金属中毒

心体お金の健康を中心に。
あなたはあなたの専門家、私は私の専門家。

約束

2007-01-13 19:05:59 | 鋼の錬金術師
逃亡者達13

約束 
あの人と一緒にいたい。そのためなら何でも差し出す。

帰ると決意は決まったが、発作後のラッセルは動かせなかった。
不安定な脈拍。うっかりと忘れられる呼吸。
医者を呼ぼうにもうかつな医師には見せられない。
やむを得ず、アレックスは一人でセントラルに戻ることにした。
そのことを言うと。

「ヤダ」
小学生でもあるまいにほほを膨らます。
食事を拒否してハンガーストライキの構えである。
「ラッセル」
さすがに2日目になって夕方を過ぎるころにはルイも本気で怒り出した。
それでなくても栄養状態は最低である。ここには点滴の設備も無い。静脈注射で補うのも限度がある。できるだけ食事から栄養を取るべきである。ようやく少し改善しかけたばかりで、ハンストなどしてはまた身体が続かなくなる。
あれから夜になると咳き込むようになっている。体力をこれ以上落とさせるわけには行かない。
「いいかげんに納得しなさい。なるべく急いで迎えに来る。いずれにせよセントラルの様子を見てこねば、部隊もそのままになっておるだろうし」
そこまで口にしたところでアームストロング元大将軍ははっと気づいた。
(しまった、こんなところで遊んでいる暇など無い。早くセントラルに、軍に戻らねば、マスタング殿との約束を)
それどころではなかったというのが本音だが、言い訳にしかならないことはよくわかっている。
あの日研究所のドアをたたき破ってラッセルを連れ出して、もう1月を越えてしまった。その間、軍にも妹にもブロッシュにさえも連絡していない。
退役したとはいえ軍人として公人としての立場を完全に忘れていいはずはない。
第一、 今まで妹にまかせっきりにしていたとはいえ自分は財団の当主である。
砂漠の真ん中で子供の遊び相手をしていられる身ではない。
ついこの子から手を離せなくて、いや離したくなくてすべてを忘れていることにした。
それにこの子にも立場がある。これ以上つらい思いはさせたくないし、ゆっくり休ませたいのも本音である。だが、まだ31歳だ。隠居するには早すぎる。そのあたりもキャスリンとよく相談せねばならない。
財団が手を回せば、戸籍を作り変え名を変えて過去を捨てて生きるのも難しくは無い。ようはこの子の気持ちしだいだ。今は精神的に参っているから軍への協力は絶対にしたくないだろうが落ち着けば気持ちも変わろう。この子の才能をこのまま砂漠に埋めるのはあまりにも惜しい。
それだけのことを1秒で考えるとアレックスはラッセルを見た。まっすぐに。
青い瞳と銀の瞳が互いに姿を映しあう。そのとたん、目をそむけたのはラッセルのほう。
「いやだ」
子供のようにそれだけを言うと毛布にもぐりこんでしまった。
頭からかぶって顔を見せない。
「ラッセル、もうわかっておるな」
軍属の形とはいえ、15年も軍にいた彼がわからないはずは無い。ただ、言いたいのだ。いやだと。
「朝になったら出る。ここには医師を手配してすぐ送るから、ちゃんと言うことを聞くのだぞ」
「ヤダ」
声にもならないような小さな声で。
毛布がテントの形になっている。そのとがった頂点が震える。
必死で咳を押さえ込んでいるのだ。
いやだと言いながらもルイに心配をかけて、出られなくしたりしてはいけないとわかっている。

いつものように一緒に眠ろうといいかけた。しかし、押し殺したような声で(咳を押さえているためだろう)
「行っちゃえばいいんだ」と、
ようやくの思いでそう言った彼の気持ちを無視できなかった。
「用意をしてくる」
そういって部屋を出た。
ドアの閉まる音に抑えられなくなった咳の音が重なった。


この夜2人はここに来て初めて別の寝室で眠った。


気休めにしかならない咳止めを持っていった家事女は枕に顔をうずめる青年を見つけた。
「ルイ、おいていかないで、一人はいやだ。こわい。あなたがいないとこわい。いかないで」
家事女が入ってきたことにも気づかず、ラッセルは黒い影におびえていた。


脳障害

財団系の病院から来た医師は彼を診察した。
彼は目を覚ましている。しかし。

「ルイ様。結論だけ申し上げます。この方が回復する見込みはありません。
出血による酸素欠乏で脳の記憶に関する部位と、高次機能部位が死滅しています。専門の病院で機能回復のトレーニングをすればある程度、指示に従える程度には回復するかもしれませんが、この方のお体の様子から見てトレーニングに耐え切れません」
ラッセルの目は開いている。だが、自分のことを話されているということもわからないのだ。
その目には何の反応も見えない。

今日最初の朝日が窓から光を差し入れた。
彼の手のひらに光が当たる。それを握ろうとでも言うように手が結ばれる。その手を我輩の前に持ってくる。
彼は笑った。幼い、子供の顔で。
手を開く。
もちろんそこに光が握りこまれているはずは無い。
しかし見えた。いく粒もの光の粒子。
「エドワード・エルリック。これはそなたの意思か。この子がもう苦しまないように、もう一度産まれさせたのか」
医師は礼儀正しく、ご当主の声を聞こえなかったことにした。
微笑むご当主はすでに絶望という衣を脱ぎ捨てていた。

最初、血に染まるシーツに包まれた冷たい肌をしたラッセルを抱き上げたとき、これは悪夢の続きであってくれと祈った。
何が原因かはわからない。
おそらく張られていた胸の傷の結界が一時的に完全に消滅した。
肺は大量の血液が常にある臓器である。
その臓器で体を貫く傷があればどうなるか。
一度に流れた血がシーツを冷たくするころには、シーツに包まれていたラッセルはその冷たさを感じなくなっていた。
すでに死体にしか見えない彼を血に染まったシーツから下ろす。
言葉を話せない女がそれでも祈りの言葉を唇に浮かべた。
その女を怒鳴りつける。
「馬鹿者!!この子が死ぬわけは無い
部屋を暖めろ!毛布をありったけもってこい!急げ!!」
アレックスが使用人を怒鳴ったのはこれが最初で最後であった。

言葉を使えなくなった女はそれでも必死でない知恵を絞り昨日ご主人様が連絡していた病院に電話した。当初病院は何も言わない電話をいたずらと判断した。しかし、あまりに繰り返されるそれにたまたま出た医師があることを思い出した。
今、隠れ家で休んでおられるご当主のところには口の聞けない家事女がいる。

医師は違っていた場合の減給を覚悟の上で、昨日聞いていたご当主の別荘に来た。
下した診断は無慈悲としか表現できなかった。
名は告げられなかったがこの銀色の青年が何者か、すぐにわかった。
国境の守護獣の役から、やっと解放された彼は、今度は自分自身からも解放された。


失踪14プライドの対価

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参報ヘルガ

2007-01-13 19:04:04 | 鋼の錬金術師
逃亡者たち12

参報ヘルガ・ボルジア

「トリンガム准将。ご気分が優れないと伺いましたが」
薄暗い寝室に平気で入ってくる彼はボルジア家の嫡男ヘルガ。士官学校を同期で卒業しその後もずっと翼竜隊でともに戦っている。そういう風に言うと、戦友という言葉が即うかぶが、実のところそんな生易しい単語では言えない。ヘルガは私への長期求婚者である。
ヘルガが士官学校に入ったのは私、フレッチャー・トリンガムより2年遅い。1年生を2回も繰り返しているうちに同級生になってしまった。こういうと私が無能のようだがそれは誤解である。もともと私は大学への特別入学(年齢制限の撤廃特別枠)を求めて形式的に士官学校に入ったに過ぎない。医大を2年でクリアしてすぐ医師になった。卒業論文はシン医学検証。
順風満帆で医師か研究者になると思われた私だがその年士官学校に正式入学した。すべて、兄のために・・・・・。
思えばあのころ兄は私が医師資格を取ったことで安心していたのだろう。
これで弟の手は汚さずに済む。医師なら例え徴兵されても前線には出なくてすむ。おそらくそんな風に考えていたのだろう。
だが、私は医師資格をとった直後軍人への道を選んだ。
その結果、  めったに声を荒げたことの無い兄がいきなり怒鳴りつけて、さらにすぐに退校しろと迫ってきた。
僕の言葉なんて聞こうともしないで・・・。
だからつい答えた。
「僕の人生だ。いつまでも兄さんの思い通りには生きない!」
私は兄に守られるのでなく兄を助けたかった。
兄が軍の手を借りてしか軍に利用されてしか生きられないなら、それを助けたかった。それだけだったのに。

「准将、お疲れなのはわかりますが、部下たちが動揺しています。一度お姿だけでも見せていただけませんか」
ここでヘルガは一呼吸おいて付け加えた。
「第一、お前が姿を見せないと俺がさびしい。出て来いよ。でないと、このまま押し倒すぜ」
言ったときにはもうされていた。
有言実行というがヘルガは有言と実行の間に隙間がまったく無い。
こんな男に挨拶代わりに10年以上求婚されている。
いつもは挨拶返しに殴り返すのだが、といっても当たったのは最初の求婚の日の1発目だけで以降は100パーセント避けられている。
生前のエド兄さん(あのころはそう呼んでいた)に何か悩みでもあるのかと聞かれたが、入学早々男に結婚を申し込まれて付きまとわれて困っていますなどと言えるわけが無い!!
もちろん兄にも言えるわけが無い。副官としての、ボルジアの名は知っているだろうがどういう付き合い方をしている(されかかっている)かまでは知らない・・・知らないはずだ。

絶対に好きになれない男だが、実のところ、エルリック兄弟との別れやら、その後の兄との行き違いとか、その度にこの男の言動に救われたのは否定しない。どんな悩みも所詮意識の上でのことでその点この男(の危険)は現実だったからだ。だが、もう何もかもどうでもいい。
この男に押し倒されようと所詮はあの父によって作り出されたこの肉体だけの事だ。そんなものもうどうでもいい。
なぜって、
にいさんはぼくをすてていってしまったから。

「おい、フレッチャー、死んでいるのか」
そのとおりだと答えてやる気も無い。もうどうでもいいのだから。
しかし、普通は生きているかと聞くだろうに、貴族のお坊ちゃまのわりにこの男は気が短い。言うのとするのがほぼ同時、ひどいときには撃ち殺してから、「抵抗したら射殺する」と警告した。
戦場では頼りになる。個人戦闘家としても指揮官としても。この男の指揮下で全滅した部隊は無い。
利用できるものは何でも利用するがモットーで、部下のアメニティ向上のために温泉がほしいと言い出したと思ったら、某貴族にお願いして(脅して)部隊に寄贈させた。しかも、必要なメンテナンスは相手の貴族もちで!
そういえば、こいつが私の兄を利用しようとしないのが不思議だった。
兄に隙が無いというより、あまりの守護の完全さに利用しかねるというのが実際だったのだろう。
何しろ兄にはマスタング、アームストロングを始め、各界の大物達が微妙な距離を保ちながら常についているから。
兄自身には守られているという意識は無い。ギブアンドテイク。等価交換。だが、有形無形の悪意から兄が守られているのは事実だ。兄は25を越してもどこか透明なほどに清らかだった。ましてその後の5年間誰にも見られることも無いまま、     あぁ、兄の最後の声が忘れられない。
血を吐くような声とはあの声を言うのだ。
「見るな。俺を見るな!!」
あれから5年。
ブロッシュだけを連絡役に兄は誰にも姿も声も見せないまま生きていた。
そういえばブロッシュさんはどこに隠れたのか。
とっ捕まえて締め上げてやる予定だったのに見事に気配を消されてしまった。
今も隠れているのだろう。もう、何をする気も無いのに。
どうでもいいのに。
兄さん、あなたは僕を捨てたのだ。そんなあなたの行方など今更捜すものか。
だから、ブロッシュさんが出てきても何もする気など無い。    いや、きっと私は彼を締め上げてしまう。兄さんがこの5年苦しまなかったのか、泣いてはいなかったのか、あなたの5年を聞き出して、あなたに関する記憶をボクダケノモノニするために。
だから隠れていてもいい。いっそこのままどこかに消えてほしい。そうすれば僕は私を捨てたあなたではなく私を守っていたあなたの記憶をおいつづけられる。

「おい、ほんとにやっていいのか」
ヘルガにしては珍しい。3秒間も逡巡した。
もっともその分その後は早かった。
それをあれこれ考える気は無い。所詮体のことだ。
女なら4桁は抱いたし、いまさら男が一人増えたことぐらい何の問題にもならない。


そのつもりだったのだが、   実際問題、抱くのとはわけがまるっきり違った。
何もかも溶けていく。ヘルガの問いに何でも答えてしまう。
気がついたときにはヘルガの肩を枕代わりに兄を呼んではしゃくりあげる自分がいた。

「ふ―ん、つまり兄が誘拐でなくて失踪だったからいじけていると。しかもマスタングに反乱状をたたきつけた後で
要するにお前は兄でなく 弟である自分をかわいがってくれる兄 が欲しいわけだな」
「・・・!」
「そうだろう、兄が無事かどうか確かめようともしない。誘拐より失踪のほうが無事の可能性は高い。それなのに失踪したから兄を拒否するわけだ」
「 「僕を拒絶したのは兄さんのほうだ。僕は絶対兄さんを迎えになんかいかない」 」
何か答えようとして、記憶の底のほうでわだかまっていた言葉が出てきた。
これはいつ言った言葉だったのか。あぁそうだ。エドさんが生きていたころ、僕の手を振り払って飛び出してしまった兄さんを迎えに行くようエドさんに言われて、あの時も本当は迎えに行きたかった。それなのに、なぜ行かなかったのか。なぜ、「兄さんなんて、大嫌いだ」、あんな言葉を口にしたのか。
あの後兄さんはあの人の手に収まった。あの人の・・・。
何かがわかった気がした。兄さんが失踪あるいは誘拐(公式には殺害)されたときあの人はどこで何をしていた。行方不明の副官。彼の忠誠の対象は。今までどうして思い出しもしなかったのか。最も可能性の高い人を。それは相手があの人ならそれは誘拐ではなく失踪ですらなく世に言う 駆け落ち になってしまうから。それは兄が完全に弟たる自分を忘れたことになる。忘れる。それは捨てるよりもよほどひどいことではないだろうか。

「火葬したそうだな」
土葬が本来のアメストリスでは珍しい。感染度Dランクの伝染病患者以外を火葬にするなどめったにあることではない。
「マスタングの命令だった」
士官学校時代からこの二人は2人だけのときはマスタングへの敬称が消える。
検視したのはマスタングの戦友(共犯者)のノックス、引退した彼をわざわざ引っ張り出して押し付けた。その上で火葬された。
「きれいな死体だったと聞いた。発見から10日後の解剖でも死後硬直すらなかった」
「検視報告を見たのか」
検視の報告はマスタングに直行したはずだ。
「解剖助手はうちの援子だ」あっさりとヘルガは答える。
マスタングの情報隔離もいいかけんな物だ。
ちなみに援子とは貴族が保護あるいは援助したものを指す。ボルジア家は高名なパトロン一族だから援子は多い。アームストロング家ほどではないが。(あの家系は育て癖があるようだ)。
「内臓、血管、筋肉すべてが解剖図のように整っていた。理想的な死体に見えたそうだ。さすがに銀のトリンガムの1品だな。
本来なら注文主のバース家のものになるべきだが、マスタングは焼却命令を出した」
「え、?」
動くと腰が引き攣れた。
「うっ」
声を出す気など無かったのにうめいた。
兄に捨てられてもなお自分が生きていることを実感せざるを得ない痛み。
「注文主?」
「知りたいか?そうだな。フレッチャーが正式に準婚姻を受けたら教えてやる」
「上官命令だ。答えろ」
「涙目で言われても、迫力ゼロだな。第一この情報は公爵家のものだ」
確かにそうだ。しかし、兄のことだ。すべて知るのは自分の権利だ。
「だったら受けてやる」
「・・・・・たいしたものだな。それだけ執着があれば何でもできるだろう」
今まで、10年以上断ってきたことをあっさり受けられた。うれしいというより落胆がある。これでフレッチャーと私ヘルガ・ボルジアとの関係は変わる。対等の軍人同士の関係はおしまいになる。
これからは革命家あるいは陰謀家とその参報になる。
「ではまず、リキニウスの名をお前のものにしろ。それから宣戦布告だ」
面白くなる。最高の駒を手にしたのだから。


