ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

とほき野

2019-09-30 04:40:53 | 短歌





やそかみの きよきをよびに 弾かれて とほき野にゆく しれものの群れ





*「をよび」は「小指」、この場合の「小(を)」は小さいという意味ではなく、語調を整えるためのものです。

神々の清らかな指にはじかれて、遠い野に赴く、馬鹿者がたくさんいるよ。

この時代は、人間にとって、次の永遠を決めるとても大事な時代です。ここでいやなことをすれば、神の選別の指にはじかれて、永遠にこの豊かな人類世界と決別せねばならないのです。

遠き野というのは、この地球世界と、死後の人類世界とは全く別のところという意味です。そこは何もないところ。神が一切の創造を行わなかった、かわいた風の吹く砂と泥の世界。花も咲かない。水も流れない。鳥も獣もいない。月星さえもない。人間の詩情をゆさぶるものはなにもない。

そこで人間は、何をすることもできず、永遠にぼんやりとしていることしかできないのです。

なぜそこに行かねばならないか。それは自分だけをよいことにするために、人間というものを馬鹿に仕切ったからです。愛をくだらないものにして、自分のために好きなだけ利用していい馬鹿にしようとしたからです。だから馬鹿者どもは、愛が何もないところに赴かねばならないのです。

この時代は、とにかくそういう馬鹿がたくさん出ました。皆が皆、人から盗んだもので自分を改造しているからです。嘘で自分をいいものにしようとして、人から盗んだ人生を平気で生きている。本来の自分とは全然違うものになっている。あまつさえ、天使を盗んで天使のふりさえしている。

そういう馬鹿はみな神の指に選別されて、この世界を追い出されるのです。何度も言われていることですね。何度も言うのは、それほど大変なことだからです。

神は本気でこの世界を変えようとなさっている。その神の御意志の前には、誰も逆らうことができないのです。





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をのこ

2019-09-29 04:52:12 | 短歌





蟷螂の おのれをひかぬ ものありて われをとふそを をのことぞいふ





*これは本歌取りですね。わかる人も多いでしょうが一応元歌を紹介しておきましょう。これです。


わがたまを つらぬく糸の 細かりて 絶ゆるなきそを まこととぞいふ


かのじょの作品の中でも出色の品です。確かにかのじょはこういう人だ。その姿はまるで女性のように頼りなげだが、その根性と来たら鋼鉄のように硬く、崩れるということがない。

この作品を借りて、表題の作は「男」というものを語ってみたかったのです。「蟷螂の」は「おのれ」を呼ぶための枕詞として使っています。

自分というものをひかないものがあって、その自分というものを世間に問う、それが男というものだ。

なにかしら言い足りないところもありますが、たしかに男はそういうものです。男というものは、時にずうずうしいほど自分を前に出し、自分というものの真価を世間に問うていくものだ。

しかしこの男の使命というか真実というものを、まるで馬鹿にしているような男も最近多い。嘘と盗みで自分を美形にして、女をだまして生きようとする、腐ったような男もたくさんいるのです。

世は天使が流行っていますからね、その天使の真似をして、女性並みに美しい男、という感じのものに自分を作ったりする。それがいやらしいなどというものではない。かのじょは確かに女性のように美しいが、しかしその正体は、鋼鉄のように硬いという男なのです。いやなことはしない、ずるいことはしない、ただ神のためにまっすぐに生きる。

そういう生き方を貫き通す男なのですよ。

それを軟弱な男が、表面だけきれいに真似をしている。それがまた目を覆いたくなるほどたくさんいる。

馬鹿というもののあさましさがわかる現象です。





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ひとのおのれ

2019-09-28 04:47:29 | 短歌





われを捨て ひとのおのれを かすめては まぼろしに見る とこしへの国





*「かすむ」は「掠む」、盗むとか奪い取るとかいう意味のことばですね。

自分というものを捨て、他人の自分を盗んでは、それが永遠に通用する幻の国を夢見たことですよ。

とまあこんな感じですね。馬鹿は嘘で自分を美しくして、それが本当になる世界を夢見ているのです。そんなことになるわけがないのに、いつまでも自分の嘘にこだわっている。

馬鹿は人まねだけは上手ですから、それはうまく人の真似をするのです。天使のはかなげな微笑みも、悲しそうな瞳も、いやらしいほど上手に真似をする。それで一見天使にそっくりに自分を装うわけですが。

実際馬鹿には天使と同じことができるわけがない。心とその力までは盗むことはできないからです。天使は人類を愛し、人類を救済するためにあらゆる努力をしていた。その本当の心こそが永遠なのだ。神は露を繰り返しともすように、かのじょの神話を永遠に語り続けてくださるだろう。

