逃亡者たち10
帰るために行こう。
ようやく話せるようになって幾日かが過ぎた。その日々を二人はこんな風にすごしていた。
アームストロングが何も心配は無いから検査と入院をというたびにラッセルがそっぽを向いて膨れる。
逆に疲れが出て眠っているらしいルイにラッセルが治癒練成をかけようとそっと肌に手を触れる。そのとたんにその手首がやさしく、しかししっかりとつかまれる。
「よい、覚悟の上でのことだ」
青い瞳が説得するかのように見つめる。大きな手がラッセルの髪をなぜる。その大きな手を細い指が払いのける。
色素の薄い瞳が答える。
「勝手に決めるな」
そんなことを繰り返している。
と言うとけんかばかりしているようだがとんでもない。
住み込みの家事女の目にはどう見ても甘甘の新婚さんがべたつきあっているとしか見えなかった。
ひとりでは食事を取ることさえしないラッセルに小鳥の給餌よろしくティースプーンに5グラム足らずのプティングをのせては口元まで運んでいく。銀のスプーンで、少しずつ。
「もういい」
味覚がないせいもあり、ラッセルにとって食事は完全に義務でしかなかった。特に研究所にいた間は。
それがここに来て楽しみに変わった。3食と2回のティータイムはルイに抱かれてとる。自分ではスプーンひとつ触らない。
当初は足元がおぼつかないラッセルを支えるために抱いていたのだが、いつの間にか意味が変わった。抱いていたいから抱くに。
でも理由がいる。
家事女の目から見ればあほらしい限りだが2人は微妙に距離をとろうとする。
・・・相手はどう思っているのかわからないし・・・。
そうしそーあいってどういうスペルだったかしら?
言葉を失った女はあの2人に教えてやりたいと心底思った。
毎日少しずつ食事とお茶にかける時間が長くなる。
そこでかわされる話題はたわいないことばかり。砂嵐は納まった。明日も雨は降らないだろう。
家事女の聞いている限りここ以外の話題は出ない。昔のことも口にされない。
そんな毎日に変化があった。
最初の変化は小さいことだがうれしいことだった。
いつものように小さな銀のスプーンで、(スプーンが小さいわけではない。持っている者が大きすぎるのだ)つぶし野菜やら、プティングやらを運んでいたスプーンが舌で押し出された。
テーブルに並んでいるのはどう見ても1歳児の離乳食である。長い間まともな物を食べていないラッセルにはこのあたりから始めるしかない。
「疲れたか」
気遣わしげな青い瞳が見下ろす。
「嫌いだ。甘すぎる」
「・・・ラッセル・・・!!」
ルイの瞳に広がる驚きにラッセルは自分が何を言ったのか考えた。
(そんなに驚くようなこと言ったかな?)
30を越した男が小首を傾げるなど普通なら不気味に違いない。
しかし、(きれいねぇ)。家事女はうっとりと見つめた。
自分の人生はきっとこの別荘に来る幸運を得るために、今まで不運続きだったのだと彼女は信じていた。
「ルイ?」
「わかるのか。わかるのだな」
いつ聞いてもルイの言葉は完璧なセントラル発音だ。名家の子息として赤ん坊のころから鍛えられている。
その彼の発音がくぐもった。あふれ落ちる涙。
「何が?」
「味がわかるのか?」
「・・・えっ。そうみたいだなぁ」
なんとも感動の無い声でラッセルは自分の変化を受け入れた。
ここに来てから自分は人間に戻っていく気がする。
この人の手で。
もうひとつの変化は家事女が吹き込んだ。意識してではない。家事女にすれば永久に今が続いてほしかった。
家事女はかなりな年に見えるが、それは長年の不運がもたらしたもので実際はそう年増ではない。
まだ婦人向け雑誌の美容ページに興味がある年だ。
ご主人様とその愛人が(彼女の目にはそう見えた。愛人で無ければずっと同じ寝室で眠るわけが無いと考えていた)のんびりティータイムなのをいいことに掃除を終えた後ソファーで読書タイムである。
ご主人様も愛人の青年も鷹揚な方なので、家事女は比較的自由に家を切り盛りしていた。
読んでいるのはご主人様やその愛人の読むような難しい本ではない。写真主体の婦人向け雑誌だ。そもそも彼女はあまり難しい文字は読めない。
そのトップ記事は光の神とはかくやあらんと思わせる美形の青年。(実際には天に昇った神はかなりチビだったそうだが)
豪奢な金の髪。銀の瞳。整いすぎて冷たくさえ見える容姿。それをやさしい微笑が親しみあるものにしている。片頬にえくぼがある。
きれい