しばらく後に女性向け週刊誌を始めとして、リキニウス家に嫡男が現れたことが派手に宣伝された。
最高の駒の実兄がそれを見て弟を焦がれるように求めるまで後幾日か。


失踪13約束

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あなたとここに

2007-01-13 19:02:25 | 鋼の錬金術師
逃亡者たち10

帰るために行こう。

ようやく話せるようになって幾日かが過ぎた。その日々を二人はこんな風にすごしていた。
アームストロングが何も心配は無いから検査と入院をというたびにラッセルがそっぽを向いて膨れる。
逆に疲れが出て眠っているらしいルイにラッセルが治癒練成をかけようとそっと肌に手を触れる。そのとたんにその手首がやさしく、しかししっかりとつかまれる。
「よい、覚悟の上でのことだ」
青い瞳が説得するかのように見つめる。大きな手がラッセルの髪をなぜる。その大きな手を細い指が払いのける。
色素の薄い瞳が答える。
「勝手に決めるな」
そんなことを繰り返している。
と言うとけんかばかりしているようだがとんでもない。
住み込みの家事女の目にはどう見ても甘甘の新婚さんがべたつきあっているとしか見えなかった。
ひとりでは食事を取ることさえしないラッセルに小鳥の給餌よろしくティースプーンに5グラム足らずのプティングをのせては口元まで運んでいく。銀のスプーンで、少しずつ。
「もういい」
味覚がないせいもあり、ラッセルにとって食事は完全に義務でしかなかった。特に研究所にいた間は。
それがここに来て楽しみに変わった。3食と2回のティータイムはルイに抱かれてとる。自分ではスプーンひとつ触らない。
当初は足元がおぼつかないラッセルを支えるために抱いていたのだが、いつの間にか意味が変わった。抱いていたいから抱くに。
でも理由がいる。
家事女の目から見ればあほらしい限りだが2人は微妙に距離をとろうとする。
・・・相手はどう思っているのかわからないし・・・。
そうしそーあいってどういうスペルだったかしら?
言葉を失った女はあの2人に教えてやりたいと心底思った。
毎日少しずつ食事とお茶にかける時間が長くなる。
そこでかわされる話題はたわいないことばかり。砂嵐は納まった。明日も雨は降らないだろう。
家事女の聞いている限りここ以外の話題は出ない。昔のことも口にされない。
そんな毎日に変化があった。
最初の変化は小さいことだがうれしいことだった。
いつものように小さな銀のスプーンで、(スプーンが小さいわけではない。持っている者が大きすぎるのだ)つぶし野菜やら、プティングやらを運んでいたスプーンが舌で押し出された。
テーブルに並んでいるのはどう見ても1歳児の離乳食である。長い間まともな物を食べていないラッセルにはこのあたりから始めるしかない。
「疲れたか」
気遣わしげな青い瞳が見下ろす。
「嫌いだ。甘すぎる」
「・・・ラッセル・・・!!」
ルイの瞳に広がる驚きにラッセルは自分が何を言ったのか考えた。
(そんなに驚くようなこと言ったかな?)
30を越した男が小首を傾げるなど普通なら不気味に違いない。
しかし、(きれいねぇ)。家事女はうっとりと見つめた。
自分の人生はきっとこの別荘に来る幸運を得るために、今まで不運続きだったのだと彼女は信じていた。
「ルイ?」
「わかるのか。わかるのだな」
いつ聞いてもルイの言葉は完璧なセントラル発音だ。名家の子息として赤ん坊のころから鍛えられている。
その彼の発音がくぐもった。あふれ落ちる涙。
「何が?」
「味がわかるのか?」
「・・・えっ。そうみたいだなぁ」
なんとも感動の無い声でラッセルは自分の変化を受け入れた。
ここに来てから自分は人間に戻っていく気がする。
この人の手で。

もうひとつの変化は家事女が吹き込んだ。意識してではない。家事女にすれば永久に今が続いてほしかった。
家事女はかなりな年に見えるが、それは長年の不運がもたらしたもので実際はそう年増ではない。
まだ婦人向け雑誌の美容ページに興味がある年だ。
ご主人様とその愛人が(彼女の目にはそう見えた。愛人で無ければずっと同じ寝室で眠るわけが無いと考えていた)のんびりティータイムなのをいいことに掃除を終えた後ソファーで読書タイムである。
ご主人様も愛人の青年も鷹揚な方なので、家事女は比較的自由に家を切り盛りしていた。
読んでいるのはご主人様やその愛人の読むような難しい本ではない。写真主体の婦人向け雑誌だ。そもそも彼女はあまり難しい文字は読めない。
そのトップ記事は光の神とはかくやあらんと思わせる美形の青年。(実際には天に昇った神はかなりチビだったそうだが)
豪奢な金の髪。銀の瞳。整いすぎて冷たくさえ見える容姿。それをやさしい微笑が親しみあるものにしている。片頬にえくぼがある。
きれい  
ご主人様も美形だと思う。男としてこれ以上は無い完成度の高いいい男。ご主人様の愛人も美形だと思う。銀の髪。銀の瞳。人の美しさというよりも、月の国を追われた罪ある姫のような。あの青年がトイレに行くことがあるとは家事女には思えなかった。
それとはまたタイプの違う、たとえるなら軍神に抱かれた異世界の姫と、姫を取り戻そうとする光の騎士のような。彼女は妄想したに過ぎない。しかしその妄想はもっとも正確だった。
もしもこの3人が会うことがあればぁ、家事女は大きくため息をついた。この世では認められないほどの美しさであろうと。

自分の妄想に鼻血を出して彼女は慌ててタオルを取りに行った。美形のページは汚せないわよ。
ご主人様が愛人を抱いて部屋に入ったのはそんなタイミング。テーブルには婦人向け雑誌のトップページが大きく広げられたまま。


弟の兄

フレッチャー。
そのページがかすかに瞳の端を掠めたときラッセルは愛人(家事女視点)の腕から飛び降りた。降りたとたんにこみ上げる咳と胸の痛みに身をよじる。
色の薄い血が床に落ちた。
5年の引きこもりの間に造血機能は低下の一途をたどりアームストロングが研究所から連れ出したときには人工血液なしでは3日しか持たないような体質になっていた。
ひとつには低栄養状態の影響、ひとつには強度のストレス。まったく日を浴びない生活も影響したのだろう。
ここに来てから改善しかけているがまだ体内の血はほとんど人工物だ。その色素の薄く見える人工血液がさらに床を染めた。背を丸め胎児の形で痙攣を繰り返す。大きく開かれた瞳から落ち続ける涙。
ラッセルの視界を掠めたものが何であったかを見ただけでルイ・アームストロングはラッセルがどうしてこうなったか瞬間的に理解した。
強烈なショックで結界を張っていた精神がかき乱され、胸の傷が開いたのだ。
そのショックの原因は・・・弟。
兄として弟を忘れていたという自責の念が結界の存在を忘れさせるほどの効果を持っていた。

精神を強酸が侵食するような思い。
そういう思いをなんと呼ぶかアレックスは知らない。
この子にとって弟は永遠に弟。
わかっていた。連絡もしなければと思っていた。それをつい1日伸ばし1分伸ばしにしていた。
もう残り時間は見えている。その間、望んだ相手といたい そう思うのは罪なのか。もしも自分に国を守った功績が少しでもあるというならそれをこの時間を守るために使いたい。だが、そんな思いは我輩がたたき殺した者達には決して認められまい。
初めて知った自分の心の影に戸惑いながら、ルイは愛人(家事女視点)を抱き起こす。
やさしく、だが力強くささやく。
「ラッセル、結界を強く張ろう。何にも揺らぐことの無い強い結界を」
闇のモノ達に翻弄され、もてあそばれたこの子には守る手が必要だ。
我輩がいなくなった後もこの子を守り続けられる強い手が。
ナッシュ・トリンガム。今まであなたのしたことを正しいと思ったことは無い。吾が子いとしさあまりに、錬金術師として開けてはならない扉を開いた御貴殿。だが、今になってひとつだけあなたの正しさを認めよう。
あの弟をこの子のために創り出したこと。あなたは父として最高の贈り物を残した。
どれほど抱いていたのか、外は薄暗くなった。砂漠の砂埃が夕日の光を散乱させる。
薄闇の赤。

「ラッセル、セントラルに行って入院だ」
銀の髪をなぜながら彼に伝える。もう決めたこととして。
「行く。またここにあなたと帰るために」



逃亡者達11

兄の弟

初めての記憶は兄、いつも見上げる先にいる
兄だけを見ていた
自分を守ってくれる力強い兄の手を信じていた。


守られているときは,わからなかった。
兄自身も信じた,強さに包まれて、
本当の兄は,弱くてずっと傷ついていたのに

------守りたい,誰からも何からも、その思いが兄を強くした。
だが無理を重ねた身体は限度を超えた。無機質な軍の会議室の白い床に鮮血を吐いて倒れた兄。
兄を助けたかった
そのために強くなろうとした。
兄のために医者になり、兄を守るために軍人になった

これからは,僕が兄さんを守って闘うから、もう兄さんは傷つかなくていい。そう言って安心させて、         兄の微笑む顔を見たいと思った。
それなのに軍服をまとって初めて会ったとき兄は弟である自分を拒否し、ただ軍人として扱おうとした。

兄は僕の軍人としての将来のためにそういう対応を選んだ。兄ゆえに出世したと僕が言われないように。
いまになってようやく兄の思いがわかる。すべて僕のために。
それなのに僕があの人を恨んで、傷つけた。
あの人はイッテシマッタ。
僕から逃げて。


失踪12参報ヘルガ

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涙の丘

2007-01-13 19:00:16 | 鋼の錬金術師
逃亡者たち9

涙の丘

ゼノタイムからゼランドール市に移住してから目の前の問題を次々と片付けるのにあまりにも忙しく、多くの大人達は自分達が失ったものを考えられなかった。しかし、いきなり姿を変えて帰ってきた一人の若者の理解できない行動と子供の言葉が、大人達にもなくしたものを考えさせるきっかけとなった。
「オレンジ畑だよ。ラッセルお兄ちゃんはオレンジ畑で泣いていたから、またあそこに泣きに行ったんだよ」
オレンジ畑。そういえば、あんな不幸な事故でゼノタイムを失わなければ今頃はオレンジの実が生っているころだ。
「いいなぁ、オレンジ畑。それだけでも取り戻したいな」
口にしたのは誰なのか。みんな自分の声を聞いた気がした。
つくろうよ。そういったのは子供の声。
こうして新しい町に新しいオレンジ畑ができた。そこは街の人の憩いの場となり、デートスポットとなった。その丘を「涙の丘」と名づけたのは文学ともロマンとも程遠いごつい男。力強い農夫の手。ベルシオ・アース。
今、涙の丘には数知れぬオレンジの木が植えられている。普通の畑と異なることはここの木には1本ごとに名が刻んである。ロック・ジェードの右足。  カーター・ドールの左手。
どの木にも人の名と失った手足が書かれている。
ここは生きている者が死んでしまった一部の自分を埋める墓所。
それゆえに「涙の丘」。
その木の1本に目立たぬようシン語で書かれた文字がある。みなシン人の書いた文字と信じている。しかしそれは一人のアメストリス人が書いた。
それをアメストリス語で読むとこうなる。
   ラッセル・トリンガム。右手。
誰にも知られたくない。でも、覚えていてほしい。この手は弟の髪をなで、大事なあいつを救って、そして少なくとも1万人を殺した手だ。

あの日、ジャン・ハボックは何か目新しいねたは無いかと地方を探索していた。
軍関係のネタはあるが、たまには女の子に受けそうなデートの話題にできそうなネタがほしい。それをいい話の種にあのボインの受付嬢を口説いてやる。思わず力が入りすぎてペンをゆがめてしまうハボックである。
かくしてやってきた涙の丘。オレンジの木で中が見えにくいので若い人のデートスポットとして人気に・・・と説明されてこいつらナニが目的でここに来てやがると自分のことを専用のおもいっきり高い棚にあげて怒るハボックである。
確かにあまり樹木の無いこの街ではよい憩いの場になるだろうと思った。ただ、あまりにもローカルな話題すぎて売り込み先が無い。無駄足だったとその夜は近くの安宿に泊まった。夜になってもう一度行ったのは散歩のはずだった。いや、いい女がいれば口説いて一晩という気は山ほどあった。まさかそこで月の姫とやらを見るとは思わなかった。
1本の木に背を預ける銀の髪の月人。今天から罪有って下ろされたばかり。この世のことは何も知らない。
子供のころ聞いた昔話のシーンがそのままそこにあった。物語と違うのは月の姫が軍服姿であることと、男だったところだけ。
ラッセル   
声にはならない。
いつ倒れても不思議は無いような青い肌。日の光より月の光のほうがこいつには合う。
ラッセルは何か細長い箱を持っていた。
「ここで眠りたい」
声が聞こえる距離ではない。口の動きから読み取った。軍人時代に鍛えた読唇術だ。
俺ほどではないが大柄な男が大きなシャベルで木の近くを掘った。
深く深く。必要も無いほど深く。
大地そのものに何かを預けようというかのように。
大男が汗を飛び散らす。その汗を姫が左手で受け止めた。
右手の袖は不自然にたれている。
あぁ、そうか。
ジャン・ハボックは唐突に理解した。
あいつは右手を失ったのだ。そしてここに預けにきたのだ。
あいつにとってここは特別な場所なのだろう。
そういえば涙の丘という名はどこからつけられたのか。
「誰が忘れてもこの木はお前の腕を覚えている。お前もこいつを忘れるな」
大男の声は低い。大きい。
あるいはハボックの存在に気づいていたのか。
やがて2人の影は去った。
ハボックは幾分悪いと思いながらもその木に近づいた。
そこにはシン語だろう。ハボックの読めない字で書いてあった。

1ヵ月後、ハボックは何かのついでにもう一度涙の丘を訪れた。
そこにはたくさんのオレンジの木に名がかかれ、手足の別が書かれていた。
「木を隠すには林の中か」
あの男だと思った。
月の姫の秘密を隠すためこの丘を生きている死体の墓場にしたのだ。

それから1ヵ月後。ハボックは涙の岡の話を記事にまとめラッシュバレー近くで雑誌を出している出版社に売り込んだ。『木を隠すために林を森に』という、いささか意味不明なタイトルをつけて。
その後、軍の公式インタビューで見たとき、ラッセルの手は手袋に包まれていたが見たところ左右とも変わりなかった。
その後、このことを確認したことは無い。
これだけがハボックの持つ情報のすべて、ラッセル生存の根拠であった