馬鹿はそんな神話さえ欲しがるのです。自分がその永遠になりたい。何もかもを盗んで、自分が本当の天使になりたい。

それは醜い大嘘なのだと、何度言い聞かせてもわかろうとしない。

嘘でも美しくなりたい馬鹿は、その大嘘を平気でついて、自分が天使になりたいのです。人類を救った天使の、その本当の愛さえ、盗みたいと願っているのです。

本当の自分がいやでたまらないからです。嘘で自分を美しくしようとしている、こんな自分など全部捨てて、天使を盗んで、自分が天使になりたいのです。

そんなことをしようとしている限り、馬鹿は永遠に苦しみ続けるのです。





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いはやどの玉

2019-09-27 04:46:14 | 短歌





ありとある ひとすくはむと せし月の 夢は破れて いはやどの玉





*「ありとある」は、すべての、とか、ありとあらゆる、とかいう意味のことばです。

前にも言ったことがあるように、かのじょの願いというか夢は、すべての人類を救うことでした。ひとりももらすことなく、次の、栄光の愛の時代へと人類を導こうとしていたのです。

そのために、乾坤一擲のすばらしい手を打ってくれた。それはまさに、人類のすべてを救える一手でした。本当の自分自身。それがすべての救い主であることを、かのじょは人類に教えたのです。

しかし、ことはそううまく運ばなかった。かのじょの救いに対して、否という人間もいたからです。

かのじょがあまりに美しい女性であったがために、かのじょの仕事をも馬鹿にして、認めたくないという人間もいたのです。

そういう人は、本当の自分自身をも認めないということですから、どうしてもかのじょの救いからはじかれてしまいます。

おまけに馬鹿な人はかのじょの美しさを盗んでそれを自分につけ、自分を美しくして、これが自分であると偽ろうとした。救いをなしたかのじょの徳分を盗んで、嘘で自分をよいものにしようとした。

そんなことをすれば神の忍耐をも破るのです。

ありとあらゆる人を救おうとした、月にたとえられるあの人の夢は破れて、岩戸の玉となり果ててしまいましたよ。

いはやどの玉とは何でしょうね。美しいが、かなうはずのない夢をみながら眠っている、かのじょ自身のことでしょうか。実際人類は、神によってより分けられ、本当の自分自身を受け入れないものははじかれて、この世界を追放されるのです。すべてを次の時代に導くことは、事実上不可能なのです。

そして永遠の愛の時代が始まる。この地球は、神の御意志によって、愛の世界へと変わっていくのです。





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神のまなこ

2019-09-26 04:56:21 | 短歌





ちはやぶる 神のまなこに あらはれて 人はまことの おのれをぞ知る





*「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞ですね。定番ですが一応抑えておきましょう。学びとは繰り返しの中で深まってくるものだ。さて。

大火がツイッターで繰り返し言ってくれているように、今この世界には偽物の自分があふれかえっています。

人の顔を盗み、人の人生を盗み、自分をいいように書き換えている。そういうものが今大繁栄しているのです。

人間は自分がつらくてたまらないのです。美しくはないのに、馬鹿だからです。何もいいことはしていないからです。そんな自分が嫌でたまらなくて、見栄えだけでもよくしようとして、人からの盗みで、見栄えのいい容姿や人生を手に入れ、それを生きている。

その化けようもうまいものだ。本当の人格者や美人を微に入り細に入り観察して、本物そっくりに化けている。いかにも美しい人が言いそうなことを言い、立派な人がやりそうなこともやっている。

しかし、どんなにうまく化けようとも、神の目をごまかすことはできません。なぜならそれは愛ではないからです。ただ自分を守るためだけにやっている、嘘だからです。馬鹿はそういう正体を見抜かれ、あばかれていく。そして本当の自分に帰っていく。

本当の自分はそれほど美しくはない。何もしていないから、何もない。人からの盗みで自分をよくしていた嫌なやつだ。そういう自分の真実を、馬鹿は教えられるのです。

人間はもう、嘘で作った自分を脱ぎ捨て、みな本当の自分に帰っていくのです。そして本当の自分の人生を生きていく。それがどんなに貧しく、試練に満ちていようと、真っ正直に生きていくしかない。

そうしなければ、人間を落ち、永遠を失うからです。人間は神に、選択をせまられている。見栄えだけのいい偽物の自分を生きていくか、真っ正直な本当の自分を生きていくかと。

その神の問いに、正しく答えることができねば、人間はもう人間ではなくなるのです。





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ゆくへ

2019-09-25 04:36:18 | 短歌





われのみの さきをねがひて ちはやぶる 神を盗みし をみなのゆくへ





*毎日四首ずつ詠んでいくことを日課としていますが、かなりの苦行ですね。しかしこういうことが学びなのだ。自分にある程度の負荷をかけることで、魂に力をつけていく。なかなかいいものが詠めませんが、その過程における現象の一滴として受け取れば、それなりにいいことになっていくというものですね。さて。

自分だけの幸せを願って、神を盗んだ女のゆくところとは、どこだろう?

