ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

われをひき

2023-06-28 05:21:48 | 短歌





われをひき 人に頭を下げ 尽くしつつ 心のとげを ぬく人の道





*今週はいくつか詠めました。スランプでがちがちに固められた脳みそが、少し柔らかくなってきたような気がします。今一つ気に入った作品ができないのですがね、それでも何か明るい兆しが見えてきたような感じがしますね。この調子でだんだんと調子がよくなってくるといいのですが。

「頭を下げ」は「ずをさげ」と読みましょう。そんなことわかってると思いますが、一応。

これはいわゆる下僕修行のことを詠ったものです。人は時に、人の下になり、人に尽くしていくことを通して、自分を抑えるということを学ばなければならない。

人間、幼いころはみな、自分が一番だというプライドがありますからね、それを抑えて人に従ってゆくのはつらいことだ。しかし、自分のわがままやプライドを抑える訓練ができていないと、いつでも人を馬鹿にして、自分のことばかり考えて、心のとげを振り回し、偉そうにしている馬鹿な人間になってしまう。

人間、人生を失敗してしまうのは、大事な時に自分を引いて、人に頭を下げることができなかったからということに起因することが多いのです。

ですから、下僕修行ほど大事な修行はありません。頑固で幼児的な自分のプライドを矯めていくためにも、人は精出して人の下僕となり、人に頭を下げていく心の訓練をしていかねばならない。

この修行ができている人は、どんなわがままで下劣な人間にも、それがみんなのためであれば、軽やかに頭を下げることができますよ。プライドというものを、美しい愛のために折ることができる。そういう人が、社会をよくしていくのです。

今、誰かの下僕として働かねばならない人は、これは魂の勉強なのだと思って、励みましょう。偉そうにばかりして他人を苦しめるような人間にならないためにも、自分のプライドを折る訓練をしていくのです。










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越えがたき

2023-06-21 06:22:30 | 短歌





越えがたき 山の彼方に ある月の おもてを盗む 馬鹿者の闇




*これは昨日詠んだものです。最後の七が、ちょっとぶら下がっているようですが、意味は通りますね。

越えがたい山の彼方に光っている月の、顔を盗んで自分に飾る、馬鹿者の心の闇とはなんであろう。

月にたとえられているのは、もちろんあの美しい人です。嘘ばかりが繁栄しているこの世界の逆風の中を、傷だらけになりながら、愛にまっすぐに生きて、ついに救いをなしとげた、かのじょのことです。説明せずともわかるでしょうが、一応細かいことを押さえておくのが、ここでのやり方です。

かのじょの心は高い空にあった。自分の人生とある限りの力を、この世の救い、人類の救いのために注いでいた。夢は、すべての人類の魂を救い、新たな次の時代に導くことだった。

そんなかのじょの、すばらしく高い心も知らず、馬鹿な人たちはかのじょの美しさに目がくらんで、簡単にそのかたちを盗むようなことをするのだ。馬鹿の考えていることは、あのように美しくなれば、男がみんな寄ってきて、自分のために何でもしてくれるのだとか、そういうことだ。動物的エゴにまみれて、まるで自分のことしか考えられないような馬鹿が、崇高なほど高く澄んだ心で、人類のすべてを救おうとしていた人のかたちを盗んでいる。

馬鹿というものは、何もわからない。月がただきれいなだけのものだとしか思えない。あれが美しいのは、愛のために、長い長い年月を、あまりに高い努力をしてきたからなのだということを、軽く無視して、簡単にかたちだけ上手に真似をする。

それですべてが馬鹿になる。かたちは天使のように美しいのに、目つきや表情に低いレヴェルの魂が見えて、とても臭い美人ができあがる。嘘なのだ、あれらは。盗んだ美貌を餌に、人の魂を食おうとしている、いやらしい馬鹿なのだ。

人の美貌を盗んで自分に飾り付け、それで人をだまそうとしている限り、馬鹿者は汚い嘘であり続ける。そんなものに自分を落としていることが、どんなに愚かなことであるかさえ、馬鹿にはわからない。

わからない。何もわからない。魂の勉強を怠ってきた馬鹿者の闇は、あまりにも深いものなのです。





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あまつ日の

2023-06-14 07:05:04 | 短歌





あまつ日の 光るおほぞら ひたひあげ 呼ぶ神を知る 自由の翼




*事情があって一週飛びました。妨害があって、パソコンが使えなかったのです。わたしたちのこの活動には、いろんなものがとりついていましてね、時にはその中で深く迷っているものが、あからさまな邪魔をするものですから。

でもまあ、パソコンもなんとかなったことだし、今週はやりましょう。表題の作は解脱を遂げた人の心を詠んだものです。解脱をした人ならこの感覚がわかる。太陽が光る大空に額をあげて見上げると、そこに神の呼ぶ声を知る、自分には、そこに飛び込んでいける自由の翼がある。

それをそのまま詠んだかたちで、あまり解説の必要もないような歌ですね。

実は「呼ぶ神を知る」のところを、「飛ぶ我を知る」というのに変えてみたらという意見もありました。そうすれば、全体的に意味が整う。

あまつ日の 光るおほぞら ひたひあげ 飛ぶ我を知る 自由の翼

なかなかにこれもいい。けれども、呼ぶ神を知る、のほうが、より大きな愛の世界とのつながりを感じて、よいと思い、表題の方を選びました。

確かに解脱を遂げて、自分をつかめば、神の空に自由に飛んでいける自分の翼を発見する。神が呼んでいるその声に、焦るほど飛んでいきたくなる。呼ぶ神の胸の中に飛び込み、神の中に溶けていくかのような幸福を感じ、すべてを愛のためにやっていきたくなる。

自分は、美しいこの世界で、自由に自分を表現していくことで、自分なりの愛の形を投げかけてゆくことができる。なんとすばらしいことだろう。

光る太陽とは、自ら光りだした自己存在の隠喩です。自分に目覚めたとき、人は自らが発する光の中で世界を再発見し、そこに愛を投げかけていける自分の、自由のすばらしさをも発見するのです。






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