失踪11あなたとここに

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うるさい犬

2007-01-13 18:58:09 | 鋼の錬金術師
逃亡者達8

うるさい犬には餌をやらなくちゃ

「欲しいって言うのならくれてやればいいじゃないですか。
あんたは飼い主だ。うるさい犬に鞭を使うのもいいけどたまにはうまい餌を食わしてやったらどうです。それで犬が腹を下せばあんたとしては扱いやすくなる」
ここはアメストリスで一番警備が厳しいはずの場所、大総統官邸。
その場所に呼ばれもしないで入り込む唯一のジャーナリスト。
ジャン・ハボック。
だが、彼はもう少し背が高かったのではないだろうか。
そして、彼の瞳はもっと明るい青ではなかったか?
何よりも彼はこういう言い方をする人ではない。
まるで、ここにいる彼はハボックという男をかたどりして作ったコピーのようだ。
リザ・ホークアイはひそかに銃を握った。
ロイはハボックに背を向けて窓から月を見ている。
「いい月だな。ハボック、約束した夜のようだ」
「古い話より今の話をしましょうや、大総統」
「そうだな」
言い終えるとロイは振り返った。
その手にはヒトカゲの紋章の手袋、それこそは焔の錬金術師の戦闘スタイル。
「ちっ」
ハボック が舌打ちした。
その音を掻き消すかのように銃声が響く。
リザの銃から逃れたのはあのスカーぐらいである。
今夜、ハボックの姿をした者はリザの連戦連勝記録を停止させた。
パチッ
聞きなれた音とともにハボックの姿が青い焔に包まれた。
リザは震えた。ロイは怒っている。あの者達が再び暗躍していることに。何よりもハボックの姿をしたことに。
ハボックの姿をした物が崩れた。そこには、忘れられるはずがない。あのホムンクルスが薄笑いを浮かべている。
「いいのかよ。俺を殺したら、あの坊やはあっさり死ぬぜ。ようやく幸せになった坊やを殺せるか」
「ロイ、だまされないで」
さらに銃弾を打ち込む。
「へー、その言い方きくと、あんたこのおばはんとやってんだ」
はっと、リザが身を硬くした。自分はこのモノの前で何を言ったのだ。
「撃つな、リザ!」
ロイがリザとホムンクルスのあいだに立った。
リザを守ろうとしているとも、ホムンクルスを撃たせまいとしているようにも見える。
「大総統」
「撃つな。リザ」
月が翳った。
その一瞬の闇に溶けるようにホムンクルスは消えた。
がっくりとひざを突くロイをリザの手が支える。
「どうして」
なぜ撃たせなかったのか。なぜ焔をとめたのか。
「事実だ」
ロイの答えは苦しい。
あのホムンクルスはあの戦いのときラッセルの胸を貫いた。今それを知るのはセントラルではロイ一人である。
即死と思われたが、いくつもの偶然によってラッセルは生き残った。
そして、いつしかロイは気づいていた。ラッセルの体に巣くう黒い繊維のようなものに。
否定したかったが、あれはあのホムンクルスの一部であったのだ。
「あの子は最初からあいつらのものだった」
それはマスタング政権が前政権の罪状を暴きながらも、なおやつらの手の内で踊らされていることを奥深く暗示していた。



ジャン・ハボックは大総統官邸の廊下を歩いていた。
彼の手には次の売り込み先に持っていく記事があった。
それはまだどこにも誰にも見せていない記事。まだ、現実ではない記事。

守護隊の名を引き継ぐのは金のトリンガム!!
翼竜隊が、守護隊の役目を一部引き継ぐ。
現守護隊は解散。
ボース将軍が残兵を引き継ぐ。
ボース将軍下の隊の名は国土復興隊とする。
現守護隊の補佐官と副官はボース将軍指揮下に入る。
以下に過去の守護隊の功績が分析されている。
どちらかといえばセリムの功績をメインに記事は構成されている。

ハボックの記事はまだ捏造だ。だがこの官邸の主をその気にさせればスクープに化ける。
なんとしても化けさせたかった。
ラッセルがなぞの暴徒に殺害され、アームストロングは長年の負傷が限界を超えて引退した。
今、フレッチャーとマスタングの間に間隙があると国の内外に知られるのはまずい。
ここは大佐(マスタング)に引いてもらうしかない。だが、坊やにもちゃんとお灸をすえてやる。そのためにもラッセルのことを正確に知る必要がある。あの骨があいつだとはふざけるのもほどがあろうというところだ。
あいつの片腕は失われていたのだ。知る者はあまりにも少ないが。
天文学的価値のある作られた腕。切り取られた骨を育て、人工皮膚を植え、間を人造筋肉でつなぐ。
軍でもラッセルの腕が偽物だったことはほとんど知られていない。あるいは弟すら知らないかもしれない。
ハボックは月明かりの射し込む廊下を大総統執務室に向けて歩いた。
彼の通り過ぎた外の道を闇の者が彼の姿で通り過ぎていった。


失踪10涙の丘へ

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リキニウス

2007-01-13 15:06:01 | 鋼の錬金術師
フレッチャー・リキニウス

逃亡者達7

社交界が新しいプリンスを得た。

女性向け雑誌の記事はハボックにはさして興味のある内容ではない。どれもこれもハボックが書いている雑誌の記事の焼き直しだ。内容も軽い。オリジナルといえるのは美容関係ぐらいだ。
しかし、とハボックは目の前でアイスコーヒーを飲んでいる(ハボックのおごりである)子供のような顔の後輩を見た。
小柄、童顔、黒い丸めがね、亡くなった旧友を思い出させる。
こいつがわざわざ持ってきたのを見ると何か引っかかる記事が載っていたのだろう。

探すまでもない。1ページ目から写真つきで特集記事が組まれていた。
社交界は新しいプリンスを得た。
フレッチャー・T・リキニウス
29歳。独身。階級、准将。20代初の将官。
黄金の貴公子。
以下、婦人向けの雑誌らしく身長・体重・星座・好きな色などこまごまと載っている。
一番お好きな色は   銀
お好みの女性のタイプは   長い髪の似合う人
好きな言葉は   (少し悩んで)愛している  。
インタビューしている婦人記者がほほ染めて、そのお言葉今までどのくらいお使いになりました。   一度も使ったことがない、いや、一度だけ使ったかな。
お相手は?   (にっこり笑って)あなたに今使ったよ

はー、さすがにあの兄の弟で、大佐の子飼いだな。
ハボックはため息しか出ない。
それにしても1年中部隊とともに国中を移動している金のトリンガムを捕まえるとはこの雑誌もうまくやったもんだ。
「それだけじゃないんです」
後輩はかばんを開くと数冊の雑誌を取り出した。
なんとそのすべてが金のトリンガムを特集している。
「気になりませんか。そいつついこないだ兄の葬式にも出なかったやつですよ。それが急に雑誌のインタビューにこう派手に応じるのは何かありそうですよ」
後輩はハボックが元軍人なのは知っているが誰の部下でどういう軍生活をしていたかは知らない。後輩にとってハボックはフリージャーナリストで、あちこちにコネを持った先輩だ。
ハボックは他の雑誌もめくった。
その中に略歴があった。
フレッチャー・リキニウス。
リキニウス家のプリンス。
「なんだ、こりゃ」
思わず声に出た。
リキニウスといえば貴族で軍人で確か北に勢力を持っている産業家でもある。
アームストロング家ほどではないが名門だ。
ただ、子供はいなかったはずだ。
「そう、リキニウス家の嫡子だったっていうんですよ」
いくらハボックが情報に詳しくても多少の偏りはある。貴族系はその勢力範囲外だ。
ハボックはもう一度写真を見る。
豪奢な黄金の髪、貴族的な整いきった容姿。それを柔らかな微笑が親しみある雰囲気に変える。
間違いなく あの弟 のフレッチャーだ。
さらに読み進める。
今までは兄と同じ養父の名を名乗っていましたが、兄が亡くなったのをきっかけに父のところに戻ることにしました。
父のことは知っていました。まぁ、今までは兄がいましたから。
私が養子になっていた理由ですか?さぁ、父からは何も聞いていないので。
―これからはリキニウスのお名前を使われるのですか?―
軍ではトリンガムで通っていますし、いまさら変えては秘書課のレディに苦労をかけることになりますから、そうですね、重ねて使います。
正式にはフレッチャー・トリンガム・リキニウスになりますが、トリンガムのままでかまいません。
―いずれ、公爵家を継ぐおつもりですか?-
それは父の考えですから、それよりも数年ぶりに母に会えたのが一番うれしいですね。
―今まで、ずっと軍でご活躍ですがこれからのご予定は?-
もちろん、アメストリスのためにこれからも軍人の職を全うします。
美しいレディの優しい手を守るために。
インタビューの婦人記者の手を軽く握る写真が入っている。
あなたの手も私が守りましょう。
その後もくだらない質問と回答が続いている。
お好きな食べ物はとか、紅茶の銘柄のご趣味はとか、ハボックが聞いたこともないような名が載っている。
お好きなワインの銘柄はという質問まで読んだところで後輩が口を挟んだ。
「そいつの兄が例の魔王です」
後輩は知らない。ハボックがその魔王や今話題のトリンガムと一時とはいえ同居していたことを。
「追っかけてみるつもりです。何か面白いことがあったら先輩にも連絡しますよ」
やめろとハボックは言いたかった。しかし、うまそうな餌は必ず食いつけといつも言っている手前、止めにくい。
「腹壊すなよ」
気をつけろというしかない。
「腹下しは記者の持病ですよ」
いつもならハボックが言う言葉を返して後輩は行ってしまった。

「フレッチャーお前何をしたいんだ」
それはジャーナリストの呟きではなかった。


アームストロングの守護隊の後継者レースに名を挙げたり、いきなり実父のところに戻ったり。これではまるで、マスタングと距離を置こうとしているようだ。
「いや、それが事実か」
銜えタバコのまま口に出す。喫茶店の女の子がちらりと視線を投げる。一応、禁煙の建前である。
「本当の目的は何だ」

アームストロングは常に自分の軍勢とともに最前線にいた。その戦いぶりは鬼神としか言えないと記者達の間では定番の表現になっている。毎年アメストリス民主化の日(最後の皇帝が自ら初代大総統なった日)にはアメストリスを守る軍神達の特集記事が組まれる。そのあおり文字は毎回鬼神である。
(あのおっさんは筋肉ひげだるまで露出癖があって愉快なやつだぜ)
以前にふとハボックは言ったが誰一人信用しなかった。
アームストロングのやり方は徹底的に敵をたたいた後、街を再建するまで続く。
人がすまない土地はすぐに荒れる。国境地帯が荒れれば敵あるいは敵の意を受けた暴徒は国内に侵入する。その結果は国内の荒廃。すなわち国力低下になる。
国境線で叩く。なるべくなら敵の領土内で叩く。それが原則である。
再建された街に守備隊を置き、その地区を守る将軍に後を託し、いざという時すぐ軍が動けるようにまっすぐな道を作り、この辺りは銃よりハンマーマークがよく似合う、それゆえにアームストロングの軍は国土創造隊とも呼ばれた。

―ここでアメストリスの国土防衛体制に一応の説明を挟む。
まず大総統ロイ・マスタングがセントラルにいる。大総統は政治家でもあるが軍の最高司令官でもある。
そしてイースト・ウエスト・サウス・ノースに各地区を守る将軍がいる。
さらに4地区に2人ずつ補佐官がいる。
この補佐官は司令官権限を持つ。
すなわち1地区に最低3人の司令官がいる。
アームストロングは守護隊を率い各地を転戦する。アームストロングがいる間その地区は彼の完全指揮下に入る。場合によってはロイの命令より優先される。
さらに遊撃隊とも言うべき存在としてトリンガム率いる翼竜隊がある。
国中をトリンガムの命令だけで駆け巡る若手ばかりの隊。アームストロングのこの隊に対する命令権は微妙なところである。実際には両者が同じ地区にいることがなかったのでこの問題は表面化しなかった。

守護隊の司令官であったアームストロングは隊の後継司令官について何も言わずに姿を消した。それは大総統であるロイにゆだねたということになる。
しかし、ロイは聞いていた。後継者については引退式後に紹介すると。
長年副官とともに片腕になってくれた若者がいる。
名はセリム・ブラッドレイ。そう、あのセリムである。
彼がその若者を後継者に指名することはロイにも読めていた。
問題は彼がまだ20代ですぐには後継者足り得ないところ。中継ぎに誰を使うか。それを話し合うはずだった。
そのアームストロングから連絡がない。
このまま守護隊を副官任せにはできない。こうなったらロイの一存で決めるしかない。
「ヒューズ、誰も彼も私を一人でほうっていくのか」
国の父たる大総統のつぶやきは、弱い。その影はあまりにも薄い。金の光を失ったのは銀の若者だけではなかった。

国の防衛が個人の感情のレベルに左右された。この時期のアメストリス史を研究した者はたいてい呆れ顔でそういう。
それも事実ではある。
フレッチャーは兄の死亡広報後、マスタングに会わなかった。呼び出しにも負傷を言い立てて応じなかった。本来なら国葬のはずだが唯一の肉親であるフレッチャーの許可なしでは形式が整わない。さらにラッセルが軍人でなく軍属なのも問題になった。結果は密葬、それも肉親一人の参列もない、かろうじて秘書課のご婦人たちが喪服で参列して葬儀らしくなったが、ロイの命令で火葬とされたその遺骨すら拾う身内がいない。
葬儀を取材していたハボックはたまらなくなって中に入った。
本来なら追い出されるはずがそれを指示する者がいない。
焼きすぎたためか骨は縮み生前の面影を追おうにも写真すらない。
ハボックは遺骨を一人で集め、箱に封をし、銀の組みひもで縛った。
引き取り手のない遺骨は軍の預かりになった。
いずれ他の引き取り手のない遺骨と一緒に共同墓地に葬られる。

結局ハボックは喫茶店を追い出された。住みにくい世の中になったもんだとつぶやく。
いまや、愛煙家という人種は迫害を受けるところ昔のイシュヴァール人のようだと冗談に言われるほどだ。

巨乳乱舞
いきなりピンク映画のポスターが目に飛び込んだ。
ハボックはさほど考えることもなく映画館に入った。ややこしいことを考えるには脳を全開にしなくてはならない。こういう映画が一番効果的だ。
鼻血を出しそうな気分。血の巡りがよくなっている。今なら考えにくいことでも考えられるだろう。
軍事的に考えてフレッチャー・トリンガムがアームストロングの軍団を引き継ぐのはかなり可能性が低い。もし、フレッチャーが後継者レースで勝利したとしても今の自分の軍団である翼竜隊と同時に指揮はできない。
翼竜隊は若手ばかりの隊で、少佐時代からF・トリンガムが育て、というより一緒に育った特殊部隊。その独特の指揮方法も含めトリンガム以外の指揮官では真価を発揮できまい。F・トリンガム自身も翼竜隊を家族と呼び、野営地に帰ることを家に帰るというほどだ。では、なぜ後継者レースに名を上げたのか?
マスタングに断らすためか。
ラッセル亡き(とされた)後、マスタングとトリンガムの確執はこれがトリンガム側の最初の矢であった。

「ラッセル、(お前生きているのか)」
「弟に国を誤らすようなまねをさせてんじゃねぇ。とっとと帰ってこい」
映画館のスクリーンいっぱいに白いモノが映し出された。
ハボックは途中で立ち上がると大総統官邸に歩き出した。


