顔回の 過ち責むる 桜かな 夢詩香
*顔回、字は子淵。孔門十哲の一人と言われる人物です。陋巷に住み、貧乏暮らしの中でも高潔な人格を保ち、士官などはしなかったし、子路や子貢のような功績は残さなかったが、孔子に愛され高く評価されたことによって名が残った。亜聖という名さえ与えられた。時には本当は孔子よりもすごいのだという評価さえ、孔子から与えられたことになっている。
ですがこれは、後世の人間にはどうしてもばれてしまうくらいの、おおばれの嘘です。
多分顔氏の一族がやったのでしょうね。顔回をすこぶる良いものにするために、論語などにねつ造を加えたのです。それでなければおかしいのですよ。だいたい、顔回の評価というのは、ほとんど孔子だけに頼っている。そして孔子だけが、異常なくらいの高い評価を与えている。
馬鹿がやりそうなことです。ただただ自分をよいものにしたいと考えているだけだから、程度も考えずに異様に高いものにしてしまう。孔子がこういったということにして、全部話を作ったのです。これが阿呆というものです。だいたい、聖と名の付く人はいろいろなことをやっているものです。その賢を慕って人がたくさん集まって来る。いつまでも陋巷に住んでいられるわけがない。
実際孔子は、顔回をあまり評価してはいませんでした。それはこの言葉を読んでみればわかります。
顔淵、仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己に由る。而して人に由らんや。顔淵の曰く、請う、その目を問わん。子曰く、礼に非ざれば視ること勿れ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ。顔淵の曰く、回、不敏なりと雖も、請う、斯の語を事とせん。
(論語・顔淵)
顔淵が仁について質問した。孔子は答えた。自分の愚かさに打ち克って人間の美の本義である礼に帰るということが、仁というものだ。一日自分の愚かさに克ち、礼の美に帰ることができれば、世界が仁そのものになる。仁は自分自身でやるものだ。人に頼ってやることではない。顔淵はまた言った。もう少し詳しく教えてください。すると孔子は答えた。仁でないものは見てはならない。仁でないことは聞いてはならない。仁でないことは言ってはならない。顔淵は言った。わたし、回は愚かなものですが、この言葉を大事にし、修行していきたいと思います。
微に入り細にいり教えていますね。はっきり言って、基本中の基本です。孔子は多言を弄していますが、それは顔回が、愚だったからです。ここまで言わなければわからないほど、勉強が進んでいない男だったのです。
子路も子貢も、孔子の評価を欲しがりましたが、亜聖などというとんでもない評価を欲しがるのは、こういう、ほとんど何もわかっていない、馬鹿なのですよ。
礼に非ざれば云々などということは、要するに悪いことや馬鹿なことはするなという意味です。ことさらにそういうことを孔子が言っているということは、顔回が日ごろ、自分に負けてそういうことばかりしていたということです。
勉強をして賢くなった人間なら、こんなことくらいすぐにわかる。馬鹿のやりそうなことくらい全部見抜ける。阿呆なことをやれば、後が、恥ずかしい。
桜というものは、正しい美しさを持つ存在を、隠喩したものです。
馬鹿な嘘や程度の低い技術を多用して、自分をきわめてよいものに見せようとすると、あまりに馬鹿なことになるよと、桜のように高い美を持つ本当の存在が、教えているよという意味です。