ご主人様も美形だと思う。男としてこれ以上は無い完成度の高いいい男。ご主人様の愛人も美形だと思う。銀の髪。銀の瞳。人の美しさというよりも、月の国を追われた罪ある姫のような。あの青年がトイレに行くことがあるとは家事女には思えなかった。
それとはまたタイプの違う、たとえるなら軍神に抱かれた異世界の姫と、姫を取り戻そうとする光の騎士のような。彼女は妄想したに過ぎない。しかしその妄想はもっとも正確だった。
もしもこの3人が会うことがあればぁ、家事女は大きくため息をついた。この世では認められないほどの美しさであろうと。
自分の妄想に鼻血を出して彼女は慌ててタオルを取りに行った。美形のページは汚せないわよ。
ご主人様が愛人を抱いて部屋に入ったのはそんなタイミング。テーブルには婦人向け雑誌のトップページが大きく広げられたまま。
弟の兄
フレッチャー。
そのページがかすかに瞳の端を掠めたときラッセルは愛人(家事女視点)の腕から飛び降りた。降りたとたんにこみ上げる咳と胸の痛みに身をよじる。
色の薄い血が床に落ちた。
5年の引きこもりの間に造血機能は低下の一途をたどりアームストロングが研究所から連れ出したときには人工血液なしでは3日しか持たないような体質になっていた。
ひとつには低栄養状態の影響、ひとつには強度のストレス。まったく日を浴びない生活も影響したのだろう。
ここに来てから改善しかけているがまだ体内の血はほとんど人工物だ。その色素の薄く見える人工血液がさらに床を染めた。背を丸め胎児の形で痙攣を繰り返す。大きく開かれた瞳から落ち続ける涙。
ラッセルの視界を掠めたものが何であったかを見ただけでルイ・アームストロングはラッセルがどうしてこうなったか瞬間的に理解した。
強烈なショックで結界を張っていた精神がかき乱され、胸の傷が開いたのだ。
そのショックの原因は・・・弟。
兄として弟を忘れていたという自責の念が結界の存在を忘れさせるほどの効果を持っていた。
精神を強酸が侵食するような思い。
そういう思いをなんと呼ぶかアレックスは知らない。
この子にとって弟は永遠に弟。
わかっていた。連絡もしなければと思っていた。それをつい1日伸ばし1分伸ばしにしていた。
もう残り時間は見えている。その間、望んだ相手といたい そう思うのは罪なのか。もしも自分に国を守った功績が少しでもあるというならそれをこの時間を守るために使いたい。だが、そんな思いは我輩がたたき殺した者達には決して認められまい。
初めて知った自分の心の影に戸惑いながら、ルイは愛人(家事女視点)を抱き起こす。
やさしく、だが力強くささやく。
「ラッセル、結界を強く張ろう。何にも揺らぐことの無い強い結界を」
闇のモノ達に翻弄され、もてあそばれたこの子には守る手が必要だ。
我輩がいなくなった後もこの子を守り続けられる強い手が。
ナッシュ・トリンガム。今まであなたのしたことを正しいと思ったことは無い。吾が子いとしさあまりに、錬金術師として開けてはならない扉を開いた御貴殿。だが、今になってひとつだけあなたの正しさを認めよう。
あの弟をこの子のために創り出したこと。あなたは父として最高の贈り物を残した。
どれほど抱いていたのか、外は薄暗くなった。砂漠の砂埃が夕日の光を散乱させる。
薄闇の赤。
「ラッセル、セントラルに行って入院だ」
銀の髪をなぜながら彼に伝える。もう決めたこととして。
「行く。またここにあなたと帰るために」
逃亡者達11
兄の弟
初めての記憶は兄、いつも見上げる先にいる
兄だけを見ていた
自分を守ってくれる力強い兄の手を信じていた。
守られているときは,わからなかった。
兄自身も信じた,強さに包まれて、
本当の兄は,弱くてずっと傷ついていたのに
------守りたい,誰からも何からも、その思いが兄を強くした。
だが無理を重ねた身体は限度を超えた。無機質な軍の会議室の白い床に鮮血を吐いて倒れた兄。
兄を助けたかった
そのために強くなろうとした。
兄のために医者になり、兄を守るために軍人になった
これからは,僕が兄さんを守って闘うから、もう兄さんは傷つかなくていい。そう言って安心させて、 兄の微笑む顔を見たいと思った。
それなのに軍服をまとって初めて会ったとき兄は弟である自分を拒否し、ただ軍人として扱おうとした。
兄は僕の軍人としての将来のためにそういう対応を選んだ。兄ゆえに出世したと僕が言われないように。
いまになってようやく兄の思いがわかる。すべて僕のために。
それなのに僕があの人を恨んで、傷つけた。
あの人はイッテシマッタ。
僕から逃げて。
失踪12参報ヘルガ
題名目次へ
中表紙へ
帰るために行こう。