失踪9うるさい犬

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金と銀

2007-01-13 15:04:31 | 鋼の錬金術師
逃亡者たち6

金と銀の3人兄弟

奇跡の大バーゲンセールとエドワードをして言わせしめた三ヶ月が過ぎた後、エドは闘病生活を終えた。今はロイを相手にリハビリの一環として組み打ちの練習である。
ロイは大事なエドに怪我をさせないように十分以上に加減している。それがエドには気に食わない。本気でやらなきゃ腕が上がらないと言い張る。
「なー、師匠だってそう言ってただろ。フレッチャー」
「うん、そうだね。でも急に無理したら危ないし、エド兄さんがまた怪我でもしたら僕心配だよ」
かわいい顔に涙一粒。これで今日の修行はおしまいだな。
ハボックはラッセルの拳を軽く受け流した。つきは鋭いが筋力がまるで足りない。まだ10分と経っていないのにもう息が乱れている。こいつも休ませたほうがいい。
エドは弟に弱い。特にこの一番下の弟にはどうしようもないほど弱い。
まして、下から涙目で見上げられると100パーセント勝てない。
「アップルパイ焼いてきたからお茶にしましょう」
甘い香りがすると思ったらウィンリィちゃんだ。
この  3人兄弟  の幼馴染。
ラッセルは部屋に上がっていく。いつもそうだ。どうも彼女が苦手らしい。その点、この一番下の弟はうまく適応している。
ハボックの足元に淡い銀に光る組み紐が落ちている。
ラッセルの髪紐だ。某大物軍需産業社長の正夫人の手作りである。
高価な品ではないが誰が作ったかを考えると価値は計り知れない。
ハボックは紐を拾い上げてラッセルを追いかけた。
何か言いたげな一番下の弟に届けといてやるよと声をかける。
「お願いします」
透明感のあるボーイソプラノで言う。
「ウィンリィ、だんだんうまくなったな」
すでに一番大きい一切れを銜えたエドの声を階下に聞きながらハボックはドアを開けた。開けてから声をかける。
「落し物だ」
返事はない。シャワー音がする。
予測がついたのでドアを開いた。
「う、ぐう」
のどを締め付けられているような声。
拳を受けたときいつもよりさらに軽いと思ったが、やはり具合が悪かったらしい。
「無理ばっかりしてやがる」
こいつの思いもわからないではない。
大事なのはまず、エド。そして弟。
あるいは逆の順序か。
だが、自分の体調を無視していい訳ではないはずだ。
だいたいエドはまだ霧に包まれているようでどうも何もかもぼうっとしているようだが、弟は兄が無理をしているのにとっくに気づいている。
かわいい弟に心配させているようでは本末転倒もいいところだろうが、この意地っ張りの兄弟はどちらも口にしない。そういう点は血がつながっているわけでもないのに両方の兄弟はよく似ている。
それに外見の特徴も似ている。特に金髪銀目の末弟を挟むと金と銀の2人も兄弟に見えてくる。3人が並ぶと世間の目ではきれいな兄弟に見えるようだ。(マスタングの隠し子騒動はもうとっくに起きた。しかし、いかにマスタングでも14歳で隠し子をつくってはいない)。
誰が長男に見えているかは禁句だろうが。
シャワー音が止まった後3分待ってもラッセルは出てこない。
予測の範囲だからハボックは慌てない。シャワー室のドアを一気に引いた。
留め金が吹っ飛ぶ。
「予測どおりだな」
壁に寄りかかり目を閉じている。めまいか貧血か、そのあたりだろう。
血の気の薄い肌。整いきった容姿。
(やべ、立ちそうだ)
何がたつかについてハボックは考えないことにした。
「ハボック少尉」
ラッセルのほうもいきなりシャワー室のドアまで開ける相手は予測済みだったらしい。さほど驚いていない。
まぁたしかにあの貴族の坊ちゃまならまず声をかけるだろう。
「動けるか」
「・・・まだ、もう少しかかりそうです」

今日は子供たちを映画に連れて行くことになっていた。
「前に見たやつの続きだ」
宣伝のラジオ放送を聞いたエドが言い出した。
「約束しただろ。続きも見に行こうって」
弟2人に言い出したのは3日前。だがその約束は誰としたのか?
忙しいロイは連れて行く暇などなくてハボックが引っ張り出された。

ハボックも本当は暇ではないのだが、エドの今の事情をわかっている者でないと安心して任せられない。ロイが無理に頼んだ。
エドの今の事情、エドワードの中では弟たちと3人で錬金術の修行をしていて、亡くなった父(聞いた限りではヒューズのイメージである)の古い友人のロイのところでさらに修行しているうち、自分が病気になりそのために少し記憶があいまいになったということになっている。
イーストシティ時代の記憶もある。 3人で 旅をしていた記憶も。
ただ、エドの中にはなぜ旅をしていたのかの目的意識の記憶はない。
それについてはラッセルが説明してつじつまを合わせた。
「俺の体内の練成陣の秘密を探るため旅をしていた」
エドは納得した。

映画館ではポップコーンだ、アイスクリームだとエドがはしゃいだ。
これで17歳とは思えない。
現時点でラッセルは16歳、フレッチャーは14歳。
エドを真ん中に挟んで3人が座る。席の空きが3つしかなかったのでハボックは後ろに回った。エドとしては弟2人を守るつもりのようだが、弟役2人には別の思いがある。
ラッセルはかわいい弟とエドは自分が守るつもりでいる。
フレッチャーは大事な兄と、友に託されたエドを守る覚悟である。そのためには涙も武器のうちである。
ハボックは周りを警戒しながらも3人のそれぞれの保護者意識を見ている。
このところセントラルは以前に比べて治安が悪い。
ロイとしては家から出したくないが、いつまでも家の中だけに閉じ込めるのも無理がある。
「なるべく軍関係者に会わすな」
軍関係者は有名な鋼の錬金術師のこともその弟鎧の錬金術師のこともよく知っている。うかつなことを言われてはエドの記憶と矛盾する。
映画を純粋に楽しめたのはエド一人だけだった。


失踪8リキニウスへ

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老兵は

2007-01-13 15:02:12 | 鋼の錬金術師
逃亡者達5

老兵は死なず
ただ消え行くのみ

アームストロング家は名家である。
皇帝が存在していたころからの貴族でさらに軍の名門で錬金術の名家でもある。
その当主が住むにしてはあまりにも小さな家。家の回りは砂漠。
口の利けない女が一人家事に雇われているだけで使用人すらいない。
だが、2人はここに満足していた。ここは終わりの地。始まりの地。
エルリック兄弟の故郷があった場所。
なぜこの土地がいきなり砂漠に変じたのか、学者たちは答えを出せない。
砂はただの砂で特に毒性はない。しかし、この土地を緑化しようとする試みはことごとく失敗した。種は芽を出さず、根は伸びていかない。条件をどれほど整えてやっても無駄に終わった。
ラッセルはここに来てからずっと寝込んでいた。5年間もひきこもった後、長時間の汽車の旅に体力を使いきったのだろう。
2週間も寝込んだあとようやく少しずつ起き上がれるようになった。
話もできるようになった。
それでもまだ火のそばから離れられない。今も暖炉の前に安楽いすをおき、その上から毛布に包まっている。
「ルイ」
ここに来てから最初にラッセルがしたのはもう一度この人の名を呼ぶことだった。5年も話していないのどは言葉の使い方を忘れていた。
そしてようやく話せるようになったのどで最初にしたことは不本意にもルイとの言い争いだった。
ここに来て気がついたがルイの身体には数えるのも大変な数の銃弾が残っている。それが内臓を傷つけかなり出血している。
顔色が悪いのに気づいたのは数日前。
さりげなく手を触れてそっと調べてみた。
ルイ本人が気がついていないはずがない。
すぐ弾を取って内部の止血を輸血の用意とそれから、まだうまく話せない口で立て続けにラッセルは言う。だが、その唇がそっとふさがれた。
「よい。もう手遅れだ」
「そんなこと勝手に決めるな!」
言い終えると同時にラッセルは激しく咳き込んだ。黒い血が吐き出される。
「医者にかかるべきは君のほうだな」
治まりの悪い咳はまだしばらく彼の背中を揺らす。
ラッセルはとっさに吐き出した血を隠そうとした。
研究所にいたときもよくあった。特に問題とは思っていなかった。肺の傷口の結界が時々緩む。黒い血はその副作用。
だが、この人には見られたくなかった。
この傷はこの人と一緒に戦ったときに受けたものだから。
なんともないという顔をしたかった。
「こんなもの、」
問題にならないといいたかった。
だが、直後に襲ってきた悪寒に震えがとまらなくなった。
薬が必要だった。それも早急に。
「セントラルに帰ろう」
「い やだ」
「今すぐではない君の体調のいいときに」
「いやだ、もうどこにも行かない。行きたくない」
震える彼はそれでもはげしく抵抗した。
抱き上げようとする手を振り払う。
硬く冷え切った手。
片方の手はまともに動かない。カルシウムケイセキ製のオートメールに人工皮膚をかぶせてある。
代償のように失われた。エドの手が生身の手に戻った代償のように。
ラッセルは偶然と言い切る。確かに不発弾に行き当たったのは偶然だった。
だが、 果たして 本当に  偶然 なのか。

『錬金術師でもわからないことはあるんですか』
昔、直属の部下が言った。
『わからないことをほっとけないのが錬金術師だよ』
答えたのはこの子。
我輩にとってはラッセルこそがわからないことの集大成だ。
その背の練成陣。弟とのリンク。自分の価値をさっぱりわかっていないこと。
中でも一番わからないのは、なぜこの子がこんなに気になるかということだろう。
さらにこの意地っ張りぶり。いやと言い出したら聞かない。この子にもイヤが言えたのだとうれしくなる。
「楽しそうだ」
笑っているのを見て、咎めてくる。
ふくれる。31歳にもなる男の感情表現としてはあまりにも幼い。
だが、彼はようやくここまでたどり着いたのだ。

セントラルに行きたくないという気持ちもわかる。
下手に戻ればまた軍に引き込まれる。
一度あちらの情勢を確認して、それからのほうがいい。
そもそも、ここは我輩一人の隠れ家としてしか考えていなかった。
ついこの子を連れてきてしまったが、本来なら医者のいる町でなくてはこの子は生きられない。
5年もまともな治療も受けずにいた。一度しっかりと検査を受けさせ入院させて、体調を整えさせて住む場所もこんな砂漠の中ではなくて、温暖な南部のリゾート地の別荘にでも。
「イヤだ」
見上げてくる瞳。
「もうどこにも行かない」
考えていることがわかったのか、強い口調で言う。
「ここの気候は君にはつらい」
「同じだ」
「?」
「ルイの傷にもつらいはずだ」
「我輩は望んでここに来たから」
「興味?」
「そうだ」
ここは軍によって一般人の立ち入りが禁止されている。
砂漠の毒性のためと説明されている。
実際には毒性はない。
ここは1夜にして砂漠になった。
生きているもの。あったはずの家。丘、谷、川、何もかもが1夜で砂になった。
もちろん軍は調査した。しかし、何もわからない。
アレックスにはここの謎は真理につながるように思えた。
引退後の隠れ家をここに作ったのはそのためだ。
残った命は錬金術師としての研究に使いたかった。
この家の建っている場所、ここはエルリック兄弟の家のあったところ。
ラッセルにはそのことは言っていない。気がついているかも知れないが。


ラッセル・トリンガム准将待遇が死亡引退した後、長年の副官(貸し出されていただけだが)は神経系の障害のため軍務を続けられないと退役願いを出した。
受理されるのには時間がかかるのでたまりにたまった休暇を申請し今はアームストロング本家にいる。
ラッセルの死はあまりにも不審な点が多かった。ブロッシュは軍の調査隊につかまりかけ、マスコミに追われ、金のトリンガムに追い詰められ、結局元上司の妹に救われ匿われた。
今はラッセルが残した膨大な文書、研究書や書きかけの著書の整理をしている。
ラッセルには錬金術師としても常識に欠けるところがあった。たとえば研究内容を公開しまくるところ。美容練成はセントラル初の女性向け雑誌に連載記事として公開されている。医療系の練成もほぼ公開されている。農業系は各企業に卸される。利用できるかどうかは見た術師の腕次第である。
軍関係の研究は公開するわけにはいかないが、それも全て暗号化されていない。
ただ、研究が公開されているのとまねができるというのはイコールではない。
いまだに美容系の練成でさえも同レベルでできる者はいない。
ブロッシュは科学者でも錬金術師でもないが、長年お守り役をしている間にすっかり詳しくなってしまった。まず、軍系と公開可能に分け、さらに分野別にまとめる。後世、ラッセル・トリンガムの著書がゴースト・ライターによって書かれたと言われるのはこのときブロッシュが自分の名を書かなかったため。
しかし、ブロッシュ(素人)の手を経由したからこそ後世(300年後の現時点)にわかる形で著書が残れたのである。というのもこの時代の高名な術師(マスタング・エルリック等)の著書はあまりの暗号化や専門性ゆえにほとんど理解不能となっている。その中でラッセルの著書は専門外でも読めることで広く流布した。


国民から守護隊と呼ばれたアームストロング直属の軍団は現時点で副官の指揮下になっている。しかし、それが一時の処置であることは誰もが知っている。
どの将軍がこの名誉ある軍団を受け継ぐのか、ロイの指名が誰になるのか、マスコミが大総統官邸の周りを取り巻いている。その中から金の髪の大男が抜け出した。
大きな炎をあげてタバコに火をつけた。
「熱心なもんだな」
さっきまで自分もその中にいたことは忘れたかのようだ。
「ジャン先輩。何サボってんです」
某週刊誌のライターが追ってくる。
ジャン・ハボックは舌打ちした。どうもこの坊やライターは勘がよすぎる。
「見てのとおり喫煙タイムだ」
ハボックにとって世の中は住みにくくなっていた。軍、政府、公共機関、20人以上を収容可能な建築物全てが禁煙にされている。全てあの金の坊やが原因だ。兄が気管を痛めたと知った弟は保険局に賄賂を送りデータを提供し、あらゆる手を使って禁煙キャンペーンを張った。後に賄賂や脅迫がマスコミにばれた後もあのかわいらしい顔に涙を浮かべ「だって、兄さんが困るから」と事実で対抗した。化粧品会社や医療関係各社から、これ以上動くと広告を取りやめると週刊誌に脅しがかかり、その件は追えなくなった。数少ないハボックの敗北である。
今回、その金の坊やも守護隊の後継者レースに名乗りを挙げているという。
「若すぎる」
それだけが反対意見の根拠になっている。
前線指揮官として経験は十分すぎるほどだ。特にこの2年間は表彰状で風呂が沸かせるといわれるほどの武勲を挙げている。
ただ、ハボックとしてはどうも釈然としない。
ラッセルの死亡広報といい、何か隠されている気がする。
軍を離れて16年たつが、どうも今回のことは軍の中で裏が大量にありそうだ。
「大佐に訊きにいくわけにもいかねぇしな」
今や、ニュースの半分を作る男といわれるハボックだが、どうも坊やたちの絡んだ話は手を出しにくい。
「さて、どうするかな」
タバコを根元まで吸い、立ち上がる。
こうして立ち上がるたびに思う。
奇跡は人が起こすものだと。
ジャン・ハボックに奇跡をもたらしたのは金と銀の3人兄弟だった。