女性の使命とは、神を生きることです。あまりにも偉大な、あまりにも美しい、その絶対的他者の心のままに生きることなのです。自分というものを抑え、他者のために生きるということほど、美しいことはありません。それができる存在だからこそ、女性は神のように美しくなれる。

神のように愛され、慕われる存在ともなることができる。

だがその女性が、ただ自分のことだけを考え、人から神の美を盗んで自分につけるなどということをすれば、どういうことになるか。

神の美を、自分の幸せのために利用するなどということをすれば、どういうことになるか。

それは女性の使命を著しく剋し、本当の自分がいやらしいほど醜くなってしまうのです。

心の姿の醜い女性ほど、この世を苦しめるものもありません。見るだけで嫌になる。そんな女性が、極上の美女になりたくて、人からの盗みで自分を美人にしている。

神はそういう女をもう排除なさいます。永遠に、人間ではないものとして、この世界のほかに追い出すのです。

それが、自分の幸せだけのために、神を盗んだ女の、ゆくところなのです。





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うらみては

2019-09-23 04:40:19 | 短歌





たまくしげ 蓋をかへして うらみては 人のこころを 捨てむとぞする





*「たまくしげ」は、「ふた」にかかる枕詞ですね。「うらみては」は「裏見ては」と「恨みては」にかけてあります。

蓋を返すように、人間の裏を見ると、人を恨んで、人の心を捨てようとする者がいる。

とまあこんな感じでしょうか。技巧が先立って、心がついてこないような感じがしますが、まあいいでしょう。

人間の裏というのには、すさまじいものがあります。一見すばらしくよい人生を生きているように見える人が、裏から自分の人生を書き換えていたりする。人の人生を盗み、人の徳分を盗み、人の美貌を盗み、本来の自分とは全然違う自分になっていたりするのです。

そういう人間の裏を見ると、人間のいやらしさがわかる。人を恨んでばかりいて、人をうらやんでばかりいて、人の心を捨てて、自分だけをいいものにしようとする馬鹿の真実がわかる。

偽物ではない、本当の自分の人生では、人は苦い思いもつらい思いもせねばならないのです。自分のプライドを引きつぶされるような経験もせねばならない。それは、そのほうがいいからなのだが、人間の馬鹿はそれを嫌がって、自分のプライドを逃がそうとばかりする。

自分の人生を改造している人間の特徴と言いますか、とにかく自分のプライドを守ろうとしますね。そのためには人を傷つけることなどかまいはしない。人に自分の気持ちを押し付けることなどかまいはしない。

そういう人は自分を引くということができません。口を開ければ人を馬鹿にしてばかりいる。それで世間に苦しみをふりまいてばかりいる。

そういう自分の未熟さゆえの馬鹿さ加減をわかるためにも、人間は一度はプライドを潰されるという経験をしたほうがいいのです。そこから永遠に逃げ続けるわけにはいかない。

本当の自分に戻り、本当の自分の人生を生きるということは、そういう神の試練を受け入れるということなのです。





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人間の坂

2019-09-21 04:41:07 | 短歌





馬鹿者は 群れて美人を 馬鹿にして みんなで落ちる 人間の坂





*ひさしぶりに決まりましたね。これは大火の作です。ここのところ彼も不調が続いているのですが、これは彼らしさが出ていていい。

馬鹿者というのは、ひとりでは何もできませんから、大勢になって群れて、美人ひとりを馬鹿にした。そういう者たちが、みんなで一気に人間の坂を落ちる。

実際、かのじょを裏からいじめていた人間はみな、人類を落ちています。ひとりで救済事業をしていた天使を、あまりにも卑怯なことをして、おそろしい地獄に突き落とそうとしたからです。

彼らは万を数える人数に膨れ上がり、それだけの大勢で美女ひとりを攻撃した。そんなことをすれば神にも嫌われるのです。彼らはみごとに人間を落ち、人間世界を追い出され、違うところへと赴かねばならない。

なぜ馬鹿者の群れは、あのように執拗にまで、かのじょにとりつき、かのじょを不幸のどん底に突き落とそうとしたのか。それは自分があまりにもつらかったからです。自分はそれほど美しくはないのに、馬鹿みたいなことをしているからです。そんな自分が嫌でたまらなかったのです。だから身も心も美しく見えるかのじょのような存在を見て嫉妬に狂い、絶望的なまでの非人間的な所業をして、かのじょひとりを滅ぼしにかかったのです。

