか。」
期限の迫っている書類にサインを求めるのと同じ声で彼はルイ・アームストロングに頼んだ。言った当人がもともとその気のある者ならまだ納得できる。しかし、彼に関してはその手の話はまったく考えられない。そして、言われたほうもその気のある男ではない。
ぐしゃ
あわれなブランデーグラスは短い命を終えた。ルイ・アームストロングの手の中でグラスは握りつぶされていた。1センチ分ほど残っていたブランデーは床にぽたぽた落ちる。
それはブロッシュ少尉が昼食後に訪ねてきたときに始まった。
「涙?」
ルイ・アームストロングは食後のお茶を飲みながら反問した。あまりにも話題の人物に似合わない単語であったからだ。
「はい、泣いていました。間違いありません」
ブラッシュは断言した。ラッセルがセントラルに来てから2年弱になる。その間一日も離れず側にいるのだ。あの意地っ張りで、プライドが高くて、うそつきで、穏やかに笑っているのに油断のならない、寝起きの悪すぎる上司坊やのことはよく分っている。
「ふーむ (ブロッシュが見たと言うからには間違いはあるまい)。ラッセルはどうしている?」
「今、会議室です。たいした会議ではないので書類整理を口実に出てきました」
「体調は?」
「良くないですね。昼食どころか、お茶も飲まなくなってます」
「今日の会議は昼食会兼用だったが?」
「また、吐くことになるでしょうね。その後、一時間ぐらいは書類のサインもできなくなるので迷惑してるんですけど」
一見、ブロッシュはひどいことを言っているようであるが、彼なりに上司の坊やを心配しているのだ。ブラッシュがいくらがんばって書類を合格、不合格(却下)に分けてやってもサインするのはラッセルである。昼の一持間の遅れはさまざまな横槍の入る午後だけでは追いつかず結局残業ということになる。結界を緩めないために浅い眠りしか許されないラッセルには十分な睡眠時間が必要である。夜の残業はなるべく避けさせたい。それでなくても上司坊やは帰宅しても文献を読み漁り、その気になると深夜でも実験室にこもるので慢性的な睡眠不足である。
「何かあったな。また一人で溜め込んでおるな」
「ブイエ将軍から個人宛メッセージが来るようになってから特に具合が良くないようです」
「巨頭の握手か、あれは聡い子だ。和解ムードに水をさせぬと知っているのだろう」
巨頭の握手、それはホモンクルス事件をきっかけに実質的に大総統の権力を握ったロイ・マスタングと、ホモンクルス事件が無ければ次の大総統と見られていたブイエ将軍の形式的な和解。軍を二分しかねない勢いで対立を強めていた両陣営であった。それを防いだのはブイエの功績となっていた。
ブイエ将軍は自分の派閥の者の声を抑えると、階級的には下であるロイの部屋を訪問した。普通、軍隊ではこういうときは下の者を呼びつけるのが当然である。そしてブイエはその席で『マスタング殿はすばらしい部下をお持ちだ。』と褒め称えた。巧妙なブイエはこのとき軍の報道官を連れていた。
『ぜひとも子飼いの錬金術師の若者を軍のために国のために役立てていただきたい』。ブイエのこの申し出は彼らがすでに国錬であるためきわめて正当な申し入れとなった。ロイとしては答えるしかなかった。
『まだ子供ですので、皆様のお邪魔になるかと遠慮申し上げておりました。将軍閣下のお口添えをいただければ当人にも大変な名誉であります』
かくして三人の十代の国錬は両者の和解と協力の象徴となった。三人の十代、年の順にエドワード・エルリック、ラッセル・トリンガム、フレッチャー・トリンガムである。
ブイエの狙いが三人の誰にあるかは微妙であった。というのもラッセルはすでにマスタング陣営の若手として、軍の仕事をこなしていた。フレッチャーは士官学生である。そしてエドは一応スカー逮捕の折負傷したことになっており、戦闘行為からは引退している建前になっていて今はロイの家(緑陰荘)で好きな研究に没頭している。
報道官が笑顔で手を取り合うロイとブイエの写真を何枚も撮った。
ロイは完全にブイエに先手を打たれた。実質的大総統として政治面軍事面に忙しくとても回りつかなかった。
「おい、ヒューズ聞いているのか。お前が付いていてくれないから、大事な子供らに手を出されたのだ。俺を一人にしやがって」
その夜、マース・ヒューズの墓に酒をかけまくり、ロイは亡き友に苦情を言った。実際マース・ヒューズさえ生きていればロイの治世はもっとトラブル無く走り出したはずであった。『人とは不都合なものだな、いなくなって初めてその人の重さが解る』とは、マスタング陣営の誰かが書き残した言葉である。
「わかった。ラッセルのことは我輩に任せておけ。キャスリンに夕食にでも誘わせて聞いてみよう。」
「それでしたら、予定の無い日を探すのは大変ですよ」
「?」
「このところ夜も仕事が入ってます。私が運転して行っただけでも先週5回今週6回です」
「毎晩ではないか!」
「軍がらみの兵器工場とか、高級将校用クラブとかいろいろですけど、彼ふだんでも胃が弱いのにあんなに飲まされていては・・・」
「なぜすぐ報告しない!」
「機密扱いになるからと口止めされました」
「中佐待遇権限か。まったく悪い事ばかり覚える子だ」
「大佐が訊いてくだされば問題にはなりませんので。それに泣いていたことは口止めされていませんから」
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