失踪7金と銀の3兄弟へ

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守り人

2007-01-13 15:00:26 | 鋼の錬金術師
逃亡者たち4
守り人

 弟が危ない。
それだけが分かった。
そのあとどうしたのかは自分ではよく分からない。
ただ、この胸の痛みから察してかなり大掛かりな練成をしたのだろう。
要塞をひとつ作り上げるような。
寒い。凍りついて床に張り付いたようだ。
それは実際には大量の出血が床に散り、それが服と髪を床にくっつけているため。だが、それをはがすだけの力が無い。
部屋は暗い。
24時間電気がついているはずなのに暗い。
目が光を感じなくなっているらしい。

ドアの前に立って3日が過ぎた。ブロッシュの手はドアに張り付いている。
もう呼びかける声もかすれてきた。
上司は意識を失っている可能性が高い。
封印を叩き破って助けるしかない。
だが、上司の封印を壊せるとなると限られてくる。
焔のマスタング。豪腕のアームストロング。二つ名を持たない国家錬金術師。金のトリンガム。
この3人ぐらいだろう。
今セントラルにいるのは、焔と豪腕。
一人は軍人、もう一人は   民間人。

デニーは何年ぶりかでアームストロング家の城の門をたたく。フリーパスだったころの門番はもういない。ずいぶん待たされた。
金のひげが白くなりかけた元上司が杖を片手に自らやってきた。
老いた。
強く感じた。
年寄りとするほどの年齢ではない。
だが、今のアームストロングには強烈な老いを感じた。
公式の引退式の招待状はブロッシュにも来ていた。
だが、手のかかる上司の名で形式的な電報を打ち式には出なかった。
「あの人を助けてください」
かすれた声でそれだけをようやく言った。

運転手との境に防音ガラスがある。
後ろの席の会話は運転手に聞かれる心配は無い。
貴族のおぼっちゃま育ちのわりにこの上司、いや元上司は細かいことに気がつく。
ミネラルウオーターの入ったグラスを渡された。
喉が痛い。上司が目を覚ましてはくれないかと呼び続けていたせいだ。

「この杖なしで歩けるようになったら、今度こそあの子を迎えに行くつもりだった」
元上司が言った。
「守られていてもいい年齢だった。あの子は子供だった」
軍で最初に出会ったころを言っているとすぐ分かった。
「意地を守ってやりたくなった。守ろうとする意志を大事にしてやりたかった」
「あの時無理やりにでも引き込んでしまえば、あの子は逃げなくてよかった」
機会は幾度かあった。だが、プライドの高い彼を手の中に納めることはできなかった。逃げるとはすべてに対してだ。

そして今、もう泣かなくていい。傷つかなくていい。安心していい。
そういってやりたいのに本人が殻から出られなくなっていた。
車が止まる。
「叩き破るぞ」
アームストロングは言うと同時に拳をうった。
ブロッシュに止める隙を与えない。
これで中に何があっても彼は半分だけしか責任を感じなくてすむ。
扉が崩れる。薬品くさい空気が押し寄せた。
5年ぶりに見る研究所。無意識に目を閉じ壁伝いに歩いた。その脇をアームストロングが走っていく。薄暗い部屋ばかりが続く。奥に行くほど化学薬品のにおいが強くなる。壁にも床にも薬品の臭気がしみこんでいる。
こんな場所であの子は生きていたのか。
たった一人で。5年間も。
こんな空気であの子は平気だったのか?



逃げよう。
そういわれて素直にうなずいた。
だが自分は何から逃げるつもりだったのだろう。軍から?国から?閉じこもった場所からそれとも誰かから?

汽車が動き出した。振動がつらい。目を閉じようとしてもう耐えなくていいこととに気づく。彼の手にすがりついた。

アームストロングの大きな手が震える髪をなぜる。
意識が無い間はよかったが、動き出すとつらいようだ。実のところ支えている自分も傷に響いている。
次ぎで降りて休もう。
耳元でささやく。
5年も人の声を聞いたことの無い身には普通の声もつらいだろう。
いやだ。早くかえる
唇が動く。まだ、ろくに声にならない。かすれた音のようなものが出る。
「よしよし、いい子だ」
「急ぐことは無い。もう、行かなくてはならない場所は無い。ずっと一緒に」
生きよう。そう言いかけて、だがアレックス・ルイは声にしなかった。
自分はいつまで生きていられるだろう?
この引退は体力の限界を悟ったからだ。
全身に残る撤去不能の銃弾。内臓まで達した傷。限度を考えることさえできない練成。全て自分の意志でこの身体で行ったこと。
後悔は無い。この国は変わった。今も大きく変わりつつある。
自分は力で国境を守りマスタングは内側から国を変えた。
やるべきことをやったのだ。
後悔は 無い。

汽車が揺れるたびにラッセルは震えた。
それでも帰ると言い張る。
少しでも楽な体勢にしてやろうと抱き上げた。
最初にこの子を抱いたのは16歳のとき。
ようやく迷子を捕まえた。
かすれた声が言う。
「ずっと一緒」
「我輩が生きている間ずっと」
「俺が生きている間ずっと」
「我輩が生きている間だ」
「俺が生きている間、一緒に」
同じ言葉を何十回も繰り返しあう。
わずかにラッセルの表情が変わった。5年間誰にも見られることなく生きた彼は表情の変え方を忘れていた。
多分今のは笑ったつもりなのだろう。
少しずつ覚えていけばいい。
笑い方。怒り方。泣き方。
この子は今日生まれたのだ。
落ち着いたら妹にだけは連絡しよう。キャスリンならきっとこの子と仲良くやれる。

31歳と30歳、貴族としては遅いが軍人としてはむしろこれからが適齢期だ。
そう考えてから気がついた。もうこの子は軍人ではない。ラッセル・トリンガム准将待遇は死んだ。謎の暴徒に襲われ亡くなった。
あとはマスタング殿がうまくやってくれるだろう。

「寒い」
ラッセルの震えがとまらない。体力が落ちているところになにか無理をしたらしい。
この子が無理をする理由。まず、あのエドワードがうかぶ。だが11年も前に地上を離れた。
あと一人、弟。
そういえば、あの弟にはどういえばいいのだろう。まぁ、落ち着いてから相談すればいい。アレックスは普段そういうことをほったらかす人ではなかった。
だが、当人自身もまだつかれきっていた。それにあの弟なら簡単に気がつくはずだという思いもあった。何しろこの兄弟は肉体の一部を共有しているのだから。

その父たる人であるナッシュ・トリンガムが何をしていたか、それが判明したとき兄は弟のために怒り、弟は父と呼んだ男に深く感謝した。兄さんは生まれたときから僕のものだ。声にはされなかった弟の言葉をアームストロングは口の動きだけから読み取った。
ラッセルは生まれたとき遺伝性先天性の心疾患を抱えていた。今は亡きマルコーの手で死を逃れ、さらに治療を受けるはずだった。だが、ホムンクルスの1件でマルコーは逃亡。父は幼い息子が次第に弱ってくるのを見ていられず、妻に あること を強制した。妻はその要求がどうして子供のためなのか理解できなかった。それでも夫を信じた。そして妻は妊娠した。

妻の2人目の子は生まれる前両手が無かった。ナッシュは息子の身体から両手を造り胎児に与えた。もちろん非合法の治療である。生まれてきた子は息子によく似た金の髪、銀の瞳。妻はいろいろな思いを乗り越えた。夫と子供達を愛した。幸福な家族。そう見えた。真実を知るまでは。
黒い男が妻に真実を教えた。胎児の両手が無かったのは夫が仕組んだことだった。もともとその予定だったのだ。血のつながった子が元気な子が自分の息子に必要だったからそれを妻につくらせた。胎児の体を細工し手を作らせない。
有機練成のプロで理屈屋の夫には簡単なことだった。
そして兄弟をリンクさせた。
息子に罪は無い。2人とも自分の子。それでも夫への憎しみは抑えられない。
それがすべての原因となった長男への憎悪に変わるのは夫が研究のためと家を離れたころ。
この子さえいなければ。この子が本来の命で死んでいたら。私は・・・。
この子さえいなくなれば。

「ランチをどうぞ」
小さなノックの音でアレックスはわれに返った。
腕の中でラッセルは静かに眠っている。
5年間も風にも光にもふれることの無い肌は青白いのを通り越して透けてさえ見えた。
きれい
ため息のような声が聞こえた。客室係が彼を見て無意識に言った言葉。
それから人形という声が閉じられたドアの向こうから聞こえた。
なるほどこうして眠った彼は美しい人形に見えるだろう。

彼の背中には今は何も見えない。赤い練成陣も赤ん坊のとき切り取られた傷跡も無い。彼の背中の一部は弟の手になった。父はあまりにも大きすぎる力をわが子一人に背負わせるのに危機感を抱いた。同じ遺伝子を持つ子供、妻の2人目の子に負担を振り分けた。
父はよく長男に言った。
弟をしっかり守っていてくれ。兄弟はずっと仲良く。
ラッセルは多少喧嘩っ早いのを除けば父の理想どおりに成長した。
その背に命の陣を与えられなければラッセルはとっくに死んでいた。
だが、それでもアレックスはナッシュ・トリンガムに尋ねたかった。
人が人として持てる限界を超えたものをわが子に押し付けるのに、悩まなかったのかと。
多分それを尋ねるのにそう時間はかからないだろう。

ラッセルが目を覚ましたのでスープを飲ませた。3口目で舌がスプーンを押し出す。赤ん坊がするようなことをする。
「オレンジはどうだ」
紅陽荘にいたときも食は細かった。あの時も果物だけは少しは口にしていた。
「欲しくない。   わからない。味もにおいも」
この子があの空気の中、なんとも思わなかった理由がわかった。
味もにおいもわからなければ、食べることへの興味は完全に失われる。
腕にも足にも肩にも針の痕が大量にある。正常な食事は取れなかったのだろう。
「聞かないの」
「何をだ」
「いつからなのかとか、どうしてほっておいたとか」
「ほっておいたのは君ではない」
どうしてもっと早くあそこから出してやらなかったのか。
答えはわかっている。要塞が機能している状態で無理やり出せば、ラッセルが耐え切れず今度こそ死を望むことがわかっていたから。5年もかかった。
だが、精一杯の早さだった。

後世の軍事専門家によるとこの時期のアメストリスの軍事資料は異常であるとしかいえないらしい。ホムンクルス達によって造られた体制。それは200年以上かけて造られたもの。本来それを変えるには同じだけの時間が必要なはず。そうでなければ国が滅ぶ。だが、マスタング政権はたった1代でそれを変えた。エネルギー源は6人の錬金術師。2人は天に歩み去り、2人は地に消えた。2人は人として死んだ。
どの2人がより幸福だったかについては軍事専門家達も歴史家達も答えない。

同時にどうして中に入らなかったかについても答えが出た。
ひとつには1日でも早く解放してやりたいから。
そしてもうひとつは、
「あの時、無理に止めたな」
「そうだね」
あの時とはどの時か。口にする必要は無い。
あのときから彼はルイと呼ばなくなった。
11年前、砂になったエルリック兄弟の故郷の町、すでに存在しないはずのレールがあの日汽車を走らせた。
そしてさらに先にレールは続いていた。そのレールの上を赤いコートのエドが飛び跳ねるように走る。
その先には幼い姿のアルが待っている。兄弟が手を取り合った。
エドの足が地を離れた。
さらに駆けていく。兄弟の姿。
空へ。
光のレールを走っていく。
「エド」
叫べない、すでに彼にそんな力は無い。
手を触れているのに兄の気配が遠い。
フレッチャーは空を見上げた。
兄は耐えられない。あの人を失うのを。
「ずるい」
無意識に口に出た。
今まで手のかかる兄を押し付けておいて自分達だけ幸せに逝ってしまう。
同じ手のかかる兄を抱える身だから気持ちはよくわかるから、地に残された兄(エド)を受け止めていた。それなのにあの弟はここに来てから兄(エド)を連れて行くという。
「ずるいよ。アル」
それなら最初から2人でいて欲しい。さんざん巻き込んで、僕は兄が2人いたと思おうとしてずいぶん苦労したんだ。それなのにここにきてから兄弟でいくなんて。
ひどいよ。アル。僕の兄さんをちゃんと返してよ。
兄の体から力が失われていく。手が冷たくなる。
この手は兄のモノ。兄の一部。だから兄と一緒に。それなら僕も兄さんと一緒に行く。
そう思って兄を抱きとめかけた。だが、
「行かさぬ」
太い腕が兄を抱きとめた。
弟は感じた。
抱きとめられたのは身体だけではない。兄そのものだと。
「兄さんに触らないで。兄さんは僕の」
フレッチャーの言葉は途中で止まった。高みへと。走り続けていた兄弟が振り向いた。
「ラッセル。俺の代わりにへたれを支えてくれ。そいつドジだから、上ってもすぐおっこちそうだ」
「フレッチャー、僕の代わりをお願い」
えくぼのアルが片目をつぶる。
兄は眼を開いた。
泣くことも無い。
じゃあなとエドが片手を挙げた。その右手は生身の手。手首には銀の輪が淡く光る。
「安心して行け。偽者が本物以上に本物であることを見ていろ」
それだけを答えて、兄は意識を手放した。兄を見た直後、フレッチャーはすぐ空を見た。そこには金色の陽光が輝くばかり。
後世に天と地の約束と呼ばれるこの言葉は死を望んだ若者のために贈られた。

この日以降、ラッセルはマスタングの利益のために休むことなく動き続けた。
休ませることは誰にもできなかった。


汽車は別の路線の汽車とすれ違った。
地の兄弟は一瞬だけ近づきまた離れた。
セントラルについた弟は軍の広報を手にした。
ラッセル・トリンガム准将待遇死亡。
一瞬身体が凍りついた気がした。兄はもう。     
だが、手は凍り付いていない。広報を引き裂いた。
だから、弟は兄の死の知らせに確信を持って否定した。
「私が生きているのに兄が死んでいるはずはない」
彼がマスタングの執務室でいすを奪うと宣言するまであと1時間。



失踪6老兵は

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問題はない

2007-01-13 14:58:27 | 鋼の錬金術師
逃亡者たち3
問題は無い

社交界では上司の引きこもりは大問題になった。
銀の王がいなくなった。
いつの間にそんな呼び方をされるようになったのか、社交界のご婦人達は上司を白い国の王と呼び、銀の王と呼んでいた。
ことに美容界が大騒ぎになった。
美容練成の第一人者、それが上司。と言うよりも上司以前には練成を美容に使うと言う発想が無かった。
しかし、意外なほど軍では問題視されなかった。
引きこもって10日が過ぎたころから上司は仕事を再開していたためだ。
無論、会議には出ない。しかし、作戦案は出される。
もともと上司はセントラルを離れることはほとんど無かったし、電話の指示も喉を痛めていることが多かったから副官としてのブロッシュが話した。書類は深夜に持っていかれ、翌日軍に戻された。直接会うことの無い多くの部下にとっては上司の引きこもりはたいした変化ではなかった。
むしろ、社交界に出入りしている時間を書類や研究に回せるようになったため以前より仕事の効率は上がっている。
国境を守る生きた要塞にも何の変化も無い。

閉じこもって半月が過ぎたころある将軍が言い切った。
問題は無い。
それが追い詰められた上司がぎりぎりで選んだ選択に対する軍の公式見解となった。
それを聞いてもブロッシュは怒らない。誰にも彼の思いなど分かるはずはない。
そう、だれにもわかるはずない。