ようやく話せるようになって幾日かが過ぎた。その日々を二人はこんな風にすごしていた。
アームストロングが何も心配は無いから検査と入院をというたびにラッセルがそっぽを向いて膨れる。
逆に疲れが出て眠っているらしいルイにラッセルが治癒練成をかけようとそっと肌に手を触れる。そのとたんにその手首がやさしく、しかししっかりとつかまれる。
「よい、覚悟の上でのことだ」
青い瞳が説得するかのように見つめる。大きな手がラッセルの髪をなぜる。その大きな手を細い指が払いのける。
色素の薄い瞳が答える。
「勝手に決めるな」
そんなことを繰り返している。
と言うとけんかばかりしているようだがとんでもない。
住み込みの家事女の目にはどう見ても甘甘の新婚さんがべたつきあっているとしか見えなかった。
ひとりでは食事を取ることさえしないラッセルに小鳥の給餌よろしくティースプーンに5グラム足らずのプティングをのせては口元まで運んでいく。銀のスプーンで、少しずつ。
「もういい」
味覚がないせいもあり、ラッセルにとって食事は完全に義務でしかなかった。特に研究所にいた間は。
それがここに来て楽しみに変わった。3食と2回のティータイムはルイに抱かれてとる。自分ではスプーンひとつ触らない。
当初は足元がおぼつかないラッセルを支えるために抱いていたのだが、いつの間にか意味が変わった。抱いていたいから抱くに。
でも理由がいる。
家事女の目から見ればあほらしい限りだが2人は微妙に距離をとろうとする。
・・・相手はどう思っているのかわからないし・・・。
そうしそーあいってどういうスペルだったかしら?
言葉を失った女はあの2人に教えてやりたいと心底思った。
毎日少しずつ食事とお茶にかける時間が長くなる。
そこでかわされる話題はたわいないことばかり。砂嵐は納まった。明日も雨は降らないだろう。
家事女の聞いている限りここ以外の話題は出ない。昔のことも口にされない。
そんな毎日に変化があった。
最初の変化は小さいことだがうれしいことだった。
いつものように小さな銀のスプーンで、(スプーンが小さいわけではない。持っている者が大きすぎるのだ)つぶし野菜やら、プティングやらを運んでいたスプーンが舌で押し出された。
テーブルに並んでいるのはどう見ても1歳児の離乳食である。長い間まともな物を食べていないラッセルにはこのあたりから始めるしかない。
「疲れたか」
気遣わしげな青い瞳が見下ろす。
「嫌いだ。甘すぎる」
「・・・ラッセル・・・!!」
ルイの瞳に広がる驚きにラッセルは自分が何を言ったのか考えた。
(そんなに驚くようなこと言ったかな?)
30を越した男が小首を傾げるなど普通なら不気味に違いない。
しかし、(きれいねぇ)。家事女はうっとりと見つめた。
自分の人生はきっとこの別荘に来る幸運を得るために、今まで不運続きだったのだと彼女は信じていた。
「ルイ?」
「わかるのか。わかるのだな」
いつ聞いてもルイの言葉は完璧なセントラル発音だ。名家の子息として赤ん坊のころから鍛えられている。
その彼の発音がくぐもった。あふれ落ちる涙。
「何が?」
「味がわかるのか?」
「・・・えっ。そうみたいだなぁ」
なんとも感動の無い声でラッセルは自分の変化を受け入れた。
ここに来てから自分は人間に戻っていく気がする。
この人の手で。
もうひとつの変化は家事女が吹き込んだ。意識してではない。家事女にすれば永久に今が続いてほしかった。
家事女はかなりな年に見えるが、それは長年の不運がもたらしたもので実際はそう年増ではない。
まだ婦人向け雑誌の美容ページに興味がある年だ。
ご主人様とその愛人が(彼女の目にはそう見えた。愛人で無ければずっと同じ寝室で眠るわけが無いと考えていた)のんびりティータイムなのをいいことに掃除を終えた後ソファーで読書タイムである。
ご主人様も愛人の青年も鷹揚な方なので、家事女は比較的自由に家を切り盛りしていた。
読んでいるのはご主人様やその愛人の読むような難しい本ではない。写真主体の婦人向け雑誌だ。そもそも彼女はあまり難しい文字は読めない。
そのトップ記事は光の神とはかくやあらんと思わせる美形の青年。(実際には天に昇った神はかなりチビだったそうだが)
豪奢な金の髪。銀の瞳。整いすぎて冷たくさえ見える容姿。それをやさしい微笑が親しみあるものにしている。片頬にえくぼがある。
きれい
ご主人様も美形だと思う。男としてこれ以上は無い完成度の高いいい男。ご主人様の愛人も美形だと思う。銀の髪。銀の瞳。人の美しさというよりも、月の国を追われた罪ある姫のような。あの青年がトイレに行くことがあるとは家事女には思えなかった。