もう何度も言われていることですね。ですがこれはこれからも何度も繰り返し語られることでしょう。馬鹿どものした醜い所業とその結果は永遠に語り継がれていくでしょう。

自分のことばかり考えて、嫉妬に狂って、人を馬鹿にすれば、神を苦しく悲しませるということを、人は学ばねばなりません。





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神をあらはす

2019-09-20 04:48:23 | 短歌





やそ神の きよきねがひを 身におひて 神をあらはす くはしめの道





*ここのところ、毎日即興で四首を詠むことにしていますが、なかなかに苦行です。毎日かなり苦しんでいる。というのも、馬鹿の妨害でなかなか旨く詠めないからなのですが。

スランプ状態というのは、馬鹿の霊の妨害なのです。人がうまくいっているのがねたましい馬鹿は、裏からその人の活動を妨害するときがよくあります。そんなことばかりして、自分を育てる努力をしないから、いつまでも馬鹿なことしかできないのですがね。

他人ばかり見て他人がうらやましくて他人の邪魔ばかりしている。そんな馬鹿な自分が嫌でたまらない。そんな人は、他人からいいものを盗んで自分を変え、それを当然の顔で生きていることがある。

美しい顔も、羽振りのいい人生も、盗もうと思えば簡単に人から盗むことができるのです。今の世の中、そんな偽物の美人があふれるほどいる。きれいな顔をしていながら、やっていることや考えていることはきつい。何もかも自分をよくするためだけにやっている。

そういうのはもう美人ではないと、大火も何度も言っていることですね。もう心も行いもきれいでなければ、美人ではないのです。顔なんて人から簡単に盗むことができますから、そんなのは美人の条件から外しても構わないのです。

本当の美女は、神の心を行ずるのです。神の心は皆の幸せですから、美女はそのために生き、そのためにできることは何でもするのです。美女の人生そのものを、神の表現とするために、美女は神の言うとおりに、美しく生きるのです。

それができてこそ、本当の美女と言えるのです。

馬鹿な偽物はこれができません。神の言うとおりに生きれば、ものすごくつらいことにも耐えねばならないからです。

自分を極限まで抑えて、神を生きる。そのためには、横暴な夫にも耐えて尽くさねばならない。勉強をして、自分を高くして、神の心をこの世で表現せねばならない。

そういう生き方ができれば、その人はたとえようもなく美しくなる。美しい神の美が流れてくるからです。

本当に美しい人になりたいなら、神の心を学びなさい。どんなに神が、この世界のために美しい努力をなさってくれているか、清い心で学びなさい。





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くはしめの道

2019-09-19 04:54:19 | 短歌





たまちはふ 神の心を 身にかけて ますぐにもゆく くはしめの道





*「たまちはふ」は「神」にかかる枕詞ですね。「くはしめ」は美女のこと。わかっているでしょうが、何度も繰り返して学ぶのがここでのやり方です。

ツイッターの方でも、毎日大火が同じことを繰り返し繰り返し言っていますね。天使の安易な真似はしてはだめだと。髪型やイメージを盗んで天使の真似をするのはやめなさいと。それはもう口を酸っぱくして言っています。しかし聞いているのかいないのか、馬鹿女は一向に天使まねをやめる気配がありません。

天使の髪型を軽く真似するだけで、自分がとてもきれいになったように見えるからです。それは錯覚だと言っても聞きはしない。美女というのは顔だけきれいにしてもなれるものではない。生き方が美しくなければ美女ではないのです。人のものを盗んで自分をきれいにするなどという、汚いことをする人が美女であるわけがない。

本当の美女とは、美しい神の心に生き、それを身にかけて、まっすぐに自分というものを生きていくというものなのです。

それができないものは、どんなにかたちをきれいにしても、美女ではありません。いや、盗みで自分をきれいにしている分だけ、それはとても醜いものになる。かたちが天使的に整っているのに、心が動物のように利己的なので、まるで妖怪のように気色が悪いのです。

馬鹿な女は、遠い昔から盗みばかりやってきて、偽物の自分ばかりを生きてきて、本当の自分を真っ正直に生きたことなど、ほとんどないのです。

そんな女が今たくさんいる。それがこの世をどんなに苦しめているかということさえ、馬鹿女はわかってはいないようだ。

自分の心しかわからないからです。人の心を感じることができるようになるまで、勉強していないからなのです。

何度も言われていることですね。何度言っても天使の真似をやめてくれないからです。なぜやめないのか。もう永遠にそればかりでいくつもりなのか。

神にも見捨てられるところまできているのに、馬鹿女はまだやめない。





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