アメストリスの守護神の名は常に激戦地にいるある将軍に国民から贈られていた。その人の名はアレックス・ルイ・アームストロング。
約1年ぶりに守護神はセントラルに戻った。
マスタングに公式の報告をし、あらゆる方面に気配りし、表敬訪問し、どこが休暇だと言いたいような10日間をすごした後、その人は緑陰荘に来た。
ある人の姿を垣間見るだけに。
だが、彼は目的を果たせなかった。この10日間、誰も彼にそれを告げなかったとは信じがたい話だが、事実であった。
銀のトリンガムはもう緑陰荘にはいない。紅陽荘にもいない。
かって4人の国家錬金術師が住みアメストリスで一番強い館と言われた緑陰荘。今、住む人はいない。形式的にはロイはまだここに住んでいる。フレッチャー・トリンガムも形式的にはここにいる。ラッセル・トリンガムもまだここにいる。
空っぽになった館は信じがたい速さで荒廃した。
甘い香りを漂わせていた庭は枯れはてた。噴水は昔と同じ角度に水を飛ばす。その落ちるところで若者たちに愛されたバラが腐っていく。
(いったいこれはどういうことだ?)
噴水の届かない位置のバラにはまだ乾燥した花びらがしがみついている。
短期間で、荒廃が進んだ証拠。
紅陽荘側もあまりにも静かだった。
館を管理する使用人は残っているはずだが生き物の気配すら感じられない。
重いドアを開くとぎしぎしと不快な音を立てる。
「ルイ坊ちゃま」
とっくに当主になっているアレックスに別荘番の老女はそう呼びかけた。
「疲れた。休んでいっていいか」
「はい、すぐご入浴の用意を」
「よい。傷口が開くから風呂は禁止だ」
今回、セントラルに戻ったのは下腹部に打ち込まれた銃弾が現地では撤去できなかったため。
ほっておいたら腐ります。
言い切った従軍医師は現地でのオペを不可能と拒否した。
セントラルで『奇跡の使い手』に依頼してください。
奇跡の使い手。ある若者の古い呼び名だった。
「あれには会えない」指揮官の答えは私情だった。

6年前ある存在が地上から消えた。そのときからすべては変わった。
セントラル行きの汽車からアームストロング総合中央病院に連絡しオペの用意をさせる。財団の抱える最上の医師が執刀した。
戦場にいる兄に代わって財団当主代理を勤める妹は麻酔で眠る兄に10秒間だけ会った。医師団に当主を任せまた仕事に戻る。
指揮官である兄がいない最前線を経済面から支えるため、彼女にはそれ以上の自由時間は無かった。

紅陽荘にはその日もう一人来ていた。
手のかかる上司の着替えを取りに来た形式上の直属の部下、デニー・ブロッシュ。ほとんど忘れられているがラッセルは正式の軍人ではない。准将の位を得た今も軍属のままだ。それゆえ本来なら直属の部下は存在しない。
デニー・ブロッシュは15年前に貸し出されずっとそのままである。
「ブロッシュ。あの子はどこにいった」
1年ぶりに顔を合わして挨拶もなしに訊かれた。
「殻の中に」
それだけで通じるはずは無いがそれでもそう答えた。

休暇の残り1日で財団当主は部下たちからあの子に関する情報を集めた。
3ヶ月前にあの子は研究所に篭り、以来誰も入れないと言う。
それでも生きている要塞は敵の命を吸い上げ心臓を貫き、完全な防衛を果たしている。
仕事は以前よりこなしているし、軍需産業界にも以前より多くの研究結果を提
供している。この時期の最新研究に火薬の製造法の改良がある。より安価に効
率的に、より安く殺すために。
だから、軍では問題になっていません。
財団の部下は報告した。

翌日、守護神は再び前線に去った。その前日アメストリスの防衛計画にある修正が加えられた。
不安定な要素を1日でも早く取り除こう。
そう発言したアームストロング。
それにあわせて作戦を大掛かりに変更した金のトリンガム。
即座に許可したマスタング。
3人には相談も会話も無い。
3人の男の思いにはある存在がいた。
あの子を解放してやろう。必ず。


それから5年。
アメストリスの国民はある若者にある呼び名を贈った。
軍神、それは金のトリンガムに贈られた名。
そして、銀のトリンガムには、   文書にされたことは一度も無いが、ひそやかに語られるときこう呼ばれた。
魔王。

国境は軍事力によって平定され、あるいは莫大な賄賂によって他国を動かし、時には疫病すら利用して(公式記録には無い)、1つまた1つ生きている要塞は活動をやめた。
むろん、根は残している。必要になれば要塞は1秒で本来の姿を取り戻す。
金のトリンガムは自分が最後に平定した国境を視察していた。
金の巻き毛、銀の瞳の子供が黒い髪の子供の手を引く。
ボールが転がる。
転がっている場所はつい先日まで兄の要塞のあったところ。もう地上には何も無い。
わずかに足を引きずった。
最後の戦いで骨も肉もまとめて打ち砕かれた。
すぐ治癒練成をかければ治りは早かったのだが、そうしては指揮が取れなくなる。痛み止めだけを打ち込んで半日持たせた。
立っているのがつらくなったので要塞のあった地面の上に座る。
「兄さん。僕はまだ頼りにならない?
兄さんが守らなければならないちびのまま?」
あの最後の戦場で部下ともども追い詰められた。
大量の出血は練成する余裕を奪った。
指揮官が銃を取るような戦場は最初から負け戦だ。
誰の言葉だったのか、兄の声で聞こえた。
もうだめだと思ったとき、部下たちの悲鳴が歓声に変わる。
「魔王だ!」
「魔王の助けだ!」
あるはずの無い場所に生きた要塞があった。
あと、50メートルまで追い詰めてきた敵軍を金色の蔓が貫いた。
その先は見えなかった。緑の要塞がアメストリス軍を囲んだ。
もう銃弾も届かない。戦場のど真ん中でもここは安全なのだ。
部下たちの歓声。怪我人をと叫ぶ医療班。その声を聞きながら金のトリンガムの意識は落ちた。

目を覚ましたのは3日後の病室。足はまだついていた。黒髪の副官が被害とその後の経過を報告する。
その報告に要塞がすべて活動をやめ、地上からは姿を消したと言う公式発表があった。
これで兄は解放されていいのだ。
ただひとつの不満は自分が兄に助けられたこと。兄を助けたかった。解放するのは自分の権利だと信じていた。

「まだ無理です」
うるさく叫ぶ軍医たちを無理やり黙らせてセントラルに直行した。
1分でも早く兄に会いたい。
もう傷つかなくていい。もう自由になっていい。二人だけで暮らそう。
帰ろう。
兄に早く言ってやりたい。
「ぼくと帰ろう」

だが、やっとたどり着いたセントラルで見たのは、兄の死亡広報だった。


失踪5守り人

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銀の刃

2007-01-13 14:55:58 | 鋼の錬金術師
逃亡者達2 銀のナイフ

危うく窓から飛び出しかけた上司を力づくで抑えた。
この人は昔も窓から飛び出したことがあった。あの時とは違う。受け止めてくれた人はいない。
増え続ける心音。
駆けつけた医師団の診断は心因性の発作。
治療法はもとより無い。
対処療法は誰にも会わせないことしかなかった。
それから5年間。研究所に閉じこもった上司は誰にも見られることの無い時間を生きた。

見られることの無い、   私は面倒をみに入るときいつも目を閉じていた。
閉じこもった人は自分では何もできない。食事も取れない。着替えもできない。時にはまっすぐ歩くことすらできなくなる。使われすぎた力は彼の肉体を変質させた。彼は時折自分を力の通路とのみ見ていた。天に昇ったあの人が振るう力。上司は自分の力を自分のものとは考えていなかった。
点滴や注射剤、精神剤などを持ち研究所のドアの前で待つ。ひたすら待つ。
上司が封印を解いてくれるのを。
24時間。48時間。72時間。待ち続けた。

兄に拒否された弟が部屋から出た後、上司はすべてから逃げるように病院を出て、研究所に飛び込んだ。窓は内側からすべて閉ざされ壁にはとげのある蔓が絡みつく。通風孔すら内側からふさがれ中の気配は感じられない。堅く閉ざされた鎧戸は光の進入すら拒んだ。
上司は朝が好きだった。寝起きが悪い割りに朝が好きだった。光は上司の大切な人が化生した姿だから。何者にも犯されることの無い、すべてを照らす光。
朝はあの人に再会できる時間。その光すら拒んで、上司は何を見ているのか。
3日を過ぎたころマスタングがわざわざ私服に着替えてやってきた。
封印を外から叩き割ると言う。3日間。おそらく眠ってすらいないだろう。上司は一人では眠れない。支えて抱きしめて安心させてようやく浅く眠る。それがここ数年の眠り方。確かに上司の体力から考えてそろそろ限界だ。
「死なれては困る」大総統が言う。
そうだろう、私の上司が死ねば国境の要所を守る生きた要塞は崩れ去るだろう。
「生きていてほしい」
マスタングが言う。彼がこんなになるまで追い詰めておいて、どの口でそんな言葉を?
いや、ロイ・マスタングを批判する権利は私には無い。この国のすべてが彼に要求してきた。私も彼を追い詰めた。
逃がしたい。何度思ったか。だが、彼は軍の保護なしでは生きられない。
封印ごとドアを燃やすというマスタングにもう少しだけ待ってくれるよう必死で頼む。封印は壊されるときかけた者に負担を与える。
1時間したらまた来る。言い残してマスタングは帰った。忙しい身で長くはいられない。
ドアノブを握り締めた手がべたつく。3日間握ったままだ。
「ラッセル君、見ないから。何も見ないから。約束する。安心できないなら私の目をつぶしていいから。ドアを開けてほしい」
何度目かの言葉をドアにかける。
いきなりドアが内側に引かれた。外開きだったドアは自分の性質を忘れたようだ。目を閉じた。
ポケットの銀のナイフを手探りで探し鞘をはずす。
このナイフは保険。
約束を守るための。
ゆっくりはいずるように足探りで進む。上司の気配を耳で皮膚で探す。
と、何かにけつまずいた。
反射的に目を開きかけた。
左腕を薙いだ。
赤い液体が涙の代わりに落ちた。
見ないと約束した。保険としてナイフを手にしたのは正解だ。
あの上司を裏切るぐらいなら、裏切れないようにしたほうがいい。
それでも無意識に見切った。まぶたを切り裂いただけで眼球にはいたっていない。
もう一度、ナイフを構える。今度はしっかりと眼球を狙って。
『安心していいですよ。絶対に見ないから』
そう手のかかりすぎる上司に言ってやるために。

「許さない。勝手に傷つけるのは許さない。この神経は俺が作った。俺のものだ」
どこかで気配を殺して見ていたのだろう。上司がナイフの刃を握る。冷たい血が甲を伝って落ちた。冷たい血。このヒトの血を冷ましてしまったのは・・・。
(この人は不安なのだ)
さっきけつまずいたもの。それは、この上司が意識的に壁沿いに置いたもの。デニー・ブロッシュがどうするか視るための。彼は信じることさえできなくなっている。

銀のナイフを護身用(お守り)にくれた元上司に感謝した。竜の文様に飾られたこれはシン国の品。

「大丈夫。あなたを見ないから」
震えのとまらない上司をできる限りの丁寧さで抱きしめる。
銀のナイフが床に落ちた。
外気温より冷たい肌。
もう低血糖を起こしている。
「点滴持ってきているから」
物を食べろと言っても、拒否されるのはわかっている。
たとえ何かを口にしても消化器官が正常に働いていない。
手探りだけで上司をベッドに連れて行くのに2時間ほどかかった。
本当にこんなところでもこの人は何もしない、できない人だった。
(この人は何でもできるのに、
やりたいことはなにもできない。
自分のこともできない)
毎日のように来ていた研究所だから記憶は信用できた。ベッドの位置が分かれば大体の見当はつく。点滴の針を刺すのだけは本人にしてもらったが後は着替えもすべて手探りで面倒見た。
「明日も来ます」
ようやく少し落ち着いた上司にささやく。
来たい、ではだめだ。この人は誰かの意思を受け入れる余裕など無い。
「同じ時刻に封印を解く」
それがデニー・ブロッシュの聞いた上司の最後の肉声だった。
それから5年間。
毎日深夜に数秒だけ封印は解かれた。
壁伝いに上司を探す。
声は出さない。彼には人の気配そのものがつらいのだから。
時には上司が移動していて探し当てるのに6時間も壁伝いに這いまわった。

壁の同じ高さに黒ずみの線がある。ずっと触れていた壁。
靴が何かを踏む。
きりり
透明な音。
黒ずんだ銀のナイフ。
拾い上げる。
この黒ずみはあの人の血。
残ったものはこれだけ。


失踪4問題は無いへ

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逃亡者達

2007-01-13 14:54:23 | 鋼の錬金術師
逃亡者達

「逃げよう」
5年ぶりに聞く人の声は最初、音でしかなかった。ただ、その手に触れたかった。大きな手。力強い手。この手に触れたかった。どうして15年も意地を張っていたのだろう。
だが、俺はこの手に抱かれて、何から逃げたいのだろう。軍から?国から?
助けてくれとすがってくる手から?
それともただ一人の手から?