それとはまたタイプの違う、たとえるなら軍神に抱かれた異世界の姫と、姫を取り戻そうとする光の騎士のような。彼女は妄想したに過ぎない。しかしその妄想はもっとも正確だった。
もしもこの3人が会うことがあればぁ、家事女は大きくため息をついた。この世では認められないほどの美しさであろうと。
自分の妄想に鼻血を出して彼女は慌ててタオルを取りに行った。美形のページは汚せないわよ。
ご主人様が愛人を抱いて部屋に入ったのはそんなタイミング。テーブルには婦人向け雑誌のトップページが大きく広げられたまま。
弟の兄
フレッチャー。
そのページがかすかに瞳の端を掠めたときラッセルは愛人(家事女視点)の腕から飛び降りた。降りたとたんにこみ上げる咳と胸の痛みに身をよじる。
色の薄い血が床に落ちた。
5年の引きこもりの間に造血機能は低下の一途をたどりアームストロングが研究所から連れ出したときには人工血液なしでは3日しか持たないような体質になっていた。
ひとつには低栄養状態の影響、ひとつには強度のストレス。まったく日を浴びない生活も影響したのだろう。
ここに来てから改善しかけているがまだ体内の血はほとんど人工物だ。その色素の薄く見える人工血液がさらに床を染めた。背を丸め胎児の形で痙攣を繰り返す。大きく開かれた瞳から落ち続ける涙。
ラッセルの視界を掠めたものが何であったかを見ただけでルイ・アームストロングはラッセルがどうしてこうなったか瞬間的に理解した。
強烈なショックで結界を張っていた精神がかき乱され、胸の傷が開いたのだ。
そのショックの原因は・・・弟。
兄として弟を忘れていたという自責の念が結界の存在を忘れさせるほどの効果を持っていた。
精神を強酸が侵食するような思い。
そういう思いをなんと呼ぶかアレックスは知らない。
この子にとって弟は永遠に弟。
わかっていた。連絡もしなければと思っていた。それをつい1日伸ばし1分伸ばしにしていた。
もう残り時間は見えている。その間、望んだ相手といたい そう思うのは罪なのか。もしも自分に国を守った功績が少しでもあるというならそれをこの時間を守るために使いたい。だが、そんな思いは我輩がたたき殺した者達には決して認められまい。
初めて知った自分の心の影に戸惑いながら、ルイは愛人(家事女視点)を抱き起こす。
やさしく、だが力強くささやく。
「ラッセル、結界を強く張ろう。何にも揺らぐことの無い強い結界を」
闇のモノ達に翻弄され、もてあそばれたこの子には守る手が必要だ。
我輩がいなくなった後もこの子を守り続けられる強い手が。
ナッシュ・トリンガム。今まであなたのしたことを正しいと思ったことは無い。吾が子いとしさあまりに、錬金術師として開けてはならない扉を開いた御貴殿。だが、今になってひとつだけあなたの正しさを認めよう。
あの弟をこの子のために創り出したこと。あなたは父として最高の贈り物を残した。
どれほど抱いていたのか、外は薄暗くなった。砂漠の砂埃が夕日の光を散乱させる。
薄闇の赤。
「ラッセル、セントラルに行って入院だ」
銀の髪をなぜながら彼に伝える。もう決めたこととして。
「行く。またここにあなたと帰るために」
逃亡者達11
兄の弟
初めての記憶は兄、いつも見上げる先にいる
兄だけを見ていた
自分を守ってくれる力強い兄の手を信じていた。
守られているときは,わからなかった。
兄自身も信じた,強さに包まれて、
本当の兄は,弱くてずっと傷ついていたのに
------守りたい,誰からも何からも、その思いが兄を強くした。
だが無理を重ねた身体は限度を超えた。無機質な軍の会議室の白い床に鮮血を吐いて倒れた兄。
兄を助けたかった
そのために強くなろうとした。
兄のために医者になり、兄を守るために軍人になった
これからは,僕が兄さんを守って闘うから、もう兄さんは傷つかなくていい。そう言って安心させて、 兄の微笑む顔を見たいと思った。
それなのに軍服をまとって初めて会ったとき兄は弟である自分を拒否し、ただ軍人として扱おうとした。
兄は僕の軍人としての将来のためにそういう対応を選んだ。兄ゆえに出世したと僕が言われないように。
いまになってようやく兄の思いがわかる。すべて僕のために。
それなのに僕があの人を恨んで、傷つけた。
あの人はイッテシマッタ。
僕から逃げて。
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