いってしまった。
デニーは窓を開けた。5年間空けられたことの無い窓はさび付いていた。研究所の空気は喉が痛むほど化学薬品の臭いが充満していた。よくこんな空気の中に毎日入れたなと1822回の過去を振り返る。
手のかかる上司がこの研究所に閉じこもったのは5年前になる。
あの日の前日までは何もなかった。上司はいつもと同じようにマスタングの書類を手伝い(というよりほとんど片付けてやり)、指示通りにある産界の大物のご夫人のお茶会に花を添え、夜になってから研究所に入った。
あの日も同じように過ぎていた。マスタングの名代としてある孤児院の視察をするまでは。
「この方がいてくださるから、私たちは安心して暮らせるのです」
洗いすぎて白っぽくなった服を着た院長が子供たちに上司をそんな言葉で教える。上司は柔らかな微笑みを見せる。
あの時、傷ついたときは泣いていいのだと言っていたら、上司は正気のままいたのだろうか。
院長に悪意は無い。彼女は本当に上司に代表される軍に感謝している。行き場の無い孤児たちを救ったのはマスタング政権の恩恵だ。そして、それを実行できたのはこの上司が国境の要所の半分を生きている要塞で守り、軍事予算が20パーセント削減できたから。
上司はセントラルから出ることすらないまま、国境の要所を守っている。つい、先日も1箇所増やした。
少しずつ無理が加算されていた。
小さな男の子が上司の足元に来た。
院長の言葉はこの子には難しかったらしい。
「おにいちゃんはなにをしてるの?」
銀の瞳。柔らかそうな金の髪。今にして思えば誰かの子供時代を思わすような。
上司は男の子の視線までしゃがんだ。
ふと、やわらかな微笑が陰った。
男の子が後ろに下がる。
「俺は大量殺人兵器の製造メーカーだよ」
男の子のほうを向いていたため上司の表情は確認できない。
男の子が急に泣き出した。
院長がおろおろと言い訳する。
この子はここに来たばかりで、まだ落ち着いていなくて、
当然だろう。上司の言葉ひとつで、施設に回っている援助はたちどころに消え去る。
上司は穏やかな微笑を作り上げ、院長に振り向き子供たちの栄養状態改善のための指示を出しておくとのみ告げた。
後で思えば、あの時に上司の仮面はひび割れていた。
その夜、マスタングの部屋で防衛計画を練っていたとき、上司は立ちくらみを起こしそのまま立ち上がれなくなり病室に運ばれた。
カートン医師は12年前に亡くなり、以来上司には主治医がいない。
医師達は病人である上司の指示に機械的に従い、薬を投与していく。
このやり方が正しいはずは無いが、自分より劣るものに身体をいじられたくない上司の意思はかたくなだった。
病棟から電話で、上司は表舞台からの引退をマスタングに求めた。
マスタングの答えは「もう少し待て」だった。
マスタングの答えが王手なら、その次に来た弟は王手を積んだのだ。
前線から戻ってきた弟は報告すらサボって兄の病室に走りこんだ。
血と硝煙の臭いのする弟。それが最後のとどめになったのだろうか。
いつもと同じ。心配そうに兄をのぞきこむ弟。すでに階級は大佐である。
弟が兄の額に触れる。冷たい手触り。兄の体温は平均28度しかない。
兄をうかつな医師に見せるわけには行かない理由のひとつが生体としての異常値である。兄は軍に利用され捉われているが(当人が望んでもいる)同時に保護されている。もし兄が軍を離れることがあれば(不可能であるが)、即捕らえられ生体解剖されるのは避けられまい。
「兄さん」
呼ぶ声に閉じられたまぶたがかすかに反応する。
弟は次の言葉が出ない。
大丈夫?とも無理をしないでとも言えない。大丈夫でないのはわかりきっているし、無理は承知でやっているのだから。
兄は今もとっくに死んでしまったあの人の言葉に捕らえられている。
『俺の変わりにへたれを支えてくれ』
あのときの言葉はむしろ兄のために贈られた。生きる目的も希望も何もかも失い死を望んだ兄のために。
「僕がいるのに(あなたには僕がいるのにそれでも死にたかったの。僕を捨てて行くつもりだったの?)」
あの時言えなかったことをあのときの口調で言う。
兄にはわからない部分までしかつぶやかない。
上司がうっすらと目を開く。心配そうに見る弟。
いつもと同じように兄は「帰ったのか」と言う。それから「報告はしたか」と聞く。弟はいつものように「まだだよ」と答える。兄は「軍人なら軍人らしく私情より公務を優先しろ」と言う。「わかってる」と言いながら弟は立ち上がる。   いつもと同じ会話を部屋の中にいる全員が期待した。
だが、
うっすらと開かれた瞳に同じ色の銀の瞳が映る。
色素に欠ける瞳は2人分が重なっても色を感じない。
上司の唇が震えた。いつもの会話のはずだった。

「見るな。俺を見るな!!」
上司の口から出たのは強烈な拒否の言葉だけだった。



失踪3銀の刃へ

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失踪

2007-01-13 14:51:52 | 鋼の錬金術師
ずっと先のお話
 失踪1
兄が亡くなったと聞かされたとき、フレッチャー・トリンガムはまずまったく疑いを持たなかった。兄は心臓が弱かったし、ずっと無理を重ねていた。
いつ死んでも不思議はありませんねと医師団は自信を持って宣告してくれている。(そんな宣告をするだけの医者など要らないのだが)
酷使された心臓はすでに自力では動かず練成陣の力によって血液を流す通路と化していた。ここ1ヶ月の兄の脈は1日に平均5回。
肺の傷口はいまも空けられたときのままの無残な姿をさらす。この傷ゆえに兄は決して他人に肌を見せようとはしなかった。
本当に兄はいつ死んでいてもおかしくなかった。

だが、弟は兄の死の知らせに確信を持って否定した。
「私が生きているのに兄が死んでいるはずはない」
それはごく身近な人にしかわからない理屈。
フレッチャーは早々と死亡認定したマスタングの執務室のドアを乱暴に開いた。あの無能上司は何を考えているのだろう。自分が生きているのに兄が死んでいるはずはないとわからないのか。エド譲りの呼び方でもっとも偉大な大総統と尊称される男をこき下ろす。
アポなしで大総統の部屋に入れる幕僚達、トリンガムはその数少ない一人である。
部屋に入っていきなり怒鳴りつけた。トリンガムは最上の黄金と歌われた髪を振り乱す。
そのむしろ年齢相応な怒りの様にしばらくマスタングは押されていたが、若者がようやく呼吸が必要なことを思い出した隙に口を挟んだ。
「君ではないのか?あの死体を練成したのは」
「どうして僕が兄さんを殺さなければならないのです」
「死んだことにだ。ラッセルを守るために」
「ばかな、准将こそ、失礼しました。大総統、あなたではないのですか」
「私は君だと思った。だからあの死体をラッセルだと認めたが、あれは君が有機合成したわけではないのか」
「違います。大体どうしてそういうことになるのです」
「あの子が疲れていたからだ。ゆっくり休ませるにはこれしかないだろう。それに君がゼノタイムに隠れ家を用意していた。ラッセルのためだろう」
「さすが、お耳の早い」
そう、自分はつかれきった兄のために隠れ家を用意していた。ごく普通に見える小さな家。子供のころ住んだ家に少し似ていて、中には兄の好きなものをすべてそろえた。兄がずっと休めるように。もう誰にもその姿を見られないでいいように。兄の姿を見ていいのは自分だけなのだから。
兄の調子のいいときに連れて行って、もうどこにも行かなくていいとささやいて、兄はどんな顔をするだろう。兄の表情を想像するだけで興奮した。
「そうです。私は何とかして兄を引退させるつもりでした。もう軍は兄に用はないはずでしょう。兄が支えていた国境はすべてけりをつけた。約束は果たしました。兄を自由にしてください。
兄さんを僕に返してください」
最後の言葉だけを15年前と同じ口調で言う。
「違うのか?本当に」
「兄さんの行方を知っていたらこんなところには来ません」
大総統執務室をこんなところと言ってのけるのはこの兄弟だけである。
「軍は本当に兄をニエにしていないのですね」
確認というより脅すように言う。
お互いに武闘派の錬金術師だが、ロイはすでに45歳。技は落ちなくても体力は昔ほどではない。対するフレッチャーは29歳。男としての盛りを迎えるころだ。
「君でないとなるとわからないな。研究所で倒れたのは聞いたがその後痕跡がない」
「そうですか」
少なくともロイは積極的な嘘はついていない。15年の付き合いから弟はそれを確信した。
銀時計の鎖を片手で叩き切る。
ごとり
銀時計はまばゆい輝きを胡桃材の机に散らした。
「どういうつもりだ」
「僕が軍人になったのは兄さんの負担を軽くするためだけです。兄さんがいない以上こんなところにいる気はありません」
「待ちたまえ、そんな勝手が許されると思うのか。仮にも将官職にある者が」
フレッチャーは若者らしい輝くような笑顔を向ける。
「許されるんですよ。僕はあなたに仕えたわけじゃない。僕はアルとの約束を果たそうとしただけ。それはもう十分に果たしました。
あなたを押し上げる手伝いを代わりにしてくれと言われただけ。准将が大総統になった時点で約束期間は終わりです」
この軍事国家で多くの者の望むべくもない地位を捨て去ろうというのに若者は楽しげだ。ようやく開放されると15年ぶりに見る明るい瞳が語る。だが、それを認めるわけにはいかない。最前線を守るトリンガムがいなくなったと知れば講和条約などたちどころに破棄される。ロイがセントラルを空ければそこを襲われる。
「辞める事など許さん。まだ、むしろこれからこそ君はこの国に必要だ」
奇跡を起こす大総統と言われるロイにこういわれて感動しない若者はおるまい。だが、目の前の若者には何の効果もなかった。
「僕はこの国にもこの世界にも何の思いもありません。
僕には兄さんだけだ。兄さんが僕の世界だ。兄さんがいないならこんな国どうなってもいい」
兄の失踪に我を失っているのだろう。この子がこうもストレートに兄への感情をあらわにするなど初めてである。この兄弟はあの兄弟と違う。お互いに思いあっているのにそのことを口にできなくて、すれ違って、泣いて、それでも絶対に相手にだけは弱いところを見せない。兄は兄だからと、弟は自分の強さを見せるために。
ロイはこの2人の弱さも思いの強さも知っていた。だからそこに付け込むことができた。
「ラッセルを探したくはないか」
ぴたり。
若者の足が止まった。
「君一人で何ができる。ラッセルがどこに行ったか、連れて行かれたかどうやって探すつもりだ。軍にはあらゆる情報が集まる」
「きたないですね」
「そうだ。私は汚い大人だ。わかっていただろう。それでも君はあえてあの兄の反対を押し切ってまで銀時計を求めた。君がどう思おうがあの時から君は軍の犬だ」
「僕は兄さんを守りたかっただけです」
「兄を取り戻したくないのか」
引っかかったと見てマスタングはもう一度えさを投げた。
「君が権力を握れば軍の総力を上げて兄を探せる。そうだろう」
「善良な青年をあおるのですか。いすを奪いに来いと」
「そう聞こえるか。だが私とてやすやすとこの椅子は渡さん。まだやることは多い」
若者はさらに数歩ドアに歩いた。ドアノブに手をかける1センチ前で180度回転した。
そのまま銀時計を手にした。
「いいでしょう。何者かに誘拐された兄を取り戻すまでせいぜいあなたの座を脅かすとします」
そのまま振り返ることなく部屋を出た。

今まで同じ部屋にいたのに気配すら感じさせなかった女が、男を気遣った。
男は若者に熱さに対し余りに老いて見えた。
「よろしかったのですか。あのようにあおって」
少しやりすぎではないかと思う。
「いいさ、あんな子供に奪われるぐらいなら私がこの座にふさわしくないということだ。
ラッセルがいなくなった以上、フレッチャーまで失うわけには行かない」
「本当に知らないようですね」
「そうだな。いったいあの子はどこに行ったのか。今度こそ自由にしてやれると思った矢先にこれだ。まったくかわいげのない子だ」
相談もなく勝手に決めた・・・ですか。もういい加減にお分かりにならないと。あの子もあの子達も誰かの意見で動かされるような子ではないと。
そうね、もう子供でもないわ。一番小さかったあの子も29歳。もう結婚させるべき年だわ。ラッセル君は31歳。5年前に会ったきりだわ。あの時もあの子は年齢不詳だった。きっと今もあまり変わっていないわね。あの子が誰に連れて行かれたか本当はお分かりになっているはずでしょう。あの人が引退するのと同時に行ってしまったのだから。
あの子はきっと幸せだわ。

そして、私は幸せなのだろうか?
一人が考えることは同じ立場に立たされたもう一人も考えた。あるいはどこかで2人の錬金術師は出会っていたのだろうか。私、ホークアイの父とトリンガムの父とは。
レベルこそ違え私はあの子と同じ。練成によって作り出された身体。たとえ一部と言ってもこの身体はまともな人ではない。
大切な人、この人には後継者となる子供がいない。
何度も求婚された。そのたびに今は国が大切ですと言い切って。私は女として見られたくない。生まれたままの女の身体はとっくにないのだから。
あの日、この人が焼ききったあの肌だけが私の肌。私は作られた。父に。そして父はこの人に私を託した。私の背の焔の紋章がその証、預ける代価。
老いてしまった。あんな生意気な子供に押される人ではなかった。
子供がほしい。この人の子が。熱い血を受け継ぐ子供が。
「リザ」
男の低い声。
なぜ、今の私を名で呼ぶの。ここは名で呼ぶ部屋ではないのに。
「リザ」
また、呼ぶ。
返事はしない。この部屋ではその呼び方は許さない。
「たとえ、私がどう変わっても、君は私についてきてくれる。約束したな」
なぜ、今それを言うの。この部屋はそれを言う部屋ではないわ。
「これで、980回目だ。リザ、私と結婚してくれ」
息がすえない。もう肺の中がいっぱいだと気がつくのに3秒もかかった。
「そんな回数を数えている暇があれば書類を早く見てください」
「また、ふられたなー」
彼は軽く笑う。その顔は最初のプロポーズの時と少しも変わらない。
「さて、981回目をいつ言わせてもらえるかな」
黒い瞳が見上げてくる。
「残っている書類をすべて片付けたらおっしゃってもかまいません」
「そうかそれでは張り切ることにしよう」
彼の手が恐るべき勢いで動き出す。
このペースなら今日中に終わるだろう。
そして私は981回目のプロポーズを待っている自分を隠し続けるのだ。


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涙3

2007-01-13 14:47:40 | 鋼の錬金術師
涙3

ラッセル・トリンガムとルイ・アームストロングはそういう関係だった。

ラッセルはソファに座って足をぶらつかせていた。この部屋に入ってからの彼はいつも年相応を通り越してひどく幼子めいた表情を見せる。理由の一つはこの部屋だった。ルイの部屋は机も椅子も特注で大きく作られていた。この部屋に入れるのは妹を除けば彼一人である。
そして最大の理由は言うまでも無くアームストロングである。いつも他人を見下ろしているラッセルを楽々と見下ろすルイ。どんなに暴れてみてもルイはびくともしない。それは子供が父に持つべき感覚であった。
「気分は治ったか」
疑問形ではあるが少しはよくなっていると確信できる。子供の様子は見ていれば解るルイである。
テーブルの上にグラスが二つとボトルが3本。ルイは自分のグラスにブランデーをボトルが半分になるほどに注ぐ。何しろ体格が並ではないので1本2本では酔うことすらない。ラッセルのグラスには度数の低いシャンパンをさらにミネラルウォーターで割る。実際は飲ませたくは無いが少しほぐしてやらないと話も出てこないと判断する。数日前から水さえ吐いていたラッセルだがこのグラスはごく自然に手が出た。
「乾杯だ」
「ルイの裁判が中止になったことに?」
北部戦線の敗戦を理由に軍事法廷に掛けられかけていたルイを、兵士たちが自主的に集めまくった証拠を武器に鮮やか過ぎると言われた手腕で覆しかけたのはラッセルであった。しかし、結果的には肩透かしに終わった。ブイエが軍事法廷委員に再調査を命じ、その結果、裁判そのものが中止されたのだ。どちらの勝利と見るべきか、それは見るものの立場で異なった。
実のところこのブイエの介入で一番助かったのはラッセルだった。車酔いする体質を忘れて、セントラルまでノンストップで走るような無理をした。その後も軍事法廷委員相手に胃が痛むやり取りを繰り返すうち毎朝のように吐血するようになっていた。実家の父(笑)が知ったら引き取りに来かねない状態だった。
「いや、君が少しでも食べる気になったことに」
澄み切った音を立ててグラスが合わさる。
ラッセルは少し甘めのシャンパンを一口飲んで、ようやくのどが渇ききっていたことに気づいた。
医学知識が多いのも考え物である。この数日間自分でうった点滴や人工血液の注射のみで過ごしていた。

「ルイ。お願いがあるのです」
「なんだ、改まって」
「俺を、抱いてください」
ぐしゃ
哀れなグラスは短い命を終えた。

ルイの手の中でグラスは押しつぶされた。
「ルイ、手が」
「今、何と言った」
「ルイ、話より手を見ますから」
「我輩の手などどうでもいい。今何を言ったのだ」
「だめですよ。大事な手ですから。『錬金術師の手はいつか真理を握る手ですから』」
この国の上流家庭の子供なら大抵読まされる『錬金術師入門』の1ページ目の言葉を使いながら、ラッセルはルイの手からグラスの残骸を取り除く。鍛え抜かれたルイの手はグラスごときでは切れてもいなかった。
「ラッセル」
「はい」
「どうも飲みすぎたようだ。シャワーでも浴びてくる」
「それなら一緒に入っていいですか」
口にしてしまった以上、ラッセルは先に国境線を越えていた。
ルイ・アームストロングは今度こそ自分の耳と意識を疑うことはできなかった。
「ラッセル」
「はい」
「何を考えている」
この手の冗談を言える子では無いのは解っているが、冗談だと思いたかった。
「必要ですから」
「何がだ」
「抱かれる経験が。それに、俺、ルイになら・・・・・」
最後の言葉は口の中に消えてしまった。普段の彼を知る者なら到底信じられないしぐさである。
「ラッセル」
「はい」
「君は睡眠不足だ。もう寝なさい」
「それなら、ここで」
「(隣の)自分の部屋だ」
「ダメ、ですか」
「そういうわけではないが、(いや、我ながら何を考えている。この子はキャサリンの婚約社候補だぞ)うーむ、いったいどうしたのだ」
ラッセルはしばらく無言だった。言いたくないわけではなく、どこから話していいかわからないようだ。
「俺は弱いから、一人ではあいつらを守れない」
すでに酔ったのかあまりに多くの言葉で語られる彼の話は必ずしもわかりやすいものでは無かった。それでもアームストロングは水のように流れ続ける彼の言葉から必要な情報を読み取っていた。
巨頭の握手後、ブイエは兄の秘密を種に弟を脅した。巧妙なブイエはその弟を種に兄を脅し、あたかもラッセルが自主的に将軍陣営に入ったかのように見せかけた。弟を前線に送ると言われ理性を吹っ飛ばしてしまった兄は将軍に殴りかかり逆に押し倒された。反撃はしたものの、結局ブイエの思うままにされた。
 その後北の戦場で初めての後方任務、実際にはこれが初陣であった。そして裁判を中止させたことはアームストロングもよく知っている。
 そして、今回ブイエからある高級佐官の夜会への代理出席を命じられた。それは貴族出身の40代の男で、ある趣味で有名であった。
「世間ではその手の話は結構多いし、理解できないわけでもないから別にいいと思うんだけど」
ラッセルはまたグラスを傾けた。
「多分、行ったらそいつのところに連れ込まれるんだろうから、今回の話はそういうことだと思う」
グラスの中のシャンパンがさざ波を立てた。気づかないうちに手が震えている。
「ただ、俺一度も抱かれたことなんてないし、いきなりはきついらしいから」
「セントラルに来てすぐのころ、准将がいろいろ教えてくれていたとき、そのあたりも実践トレーニングされかかったんだけど」
(マスタング殿、子供相手になんということを!)
「あの時は、准将の腹部の傷を俺が見つけて、それを治してるうちにそんな雰囲気では無くなって、後で准将に女を抱いてから来いと言われて、でも、俺そういう気も無かったし」
(まぁ、この子では無理だな。遊びの相手とは付き合えまい)
「ルイに、ルイになら言えるから、俺、まだ誰かに触れたいとも思えない。でもブイエの息のかかった男のところで始めてなんて姿を見せられない、そんなこと絶対に」
(プライドだけでここに来たのか。プライドを守るためにだけに。まったくどうしようもない。それでもここに来た事にまだしもほめてやるべきか)
ラッセルはさっきからシャンパンを幾度か追加していた。平静に見えていても神経が高ぶっているらしい。そもそもしらふで言えるような話でもなかった。
「ルイ、だから、だいて」
(酔いすぎだな。そんなにきつくは無いのだが)
トロンとした目でルイを見上げる。
(やれやれ、こんな姿をその気のある者に見られたら、危ないことだ)
くたりとソファーに寄りかかってしまった。予測どおりすぐ寝息を立て始める。
「ラッセル、あまり大人をかき乱すものではないぞ」
抱き上げるとダブルベッドを二つ合わせたようなサイズの大型ベッドに寝かしつけた。
(あの男の夜会か、貴族社会でも最悪の男だな。ブイエはこの子を潰す気か。この子がつぶれればブイエにとっては利益だ。マスタングは子飼いの国錬の管理もできないと宣伝できる。しかし、あの男の夜会とは、とんでもない手だ。普段のブイエの手とは思えぬが・・・、裁判が潰されたことへの鬱憤晴らしにしては単純すぎる。奥に何かありそうだが。
とりあえず夜会をなんとかしてやらぬと、本気で抱けと言い出しかねぬな。あの夜会は大佐以上だが、ではブイエの名代か。いまさら断らすこともできんが、我輩にも招待状が来ているはずだ。
よかろう。いいチャンスだ。キャサリンの実質的婚約者としてのお披露目にしてやろう。この子の後ろにアームストロング財団があることを見せ付けてやろう。ブイエは引かぬであろうが貴族達の手からは守れるだろう)
「さて、ラッセルこの意地っ張りめ。君がなぜブイエの手に引っかかったのか解ったぞ。君のプライドだな。ブイエはそれをも計算したのだ」
話を聞くうちにまったくこの子らしすぎると、やれやれと思った。

あのヒューズの書弟子であるラッセルは相当の陰謀家であった。他人の計算も反応も感情も計算し常に予定された結果を出す。感情に任せて突っ走っているように見えても、その外見すら利用する計算高い銀の悪魔。このところマスタング陣営からすらもラッセルに対しては悪評があった。また、今回の裁判の件も一人だけ失踪し拘束を逃れたことに批判があった。しかし、プライドの高い彼が、疲れたので実家(笑)帰っていましたなどと言うはずは無かった。
ヒューズならばあの明るい雰囲気と飄々とした語り口ですべての人に愛された。敵対者でさえ「あの男は目の前にいるとどうしても憎めない」と語った。しかし、マースの理論を受け継ぐ者として同じことをしてもラッセルはとかく批判された。ひとつには彼があまりに若すぎること。そして穏やかに微笑していても彼はめったに人と深く交わろうとしないこと。敵には冷厳、味方には冷淡それが後に与えられた評価だった。
そんなラッセルにもウイークポイントがあった。いうまでも無くあの二人、フレッチャーとエドワードである。
そして、高すぎるプライドもブイエクラスの男の目から見れば弱点となった。

「君がマスタング殿にいえなかったのは巨頭の握手に傷をつけなくないためだろうが、ここまで追い詰められるまで我輩にまで言わなかったのは君のプライドのせいだな。殴りかかったことに反省も後悔も無いな。そういう点だけ正直ではなぁ。殴り損ねてくやしいが本音か」
癖の強すぎる子供の、まったく癖の無い髪をなぜる。
ラッセルが言えなかったのは押し倒されたときに自力で起きられなかったことだ。彼は気づいていた。ブイエが意識的に力を緩めたことを。そしてラッセルの暴発を誘ったことを。ブイエの手にやすやすと引っかかったことに、彼の理性が傷ついていた。さらに脅しているときのブイエの余裕の表情をラッセルの感情は認めたくないと言う。
かくして、ラッセルの口は完全にふさがれたのだ。何もかもブイエの計算どおりであった。
だが、ブイエは知らなかった。ラッセルがアームストロングと同じ陣営というだけでなく、懐いているということを。

「財団のこともいい加減に決めねばなるまい。これから財団がどの方向に向かうか」
ルイには軍人としての立場だけでなく、いずれ財団を率いる者としての責任もあった。今のところ、次期当主がマスタング陣営というだけで、アームストロング財団は意思を表明していない。しかし、そろそろ限界であった。
実のところラッセルを甘やかしているどころでは無いのだ。ただ、財団の意思をはっきりさせるのはあまりにも影響が多岐に及んだ。つい先延ばしをしているのが本音だった。

数日後の夜会にラッセルは、小柄な金の髪のレディの手を取って入ることになる。夜会で最も高貴な姫を独占する彼はいつもの軍服でなかった。アームストロングが財団の威信をかけて作らせた最上の夜会服をまとっていた。
形式的にはブイエの名代だがキャスリンの手を取る彼の姿は、彼がどの陣営に属し、誰の後見を受けるかをはっきり示していた。
「大事な弟ですからな」
ルイ・アームストロングの言葉が経済界をかけぬけるのに1日は要らなかった。

翌年、ルイ・アームストロングは正式に当主の座を受け継ぐ。軍需産業界と財団の戦いは夜会の夜から始まっていた。


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涙2

2007-01-13 14:46:54 | 鋼の錬金術師
涙2

「泣いていたことは口止めされていませんから」

ブロッシュが慌しく帰った後、アームストロングはこの件をどう扱うべきか思案した。
『巨頭の握手』これがネックになっていた。軍の二大実力者である実質的大総統ロイ・マスタング准将とホモンクルス戦がなければ次期大総統と自他共に認めていたブイエ将軍。将軍側には軍需産業界の大物や重装歩兵団が付きセントラル上層部を中心に支持者が多かった。また将軍のお陰で天下りさせてもらった退役軍人団体の元将官クラスや派遣させてもらった軍団兵の司令官にも支持者が多い。一言で言えばアメストリスの保守派の支持を得ているのである。
一方ロイは国錬部隊をその実力で実質的に支配している(四大元素の他の使い手、風のビックウエストと地のガイアーはラッセルを通じてロイ派である)。子飼いの国錬だけでも3人いる。しかもこの3人とは、国錬で一番個人戦闘力が高いとされる鋼のエドワード。一番新しい英雄と言われるラッセル。さらにその二人にたずなをつけられる唯一の存在といわれるフレッチャーがそろっている。4人の国錬の住む緑陰荘はアメストリスで一番強い館と言われている。もっとも住んでいる者に言わせると家で一番強いのは住み込みメイドのエリスさんということになる。
さらにはっきりとロイ側を表明しているルイ・アームストロングの存在がある。経済界でもトップレベルの財団の次期当主の存在は軍需産業の大物達と十分張り合えた。ロイは東部を中心に民衆に人気がある。また国内には今の軍体制を不満に思う者は多い。改革派の看板を掲げたロイには軍では下の者、民間では現状に不満を持つ者の支持がある。
このようにロイとブイエは人気実力権力も含め互角であった。巨頭の握手では一見ブイエが譲歩したようだが罠にかかったのはマスタング側であった。その結果はラッセル一人が不自然なほど使役される事態を生んだ。

 翌日の夜、珍しく夜に仕事が入っておらず、ブイエから回された夜会の用意を相談したいということもありラッセルは呼び出されるままに紅陽荘に来ていた。片手には練成で作り出した青いバラを携えている。キャスリンはしばらくバラの話をしていたが、帰宅した兄と入れ替わりに退室した。内気でおとなしいキャスリンにとって兄が側に居なくても話せる唯一の男、それがラッセルである。それは兄に比べあまりに細く見えるラッセルを男と認識していないためであるが、兄はラッセルへの恋愛感情と誤解していた。
「お疲れ様です。大佐」
こまめなラッセルはアームストロングの大きな上着を受け取る。(ラッセルがいる間、メイドたちは退けられている)。ラッセル自身もまだ軍服である。
「君も疲れているようだな」
ルイの大きな手がさりげなくほほに触れる。昨日ブロッシュに泣いた跡があると指摘され触れられたのと同じ場所。ルイの手に薄く化粧料の手触りがある。ルイは大判のレースハンカチをワインでぬらすとラッセルの顔に当ててそっとふき取った。
「ワ、ルイ、何を!」
暴れてみるが腰に手を回され持ち上げられていては逃げようがない。
「またこんなもの(化粧料)を使っていたのか。このところ顔色がいいと安心しておったら」
夜間の仕事が増えたためか精神的な悩みゆえか、化粧料を拭い去ったラッセルの顔色はひどく青白い。
「何日食べていない?」
すぐには返答がない。当人も考えなければわからなくなっていた。
「5日、6日目です」
語尾が小さくなる。怒られるのは解っていた。いつもルイに言われている。まともに食事が取れなくなったら紅陽荘に来て、ドクターに掛かるようにと。
「ラッセル」
強くは呼ばれない。それだけに余計にルイが怒っているのが解る。
「ごめん。ルイ」
空気を抜いた風船さながらにうつむいてしまった。
「まったく・・・そう素直にこられるとな。とにかく食べやすいものを作らせておいたから先に食事にするか」
「はい」

食卓には座ったがラッセルはグラスを弄ぶばかりでまったく食べようとしない。2センチ角ちょうどに切りそろえられたゼリーよせや1センチちょうどに作られたパイ皮包みなど、芸術品のような料理には目を輝かせたものの食欲につながらないらしい。五つ星ホテルのコックも泣こうというものである。
ルイが巨体の割りに身軽に席を立つとラッセルの隣に座りなおす。マナー違反ではあるが、手のかかる子供に食べさせるほうが優先である。
「ラッセル、こっちへ」
「はい?」
振り向いたラッセルを片手で持ち上げ膝の上におろす。セントラルでもこんな芸当ができるのはルイを含め5人ほどである。まぁ、ほかの4人は大抵女を乗せているのだが。
「ルイ!」
「おとなしくしておらぬと落とすぞ」
「降ろして下さい」
「ぐずぐずいう子供に食べさせるのには抱いてやるのが一番いい。昔よくキャスリンの離乳食を食べさせたものだ」
「俺は赤ん坊じゃない」
「ほら口をあけろ」
「ル」
さらに何か言おうと開けた口にゼリーよせを一つ放り込まれた。
「どうだ」
「ん、悪くない。・・・
あ、」
(これは、無理だな。もう吐き癖がついている。気分が変わればいけるかと思ったが、身体が受け付けないようだ)
無意識に震える身体をなだめるように軽く触れた。
「よしよし、無理はしないほうがいい。部屋で休もう」
ルイ・アームストロングはラッセルを抱いたまま立ち上がる。
「歩けます」
「歩かんでいい」
「歩きます」
「歩くな」
まじめなのにどこか漫才めいた二人のやり取りを聞くものは居ない。紅陽荘には20人のメイドがいるがラッセルがいる間は全員が下げられている。命の練成陣の暴走事件で療養中のある朝、夢精する姿をナイトキーパーのメイドに見られてから、(それは医者に言わせれば回復の証拠であり喜ばしい話しであったが)彼はここのメイドに姿を見られるのを嫌うようになっていた。

歩くと言い張ったはずの彼はその言葉に反してルイの首にしっかりしがみついている。17歳にもなる男が誰かに抱っこされてうれしそうにしているというのはどう贔屓目に見ても異常のうちであった。錬金術師専用の精神科医ヒーラーは彼を分析している。彼の幼少期には安心して身を任せ寄りかかった経験が無い。薄すぎる母のイメージ、やさしいが弱いという父のイメージ、いずれも幼少時に必要な安全地帯につながらない。彼が強くあろうとするのは不安定さの反動であり、高すぎるプライドも周りへのいささか細やか過ぎる気遣いも弱さをカバーするための自衛本能である。彼は甘えさせることはできるが、甘えられなかった。いま、ここに来てようやく彼は全身で寄りかかっていい存在に出会ったのです。彼が若様(ルイ)に対してだけ感情をむき出しにするときがあるのは、彼の原幼児が若様に懐いているからです。
ヒーラーの報告を聞いた若様は『それなら満足するまであの子を大事にしてやろう』と答えた。ルイにとってその報告はなぜか気になる子供(出会った当時の16歳はルイの目にはエドより小さな子供に見えた)のことに言い訳を与えられたこととなった。その答えを聞いたヒーラーは若様に言い訳を与えたことを後悔した。しかし、その後の二人を見るうちに教えて正しかったと考え直すようになった。
ラッセル・トリンガムとルイ・アームストロングはそういう関係だった。


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